Splitterecho   from Kobe

2019

藤田佳代舞踊研究所モダンダンス公演
かじのり子モダンダンスステージV


3つの物語、3つの相


この新しい感染症のため苦境に立たされている芸術団体や個人はここ神戸でも数知れず、なかでも藤田佳代舞踊研究所は気の毒なケースだったように思います。
毎年3月に開催していた「創作実験劇場」はやむなく中止に。その後、5月に再び開催のめどが立ったときには、作品を準備していたダンサーたちはさぞかし嬉しかったことでしょう。しかし、それも再び中止となりました。
それでも、まだ先の見えない状況だとはいえ、社会が手さぐりでウィルスとの付き合い方を摸索しはじめるなかで、嬉しいことにこのカンパニーも10月に第43回(!)発表会を神戸文化ホールで開催。そして先日11月7日にはソリストの一人、かじのり子さんの「モダンダンスステージV」を念入りな感染症対策のもとで開き、3つの作品が上演されました(神戸ファッション美術館オルビスホール)。


ひとつめの作品は、かじさん振付の「わたし −かのじょの延長−」。
個と集団の関係が印象深く描かれた作品でした。
かじさん自身の踊る人物が、どうやらある集団、ある社会に溶け込めずにいます。それがやがて肌合いの合う集団と出会って、しばし幸福な時間が流れる。ところがまたそこへ性質のちがう集団が現われ、混乱と闘争のときがもたらされて……
これは実際に構想されているストーリーというより、フォーメーションの展開にそのような物語が読み込めたという話ですが、面白いのは、クライマックス、まさに混乱が最高潮に達したかにみえたとき、全員がパタリと倒れ、その場で床をくるくると回りだす場面です。
それはまるで皆が繭になったかのような光景でしたが、その次の瞬間、いま羽化を果たしたといわんばかりに立ち上がったときには、「幼虫」だったさっきまでのことはすっかり忘れてしまったという様子。お互いのことなどまったく知らないという顔でふらふらとさまよいはじめ、どこへともなく去っていきます。
この一連の出来事はまたたく間に起こり、このまたたく間に起こるということもダンスの醍醐味として面白いところですが、たぶん蝶や蛾がそうであるように、そして「みにくいアヒルの子」もそうでした、そのときが来るまで自分が何かの幼年であるということを知らないものなのでしょう。
あるいは、わたしたち自身も然りというわけで、わたしたちの社会がそんなふうに幼年時代を脱したとき、自らへの同化を強いる共同体の一員というより、ようやくおのおの自由な個として社会に携わることをおぼえ、そしてようやっとわたしたちの精神にも平安と宥和がもたらされるのかもしれません。
ただし、もしかしたらこんな、おかしいぐらいに惚けた状態で……?
<賢者ツァラトゥストラ>曰く「幼な子は無垢である。忘却である。そしてひとつの新しいはじまりである。ひとつの遊戯である。ひとつの自力で回転する車輪。ひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定である」(氷上英廣訳)
そんな「忘却」が、あるいは、そうして他者を拒み、その結果「自己」というものを失って獲得できるものだとすれば、かじさんの作品もまた、これは良きにつけ悪しきにつけ、他者あるいは集団こそが自分を映す鏡であるという逆説的な教訓でしょうか。
両義的な、忘却の革命ともいうべきビジョンです。

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撮影  中野良彦


2つ目の作品はやはり、かじさん作の「とらのいをかるきつね」。
「とらのいはいりません」とひとこと付された説明がいいですね。
とても輪郭のくっきりした作品です。菊本千永さんと向井華奈子さんの2人が踊りました。
こちらは個と個の問題(あるいは、きつねですから個と狐(コ)の……)。
漢文の授業で教わるあの寓話の世界の、いかにもその雰囲気です。
2人の人物の葛藤や逆転がユーモラスに踊られます。
この、ある種の生真面目さ、ひたむきさが生むコミカルさも、かじさんの持ち味のひとつといえます。

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撮影  中野良彦


そして3本目はカンパニーの主宰、藤田佳代さんの作品「迸る」(ほとばしる)です。
これは初めに触れた今年の「創作実験劇場」で上演されるはずのプログラムでした。
演者の発表したいという気持ちと、観客のようやく見られるという気持ちがひとつになった、そんな幸福な時間でした。
頭に大きな葉っぱを生やし、どうやら何か植物の一株のようです。それがそれなりに元気に舞台に滑り出てきて、ひとしきり生を謳歌します。しかし世のことわり、自然の摂理、やがて老いかがまりてオイコラショとなるわけですが、そのとき後続の世代がどっと育ってき、今度は一族で小さな繁栄の時代を迎えることに。
ところが今度はそこへまた、色や形状のちがう新種の一群が現われます。互いに牽制し合う両者。キューブリック=クラークの「2001年宇宙の旅」は猿人たちの争いで幕を開けますが、藤田さんの2020年宇宙の旅は植物たちの争いではじまるのです。ただしこちらは不思議に優しいムードのもとで。
その後も面白いほど新種が登場し、新旧入り乱れ舞台は騒然となりますが、どうやらどの種も駆逐されることなく、共生がはじまったようです(繰り返し再演された名作「草木萌ゆ」の引用的シーンがあるのも楽しく)。そして生の飛躍(エラン・ヴィタール)。文字通り、どの種も順々にステージから飛び降り、とうとう私たちを置いてどこか遠い空のかなたへと飛び去ってしまいます……
この3つ目のプログラムに、個と集団をめぐる3つ目の相が現われます。ここで扱われているのは多様性という、今度は集団と集団の問題です。
多様性(生物多様性)とはひとつには、種がどれだけ豊かに共存しているかということですが、藤田さんのまなざしがみつめるのは、生物学や統計学が扱う平均化された、ひとつの群れとして同質的にうごめく種ではなく、個の集まりとしての種です。
だからここでは種の繁栄や衰退といった「巨視的」な問題だけではなく、同時に個の突発的な問題も取り上げられるのです。種としてのスケールで描かれていながら、弱者、弱い個体が現われたのを集団として助ける場面が差し挟まれます。
これはたぶん500万年ほどの時間がひと息に踊られたのです。即物的とすらいえる簡潔な、飾らない表現で、そんな壮大な時間がさりげなく描かれます。いえ、私たちにとっては途方もない時間でも、大地や星、命そのものにとっては瞬く間のことかもしれず、踊り、舞台というのはそんなことを可能にする場なのだということ。そして藤田さんのまなざしの「優しさ」の根拠は、この桁違いの時間的尺度に由来するものかもしれず、それはほとんど非人情の水準に属するもののようにも思われます。
私たちが目にする最後の光景は、客席の背後の「母子席」に「乗り込ん」だ子供たちが、その宇宙船の窓を思わせるガラスの向こうで、顔のまわりでパッと手を開いて、という姿。
これは本能的に可愛らしいと感じてしまうしぐさですが、笑みにながれることのない、ほとんど無機質なといっていい表情(これはたぶん、しいて言あげされることもないまま、こんな若い人々にも共有された、深い演出です)とともに、強くぬぐい去れぬ印象を残し、消えることがありません。
人はそうして遠いはるかな場所へ迸っていくことが目的――目的地なき目的――なのであり、その境に達したとき初めて、そうして花ひらく存在であるということでしょう。そのときを迎えるまでは、やはり私たちはいつまでも芽であり、幼生の段階を生きています(そしてまた、たぶんこれは「成熟」といわれるものとはあまり関係のない話です)。
その最後の瞬間に、あの可愛らしい「お遊戯」のしぐさが、宇宙的所作に接続されるのをまざまざとみたことの驚き。踊る子供たちが、この舞台をこえて直に宇宙的文脈のなかに置かれるという光景を人々の心に焼きつけて、いま子供たちは遠くへと去り、私たちには静かな、いつまでも消えない興奮が残されたのです。

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撮影  中野良彦

Cahier
小谷泰子

宿命の女たち
青の求道者ともいうべき一群の作家がいる。
このギャラリー島田の作家たちにしても、とりわけ女性に青を追い求める者が多いようなのはなぜなのか。
写真作家 小谷泰子さんが「青の断片から青い闇へ」と題した作品展を神戸・ハンター坂のギャラリー島田で開催している(2020年9月12日~23日)。

青という色の波長と響き合うのは、ひとつにはおそらく作家たちのノーブルなものへの感性だろう。
いったい何が品のないことといって、それはヒューマニズム(人間中心主義)的な世界との断絶であり、バロック風の絵画の光と影の強烈な明暗法が、人間の姿を光の塊として世界に屹立させるなら、小谷さんの深く青い闇にうごめく青白い肉体は、しかし真にバロック的な作品が「無限にいたる襞」(ドゥルーズ)を広げ額縁の外へと拡張されていくように、むしろ世界との連続性を表現している。

(今作品展では作家の90年代の作品も展示されているが、そこにおいて人物たちの肌と、画面を覆うヴェールの襞とが一体のものとなっているのは興味深いことである。)

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肌の色はともすれば背後の青い闇を透かしみせるようであり、この女たちが背景から自分を際立たせるのは、懊悩し、煩悶するそのポーズによってである。
一糸まとわぬ姿の彼女たちは、実はすべて作家自身のセルフ・ポートレイトである。多重露光の手法で幾重にも重なり、そこここの時間的瞬間に同時に出現する彼女たちは、はかなく闇にかき消えるかにみえて、したたかに踏みとどまり、亡霊的に遍在しようとするようでもある。

しかしそれはたぶん、したたかさどころか、彼女がその苦悩のどの瞬間も忘れることができないからである。
あるいは、ほとんど一歩ごとにフラッシュバックのように悲哀の記憶が閃き、その瞬間瞬間が、嘆きの姿として時と場所のなかに焼きつけられてしまったからだ。

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小谷さんがセルフ・ポートレイトを撮るのは自己を見せるためではない。自己を見るためである。
写真に手を加えるのは自己の像に何かを付け加えたくてそうするのではない。自己の情動を深く知り、自己の在り様を明確にするため、つまり自己の像を純粋化するために、自己を複数化し、重ねる。
そしてそのひたすら自己をみつめるという過程において、自己という深淵の奥に人間の普遍的な在り様をみいだし、その姿を写し取っているかのようなのだ。

嘆きの姿態が彼女たちを世界の地(じ)からかろうじて浮かび上がらせている。
それこそ、もしこの悲哀と嘆きの「支え」がなければ、彼女は世界の底の闇に消え去ってしまうというように。
おそらく個の意識の希薄な虫や動物なら、地と自の距離ははるかに少なく、世界、あるいは命に密着したところで充足している。そこでは自分と世界との間隙、ズレに<いったいなぜ?>そう世界に問いを投げかける必要もない。

宿命とはこのことかもしれない、と思う。
それは運命の悲劇的内容のことではなく、小谷作品の女たちがそうして示すように、人が世界に立つのはただその嘆きによってでしかないという、このことではないかと。

和田直子展「still life ウォーホルさんへ」


<原罪>のモザイク


和田直子さんの作品展「still life ウォーホルさんへ」が神戸・元町の花森書林で開かれました(2020年8月14日―27日)。

インスタントラーメン、レトルトカレー、醤油に目薬、乾電池…壁一面に並ぶ、色とりどりのパッケージ。日にきっといくつかは目にするお馴染みの商品です。

なかでも、袋麺や、スナック菓子のプラスチック製の袋を描いた作品に不思議と目をひかれます(普段「ビニール袋」などといいかげんに呼んでしまっていますが)。
あのぺらぺらの、軽薄な、簡単に裂ける、すぐ捨てられる素材。
その表面の光沢を描く筆致に、何か妙な生々しさがただよっています。

この軽薄さを出よ? それとも、この豊かさを讃えよ?
しかしそんなあれかこれかという以前に、こうした商品こそがわたしたちの日常を構成しているという意味で、これはこの上なく「リアル」な風景です。わたしたちのリアリティはこんな商品のリストのなかにあり、たぶんわたしたちの多くは一生涯そこから出ることがありません。いってみれば、これがわたしたちの自然です。

つい先日知人が口にした、あるファッションデザイナーの展覧会の感想が思い出されます。
よく考えられていた素晴らしい展示だったし、会場全体がもう作家さんの世界だったんだけど、なんかちょっと「ウッ」となっちゃって。何でかなって考えたら、そうなんだよね、確かにその作家さんの作品なんだけど、全部プロダクトなんだよね……

だから彼女の書く『資本論』の冒頭は、きっとこうなるのでしょう。
「資本主義的生産様式が支配している社会の富は<商品の巨大な集積>として現われる。そしてそれはちょっとウッとなる。」

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和田さんの展覧会は「still life ウォーホルさんへ」と題されていました。
言わずと知れたポップアートの旗手アンディ・ウォーホル。
和田さんの作品のなかにはあのウォーホルさんのキャンベルのスープ缶もあります。

スープ缶、コカ・コーラ、マリリン・モンロー、凄惨な事故現場……ハル・フォスターはウォーホルの作品におけるイメージの繰り返しを、精神分析学者ラカンに依りつつ、トラウマとしての現実界の反復という観点から論じています。
ラカンにおける「現実界」とは、カントの「物自体」に似て、わたしたちに決して経験も認識できない、現実そのものの名です。わたしたちはそれを表象することができず、トラウマの形式で反復することしかできないといいます。

そして、和田さんのこのチープな商品の反復もまた、この表象の空間、意識の空間の袋をつうっと引き裂いて開き、その外部を垣間見せてくれてはいないでしょうか。
しかもここにあるのは、内向的なショック体験、トラウマを負わされる被害者としての体験ではなく、むしろ加害者としての無意識ではないか、と。

わたしたちが、こんな安っぽいものでわたしたちの世界を埋め尽くしてしまっているのだとしても、これはわたしたちの世界の問題ではあり得ません。
ここにあふれているということは、どこかで不足しているということ。
ここに集まっているということは、どこかから奪ってきたということ。

「盗むなかれ」そして「殺すなかれ」にさえ抵触するこれは歴然たる罪、そして野蛮です。
しかも、あの「現実界」のトラウマ的反復と同様、それを経験することができないという点で、これは「富める国」の人々すべてに等しく受け継がれ、背負わされている、現代の原罪というべきものです。

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和田さんの作品がわたしたちを告発する罪の一覧だというのではありません。
もちろん、豊かさの一覧だというのでもなく、というより、それら両方を、さらにそれ以外の多くの意味を浮かび上がらせる「無意味」であり、「ビニール」の光沢であり、それがこの作品の豊饒さと快楽なのです。
(この光沢の質からしても、それは、あの角度によって絵柄が変わる駄菓子のシールのオマケのような)

そしてそれをながめるわたしたちは、こんなに安っぽいものでいっぱいにされている豊かさに、これほど選択の余地があり、これほどまでに選択の余地がないということに、どれほど善良に生きようとも盗み、殺しつづけているということの同時性に混乱する、混乱すべきであり、それが倫理ということのはずです。

いまだこの幻から身をもぎ離せないでいることを、いったい誰に、どう償えばいいのでしょう。 この色とりどりのパッケージのモザイクが、わたしたちの罪の形を浮かび上がらせている、それを知ってなお、
これが豊かさというのなら
ララララ ……
私も、つい――



和田直子展「still life ウォーホルさんへ」が開かれたのは神戸・元町の古書店、花森書林。 店内の一角の壁面と棚に作品を展示。花森書林は前身のトンカ書店から場所と屋号を変えて2019年より営業。朗らかなご店主の人柄もあり皆に愛されているお店です。 花森書林のホームページはhttps://hanamorishorin.com/


Cahier
谷口あつ子と滑川みざ

影の闘争
この日も雨でしたが、長さもさまざまなチューブが、コンマ数秒の雨の軌跡を捉えたように壁一面をおおっています。チューブの描く軌跡はしかしどれも直線ではなく、地上めがけて落下するにしても、おのおの相当に大胆な偏差を描きだしています。いわば寄り道する雨。見ようによっては、逆に地上から空を目指してはい上がるツタか、陽気な虫の大行進のようにもみえます。
近年ビニールチューブを使った作品を発表している滑川みざさんの作品です。これまでは展示室の壁に大変な量のチューブを長く張りめぐらし、それを局所的に立体に編んで、赤や青の色水を流し込むという作品でした。今回それが短く断ち切られたことで、かえってカオティッシュなものをはらむ流動感がもたらされました。循環にともなう何か重苦しいもの、永遠回帰の苦役というべきものから解放され、皆がいっせいにざわざわと動きだしたかのようです。

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その壁の手前に、和紙で作られた無数のオブジェが吊り下げられています。こちらは降るというよりは、浮上する白亜の岩塊。和紙の落ち着きが与えるむしろ静かなたたずまいに、触覚に力強く訴える印象が共存するインスタレーションです。ながめるだけではなく、手に持った懐中電灯でオブジェを照らし「チューブ・ドローイング」の壁に影を投影するという趣向。
展覧会は「モナドと影」と題されています。谷口あつ子さんと滑川みざさんの2人の展覧会です。 はじめ、この「モナド」という言葉は滑川さんから来た言葉だろうと信じて疑いませんでした。シャボン液を使って描かれる滑川さんの「バブル・ドローイング」が、世界をその表面に映すモナドたるシャボン玉の痕跡、影そのものだったからです。
ところがお話を聞いてみると、それはもう長く谷口さんが追究してきたテーマなのだといいます。 つまり、2人がそれぞれに抱卵していたモナドがここで出会ったということです。

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谷口さんの作品は、透明板に描かれた形が、壁や箱の底に影を落とすものです。多くは白い絵の具で塗られた丸みをおびた形が、自分自身の影と重なりながらペアをなしています。模式図的に完全な球としてイメージされがちなモナドが、こんな愛嬌のある、何だかジャガイモのような形で描かれているというのも面白い点です。
哲学、数学、法学等々、様々な分野で横断的に仕事をしたバロック人、ライプニッツ。「単子」とも訳されるモナドとは「単一のもの」という意味。ライプニッツが世界の基底に据えた実体です。谷口さんのお話にはもちろんライプニッツの名前も出てくるのですが、何もこれは哲学的概念を芸術作品として表現しようという試みではありません。
モナドというものをひとつの手がかりとして、谷口さんが制作において追究しているのは、全き一者であるということは、それはひとつの全き全体であるだろうというイメージです。無数のモナドが寄り集まって世界を構成するのだとしても、そのひとつひとつは「不完全」なものではなく、比較を無化させるような在り方で存在するひとつの世界ではないのか…。
そのような場でこそ、従属ではなく宥和というものが可能になることでしょう。
谷口さんの白いモナドたちは、風に吹かれおのおのさまざまな大きさと形をとりながら空の回遊を楽しむ雲の群れのようにもみえます。それらの形のいかにも楽しげな様子は、しかし個々の造形の妙から来るというよりは、他なる全体との宥和の関係から生みだされるものなのです。

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そしてもう一度――お二人の展覧会は「モナド〈の〉影」ではなく「モナド〈と〉影」と名づけられていました。この〈と〉は一種の態度表明とみるべきでしょう。
影であるとは偶然的でうつろいやすいものだということ。
確かに、わたしたちの生とはそのようなものです。
ただ、わたしたちの生が実体なるものの影に過ぎない、というのは正しい言い方ではなく、影は決して、何かしらの実体によって単に受動的にその実在を保証されるものではありません。
これは、影なくして実体なし、という逆転をいうのでもありません。
モナドと影が常に寄り添うものだとしても、実体のための影、影のための実体、その「…のための」という循環の外に出て、モナドと影の関係を根源的に捉えなおすということ。
両者の関わりと美のイメージが、作品において一挙に与えられます。
モナドにはモナドの、影には影の実在を――そうした静かな闘争の意志を、お二人の作品はたたえています。


谷口あつ子さんと滑川みざさんの二人展「モナドと影」は自在空間 Art Stepで2020年7月23日から8月2日の会期で開催されました。自在空間 Art Stepは昨年オープン。「夜の街」東門街の真ん中です。

Cahier
吉村宗浩

バロックの
吉村宗浩さんの個展「希望のかなた」が神戸元町 歩歩琳堂(ぶぶりんどう)画廊で開催されています(2020年6月13日~7月1日)。
目もとを暗く描かれ、心情を推し量りがたい人物たち。その容貌にもまして彼らが身を置いている状況の不可解さ。いかにも物語のワンシーンであるかのように装いながら、そこから私たちはほとんど何の物語も読み取ることができません。
ですがこの「取りつく島がない」という感覚は、描かれている対象のためというより――両者は截然と分かちがたいとはいうものの――むしろこの画家の堅牢な様式美から来ているようなのです。
どこかほのぼのとした雰囲気をたたえながらも、少々毒があったり闇を秘めていたり、という作風なら昨今の流行りといってもいいぐらいですが、多くの作家においては、そうした効果は絵の中に描かれたもの、こういってよければ「キャラクター」によって引き起こされようとするものです。
一方で吉村さんの人物画は、これは人物のデフォルメやカリカチュアライズというより、肖像画や映画のスチールのパロディ、むしろパスティーシュといいたいようなもので、それそのものをなぞりながら、しかし作家独特の光学装置により、その様式が微妙な、それでいて決定的な変質を被ったという具合です。
だから風景画、静物画もまた、人物画と同様の感覚をもたらすことになります。手前に大きく配置されもどかしく視界をさえぎる窓枠や木材は確かにあの人物たちの暗い目もとの対応物といえるとしても、一見穏やかな色調、それなりに親しみ深い対象が、にもかかわらず、そこでは奇妙なまでに物語と言葉を拒む世界を形づくっています。巨大な重力源のそばを通る光が、そうと知らず空間ごと湾曲して進路を変えるように、この画家の絵筆を経るとすべて歪んで、すこし横にずれる。

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ふと一枚の作品の目がとまります。
「パロマ―氏、ベラスケスの国に行く」と題されたその絵。
ベラスケス「っぽい」人物が並んでいるなかに、吉村作品にたびたび登場するという「パロマー氏」が紛れ込んでいます。画面の中央奥にはベラスケスが宮廷画家として何度も描くことになったマルガリータ王女「っぽい」幼女が立っています。
誰もが瞳のない視線を一斉に鑑賞者に向けているその構図は、何となく名画「侍女たち」っぽく。
ミシェル・フーコーが『言葉と物』の冒頭で印象的に取り上げたバロック絵画の傑作です。
フーコーによれば「侍女たち」は、この絵のなかから外部へと向けられた鑑賞者・モデル・画家のすべての視線が画中の鏡に写った国王夫妻の像へと回帰し、そこに自律的な表象空間を作りだしているといいます。言葉と物とが乖離した古典主義時代の記号のあり方を顕著に示す作品として論じられています。
なるほど吉村作品のこの堅牢さの印象がそんな自律性から来るものだとしたら、と絵の前で考えてみるのは面白いことです。
あるいはこれは、現代美術の姿を借りながらも、かつてのはるかに緊張にみちた表象の空間へと私たちをいざなう、バロック的様式の逆襲だろうかと。

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吉村さんは神戸市垂水区在住。作品展は関東で開かれる機会の方が多いとのこと。今回の展覧会タイトルの「希望のかなた」は、もしやフィンランドの映画監督アキ・カウリスマキの作品の邦題からかと思い尋ねると確かにそうですと。DMにも使われている印象的な作品がまさに「希望のかなた」と名づけられていますが、カウリスマキが好きなんです、ええ、私も好きで、と興奮のあまり、なぜそう名付けたのか訊くのを忘れる。しかしカウリスマキのオフビートなユーモア感覚が吉村さんの作品と共通しているのは確か。

ズガ・コーサクとクリ・エイト二人展「非常口」


2匹の裏街


都市の一角を再現した作品です、といえば、ジオラマ的なものを思い浮かべるでしょうか。
鉄道模型と組み合わさった都市や田園の風景だとか、あるいは建築家が作る模型でもいいかもしれませんが、つまりミニチュア的再現。
しかし、それとはちがう。

ジオラマというのも、そもそもは19世紀に考案された見世物で、映画館ほどのサイズのスクリーン(それも大きい映画館のと同程度の)に描かれた絵を、光学的な仕掛けで変化させるというものでした。
あるいはその≪ジオラマ≫の前身たる≪パノラマ≫?
そちらは湾曲した壁面に描かれた巨大な絵を、観客がぐるりとみわたすというもの。
しかし≪パノラマ≫の題材になったのはローマやパリといった世界的都市の景観であり、名高き歴史的合戦のスペクタクルであり……いまギャラリーの壁面をすべて覆う形で再現されたビル裏の光景を前にして、パノラマというならこれほど不毛なパノラマもないものだと、思わず吹き出しそうになります。
何というアイロニー。

撮影スタジオのセット、あるいは舞台美術――そう、やはりそれにいちばん近いかもしれません。
――しかし、いや、まてよ、セットも舞台美術もそこで何かを演じるために作るものじゃないか。
このコロナウィルスの災厄で中止となり、打ち捨てられたセット?
そんな不吉な象徴を読み込もうと思えば読み込めるのかもしれませんが、しかしこの二人は以前からもうずっとこうした風景を作りつづけているらしいのです。
これは舞台美術の目的からも遠い。

ギャラリー Space 31(神戸・御影)で開催された「ズガ・コーサクとクリ・エイト 二人展」。
あれ、もとのSpace 31はどんなだったかしら、というぐらい「改造」されたその展示室の中であれこれ言葉を探しあぐねていました。


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「ズガ・コーサク」こと岸川希(のぞむ)さんと「クリ・エイト」こと岡本和喜(わき)さんの美術家ユニットの作品展。このたびのテーマは「非常口」ということで、確かに手前にはよく見かける赤錆色の螺旋階段の一部。
そしてその奥につづくエアコンの室外機や排水管の設置されたビルの裏側の壁。
すべて段ボールや廃材で作られているそうです。

いえ、実際、段ボールだとよくわかるわけです。
塗装の下から何やら商品名らしき文字が透けて見えたり、紙ですから、シャープな直線が出るものでもありません。
そして風景が天井や壁に突き当たったその先は、ほとんど遠近法を皮肉るような遠近法的技法でもって描かれています。
遠近法というのは奥行きと広がりのない世界にそれを持ち込む技術ですが、「ズガクリ」の2人はそれを駆使しつつ、むしろ空間を閉じていくかのような逆説的な使い方です。
ここで追求されているのは写実性という意味でのリアリズムではありません。

チープな素材に、反-技巧的な技法。
キッチュさ?
いえ、それとはちがう凄味、遊びと真剣さとが同義になったような、軽やかな凄味とでもいいたいものがここにはあります。
室内に別の閉じた空間を作るというのも、確かに子供の好きな遊びです。
あるいは、ウェス・アンダーソンの映画の、大人になれない子供たちがそれをつづけるのですし、最近話題になった作品なら、ポン・ジュノ監督の「パラサイト」でブルジョワ一家の息子が庭に張ったテントで夜を過ごすのも同じことです。
そこは恐怖から身を守る場所というより、その中から、むしろ恐るべき外界を創り出してスリルを味わう空間、そして、守るというなら、確かに外部の暴力的なエロティシズムから内部の親密なエロティシズムを確保する、ほの暗い場所です。

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それにしても、非常階段、ビル裏というこのもの悲しい、枯れた風景は。
それはコーエン兄弟監督のルーウィン・デイヴィスのような売れない歌手が、ライブを終えて店の裏口から帰るわびしい路地であり、グザヴィエ・ドラン作品の、その仲を公然とできない2人が土砂降りのなか車中でテイクアウトのコーヒーを飲む、そんな裏街の風景。
それでも、これは大人のノスタルジー、(いちどは使ってみたい形容動詞)「昭和な」景観への回顧的態度だったりするよりは、子供の頃に、そうしたわびしげな光景が気がかりで仕方がなかった、暗鬱さを感じながらもどうにも惹きつけられていた、その心性の表現です。

都市の暗部、というよりは都市のすき間。
建物というのは明白に表と裏をもっていて、室外機だのダクトだの、いわば汚いものは全部裏へやる。
そんな裏はなかったことにして、大人たちは表通りの美観をそれが街の姿だと思って歩くのですが、子供に気になるのは、その建物と建物のあいだに現われ、何かを垣間見せそうになってはまた消える、すき間の方です。
これをエロティックな感性と呼ばずして何と呼べるでしょう。
都市の隠微な裂け目。
たとえば都市を徘徊する野良猫たちに言わせれば、街はそんなすき間でこそできていると証言するはずです。
この作家たちはそうした光景の記憶をパノラミックにながめるというよりは、いまなおそうした感受性を、都市へのエロス的感性を生きているのでしょう。
2匹の野良猫のように街をうろつきながら。



ズガ・コーサクとクリ・エイトの2人展は9月にも、神戸・長田のcity gallery 2320で開催予定とのこと(city gallery 2320のホームページ)。



Space 31の一室では、「ズガクリ」の2人による過去のパフォーマンスの記録が上映されていました。「伝説的」名作の「電車」。インチキマジック芸が大うけの「ヤマト」の「ワープ」。個人的には、コソ泥に扮した2人が落としてばらまいた小銭を、中島みゆきの「世情」をBGMにスローモーションで拾う「ATM」が好きです(いずれも神戸・住吉のStreet Gallery)。しかしそんなパフォーマンスをこうして言葉で説明したって面白くも何ともありません。大阪・和泉のにじの図書館での「百貨店」では、屋外の階段にその場でこしらえた「エスカレーター」に雨などものともせず子供たちが大喜びしている様子が映っています。先にのぼった堀尾貞治さんが、さあ来て来てと子供たちを呼びます。確かに子供のような心をもった人だけが、あのエスカレーターをのぼることができるのだ、と。



ズガ・コーサクとクリ・エイト二人展「非常口」は2020年6月7日~21日の会期で神戸・御影のギャラリー Space31で開催されました。
Space 31は2016年にオープンした現代美術ギャラリー。自身作家でもある嘉納千紗子さんと嘉納秀樹さんにより運営されています。


小野サボコ展「ひかりさすにわ」


生命の波、波の生命


軽銀とも呼ばれる軽さの特性をもった金属。
鉄道、飛行機、建築資材、調理器具など、身のまわりの様々な物に使われているアルミニウムという素材をわたしたちはよく知っています。
テクノロジーのひとつの最前線として、2019年に大きく話題となった量子コンピューターの素子の超伝導体に用いられているのもアルミニウムだそうです。
小野サボコさんは19世紀の後半にようやく製造法の確立したこの現代的な素材を叩いて、削り、古代文明の遺物に描かれた紋様を思わせる神秘的な図像を刻んでいきます。

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マヤ、アステカといった、中南米にかつて栄えた文明の遺跡に見られるデザインを連想する人は多いかもしれません。あるいは日本の古墳から出土する三角縁神獣鏡。
小野さんの作品を特徴づけるパターン(模様)は渦(うず)です。
渦がいくえにも重なるようにして、それが多くは鳥や蛾といった、何か生き物の姿の中に描かれています。
というより、これらたくさんの渦が、その動物の身体を形づくっているようです。
あるいはこれは、渦というより波紋かもしれないと思うのです。
この物質の世界を成りたたしめる量子(素粒子)の本質が波(波動)であるならば、生命もまた、その内側の深い闇の底に、途方もない無数の波紋のざわめきを湛(たた)えていることになります。
小野さんの銀の鳥たちのからだをふるわせる波の紋様。
というより、その波のあらわれとしての生命。
その波のざわめきが根本の条件です。物質は、そして物質の現象としての生命は、量子論的水準ではそうしたふるえとして、いわば波の振幅のあいだに立ちあらわれるものです(一切が空(くう)であるとはそういうことかもしれません)。


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ところが厄介なのは、量子コンピューターといわず、わたしたちが日常使用する「古典的」コンピューターでさえ量子力学の産物であるのに、量子論的水準の現象とわたしたちの生活世界の現象とがイメージの上で直接につながらず、むしろ不可解なほど断絶しているように感じられることです。
それは量子的「重ね合わせ」のように、Aである状態とAでない状態が非決定のまま同時に存在するような奇妙な世界です(それこそが量子コンピューターの原理でした)。
そして面白いのは、小野さんの紋様が、その鳥なら鳥という「枠」のなかで波を広げていくその仕方、その配置、こういってよければバランスに、ある独特の不安定さ、アンバランスがあり、どこかその鳥を飾り立てるための装飾であるのを拒んでいるようにみえることです。
それは単にアルミという材料との苦闘の痕というのではなく、やはり作家の芸術的直感がそうさせるのでしょう。つまり、その紋様は「枠」に奉仕するものではないと、作家の手は知っている。
その波紋状の紋様と、それを内側に湛える身体とのあいだのある種のずれ、断絶というものが小野作品の力強さの源泉のひとつであり、これは先に述べた物質の2つの水準の断絶を考えたとき、とても象徴的に思われるのです。

わたしたちが古代の遺物を発見して、その美しさとセンス、そして素朴でありながら深遠なその自然観、宇宙観に驚き魅了されるように、いつか遠い未来、奇跡的に腐蝕をのがれた小野作品を手に取った何者かが、そこに美しく刻まれた生命の在り方をめぐる深い認識をわたしたちよりもずっと優れた目で読み取り、感嘆の溜息をもらすことになるのです。

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小野サボコさんの展覧会「ひかりさすにわ」は2019年12月12日〜22日の会期で、神戸市東灘区のギャラリー Space31で開催されました。
小野サボ子さんのホームページはhttp://onosaboco.com/index.html


Cahier
上山榛名

クララとジュリエット


ハムレットやマクベスにとって死が運命であったのに対し、ロミオとジュリエットの場合、死は事故である。あるいは、さかしらする神父の引き起こす過失。
近松門左衛門の心中物においてのように、死の決意が二人の恋をいっそう燃え上がらせることもなければ、共に死を決意することが愛の究極の表明であるいという事情もない。
そも死に救いがあるなどとは二人は微塵も思っていない。2人は単に絶望して死ぬ。
これがロミオとジュリエットの「悲劇」であることはまちがいないが、運命的な死の観点から2人の恋の物語を語るのは確かにふさわしいことではない。
ではどんな言葉で。
純粋さ――別に新しい言葉ではなく。
ところが実際に表現するとなると、これは生易しいことではない。
上山榛名が驚くべき純度でやってみせたことである。純粋さとは何であるか、それを上山の踊るジュリエットがまるではじめてのように私たちにみせてくれた(2019年9月29日 あましんアルカイックホール 貞松・浜田バレエ団公演)。

純粋さとは、おのれの感情を偽らないこと。
それは例えば、慎み深く禁欲的であるとか、計算高さを持ち合わせていないといったこととは関係がない。策を弄し、人を欺いてでもそれをつらぬく心のこと。
それが周囲の人々との衝突を招くのは何も不思議はない。
そうして目まぐるしく変わる自身の感情と欲望を同じ速度で追いかけ、ときにおしまいまで行ってしまうことがある。
だから、とりわけ恋の季節は危険な帯域であるということ。

14歳。シェイクスピアの戯曲では13歳。現代の感覚からいえば、少女。
宙を滑る軽やかなステップは、新しい日に目覚め、今日も大好きな人たちの顔を見ることができる喜び、素敵なドレスをプレゼントされた心からの幸福感。
月夜の庭に忍んでくる青年、この物語の象徴ともいうべきバルコニーのシーン。恥じらいに情熱が立ちまさった、もうその瞬間には彼の胸に飛び込んでいく。すると胸を突き破りそうな未知の感情の昂ぶりに、また少し怖くなる。けれどその恐怖をひとつの決心が吹き散らしたなら、ためらうのはもはやそれが最後、そこからは完全に自由となり、空を舞うシャガールの恋人たちのようなパ・ド・ドゥ。決してそこに葛藤がなかったわけではない、その迷いと突破を、上山榛名はこの上なくデリケート、かつ大胆に表現した。
そして、運命というにはあまりに思慮のない偶発事のため追放の身となった恋人。その別離の前夜を共寝した朝、しっとりと、それまでとはまるで別人のような女性像を見せ、しかしいよいよ離れ離れにならねばならない現実を前にしたとき、いま初めて心の底からの苦悩と悲嘆を知り、身も世もなく縋りつく。

純粋さなどではなく、単純さ? そう言って今の世は笑うだろうか。
だが「単純さ」を望まないのは、たとえば当人たちの分別などではなく、他ならぬ社会の方である。生まれてから社会が私たちに教えるのは、笑いたいときに笑わないこと、泣きたいときに泣かないこと、それだけだ。そして、ロミオとジュリエットの恋において最大の障壁は、まさに家族という社会的空間だった。 これは社会から脱出しようとした恋人たちの物語だともいえる。それを神父が、憎みあう両家の和解という社会的目的に従わせ、利用しようとしたところに2人の悲劇、というより2人の失敗の発端がある。

ジュリエットの行動の原理は社会的次元とは飽くまで別のところにある。移り変わる自分の感情を激しく追うジュリエットの危険なドライブを、上山は生き生きと踊りきった。ロミオ(堂々たる水城卓哉!)の見せ場の多いこの作品にあって、舞台に登場すれば上山は必ず観客を引き込み、魅了したのである。

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撮影 岡村昌夫(テス大阪)

そして思い出すのだが、このプリマは――と上山に目を見張ったのは、昨年の12月の公演「くるみ割り人形」でのことだった(2018年12月20日あましんアルカイックホール)。
立ちどまった演技、立ち尽くした姿に深く心を動かされた(そう、まさに「ロミオとジュリエット」とは対照的に)と言っては、ダンサーにとっては不名誉になるだろうか。
確かな技術に裏付けられた「動く」ダンスは優美そのもの、このたびのジュリエットと同様、上山は少女クララの一夜の冒険を見事に踊り、歓喜に満ちた夢の世界へと観客をいざなった。それだからこそ、動に対する静、中断された躍動、硬直したしぐさがいっそうあざやかに印象づけられたとはいえる。しかし、あの立ち尽くすクララが私たちに与える感動の深さの謎は、そうしたコントラストの効果という観点だけでは解き明かせない。

いたずら者の弟フリッツにくるみ割り人形を奪われそうになり、それが床に落ちてしまったとき、クララは慌ててその大切な人形に駆け寄っただろうか。――あとになって駆け寄り、抱きかかえはしたかもしれない。
彼女は弟の乱暴を𠮟りつけただろうか。――いや、クララは私たちにほとんど背を向けて、呆然自失のていで、ただ立ち尽くしていた。
無感覚だったのではない、悲しみと怒り、理不尽さを深く感じていた。

人形の兵士たちとネズミたちの激しい戦いのクライマックス。クララが咄嗟に取った行動が敵を撃退する決定打となるが、それはまさにくるみ割り人形を救いたいという一心の無我夢中の行動、戦いが終わったあと、はじめて感情を取り戻したというようにクララは顔を覆い、ただ泣くのだ。
それ自体はこの場面の演出としてひとつの定型にちがいないが、それが上山においては、どうしてあんなにも心を揺さぶる姿と映るのだろう。

ヒロインとして勇敢に闘うのではなく、彼女は訳も分からず突然、ある戦いのさなかに置かれている自分をみいだす。
そんな戦いを望んだおぼえはないし、抗うすべも教わらなかった。
道路の真ん中で自分に向かってくる自動車を身をすくめてみつめる猫のように、半分の恐怖と、半分の不可解さのため、彼女は動くことができない。
降りかかった強大な暴力のなかで痙攣的な抵抗を示しはしても、あとは押し流されるまま。
その姿を目にしたとき、僕らの時代のクララだ! 心のなかでそう叫ばずにはいられなかったのはなぜなのか。

「ロミオとジュリエット」と並べてみると、こちらは社会に帰還する物語である。クララがたまたま――ドロッセルマイヤーの魔術的な力で――立ち会うことになったくるみ割り人形の軍勢とネズミたちの戦闘は、一種の神話的な戦いで、デメテルと娘ペルセポネの神話が毎年季節の移り変わりにおいて繰り返されるように、終わることはない。それはただ毎年クリスマスの夜に繰り返される。
しかしクララはクリスマスの日の終わりとともにその永遠的な世界から、ほとんど締め出されるように、ひとり目覚めさせられる。ロミオとジュリエットとは逆に、社会、家族のもとへと帰る。ホフマンの原作のマリーように再びあちらの世界へと旅立つことはなく、このシュタールバウム家のクララは良家の子女として、あの夢ともうつつともつかぬ体験を胸の奥、記憶の底に秘めつつ社会的生をまっとうすることだろう。

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撮影 古都栄二(テス大阪)

――そう、たぶん、あれは私たち自身の姿だった。
暴力のさなかに置かれながら自分の感情もほとんど見失い、身をこわばらせて立ち尽くしているあのクララの姿は。
振付の貞松正一郎がなぜああした演技を採用したのかその意図はわからない。上山榛名自身があの数秒の間(ま)に何を込めたのかはわからない。しかしこのメルヒェンの構造のなかで、その所作が所を得て示唆するものの射程の遠さには、驚きを禁じ得ない。
それは、そのような暴力のただなかに置かれるのではないかという予知的ビジョンだろうか。いや、むしろ――もしかすると、もうこれがすでにそうなのかもしれないという戦いのただなかに私たちが置かれているという、潜在的で、アクチュアルな光景の開示。

いつまでもそこにまどろんでいたかった神話的な夢。しかし、そんなふうに自分の姿をみいだしてしまったからには、私たちもクララに倣い、この叫んでも声が出ない、駆け出そうにも前へ進まない夢から目覚めなければならないのかもしれない。
しかしどこへ?
いまや私たちは、どんな大義も、どんな帰属も疑わしく、幻のようなものと感じている。同じ「社会」に目覚めるわけにはいかないことを知っている。
私たちはどこへ目覚めたいのか。
もっとも洗練された舞台が私たちにアクチュアルな光景を切り開いてみせ、思考を再始動させる。


今年も2019年12月21日と22日に貞松・浜田バレエ団クリスマス特別公演「くるみ割り人形」が神戸文化ホール(大ホール)で上演されます。
21日は「お菓子の国ヴァージョン」。クララとくるみ割りの王子を、この記事でご紹介した上山榛名さんと水城卓哉さんが踊ります。
22日は「お伽の国ヴァージョン」。クララを宮本萌さん、くるみ割りの王子を幸村恢麟さんが踊ります。
公演詳細は貞松・浜田バレエ団ホームページ(http://www.sadamatsu-hamada.com/)で。


Cahier
長野久人&アンドレイ・ヴェルホフツェフ

家電仕立ての胎児/妊婦と希望


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「世界の誕生」という展覧会名、そして案内ハガキの長野さんの胎児の作品と、ヴェルホフツェフさんの妊婦の写真、そこから連想したのはやはりクールベの「世界の起源」でした。ジャック・ラカンがしばらく所有していたことでも有名な、女性の下腹部を描いた、当時としてはセンセーショナルな作品です。

お二人の展覧会名は、女性の外性器をして「起源」と称するいかにも男性的な観点をずらそうとするかのようで興味深いものです。あるいは「起源」というロマンティックな概念そのものを。
「誕生」とは出産とイコールでしょうか。おそらくそれは女性自身の感覚とかけ離れているでしょう。出産も大仕事なら、それまでの妊娠期間の胎児への愛情と肉体的・精神的負荷もまたどれほどのものか。
「懐胎」を自覚したとき、母親にとってすでにその子供は胎内に「誕生」している。
そして卵細胞(原始卵胞)というなら、それはもう一生分、自身が母親の胎内にいるときに与えられている。「起源」など、いつかもわからぬ、とうの昔にはじまっている……。

長野さんは胎児をモチーフにした奇妙な立体作品群を展示しました。
FRP(繊維強化プラスチック)で造形され、黄色で着色されています。
掃除機、ジューサー、電気釜、あげくは便器、その他種々の実用品と一体化した奇怪な胎児像です。悪魔的発想。そしてそれが完璧な造形技術で現実化されていることにただただ驚嘆させられます。

「掃除機」本体の大きさは優に1メートルはあるでしょう。屈位の姿勢の胎児の頭頂部と足の指先にそれぞれキャスターがついていて床を滑る。 そして何とお尻の割れ目にホースがぶっ刺さり、ノズルへと伸びています。実際に「使える」のだそうです。

はじめに連想したのは、スタニスワフ・レムの小説『ソラリスの陽のもとに』のワンシーンでした。巨大な4メートルほどの赤ん坊が波間に漂う悪夢的な場面。しかしそれと同時に、長野さんの作品を成り立たせているのは、人の拭いがたい悲しみと後悔、あるいは罪の意識が惑星の「海」によって無邪気に物質化されるという「ソラリス」的原理とはまた別の原理だとも感じられたのです。

レムの原作を映画化したアンドレイ・タルコフスキー監督の『惑星ソラリス』にも、その海を漂う胎児らしき写真がちらりと映るショットがありますが、映画作品としては、スタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』に登場する胎児のイメージがよく知られていることでしょう。これは宇宙飛行士デヴィッド・ボーマンが木星の衛星軌道上に浮かぶ漆黒の石板状の物体「モノリス」に吸収されてのち、ある種の進化を遂げ、「スターチャイルド」となったことを表現する姿です。

本来、超高度文明のメッセンジャー的存在となって非人間的な意識体と化したはずのボーマンがどこか人間臭いふるまいをみせるのが、その後のアーサー・C・クラークによる数本の続編小説の定番の醍醐味となりますが、しかしその意味では『2001年宇宙の旅』の前身的作品である『幼年期の終わり』においてこそ、その非人情の次元への移行というものはより濃厚に描かれているといえます。

小説『幼年期の終わり』では、未来のあるとき突然、子供たちにベルクソンの「エラン・ヴィタール(生の飛躍)」的な進化現象が到来し、もはや親たちですらコミュニケーションを取ることが不可能になります。彼らの意識は統合され、集団で奇妙な踊りをつづけるといった諸段階を経て、とうとう物語の終わりでは「オーバーマインド」なる存在と一体化します。
スーザン・ソンタグは映画『2001年宇宙の旅』をファシスト的作品と断じましたが、ならば進化と統合(全体化)を同義のものとして描く『幼年期の終わり』は救い難くファッショだということになるでしょう。
ですがここで強調したいのは、『幼年期の終わり』においてひとつの思考実験として描かれた、進化というものがもたらす以前の世代との断絶、あるいは切断による解放の可能性のイメージです。
長野さんの作品が切り開く、非人情の水準への切断=解放というヴィジョンとの共通点です。

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これは作家が子供たちを非情に扱っているという意味ではまったくありません。
事実「TSUNAMI」と題された、涙を流す胎児の頭部の像は深く胸を打つ作品です。
2011年の大震災を受けて、その数か月後に発表された作品だそうです。
宙に吊られたその頭から、本当に涙があふれ、下の水盤にポタリ、ポタリと落ちています。
悲しむ者を表現するのではなく、悲しむ者として表現されたこの作品に、諧謔的なところ、あるいは嗜虐的なところは微塵もみられません。
作品を前に、深く傷を受けた人々の悲しみに思いを致さずにはおれず、そして、人の現世の悲しみに美術がこれほど寄り添えるものかと、驚き、立ちすくむのです。

道具と一体化したこの黄色い胎児たちが、ある種のグロテスクさを感じさせるのは間違いありません。
ですが、ないがしろにされているという憐れさからは、彼らが不思議と自由なのはなぜでしょう。
端的にいって、それは彼らがそんな製品と不本意に接続されているからではなく、彼らみずからそんな姿に変化(へんげ)しているとみえるからです。

昔話の分福茶釜(ぶんぶくちゃがま)。あの茶釜を背負ったタヌキのように、しかし元に戻れなくなったあの未熟なタヌキよりはずっと自由に、取っ替え引っ替え様々なものと結びついては次へ行く。
そして何といってもこの茶釜のタヌキとのいちばんの違いは、あのクラークの『幼年期の終わり』の子供たちが、大いなる不安とともに私たちに印象づけるのと同様の、私たちへの無関心です。 人を化かして喜ぶでもなく、まして世話になった恩返しなど思いもよらない。ソラリスの海に浮かぶ赤ん坊が、自分にいったいどんなしぐさが可能で、どんな表情を作ることができるのかを顔や体をばらばらに動かして試していたように、ただ自分のメタモルフォーゼ、あるいはアレンジの実践を楽しんでいるようなのです。
私たちは彼らの自足的な遊びを、たまたまのぞいてしまっただけ。

誰のためでもないユーモア。誰のためでもないアレンジ。
長野さんの胎児たちの変化遊びを通して私たちがかいまみるのは、あの遠く非人情の地平に輝く「私たちのためではない」自由さです。それが、もどかしくも永遠なる解放の理念として、私たちの心をひきつけるのです。

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ヴェルホフツェフさんが写し取った裸体の妊婦たちは、言葉としてもすっかり定着しているように思われる「マタニティ・フォト」あるいは「マタニティ・ヌード」といった写真とは正反対のコンセプトの上に成立しています。
女性が進んで妊婦としての姿を写真に収める行為は、お腹の子供への愛情なしには成り立ちません。そしておそらく、子供を宿していることへの幸福感。
ところが興味深いことに、ヴェルホフツェフさんの写真には、その胎児への愛が決定的に欠落しているようにみえるのです。
ではそこに残るものは?

ヴェルホフツェフさんの写真作品にあるのは、純粋に形態学的な関心、フォルムの美への関心です。
実際、水着(レオタード?)を着た巨大なお腹の妊婦は「近未来的」と形容したいような奇妙なクールな立ち姿で少々Rの強い流線型の輪郭を誇示し、たとえるなら最新型の自動車の広告を見ているような印象です。
といって、その「近未来的」という言葉は現在ではすでに懐古的な意味合いをおびていて、「最新型」といってもそれは現在の私たちの目から1950年代までのレーシングカー(フォーミュラカー)の流線型をみたときに感じる新鮮さ、SF映画でいえば「スタートレック」に登場する宇宙船やコスチュームに見られる「かつて夢見られた未来」的なデザイン、その、ちょっと癖になる魅力と共通するもの――単線的な時間感覚とは一線を画すものです。
その点でも、胎児を未来の希望とみなすというムードとは程遠く、モノクロで写されていることで身体の起伏はいっそう遠心的に、そのお腹の中身から遊離するベクトルで強調され、その結果ここに立ち現われるのは、まさに胎児抜きの妊婦という逆説です。

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また、妊婦単体のポートレイトだけでなく、ひとりの男が登場するシリーズがあります。
ですがこの男(作家自身?)もまた、お腹の中の子を愛でているのか、それともただ妊婦の肉体に引き付けられているのか判じがたい存在です。
もし後者だとしても、その妊婦への愛や、美しさに魅了されてのことではなく、肉体のグロテスクさに引き寄せられた、これはどこか悪魔的な人物とみえます。
裸の妊婦と一緒に写り込む特権をもった男といえば、通常はその子供の父親のはずですが、この男はどうも父親という感じがしません。
そう、この男はその女の妊娠の前から一緒にいたのではなく、女の腹がふくらんだのを嗅ぎつけて、いまどこからともなく現われた何者かのようです。

生が死の前提であるという意味で、この男は、生がその中に孕む死、またひとつ生が誕生したと知って駈けつけた死の萌芽なのかもしれません。
頬を寄せ、鼻をすりつけ、だとしても、この死は何と愛情深げであることでしょう。
ああ、これだ――「死神」とは、この生への愛だと合点がいったのです。
たとえばあの『ベルリン 天使の詩』の監督ヴィム・ヴェンダースの2008年の作品『パレルモ・シューティング』。ミラ・ジョヴォヴィッチの真正の妊婦姿も強い印象を残すこの作品ですが、『イージー・ライダー』のデニス・ホッパー(2010年没)が不気味な死神役で登場します。
それにしてもあの死神像がどこか物足りないのは――あるいはラストの「死の舞踏」が強烈な印象を残すイングマール・ベルイマン監督の『第七の封印』でマックス・フォン・シドー演じる騎士につきまとう死神ですら同様のようなのは――この生への惑溺、ねぶるように生を愛する者として、それがあらわれてこない点です。
そこでの死神は、単に命を取る者、もしくは罪の報い、罰として命を要求する者でしかなく、死神との邂逅で生への執着は確認されるとしても、そのことが生に意味を与え、生を輝かせることはありません。
ヴェルホフツェフさんの写真の男が妊婦の身体に性的なコンタクトをとっているようにみえるとしても、この男は倒錯的な嗜好で妊婦にひきつけられたのではなく、掛け値なしにそこに生まれた生を愛おしんでそうしているのです――おそらく死そのものとして。

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そして、この父親ではない最も親密な男の存在が示しているのが父なるものの不在に他ならないとすれば、この女は家父長制的なものからハナから自由な単為生殖の快挙をなしとげたのではないかと、そんなことさえ考えさせられます。この女は誰かの期待に応えるために産むのではないし、何にこの子供を捧げるために産むのでもない。
いまこの腹で変化の夢に微睡んでいるのは、確かに長野さんのあの天衣"無法"の胎児たちにちがいありません。やがてこの世に産み落とされる憂き目にあうとしても、彼らも決して誰かのために生まれるのではない。父の名を知らず、罪の意識からもあらかじめ解放されたこの真のテテナシゴとは確かに新しい子供であることでしょう。
世継ぎ跡継ぎ何でも構やしませんが、この子は、労働資源として、生殖‐再生産のための道具として、家父長制的な共同体に吸収されてきた星の数ほどの新生児に加わることはなく、裏切られた自由に揺りかごで泣き叫んできた子らのその嘆きの人類史に応えるべく、いつの日か生まれてくるのです――私たちの希望ではなく、ただこの子自身の希望を生きるために。


展覧会「長野久人&アンドレイ・ヴェルホフツェフ 〜世界の誕生〜」は姫路市のGallery Land's Endで2019年4月14日から4月28日の会期で開催されました。 Gallery Land's Endは姫路城からすぐ、坂本直義さんの建築事務所に併設されたギャラリーです。ギャラリーのホームページはhttp://gy-landsend.com/
また、現在、大阪・箕面のコンテンポラリー アート ギャラリー ZONEで長野久人個展「道具としての自然」を開催中です(2019年10月19日(土)~30日(水)、12:00~18:00、木曜・金曜は休廊)。http://www.art-gallery-zone.com/index.htm


ポウ展グループC「Exhibition 楽・彩・憂・虚・求」


危機のパースペクティブ


いま、神戸市灘区のBBプラザ美術館で≪ポウ展グループC≫による「Exhibition 楽・彩・憂・虚・求」が開催されています。
ポウ展グループCは、アーティスト集団「ポウ展」のメンバーのうちの5人が結成したグループ内グループです。5人がそれぞれに自分の作品を象徴する字を一文字ずつ持ち寄って展覧会のタイトルとしました。
たいへんに充実した作品展です。会場の中心に立てば5つの方位があり、そのいずれもが独自の特異な風景を開いています。BBプラザ美術館の広々とした空間を活かし、それぞれに大きめの作品を展示の中心に据えていたのも印象的でした。


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藤飯千尋 「憂い、そして世界に望むこと」他 / Pen² 「飛躍する時」他


藤飯千尋さんは、いままた新しい展開の渦中にあるようです。
あの激しく逆巻く波を思わせる形象のそばに、むしろそれを呑み込むように暗い、光の射さない場所が領土を広げているのが目を引きます。「流し込み」の技法によって形づくられる波頭や渦、わき立つ泡やしぶきは、私たちに無力感、そして畏怖の念を喚起させる迫力をもっていますが、たとえそれが「憂」の字を掲げる藤飯さんの悲しみや怒りにもとづくものであったとしても、まだしもそこに感情の発露というものをみる安心があります。ですが、そのかたわらにうずくまり、これまでになく張りつめた画面を実現させているその物言わぬ闇は、みるものの意識を深く引きずりこみながら、同時にその奥を開いて見せることはないようなのです。

「楽」の字を旗印とするPen²(ペンペン)さん。 圧巻は幅5メートルの画布に描かれた、これは竜でしょうか、炎を吐く幻獣です。この作家はたぶん、許されれば許されただけ大きな作品を描くのでしょう。そしてどれだけ広い画布を与えられても、描かれたものはそこからはみ出していて画面の外へ出ていこうとする。大地や大気に満ちる無限の活力が、この作家という噴出孔を見つけて際限なくほとばしっているかのようです。

コウノ眞理さんのインスタレーション作品「チープな戦争ごっこ」は、ポリエチレン製の「カラーボール」と戯れるように、小さな模型の兵士たちが銃を構え、匍匐前進をし…と、床の上に師団を展開しています。片や彼らの上空では、天井からぶら下がった同じカラーボールが天秤のバランスをとって浮かんでおり、こちらは「チープな希望の惑星」。
戦いのために振りかざされた大義も、幸福や豊かさを約束する希望の歌も、どちらもペラペラの嘘、いつも私たちではない他の誰かの富と安逸のためのでたらめに過ぎないという告発、そうも受け取れます。


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榊原メグミ 「コハクトウノコウフク」他/コウノ眞理 「チープな戦争ごっこ」/住中進吾 「Lace curtain(#1-2)」他


ところで、ここへ来て、ある不思議な光学的作用が起こり、会場の風景ががらりと変わったように思われたのでした。
自由奔ポウ、てんでばらばらのそのばらばらさ加減をよしとするのがポウ展の在り方だとしても(この点についてポウ展のホームページに、ギャラリー島田の島田誠さんが短いながらも素晴らしい一文を寄せています ※リンク)、コウノ眞理さんのこの≪戦争≫という観点で見渡されたとき、5つの方位が結びついて、ひとつの別の有機的な風景が、そこに重なり立ち現われてくるようでした。

そのパースペクティブにおいて眺められるとき……「彩」の字を掲げる榊原メグミさんの淡く優しい色彩の2枚の画布のあいだに、何か唐突に暗い色調の一枚が差し挟まれるのは、これは単に色彩上の効果を狙ってのことでしょうか? 住中進吾さんが波打つステンレス板に色づけるその中心にむき出しの、硬質な、和合を拒む境界が厳然とした調子で出現するのは? 藤飯さんやPen²さんの作品も少し色合いを変えて、この危機の時代との関わりのうちに、作品が新しい意味をおびてきます。

もちろんこれはひとつの観点の可能性に過ぎません。ですが現状肯定的な作品が溢れかえる状況のただ中にあって、この展覧会がそれらと一線を画すものであるのは間違いのないことです。それが最大限擁護されるべきだというのは、戦争も、貧困も、社会的沈滞も、政治的独裁も、明白に芸術制作の敵だからです。そしてまたもちろん、芸術作品はプロパガンダではなく、何よりすばらしいのはそうした思考を触発し、始動させる今展覧会の豊かさ、高い充実の度合いというべきです。


ポウ展グループCによる「Exhibition 楽・彩・憂・虚・求」はBBプラザ美術館で2019年10月9日から10月20日の会期で開催。入場無料。
BBプラザ美術館はシマブンコーポレーションによる企業ミュージアム。顧問は元伊丹市立美術館館長の坂上義太郎さん。質の高い企画展で高い評価を受けています。ホームページはhttps://bbpmuseum.jp/


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藤飯千尋

回転と落差

「目がまわる、目がまわる、目がまわる」(Busy,busy,busy)

カート・ヴォネガット 『猫のゆりかご』 伊藤典夫 訳
藤飯千尋の作品を前におちいる、スケール感喪失の感覚。
高所や荒れ狂う海を前に感じたおそれとおののきが否応なく呼び起こされる。逆巻く怒涛を俯瞰している、という落ち着いたものでは到底なく、次第にそこへ落ち込んでいく、めまいの感覚。
文字通り渦を描いた作品がある。
何千億という銀河の星々の途方もない旋回だろうか。それとも遺伝子を形づくる分子たちの精妙ならせん構造―――
いや、ここに描かれているのはそうした秩序ある回転運動というよりは「神は天と地とを創造された」だったり「天地初めて發(ひら)けし」という以前の―――

「ただ或る奇妙な混乱、即ち、あらゆる種類の原子が集って生じた塊りが見られるのみで、これら原子相互の不調和が闘争を交わして、旋回運動を行い、間隙、進路、結合、重量、打撃、邂逅、運動を巻き起していた」

ルクレーティウス 『物の本質について』 樋口勝彦 訳
おそらくそういう段階の。
しかも作家にとってそれは太古に過ぎ去った出来事ではなく、板子一枚、一見、法則に則って動く秩序あるこの世界、しかしその船板の底で渦を巻くそうした混沌の運動を、彼女は透かし絵のようにみている。
一枚の黒い絵が、ひときわ目をひく。
近づいてみて、驚く。
綾なす波、空を覆う葉むらともみえる、影のような形象がはびこっている。
藤飯が探求してきた独特の技法。パネルに和紙を貼り、そこへ薄く溶いたアクリル絵の具を「流し込む」。
和紙がにじみ、よじれ、むらをつくり、無数の小さなざわめきが画面を充たす。何という騒々しくも豊饒な闇の奥。


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素粒子物理学の一仮説「超弦理論」の説くところでは、およそ考えられ得る最小の時-空単位であるプランクの長さの「弦」が光速で振動する、その振動の仕方の違いが異なった素粒子を現象させる。
それはこの物質的世界を構成する「素材」の探求というより、時間と空間を成り立たしめ、物質を可能にする、この世界の存立の条件をめぐる探究といえる。
宇宙を幻灯のように立ちのぼらせる、極微の弦たちのふるえ。
目に見えるこの世界と、それは何と隔たった光景だろうか。
目を回させるのはこの落差。
この世界の「からくり(machinery=仕組み、装置)の複雑さと意外さ」(ヴォネガット、同上)が、めまいを引き起こす。
足もとがひどく頼りなく感じられてきて、できればそんな落差からは目をそむけていたい。
しかし藤飯が絵筆を手にそこから目をそらさないのは、そこが地獄ではなく、あの夥しいストリングスのふるえが絶えざる創造の音楽を奏でる、そういう力の源泉だからにちがいない。
作品展では平面作品だけでなく、やはり和紙を貼った上から彩色された木の根が展示されていた。この夏の台風で根元から倒された木だという。 それが横たえられ、いわば地中から根を見上げる形で置かれている。
これは平面作品とちょうど反対に、力を送り出す側に身を置いた視点といえないだろうか。
外部からの観測を旨とする科学には思いもよらない方法だろう。
作家の芸術的想像力が科学的想像力と渡り合い、ときに凌ぐように思われる地点。
ひとつの最前線での事件。


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藤井千尋展「最後の砦」は神戸・ハンター坂のギャラリー島田 trois で2018年10月27日から11月1日に開催された。 (ほぼ1年前の作品展についての記事です。掲載のタイミングを逃してそのままになっていました。その後、藤飯さんもまた作風の点で新しい展開を迎えていらっしゃいますが、上にBBプラザ美術館でのグループ展を紹介するのに合わせて掲載させていただくことにします。)


Art Project KOBE 2019 TRANS-


やなぎみわ演出「日輪の翼」


神戸市でアート・プロジェクト TRANS-(トランス)が開催されています。
ディレクターは林寿美さん。日本へのマーク・ロスコ紹介の大立役者であり、ゲルハルト・リヒターについても重要な仕事を手がけてこられました。
とりわけ神戸市民には、この9月に亡くなったばかりの写真家ロバート・フランクの作品展(2017年)が記憶に新しいことでしょう。

さて、通常の「芸術祭」の観念からすれば異例なことながら、今回のTRANS- の参加アーティストは2人。ドイツで制作を続けているグレゴール・シュナイダーさんと、神戸市兵庫区出身のやなぎみわさんです。

シュナイダーさんは「美術館の終焉―12の道行き」と題して神戸市中央区・兵庫区・長田区の三つの区にわたって12の作品を展示しています。それらは鑑賞というよりは体験、都市の覆い隠された深部へと降りていく、黄泉下りめいた鮮烈な体験です(シュナイダーさんの作品については記事を準備中です)。こちらは会期いっぱいの11月10日まで展示されています。

一方のやなぎみわさんですが、10月の4、5、6日の三日間に限って“野外巡礼劇”「日輪の翼」を上演します。これは中上健次の小説作品にもとづく舞台劇(山﨑なし脚本)で、2016年以来5都市で上演されてきました。
原作は「オバ」たちを荷台に乗せたトレーラーが、熊野を出て日本各地の聖域を巡り、ついには皇居に至るというほとんど荒唐無稽な物語ですが、「ステージトレーラー」と呼ばれる実際のトレーラーを使うという、やなぎさんの愚直かつ大胆な演出で舞台化されたことで、その荒唐無稽さも極まったというべきでしょうか。

本番前日の10月3日。予定されていた公開ゲネプロ(本番通りに行われる最終リハーサル)はあいにく雨のため中止に。ですが雨が上がるのを待って始まった稽古を見学させてもらうことができました。
これがまた特異な体験でした。

まず舞台と客席のしつらえ。
説明を聞いたり読んだりしてもなかなか呑み込めなかったのですが、舞台も客席も、台船と呼ばれる平らな船(重量物の運搬に使用する)の上に設営されています。
その台船が中央卸売市場内の波止場に接岸している、そこへ観客はタラップをのぼって渡っていくのです。
役者は海の方に向いて演じ、観客はオカ(陸)を向いて座っています。
そして例のトレーラーは波止場の上、台船からすぐの所に停まっており、演者たちも陸と海の境界を行き来するのです。

居合わせたのは通し稽古ではなく「抜き稽古」、したがって、断片的に演奏される音楽、そして試験的に明滅する照明。
見上げると西の空の雲間には、これも舞台装置かと見紛うような三日月。
遠く東の空には、さっきここらに雨を降らせた雲の群れがときおりの稲光で光ります。
舞台に薄く張った雨水に役者たちの姿が映り、あれ、その向こうで波止場が揺れたと思ったら、いや、揺れているのは船上のこちら。
たぶん私たちはこの客席で、ついにそれを「偶然」と呼んでいいのかわからないまま、この舞台によってむきだしにされた途方もない一回性の体験をすることになります。
劇場でのように、いつも変わらぬ風景や光を再現しようとするのとは、これはまったく逆のベクトルです。周囲を忘れるほど舞台に集中させようということですらありません。
たえず「ここはここだ」という意識を喚起する舞台、そしてそういう意識に支えられた作品、これはいったい何でしょう。

たとえばこれを「借景」という言葉で言い表わせるものかどうか。
「ここ」たる都市は、しかし眼前に横たわる舞台の奥で、そうは言っても「無傷」ではいられません。
シュナイダー作品がそうであったように、たとえありのままを見せていたとしても、そこには別の意味が与えられてしまう。
というより、祝福された作品においては、都市が、風景が、作品に寄り添ってくるのでしょう。そうして、決して形を変えることなく、変貌を遂げる。
この野外巡礼劇「日輪の翼」において、おそらく演者たちが海に向かって演じることに(祭礼的な)意味があるように、観客が都市に向かって座っていることにも意味があります。
この都市をいままで見たことのない相貌へと変えること。観客をそこに立ち会わせること。
ところでその顔とは過去の顔でしょうか(時宗開宗の地、熊野から入滅の地、兵庫津への一遍上人の遊行が物語に重ねられるそうです)。あるいは未来都市の顔なのでしょうか。それともまた別の。
いずれにしてもそれは、そこに立ち会った観客ひとりひとりが見るしかないもの、そうして見られることによってしかほとんど存在しないもの、そうであるのは確かなこと。

したがって、いまや本番を待つのみ。明日からの公演が、何と楽しみなことでしょう。


やなぎみわ演出「日輪の翼」の公演情報の詳細はTRANS-のホームページで。
記事中の「ステージトレーラー」とは台湾では一般的なものだそうですが、荷台の屋根や側壁が大きく展開し、開かれた内部が電飾もきらびやかな舞台となるトレーラー車です。


スタジオ・グラニート 銅版画展VI


版画姉妹は過激に美しく


神戸・三宮のトアギャラリーでスタジオ・グラニート(鳥井雅子主催)の「銅版画展VI」が開催されています。会期は3月16日(木)から21日(木)。10人の作家が出展しています。
多彩で個性的な作品が並びますが、そのどれもが、ほかを押しのけて自己を主張するというふうでもなく、むしろ会場全体をみたすふくよかな豊かさに貢献している、そんな印象です。
とはいえ、個々の作家の世界に分け入るなら、その森は深い。


河合美和さんの作品には油彩画と同じく、樹影と思われるかたちがあらわれます。ですが輪郭線を鋭く際立たせる銅版画という技法で描かれると、油彩作品でこちらが見落としていたもの、あるいは隠れていたものがみえてくるような楽しさがあります。
河合さんの描く分岐する枝、それは緊張をはらんだ分岐する道でもあるのですが、油彩作品においては、そこをたどる視線と精神をしっかり捉えて離さない、そういう力強さが前面に出ています。それは周囲のエネルギーを集めて押し流す奔流です。
一方で今回の銅版作品では、すべてを集約して押し流すあの重々しくも激しい流れは、いっそう軽やかに、集中するものというよりは発散するものとして表現されています。
いわば枝と枝のあいだにただよう不可思議なエーテル、あれかこれかではなく、あわいの世界の豊かさ。
ひとりの作家の作品に心ひかれるものを感じるとき、私たちはその作家の世界の見え方に惹きつけられているともいえないでしょうか。
であるなら、異なった技法による諸作品という「視差」を手に入れることで、作品をみる者に、作家の目に映る世界がいっそうくっきりと立ち現われてくる、そういう喜びがあるものです。


笹田敬子さんは「memoraphilia」というシリーズの作品を出展しています。笹田さんが一貫して追いつづけている記憶というテーマです。
ここでもまた銅版画という技法の特性と制約のなかであらわになるものがあるようで興味深く思われるのです。
笹田さんの絵画作品のにじむような美しい青、あのあわいの色彩が後景に退き、(ある意味、河合さんとは対照的に)線のイメージが前面に引き出されます。
複雑に折れ曲がり延びていく、かと思うと絡まり合い、高密度の構造をなすかにみえる伸縮自在の線。
どうしても、細胞周期の各段階を通じて凝集し、自らを束ねてはまたほどける染色体の糸に重ねてみたい誘惑にあらがえません。染色体あるいは遺伝子とは、まさに記憶の物質です。タンパク質の配列の形で綿々と受け継がれてゆく、それぞれの種のかたちの記憶。
笹田さんの描く記憶の地平が、この銅版画の小品において一気に無限の奥へと広がるようです。


山本有子さんは、線を用いてむしろ輪郭を破壊するのです。
樹木が、人が、激しい振動にゆさぶられ、もはやそれがそれであるということを失わんばかり、いえ、事態は実際は逆で、樹木ならざる、人ならざる何かを、その目をくらませる振動のうちに、私たちは樹木や人とみなしているだけなのかもしれません。 振動の仕方、残像の作られ方がそのもののかたちをなすのだと、それを知りもしないで。
実在をまぼろし、空とみる見方は私たちになじみの思想ですが、生命といわず、ものというものはおしなべて、そういう、ふるえそのものなのかもしれません。


才村昌子さんはポーの『大鴉』をふまえた「Nevermore」と、それと対になる「Evermore」を発表しています。
といって、これはネガとポジのような、反対の関係にあるペアではありません。
花をモチーフに、濃密な黒が印象的に刷られた前者と、それを決して日の光のもとに差し出すことはせず、冷たい月の光の下にそっと置いたというような、銀のインクで刷られた後者。
同じ絵がこちらは紗幕の向こうに置かれたような、どうしても自分の眼と作品のあいだに何かが差しはさまれ介入しているとしかみえない、錯覚めいた、ある種のもどかしさを味わうことになります。その神秘をみきわめようと目を凝らします。
ここでNevermoreとEvermoreのあいだに生み出されているのは対立ではなく、階調であることは明らかですが、これはむしろ、対象のあいだのそれというより、眼と対象のあいだにあると私たちが知らずみなしている対立、それも非対称の対立の相対化、 眼の専横に対する異議申し立て、そういう特異な体験であるようです。
光と結託した、いえ、光の威を借る視覚への逆説的な反乱、あるいはネグレクト。つまり、ここにポジは存在しない。光への到達を限りなく(evermore)先延ばしにしようとする、ネガの階調だけをみつめる世界。豊饒なネガの濃淡だけが万象を成り立たしめる、 静かに過激な一元的世界です。


ほかに、高朝子さん、杉山知子さん、瀬口郁子さん、福田弥生さんの作品が展示されています。
トアギャラリーの所在地は神戸市北長狭通3-12-13。トアロード沿いです。開廊時間は11:00から19:00まで(最終日の3月21日は16:30まで)。
トアギャラリーのホームページでは作品の写真をみることもできます。


また、2階の展示室では同じ会期で、やはり版画作品を制作している中村公美さんの個展が開催されています。こちらは銅版画ではなくリトグラフです。
世紀末的な雰囲気の漂う奇怪な人物の顔や鳥らしきものの姿が、大きくとられた余白との張りつめた緊張のうちに描かれています。


「木下昭夫+中村誠」展、宮崎みよしさん、モトコー


線の追跡者


鑑賞者にとっては作品、ですが作家にとっては作品という以上に行為であるということをつくづく感じます。
興味深いのは木下昭夫さんの「とめどき」のお話。
「難しいんですわ、とめどきが」
つまりどこで絵筆を置くかという問題。どこで良しとすべきなのか。
ある作品を指して、
「これぐらい(でとめるの)が調度良いんかなと思ったりするんやけど」
壁に床に、スピード感のある線の錯綜する作品が並んでいますが、確かに示された一枚よりも線が密な作品、またそれよりもずっと疎な作品と、さまざまです。
僕はこの作品がとても印象的で、と密な方の一枚を指差すと、
「マァこれは相当、具象的やからね」
必ずしも出来ばえに満足していないのかしら、という様子。
「かなり短いスパンで、ぼくはとめどきが変わるんやね」
そして今回はPocket美術函モトコーの「1+1≠2 シリーズ」ということで、中村誠さんとの二人展です。
「この人(中村さん)の作品が好きで、それで今回一緒にすることにしたんですよ」
そう言って改めて中村さんの作品に見入り、
「この人は、とめどきがいつも同じなんやね」と。

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木下昭夫さんの作品

いったい、画家の絵筆をそこでとめるものは何でしょう。
意志の力、明晰な意識、そういうものでしょうか。
そうだとしても、意志は不明瞭な感覚の声を聞いてそうするのです。
鑑賞者として、仕上がりについて自分の好みを言うことはできます。しかし率直に言って作家自身の、これで良し/止しという感覚には想像が及びません。
他人の考えていることは分からない、とはよく言われます。ただ、往々にしてそれは「どのパターンかわからない」という話ではないでしょうか。つまり選択の問題。 観念は有限であるとひとまず言っておきます。分かるときは分かりすぎるぐらい分かるものです。
「とめどき」の問題にしても、もしこれが明晰な意識、あるいは観念の領分でのことなら案外分かる話ではないかと思うのです。
それに比べ、身体-感覚の水準で起こる出来事をめぐる僕らの不案内さというのは。
意識が身体の状態から深刻に影響を受けるのはもちろんとして、他でもない、言葉によって固定される観念は感覚よりも「安定した」能力です。 それだからこそ検査台に載せられては、これまでさんざんに検証されてきました。
対して、僕らが所有している(はずの)この身体という領土の踏査は、ほとんどまだ始まったばかりです。 作家ひとりひとりの世界、といいます。しかし美術作家たちの世界とは、観念的世界ではなく、第一に身体-行為的現象であるということ。 彼ら作家は、またひとりの身体の探索者であるということ。木下さんの作品が思考をかきたてます。

さて、木下さんがいま厳しく具象性を避けるようなのは、おそらく線しか描かないため、ただ線だけを描くためなのでしょう。
線で何かが描けることがすごいのか、それとも、線を描けるそのことがすごいのか。
作家が後者に驚異を感じているのは疑いありません。そして思うような線が描けないことが、またスゴイのでしょう。
線、この続くもの―――平面という空間を持続するもの――― 絵画表現のアトム・・・原子論者デモクリトスはこう言っても「笑って」くれることでしょう、絵画にとってのアトム=原子は点ではなく線です。
しかし作家自身にとって、線とは何より、継起するもの、彼の描く行為によって、いま、次から次とそこに生まれるものです。
僕ら鑑賞者が目にするのはいつも痕跡です。太古の壁画だろうと、きのう描かれた絵だろうとそれは同じです。 それでも、それはかつて画家の筆の下で産声を上げた存在でした。 そのとき次々と生まれ、美をたたえる讃歌の産声を一瞬間上げて、はかなくも化石となり、その堆積を画布の上に残したもの。
線の本質とは、では、その「いま」のうちにあるものでしょうか。
木下さんの試みは、絵画のアトムたる線に肉薄することで、絵画の始源を「いま」に体験することでしょうか。 僕らが忘れてしまった、子供が初めて鉛筆で線を引いた驚きや喜びをこの現在に取り返す、たとえばそういう。
いえ、それでは不十分です。もっと、厳密に。

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中村誠さんの作品

作家がそのとき求めていたのは、現在ではなく、時間のもうひとつの相、未来であったはずです。
たとえそうみえたとしても、過去や、想像的な始源や幼年期といったものを現在に呼び出すことが本質的な問題ではありません。
そこで追求されていたのは、未来の表現、未来の線です。
キルケゴールは想起と反復は違う、時間の方向が逆だといいます。
想起は過去の方向へ、反復は未来の方向へ。
画家はできることなら未来の線を描きたい。
理由は明白で、過去に満足できる線がなかったからです。
これまでに描くことのできなかった、あるいはもしかしたらどんな偉大な画家によっても描かれることのなかった満足のいく線を引きたい、その声が彼に絵筆を走らせるのです。

それなのに、です。
ひとつの宿命が、いつも彼につきまといます。
復讐の女神エリュニスたちのように、それはどこまでも彼を追いかけてくる宿命です。
彼が線を引くたびに襲いかかる、残酷な出来事。
生まれるそばから線が彼を追い抜いていくのです。
未来を描いていると思ったら、すでに過去を描いている。
またしても同じ過去の線を、同じ線を―――
反復とはほど遠い、気の狂いかねない繰り返しです。
それだから、スピードが必要なのです。線よりも、もっと速い。
何かを描くことに奉仕する線など、彼は用がありません。線で描くのではなく、線そのものを描く。線でだけあるような線を。
「とめどき」というのは、線が形象を獲得せず、線以外のものを表現しない、かつ、線がまったき線自体として表現される地点の謂いでしょう。 そして「とめどきが変わる」というのは線が動くからに他なりません。
線の追跡者。
画家はいまは不本意ながら追う者の地位に甘んじている、としても、いつか線を追い抜き、反復の線の創造者となることを夢見ているのです。
線にとっては執拗な追跡者、恐るべき狩人です。いまや画家が、線の宿命になるのです。


さて、ギャラリーに併設されているカフェのカウンターの後ろに埋もれるように小さく座っているのは、 モトコー(元町高架下)のアートモンスターこと宮崎みよしさん(プラネットEartH主催)です。 今日も今日とて若者の元気のなさを嘆いておられますが、若者に言わせれば多分、宮崎さんが元気すぎるんですよ。
岡之山美術館(西脇市)に展示された宮崎さんの近作の写真(「アトリエの夢――かじ・おっと・みよし」展)を みせていただきました。
ああ、行ってみたかったなぁ!と思わず声の出る作品でした。
ダンボールを素材に、そこに無性に身を置きたくなるような、モダンともノスタルジックともつかない不思議なパノラマが展開されています。
ちょっと「和」も入った感じですね。
「そうそう、歳とったからかな」
いえいえ!

JRが進めている高架の改修の件。
高架下の店舗は立ち退きを要請されていると聞きます。いかがですか、と宮崎さんに訊いてみました。
「2年ぐらいは大丈夫なんちゃうかなと思ってる」と、交渉の状況を踏まえてお話しになりつつも、 あかんようになったらまたそこからやという穏やかな頼もしさを感じさせる口調に、何となく感動してしまいます。
震災を乗り越えてきた神戸の美術家たちの胸にはいつも、そういう静かな、しかしたやすくは消えない希望の灯がともっているようです。



最後に、木下昭夫さんが会場に資料として置いていらっしゃった、 二紀会の記念誌だったと思いますが、そこに出ていた写真です。中西勝さんの外遊からの帰国を祝う会の一コマだそうです。

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左から、西村功さん、木下昭夫さん、鴨居玲さん。
いや、おそろしい写真だなぁ、と……


「木下昭夫+中村誠」展はプラネットEartH内Pocket美術函モトコーで2018年9月17日から9月24日までの会期で展示されました。 神戸新聞NEXTの記事で岡之山美術館で展示された宮崎みよしさんの作品をご覧いただけます。 元町高架下商店街の立ち退き要請については「モトコーを守る会」ホームページで経緯を詳しくお読みいただけます。


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