CONTENTS

              20020 ◇感性の街  「木下昭夫+中村誠」展、宮崎みよしさん、モトコー
              10078 ◇ cahier  遠山敦
              20019 ◇感性の街  シンポジウム「市民の潜在力が社会を拓く アート志縁の現場から」
              20018 ◇感性の街  貞松正一郎 振り付け「ピアノ・ブギ・ウギ」
0067 マウロ・イウラート&伊藤ルミ デュオコンサート  ベートーヴェンの春…蝶の舞い、荘子の夢 (音楽)
0066 ミハル・カニュカ&伊藤ルミ スーパーデュオ  能空間と遇うような (音楽)
0065 菊本千永モダンダンスステージIV  死と再生の静かな祭り (舞踊)
0064 貞松正一郎のカラボス  高貴な悪、無限のダンス (舞踊)
              20017 ◇感性の街  中村恩恵振り付け「TWO」
0063 藤井泉のダンス作品「Fashion Nightmare」  モード、または、食人鬼 (舞踊)
0062 イリ・キリアンのダンス作品「小さな死」  生け贄のように、神々のように (舞踊)
0061 島田誠著「絵に生きる 絵を生きる」  画商と画家…遭遇、そして対峙と透過 (美術評論)
                  ◇感性の街  20016 萩原陽子さんの「冬の夕闇」
                  ◇感性の街  20015 藤田佳代さんの「今日のこの空 ほしいひと」
                  ◇感性の街  20014 安原梨乃さんのクララ
                  ◇cahier  10077 梅田恭子展
                  ◇感性の街  20013 坂東呂扇さんの「狐火」
0060 「ドン・キホーテ」のA・エルフィンストン  自由への記号、飛翔への塔 (舞踊)
0059 中山岩太展  異域への熱病 (美術)
                  ◇cahier  10076 三沢かずこ展
0058 山本六三展  なんと、高貴な、みだらさ (美術)
0057 貞松・浜田バレエ団「くるみ割り人形」'09  「カオス」と「秩序」のドラマ (舞踊)
0056 鎌田祥平展  流動化する仏像 (美術)
0055 藤田佳代のダンス作品「日は はや 暮れ」  終焉、そして創生 (舞踊)
                  ◇感性の街  20012 津田彩穂梨さんの絵画  創造の無限の旅路
0054 貞松・浜田バレエ団「6 DANCES」  モーツァルトの万華鏡 (舞踊)
                  ◇感性の街  20011 笹田敬子展  記憶の海図、記憶の気圧図…
                  ◇cahier  10075 コウノ真理展
0053 ギリヤーク尼ケ崎の舞踊   向こう側へ開く裂け目 (舞踊)
0052 ピカソとクレーの生きた時代展   精神のふるさと…その大きな光、大きな影 (美術)
0051 朴一南展   有限と無限の統合 (美術)
0050 藤田佳代の舞踊「運ぶ」   比喩ではない、肉体は宇宙である (舞踊)
                  ◇感性の街  徳永卓磨絵画展  風が吹いた
                  ◇感性の街  貞松・浜田バレエ団「眠れる森の美女」  ダンス、表現、バレエ
                  ◇感性の街  Miki Yumihari with ensemble  悪魔の微笑
0049 ますみとも のダンス   1.17を踊る……アトラス、磁場、共同体 (舞踊)
0048 山内雅夫展   宇宙を横切る手 (美術)
                  ◇感性の街  風呂本佳苗ピアノリサイタル  音の震動、眼球の震動
                  ◇感性の街  貞松・浜田バレエ団「くるみ割り人形」  端正なプリンス、武藤天華
                  ◇感性の街  ブラジル×日本 旅が結ぶアート  21世紀の対話
                  ◇感性の街  菊本千永モダンダンスステージ?  切り立った三つの作品
0047 貞松・浜田バレエ団「創作リサイタル20」   4つの作品と、「BLACK MILK 」 (舞踊)
0046 貞松・浜田バレエ団「コッペリア」   秒針幻想…神の創造 そして人間の挑戦 (舞踊)
                  ◇感性の街  クーリヤッタム  宇宙化する身体
                  ◇cahier  千秋次郎  Jiro Censhu  遠い恋歌…浄土へつながる無限平面
                  ◇感性の街  大塚温子展  「カメ」と呼ばれた猫がいました
0045 劇団・豪玉万里紀行?「連結コイル」   悲劇の構造化から悲劇の水平化へ(演劇)
                  ◇感性の街  神戸二紀女流作家展(第18回)
                  ◇cahier  フランティシェック・ノボトニー&伊藤ルミ  F.Novotny & R.Itoh
0044 岸本吉弘個展(美術)
                  ◇cahier  武内ヒロクニ  Hirokuni Takeuchi
                  ◇cahier  高濱浩子  Hiroko Takahama
                  ◇cahier  中辻悦子  Etsuko Nakatsuji
                  ◇cahier  山中馨  Kaoru Yamanaka
                  ◇cahier  地力.?  Exibition“Chiriki?”
                  ◇cahier  コウノ真理  Mari Khono
                  ◇cahier  名流舞踊の会 '08  Japnese classical dance
0043 B・クイケンのバッハ「フルートと通奏低音のためのソナタ」(音楽)
                  ◇cahier  坪谷令子  Reiko Tsuboya
                  ◇cahier  桑畑佳主巳  Kazumi Kuwahata
                  ◇cahier  北村美和子  Miwako Kitamura
                  ◇cahier  小阪美鈴  Misuzu Kosaka
0042 三木次代の着物「はなつ」(衣装)
                  ◇cahier  豪玉万里紀行?
0041 岡井美穂展(美術)
                  ◇cahier  藤田佳代舞踊研究所発表会(第30回)
                  ◇cahier  古巻和芳・あさうみまゆみ・夜間工房
0040 森優貴振り付け「羽の鎖」(舞踊)
0039 中井博子作品展(美術)
0038 貞松・浜田バレエ団公演「白鳥の湖」(舞踊)
0037 千秋次郎作曲「良寛詩抄」(音楽)
                  ◇cahier  笹田敬子
                  ◇cahier  石井一男
                  ◇cahier  新家保夫
                  ◇cahier  湯川麻美子
                  ◇cahier  河東けいのリンダ
                  ◇cahier  田波克己個展
          ◆随想 風月花  下村俊子 「汽笛」
                  ◇cahier  金田弘詩集「青衣の女人」
                  ◇cahier  若柳壽延・吉由二
                  ◇cahier  道化座公演
                  ◇cahier  別役実とピッコロ劇団
                  ◇cahier  関西舞踊華扇会
                  ◇cahier  MIWA
                  ◇cahier  須永克彦
                  ◇cahier  鴨下葉子
                  ◇cahier  ロダン展
                  ◇cahier  太田正人
0036 小林陸一郎作品展(美術)
                  ◇cahier  金月?子
                  ◇cahier  名流舞踊の会
0035 ビル・ヴィオラ展(美術)
                  ◇cahier  上村靖子
                  ◇cahier  神戸二紀8人展
                  ◇cahier  風呂本佳苗
                  ◇cahier  大和松蒔
                  ◇cahier  神戸洋画会展
0034 上前智祐の世界展(美術)
                  ◇cahier  竜虎の涙
                  ◇cahier  芸術祭大賞
0033 貞松・浜田バレエ団「ドン・キホーテ」(舞踊)
                  ◇cahier  初田寿
0032 貞松・浜田バレエ団「創作リサイタル17」のO.ナハリン振付「DANCE」(舞踊)
                  ◇cahier  上村亮太
0031 アルベルト・ジャコメッティ展(美術)
                  ◇cahier  樋上公実子
0030 栃原敏子展(美術)
0029 鉄人28号特別展(漫画)
                  ◇cahier  小林欣子
                  ◇cahier  Art Party
0028 東仲マヤの「ソレア・ポル・ブレリア」(舞踊)
                  ◇cahier  丹下幸男
0027 ARTイマジネーション in KOBE磯上・2006(美術)
                  ◇cahier  中井博子
0026 二つの鴨居玲展(美術)
                  ◇cahier  ラ・プリマヴェラ
                  ◇cahier  能勢伸子
                  ◇cahier  創作実験劇場
                  ◇cahier  アメリカの素顔
0025 金田弘詩集「旅人は待てよ」(詩)
                  ◇cahier  岡和美
0024 P・オヴセピアン作曲 名倉誠人&W・スミス演奏「そして、柱の影…」(音楽)
                  ◇cahier  北村美和子
0023 大和松蒔の舞い 「隅田川」&「名護屋帯」(舞踊)
                  ◇cahier  瀬島五月
0022 松本伸子展「STADT」(美術)
                  ◇cahier  佐藤泉
0021 兵庫芸術文化センター管弦楽団「モルダウ」(音楽)
                  ◇cahier  第15回ロドニー賞
0020 阪神タイガースの逆説―球団株の上場問題(スポーツ)
                  ◇cahier  浜田公子
0019 武内ヒロクニの部屋「ダホメイ・ダンス」(美術)
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20020 「木下昭夫+中村誠」展、宮崎みよしさん、モトコー

線の追跡者




鑑賞者にとっては作品、ですが作家にとっては作品という以上に行為であるということをつくづく感じます。
興味深いのは木下昭夫さんの「とめどき」のお話。
「難しいんですわ、とめどきが」
つまりどこで絵筆を置くかという問題。どこで良しとすべきなのか。
ある作品を指して、
「これぐらい(でとめるの)が調度良いんかなと思ったりするんやけど」
壁に床に、スピード感のある線の錯綜する作品が並んでいますが、確かに示された一枚よりも線が密な作品、またそれよりもずっと疎な作品と、さまざまです。
僕はこの作品がとても印象的で、と密な方の一枚を指差すと、
「マァこれは相当、具象的やからね」
必ずしも出来ばえに満足していないのかしら、という様子。
「かなり短いスパンで、ぼくはとめどきが変わるんやね」
そして今回はPocket美術函モトコーの「1+1≠2 シリーズ」ということで、中村誠さんとの二人展です。
「この人(中村さん)の作品が好きで、それで今回一緒にすることにしたんですよ」
そう言って改めて中村さんの作品に見入り、
「この人は、とめどきがいつも同じなんやね」と。

photo-kinoshita.jpg
木下昭夫さんの作品
いったい、画家の絵筆をそこでとめるものは何でしょう。
意志の力、明晰な意識、そういうものでしょうか。
そうだとしても、意志は不明瞭な感覚の声を聞いてそうするのです。
鑑賞者として、仕上がりについて自分の好みを言うことはできます。しかし率直に言って作家自身の、これで良し/止しという感覚には想像が及びません。
他人の考えていることは分からない、とはよく言われます。ただ、往々にしてそれは「どのパターンかわからない」という話ではないでしょうか。つまり選択の問題。 観念は有限であるとひとまず言っておきます。分かるときは分かりすぎるぐらい分かるものです。
「とめどき」の問題にしても、もしこれが明晰な意識、あるいは観念の領分でのことなら案外分かる話ではないかと思うのです。
それに比べ、身体-感覚の水準で起こる出来事をめぐる僕らの不案内さというのは。
意識が身体の状態から深刻に影響を受けるのはもちろんとして、他でもない、言葉によって固定される観念は感覚よりも「安定した」能力です。 それだからこそ検査台に載せられては、これまでさんざんに検証されてきました。
対して、僕らが所有している(はずの)この身体という領土の踏査は、ほとんどまだ始まったばかりです。 作家ひとりひとりの世界、といいます。しかし美術作家たちの世界とは、観念的世界ではなく、第一に身体-行為的現象であるということ。 彼ら作家は、またひとりの身体の探索者であるということ。木下さんの作品が思考をかきたてます。

さて、木下さんがいま厳しく具象性を避けるようなのは、おそらく線しか描かないため、ただ線だけを描くためなのでしょう。
線で何かが描けることがすごいのか、それとも、線を描けるそのことがすごいのか。
作家が後者に驚異を感じているのは疑いありません。そして思うような線が描けないことが、またスゴイのでしょう。
線、この続くもの―――平面という空間を持続するもの――― 絵画表現のアトム・・・原子論者デモクリトスはこう言っても「笑って」くれることでしょう、絵画にとってのアトム=原子は点ではなく線です。
しかし作家自身にとって、線とは何より、継起するもの、彼の描く行為によって、いま、次から次とそこに生まれるものです。
僕ら鑑賞者が目にするのはいつも痕跡です。太古の壁画だろうと、きのう描かれた絵だろうとそれは同じです。 それでも、それはかつて画家の筆の下で産声を上げた存在でした。 そのとき次々と生まれ、美をたたえる讃歌の産声を一瞬間上げて、はかなくも化石となり、その堆積を画布の上に残したもの。
線の本質とは、では、その「いま」のうちにあるものでしょうか。
木下さんの試みは、絵画のアトムたる線に肉薄することで、絵画の始源を「いま」に体験することでしょうか。 僕らが忘れてしまった、子供が初めて鉛筆で線を引いた驚きや喜びをこの現在に取り返す、たとえばそういう。
いえ、それでは不十分です。もっと、厳密に。

photo-nakamura.jpg
中村誠さんの作品

作家がそのとき求めていたのは、現在ではなく、時間のもうひとつの相、未来であったはずです。
たとえそうみえたとしても、過去や、想像的な始源や幼年期といったものを現在に呼び出すことが本質的な問題ではありません。
そこで追求されていたのは、未来の表現、未来の線です。
キルケゴールは想起と反復は違う、時間の方向が逆だといいます。
想起は過去の方向へ、反復は未来の方向へ。
画家はできることなら未来の線を描きたい。
理由は明白で、過去に満足できる線がなかったからです。
これまでに描くことのできなかった、あるいはもしかしたらどんな偉大な画家によっても描かれることのなかった満足のいく線を引きたい、その声が彼に絵筆を走らせるのです。

それなのに、です。
ひとつの宿命が、いつも彼につきまといます。
復讐の女神エリュニスたちのように、それはどこまでも彼を追いかけてくる宿命です。
彼が線を引くたびに襲いかかる、残酷な出来事。
生まれるそばから線が彼を追い抜いていくのです。
未来を描いていると思ったら、すでに過去を描いている。
またしても同じ過去の線を、同じ線を―――
反復とはほど遠い、気の狂いかねない繰り返しです。
それだから、スピードが必要なのです。線よりも、もっと速い。
何かを描くことに奉仕する線など、彼は用がありません。線で描くのではなく、線そのものを描く。線でだけあるような線を。
「とめどき」というのは、線が形象を獲得せず、線以外のものを表現しない、かつ、線がまったき線自体として表現される地点の謂いでしょう。 そして「とめどきが変わる」というのは線が動くからに他なりません。
線の追跡者。
画家はいまは不本意ながら追う者の地位に甘んじている、としても、いつか線を追い抜き、反復の線の創造者となることを夢見ているのです。
線にとっては執拗な追跡者、恐るべき狩人です。いまや画家が、線の宿命になるのです。

さて、ギャラリーに併設されているカフェのカウンターの後ろに埋もれるように小さく座っているのは、 モトコー(元町高架下)のアートモンスターこと宮崎みよしさん(プラネットEartH主催)です。 今日も今日とて若者の元気のなさを嘆いておられますが、若者に言わせれば多分、宮崎さんが元気すぎるんですよ。
岡之山美術館(西脇市)に展示された宮崎さんの近作の写真(「アトリエの夢――かじ・おっと・みよし」展)を みせていただきました。
ああ、行ってみたかったなぁ!と思わず声の出る作品でした。
ダンボールを素材に、そこに無性に身を置きたくなるような、モダンともノスタルジックともつかない不思議なパノラマが展開されています。
ちょっと「和」も入った感じですね。
「そうそう、歳とったからかな」
いえいえ!

JRが進めている高架の改修の件。
高架下の店舗は立ち退きを要請されていると聞きます。いかがですか、と宮崎さんに訊いてみました。
「2年ぐらいは大丈夫なんちゃうかなと思ってる」と、交渉の状況を踏まえてお話しになりつつも、 あかんようになったらまたそこからやという穏やかな頼もしさを感じさせる口調に、何となく感動してしまいます。
震災を乗り越えてきた神戸の美術家たちの胸にはいつも、そういう静かな、しかしたやすくは消えない希望の灯がともっているようです。

最後に、木下昭夫さんが会場に資料として置いていらっしゃった、 二紀会の記念誌だったと思いますが、そこに出ていた写真です。中西勝さんの外遊からの帰国を祝う会の一コマだそうです。

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左から、西村功さん、木下昭夫さん、鴨居玲さん。
いや、おそろしい写真だなぁ、と……
「木下昭夫+中村誠」展はプラネットEartH内Pocket美術函モトコー(http://プラネットearth.jp/index.html)で2018年9月17日から9月24日までの会期で展示されました。 神戸新聞NEXTの記事(https://www.kobe-np.co.jp/news/hokuban/201801/0010885865.shtml)で岡之山美術館で展示された宮崎みよしさんの作品をご覧いただけます。 元町高架下商店街の立ち退き要請については「モトコーを守る会」ホームページ(http://kobe-motoko.com)で経緯を詳しくお読みいただけます。
2018.10.16 山本 貴士
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Cahier

 10078 遠山敦    おのおのの紋章を掲げよ
子供の頃、若い母の作っていた帆船のプラモデルを思い出した。コロンブスのサンタ・マリア号だったと思う。 帆に大きく赤い十字架が描かれていた。十字架は十字架でも、赤十字のシンボルのように4本の枝の長さが等しい。 そしてプロペラのように先へ行くにつれて広がっている(末広十字とかクロスパティーと呼ばれるらしい)。 その十字架のもつ何か呪術的な雰囲気が心をとらえ、記憶の層に赤い痣を残した。 遠山敦の作品に呼び起こされた思い出。ギャラリー ヴィー「いつでも、どこでもアート展」(2018年9月4日〜24日)でのこと。
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「無題のシリーズ、鳥と船」
サンタ・マリア号の十字架ならそれは信仰心の表明であり、またそれは他の船に向けての、というより、究極的には神に向けての表現、 神の加護を得て、再び無事に港に帰り着けることを願う祈りだろう。 呪術とは、何といっても超越的なものとの交信の手段である。

ところが、遠山敦の作品はどこか事情がちがう。 シンプルな線で描かれた船体のシルエットのデッキの上の方、帆のあるあたりに広がったそれは、あとからそこに据えつけられたものではなく 船の内部から湧き上がったものが形をなしたという趣。甲板に根を張った一本の木が大きく育って枝葉を広げたような。
これは確かに紋章のようにみえるけれど、神のそれではない。自分の内側から生まれ、ただ自分のためだけに描かれた紋章。
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そのエンブレムに刻まれたものは何か。他でもない、自己の内部のヴィジョンである。 何か機械仕掛けの仕組みのようにみえるなら、それは永久機関たる魂の内的運動のメカニズムであり、回路のようにみえるなら、身体内部の無限の循環経路。

なぜこんなにも様々な紋章があるのか。至極当然ながら、船がちがうから、様々な船があるから。 土壌や水の質によって葉や花の色合い、枝ぶりが変わるように、個々それぞれの船倉の養分を吸い上げ、ひとつひとつまるで異なる帆が上がることになる。 (上昇と下降のこの一致がひとつの判じ絵として、天上への志向と自己の内部への志向が別の事態ではないことを示している、と言うことはできるのかもしれない。)

懐かしや、十字架に似た紋章が風をはらんでいる。としてもいまこそ十字架、というより、 十字というシンボルの前史への遡上と、その原初的な意味への沈潜が必要だろう。 キリスト教が十字(架)に決定的な意味と物語の厚みをもたらしたのは確かだとしても、 十字それ自体はそのはるか以前から、それこそなどと並んで 普遍的な記号であったこと、その古い記憶を僕らは思い出されなければならない。
4つの方位に向けての発散。もしくは集中。全方位性のシンボルとしての十字。

そして作品をみわたすなら、作家にとって船が宮殿や聖堂、あるいはもっと一般的に、家そのものと同一視されていることがわかる。 すなわち世界。
自己の内にあって外部と照応する、この全世界。
おのおの孤絶した世界たる船の一団が、いまこの港町の沖合をゆっくり航行している。
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「無題のシリーズ、鳥と船」
子供の頃、しばらく寄港していた巨大客船が出港するというときは、窓からいつまでもながめていたものだった。
これは、霧笛の音を聞きながらこの街で暮らしてきた多くの人々の胸の奥底に、一種の原風景として宿る光景だろう。 おのおのの家の窓から、坂の途中から、港を静かに離れていく豪華客船を、巨大コンテナ船を、あるときは地球の裏側への移民団を乗せた船を、ここに住む人々は見送ってきた。 夜の出港であれば、闇そのものの海へ滑りだしていく船体の灯りに、いかにも寄る辺ない孤独を感じつつも、人々は自由の夢を、そのはるかな航路に託してきたのだった。 船影が小さくなっていくのは、いままさに自分の魂が離岸し、遠のいていくからにほかならなかった。

湾岸線越しに波止場のタワーの頭がのぞくこのあたり、ギャラリー ヴィーの壁に並んだ遠山敦の船たち。 その帆に描かれているのは、さまよえるオランダ船の無限の孤独であり、かつ、自分という無限の世界が往くのだという途方もない矜持である。
みよ、絶対の絶望の海原を、絶対の自由に帆をふくらませた船団が往く。
  2018.9.20 山本貴士 takashi yamamoto


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20019 シンポジウム「市民の潜在力が社会を拓く アート志縁の現場から」

市民の顔をしたシステム


シンポジウム「市民の潜在力が社会を拓く アート志縁の現場から」が7月8日、デザイン・クリエイティブセンター神戸(KIITO/キイト)で開催されました。

「神戸文化支援基金」のあり方をめぐり、また、神戸・兵庫の芸術・文化状況をいかに改善し得るか、というテーマをめぐって発表と議論がおこなわれました。

神戸文化支援基金は、若手の芸術文化活動への助成をその主要な活動としてきました。25年前、公益信託 亀井純子文化基金として始まり、以来、市民の寄付により継続しています。2011年には多くの法制上の困難を乗り越えて公益財団法人となりました。

パネリストの一人、神戸文化支援基金の理事長 島田誠さんは、自身の活動を振り返りながら、亀井純子さんをはじめ、「奇蹟」ともいえる縁で結びつくことになったいく人もの人々から、その都度、並みひととおりではない思いとお金を図らずも託されてしまったこと、その重い責任について語りました。

また発言のなかで印象的だったのは、運営サイドの役割を非常に限定的に考えていることです。「私たちが社会をリードしていく力があるわけではない」と島田氏ははっきり言います。自分たちが行うのは助成の審査であり、ただその審査という行為において現状の打開を目指すのだと。

実際、審査を通ったあとに、作品の内容について選考委員会が干渉することはありません(この自由さの保証というのは、作家たちにとって助成金そのものと同じぐらい有り難く、重要なものです)。
声高に社会変革の理想を叫んで、逆にそれが自身や作家たちを縛る事態を周到に避け、審査と経済的支援という具体的なアクションを起こしつづけること。 これは基金の活動以前から神戸・元町の街づくり運動をはじめ様々の活動において、むしろ泥にまみれて闘ってきたという実感、経験から出る言葉かもしれず、またおそらく、基金そのものの存続のため――意識的にせよ直観的にせよ――選択された戦略なのでしょう。

形式化、硬直化と同義の制度化は、基金に遠からぬ衰退をもたらすおそれがあります。基金はそれ自体、自由であらなければなりません。そうして、いつの日か社会と芸術の関わり方を変えるという目的を果たすために、自由な形態で、可能な限り長く続いていかなければなりません。

したがって議論されるべきは、お金ありき、それをどう使うか、という問題ではなく(それでは行政の助成であっても同じことになります)、志ありき、それをどう広げていくのか、という問題でしょう。

島田氏は基金のお金を、これから使われるためにそこにあるお金、来歴をもたないただの前提としてみることに全力で抵抗します。
亀井純子さん、西川千鶴子さん、島田悦子さん、そして志水克子さんという高い志をもった人々が遺贈という形で託していった多額の寄付。それを引き受けるに当たり、むしろ苦しみ悩んできたことが、その言葉から推し量られます。
お金ではなく志ありきなのだということ。
お金は志の結果、あるいは表現にほかならず、志が広がらなければ、基金はいずれ途絶えてしまうのです。
いかにしてその精神を伝え、空間的のみならず、時間的にも遠くへ伝播させていくのか、ということ。

基金の副理事長、神戸大学教授の藤野一夫さんは「現在の神戸の芸術文化はなぜ保守的なのか」という問いを立て、その大きな原因に、いまや神話化された「阪神間モダニズム」へのまどろみがあることを指摘しました。

近代という夢からの覚醒について、芸術論の文脈で論じたのはヴァルター・ベンヤミンでしたが、ベンヤミンがショック作用をその核心にみた映画や、ブレヒトの演劇に目覚めの契機をみいだしたように、藤野教授は何か「得体の知れないもの」との出会いによって、そのまどろみ=ノスタルジーは打ち破られるべきだと話します。

モダニズム。近代とは、それ自体とても大きな対象です。
近代化を啓蒙のプロセスと捉え、野蛮からの解放、進歩一辺倒の輝かしき道程とみる見方は「啓蒙の弁証法」の議論を経たこの現代にもうわたしたちを幻惑することはありません。かえって剥き出しになった国家的、企業的蛮行にさらされつつ、わたしたちは日々自分たちが退行の途次にあるのではないかと疑いさえしています。
一方で、産業化としての近代化はほぼ極まったようにみえます。「文化産業」という言葉もいまでは仰々しく感じられるほど、文化・芸術的営為はもはや産業の一部門に慎ましい場所を得るばかりのようです。

藤野教授は2つの芸術観を示しました。
「道具主義的アート観」か「美的自律性」か。
後者の「美的自律性」すなわち「美のための美」が、産業化、あるいはマネジメントと両立し得るのかどうかは、おそらく誰にも答えの出せない問題です。 ですがマネジメントが、収益性というものをその使命として文化・芸術活動に課すというのなら、「美的自律性」の実現とは、むしろ芸術にその本質的な「無為」(役に立たなさ)を返してやることかもしれません。
「芸術作品は、もはや交換によって形をそこなわれることがない物たちの代理、つまり利益と品位を汚した人類の虚偽の需要とによって台無しにされることがなかったものの代理なのだ」とはアドルノの言葉です(『美の理論』大久保健治 訳)。

藤野教授が洩らした、有形無形を問わず収益性、あるいは有用性を謳わなければ行政からの経済支援を受けにくいという実情。
もし芸術の本質的無為性を解き放つような、より純粋に美的な意味だけに支えられた作品に共感と支援の手を差しのべられる存在があるとすれば、それは市民的自由の理想の息づいた、神戸文化支援基金のような存在かもしれません。

デザイン・クリエイティヴセンター神戸のセンター長である芹沢高志さんは近年全国各地の芸術祭のディレクターを務めています。翻訳家・著述家の顔ももつ人です。
芹沢氏はソーシャル・デザインやコミュニティ・デザインといった、物の形ではないデザインをKIITOが担っていく可能性について話しました。
神戸に移り住んできた(東京での大失恋が原因だとか)当時の、外国人船員であふれた港町独特の活気を回想していましたが、そんな時代にはいまよりも街そのものが「異質なものとの出会い」の潜在力を秘めていたのかもしれません。 KIITOが文化・芸術活動を刺激する、そのような出会いの場のデザインの発信源になることが期待されます。

NPO法人DANCE BOX エグゼクティブディレクター、並びに神戸アートヴィレッジセンター館長の大谷燠さん、インディペンデント・キュレーターの林寿美さん、舞踊家で神戸大学准教授の関典子さん、各パネリストが自身の活動を紹介しながら、神戸・兵庫の文化の活性化、またKIITOの将来像について意見を述べました。
共通していたのは、地域に根差し、人々に開かれた芸術の場を構築しなければならないという問題意識です。

取り組みは多様であり、いずれも高い水準の活動であることがうかがわれます。何よりその多様さが、文化状況全体にとって活性化の指標です。 できるだけ多様であること。
極端な話、個々の作家、アーティストは、地域や人々のことなど念頭になくとも構わないはずです。

では、そうした活動を支え、多様性を維持するものは何か。
果たしてそれを市民が、それもより多くの市民が担うという形態があり得るのか。
それが、亀井純子文化基金にはじまる神戸文化支援基金が試みてきたことです。

しかし難しい問題ではあります。
上にみたように、多額の寄付を残した人たちとの出会いと別れ、これは島田氏の人格と切り離せないものです。
基金の活動に共感し、寄付を寄せている多くの人々についてもそれは同じでしょう。

一方でこれは、そういう「人格を切り離さない」システムを探る挑戦であるともいえます。
人格と背反しないシステム。
人の顔、市民の顔をしたシステム。
これはすぐそこにありそうで、現実には途方もなく遠大な理想です。

シンポジウムは「市民の潜在力が社会を拓く」と題されていました。
潜在的なものとは、前個体的なもの、いまだ個体となっていないもの、というより、むしろおのおのの個体が目指す理念(理想)に関わる何かです。

遠大な目標。しかしやはりすぐそこ、いわば次元の膜を隔てたこの同じ場所に、それはイデーとして閃いているのです。
もしかしたら未来には、その絶対の膜を通り抜けることができるのではないか、この神戸という都市でならそれを実現できるのではないか、そう予感させる、基金の25年の歩みです。

シンポジウム「市民の潜在力が社会を拓く アート志縁の現場から」は2018年7月8日、デザイン・クリエイティヴセンター神戸(KIITO)301で開催されました。パネリストは本文中に紹介した6名。資料として神戸文化支援基金25周年記念誌『志の縁をつないで そして未来へ』が参照されました。第2回シンポジウムを2018年10月に開催予定。
2018.8.5 山本 貴士
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20018 貞松正一郎 振り付け「ピアノ・ブギ・ウギ」

軽み、そして抑制の

初演とはほとんど印象のちがう作品となっていました。

ピアノ・デュオ、レ・フレールの小気味のいい連弾に乗って、男たち、女たちの風景が踊られます。
そしてこの小気味よさ、軽みこそが貞松正一郎さんの作品の大きな魅力です。
軽みといって勘ちがいしてはいけないのは、それが小手先の技とは正反対のものだということ。
貞松作品のその持ち味は、近年ますます洗練の度を深めているようです。

ある時期、古典上演に際しても、逸脱によって軽み(というよりもう少しシンプルな可笑しみ)が表現されようとしていたようなのが、今度の「ピアノ・ブギ・ウギ」再演の研ぎ澄まされた軽み、これは逸脱ではなく、むしろ抑制によって実現されたものでした。
ある種の単純化=集中化をかなめとするクラシックバレエの舞台では、逸脱はともすると散漫さを引き起こします。どうしても反動的に響きますが、抑制とは、所作にしろ構成にしろ、中心に向かって周到に要素を配置するということです。

バレエにおいて情感を表現するのは情感そのものではなく型です。と言ったところで、型はわたしたちにとって解きがたい謎でありつづけているのですが、それにしても、誰もが無自覚に型通りやるなかで奇矯な逸脱が輝く、そんな時代があったとしても、誰もが型を忘れてしまったようないまでは、型に支えられた美というものがかえって輝きを増すようです。

そしてまた型は、古典の無限の美へのレファレンスを作動させます。
酩酊する男の前に幻のように現われる女たち、あれはジゼルの墓の前で青白くゆらぐウィリたちです。
恋人の息づかいに耳をそばだてる、短くも濃密なロミオとジュリエットの夜。貞松正一郎さんと上村未香さんの息をのむパ・ド・ドゥでした。

そうした古典的な美に「ピアノ・ブギ・ウギ」のようなモダンな創作作品で出会う驚きと喜びはいっそう深く、港町の海風の香りがする貞松さんの軽みと、型に凝縮されたバレエの抑制的な美が溶け合うなら、そのとき、アメリカ的でもヨーロッパ的でも、そして東京的でもない、ぜひとも神戸的と形容したい唯一無二の作品が生まれることでしょう。また、そうしてよりくっきりとした輪郭を獲得すれば、きっとそれはどこであれ通用する、より本質的な意味でのモダンバレエ作品となることでしょう。
「ピアノ・ブギ・ウギ」は貞松・浜田バレエ団 創作リサイタル28(神戸文化ホール)で再演されました。初演は2014年。上演作品はほかに中村恩恵 振付「TWO」、森優貴 振付「Memoryhouse」、ラリオ・エクソン 振付「母の歌 A Mother's Song」。
中村恩恵さんの作品「TWO」はベケット作品をモチーフに、肉体、あるいは不自由さの自由というべき問題を考えさせる重要な作品です。おそらく振付家の意図を完璧といっていい水準で実現したダンサーの小田綾香さんと堤悠輔さんによって、たいへんに質の高い舞台が作り上げられていました。いつか感想をここに書かせていただければとも思いますが、初演時の評(Tadakatsu Yamamotoによる)がこのページの少し下に出ています。どうぞご覧ください。
2016.11.12 山本 貴士
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KOBECAT 0067
2015.3.14 神戸市立灘区民ホール
マウロ・イウラート&伊藤ルミ デュオコンサート

――ベートーヴェンの春…蝶の舞い、荘子の夢――
■山本 忠勝


一羽のアゲハがふいに羽化を遂げたのだった。
 最初のゆるやかなはばたきがさざなみのように一対の翅に広がるや、大きな蝶がふわりと日差しのなかへ舞い立った。
 マウロ・イウラートのヴァイオリンと伊藤ルミのピアノから立ち上がってきた幻視である。
 曲はベートーヴェンのヴァイオリンソナタ第五番。
 初春の演奏に訪れた、まさしく「春」の奇跡であった。
 
 「春」はベートーヴェンの十曲のヴァイオリンソナタのなかでもとりわけ深いゆらぎを刻み出す作品だ。
 ここでいうゆらぎとは、無論ぶれるという意味ではない。
 宇宙のゆらぎが生命を生み出したと語るときの、あの含意に満ちた言葉の響きを、ここにも持ち込みたいのである。
 深いところから深いものがあふれてくる特別な裂け目のことを言いたいのだ。
 
 象徴的にも「春」というこの通り名そのものがすでにそのゆらぎの幾分かを暗示する。
 この曲をそのように呼んだ最初の誰か、その誰かはフロイトのはるか以前に、すでに優れた精神分析家であったにちがいない。
 むしろ作曲家本人よりこの曲の基層を深くつかみとったとそう見てとれるからである。
 三十歳のベートーヴェンがこれを書くにあたって何を深層で目指したか、それをおそらくは作曲家以上に的確にこの一語で言い当てた。
 
 ベートーヴェンがそのとき深層で求めたもの。
 それはベートーヴェンがベートーヴェンの呪縛を超えることではなかったか。
 その呪縛とは。
 重厚な主題、強固な構成、厳格な精神。
 そしてそのとき求めていたものとは。
 軽快な主題、柔軟な構成、自由な感性。
 つまり厳しい冬から柔らかな春への跳躍。
 いうまでもなくわたしたち聴衆は常に後知恵で音楽を理解するほかないのだが、マウロとルミの水際立ったパフォーマンスが、まさしくその冬から春への劇的ジャンプをわたしたちに悟らせてくれたのだ。
 
 自然と体が浮き立つようなピアノとヴァイオリンの饗宴だった。
 第一主題にいちはやく飛翔への低い身構えを刻印する下降音型の、そのさばきの鮮やかさ、そしてそこから一転明るい希望へと向かっていく上昇のパッセージの軽やかさ。
 それは羽化へのダイナミックなゆらぎであり、たぎりたつような飛翔へのふるえであった。
 そして第二楽章のゆったりとしたアダージョの伸びやかさ。
 それは上昇気流をつむぎながら中空を渡っていく平行飛行の自由と平安と至福であった。
 そして第四楽章のシンコペーションへの深い切り込み。
 それは中空の舞踏に酔いしれて、イカロスさながら灼熱の圏域にまで突進しそうな、危険な極限の歓喜であった。
 
 そしてとっておきは第三楽章のスケルツォ。
 たった一分あまりのこの楽章をあえて最後に回したのは、ほかでもない、最も大きな奇跡がここで起こったからである。
 そこでは絶壁に挑むような厳しい音階の上昇下降が立て続けに現われる。
 ふたりの奏者はその極限域で危ういバランスをとりながら、しかも特筆すべきことに、全霊をかけた一騎打ちのように対峙した。
 
 …羽化したのは、実は連星のように緊密な円で舞い合う二羽のアゲハだったのだ。
 
 ヴァイオリニストの左手の一瞬一瞬のポジションがまさに光の破片のように閃いた。
 ピアニストの右手と左手の跳躍が尖った水晶のように突き立った。
 ふたりの奏者はいまや譜面に忠実であるよりも、むしろみずからの呼吸を信じ、たがいの呼吸を計りながら、その自由な刻々の決断で未踏の地平を切り開いていたのである。
 おそらくは一秒の何十分の一か何百分の一、互いの音を快活にずらし合うことでより高次の調和に到達する、その錬金術にも似た化学変化が継続して起こっていた。
 
 時間の微分的な隙間に溢れる無限の自由、…恐ろしいばかりの、完全な。
 その極限の自由の上での、むしろ目のくらむような刻々の選択と刻々の決断。
 短いが、しかし高く屹立する創造の連峰。
 能楽に印された日本の芸能の一つの奇跡、小鼓とシテとの間の一対一の果たし合い、あの乱拍子がまさしくそうであるように。
 
 第三楽章はふつうは前後の楽章の橋渡し、間奏曲のように扱われる。
 だが明晰な意識があってのことか、それともむしろ暗い予感に導かれてのことだったか、あるいはむしろ突き上げてくる衝動に駆り立てられてのことだったか、ふたりの奏者はこの極小の楽章を逆に曲全体の頂点に押し上げた。
 峻厳なピラミッドが建てられた。
 革命が起きたのだ。
 するとたちまち深い謎も解けたのだった。
 ベートーヴェンがこの異様な楽章を、この唐突な楽章を、なぜここに置かないではいられなかったか。
 それはおそらく間欠泉の破裂のような、デモーニッシュな深層の欲求の劇的噴出だったのだ。
 完全な自由への跳躍。
 すなわち完璧な創造への発熱。
 
 荘子はある日とても幸福な夢を見た。
 夢の中で蝶となって飛んだのだ。
 自由このうえない空中の舞いだった。
 かれは夢から覚めて反芻した。
 この荘子が蝶の夢を見たのだろうか、それともここにいるこの荘子はあの蝶が見ている夢なのか。
 
 そのときベートーヴェンが蝶に羽化して舞ったのか、それとも蝶がベートーヴェンへの羽化を遂げて舞ったのか。
 

 「マウロ・イウラート&伊藤ルミ デュオコンサート」は2015年3月14日に神戸市立灘区民ホールで開かれた。
 マウロ・イウラートは1977年トリノ(イタリア)生まれのヴァイオリニスト。ウィーン大学の派遣プロジェクトで2003年に来日して徳島文理大学の準教授に就任。以後、アンサンブル神戸で首席コンサートマスターを務め、また大阪フィルハーモニー交響楽団やオーケストラ・アンサンブル金沢などに客員のコンサートマスターとして出演している。愛器コッラ・デッラ・キエーザ(1690年、ジョッフレード・カッパ作)とは運命的にも来日後に遭遇、生涯の伴侶となった。超絶的な演奏には鋭い鬼才の感がある。神戸市在住。
 伊藤ルミは神戸市生まれのピアニスト。早熟の才を発揮して18歳でソリストデビュー。ヨーロッパとりわけチェコの音楽界との交流が深く、チェリストのミハル・カニュカ、ヴァイオリニストのフランティシェック・ノボトニーとツアーを定期的に重ねている。すでに円熟の域にあるが、近年はブラームス、ショスターコヴィチ、ベートーヴェンなどの演奏を通じて新たな境域へも踏み出し、なかんずく曲への斬新な解釈がファンの間に新鮮な衝撃を広げている。おおらかで優美な鳩から鋭利で高貴な鷹への変身が進行しているようでもある。ことし秋にはソロリサイタルも開かれる。
 ヴァイオリンソナタ「春」に起こった革命は、イウラートのイタリア的なリベルタ(自由)の精神と超絶技巧への深い愛、そして伊藤の神戸的自由と創造の精神の、この二つの融合反応によって生まれたとも解釈できよう。重厚なドイツ的伝統とその呪縛から解かれることで、却ってベートーヴェンの深層が切り開かれたともいえそうだ。
 この日のコンサートは、ほかにメンデルスゾーンの「歌の翼に」(アクロン編曲)、イトウユミの「東北に寄す 三つの民謡から」、江藤誠仁右衛門の「種は眠る」、クライスラーの「プレリュードとアレグロ」、タルティーニの「ヴァイオリンソナタト短調 悪魔のトリル」、ジャゾットの「アルビノーニのアダージョ」、サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」が演奏された。
 
2015.3.21
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KOBECAT 0066
2014.12.13 神戸新聞松方ホール
ミハル・カニュカ&伊藤ルミ スーパーデュオ2014

――能空間と遇うような…ショスタコーヴィチ「チェロソナタ」――
■山本 忠勝


間そのものが泣くのである。
 空間そのものが微笑する。
 空間そのものが歌うのだ。
 空間そのものの変容が体を奧から揺するのだ。
 ミハル・カニュカのチェロと伊藤ルミのピアノで構成されたスーパー・デュオ2014のステージだった。
 
 演奏プログラムは五曲。
 最後に弾かれたショスタコーヴィチの「チェロソナタ ニ短調」からまず語ろう。
 ショスタコーヴィチが人生の微妙な時期にソヴィエト社会に投げ入れた作品である。
 さきに27歳で発表した野心的な大オペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」(1934年1月初演)はたちまち内外で脚光を浴びるのだが、それが二年後には一転、スターリンの意向を体したプラウダ紙によって「荒唐無稽」な舞台だとまさしくてのひらを返すように批判されることになる(1936年1月)。
 チェロソナタはその運命的な曲がり角のまさに真ん中で書き上げられた(1934年12月初演)。
 身に迫る政治的な圧力をひしひしと感じながらの作曲だったはずである。
 
 大聖堂のような広壮な規模を感じさせる結構だが、細部まで統一感が沁み渡っているようなそんな建築的な曲ではない。
 全体を貫く構造をすぐに読み取るのは難しい。
 むしろ散乱する光のように、思いがけないフレーズが連続する。
 呆然と見上げるような高いドームを組むことより、万華鏡のような美しいステンドグラスを隙間なく配することに努力が注がれたようである。
 刹那的といえば刹那的だが、どの細部にもそれだけ生き生きとした生命感が満ちている。
 緩急を織りまぜながらリズミカルな光の舞踏が休みなく進行していくようである。
 
 だがそこでいきなりぎょっとするのは、光の舞踏と見えたその先に、だしぬけに暗く、そして深い響きが立ち現われるからである。
 第二楽章のアレグロから第三楽章のラルゴへの劇的な転換。
 絢爛たる鏡の間のちょうど真下に暗い地下広間が現われた。
 昼の舞踏会のすぐ下で夜の舞踏会が行なわれていたのである。
 
 そしてミハル・カニュカと伊藤ルミの巧みさとめざましさ、それはこのラルゴ、地下の舞踏に、演奏全体の照準を、それも大きな確信をもって当てたことだ。
 この曲の核心はここにある!
 コンサートをこのラルゴから逆算して組み立てた。
 
 第一楽章(アレグロ ノン トロッポ)の最初からもう細部に緊張を漲らせ、さざ波の輝きのひとつひとつをきらきらと織り出していったのも、おそらくは正午の輝きの頂点で夜の奈落へ跳び込みたいがためだった。
 じっさい、断固とした両演奏家の意志は、すでに第一主題の提示の時からきわだっていたのである。
 刹那の美しさを敢えて鋭く刻み出すピアノの精緻このうえない波状音型、そしてチェロの澄み切った、ほとんど透明な糸の響き。
 鍵盤の生気と弦の哀調。
 泣きたくなるような旋律が浮かび出る。
 心はむしろ翻弄されるが、その翻弄が快い。
 陽光、微風、さざ波、ワルツ…。
 
 だから第三楽章の急転は、サロメの眼前に浮かび出たヨハネの首(ギュスターヴ・モロー画)の怪のように、まさしく対極に隠れていたものの「出現」だった。
 むしろ能楽の断面を思わせた。
 能の序破急の、とりわけ破。
 能舞台にはいつも「なにごとか」ではなく「なにものか」が現われる(何事かが進行していく演劇とは対照的に)。
 なにものかが新しい空間を引き連れて出現する(何事かが時間とともに推移していく演劇とは対照的に)。
 この世界にこの世界ならぬ空間が現われて、それがこの世界と一体になるのである。
 空間が衝突し、響き合い、深め合う。
 はてしなく続く呻きのようなチェロの奏鳴。
 呻いているのはいまや空間なのである。
 間断ない弔鐘のようなピアノの弾奏。
 不穏な鐘はいま空間そのものが放つのだ。
 
 あるいはこれは大地の震えではないか。
 広大で深遠なロシアの大地の。
 ロシアでこその。
 
 そう。
 見えにくかった曲全体の構造がここで一気に見えてきた。
 光の散乱は地上の出来事なのである。
 それを深い大地が支えている。
 第一楽章の締めくくりに忽然と葬送行進曲が登場するその謎も、これで氷解するのである。
 あたかも公式主題を覆すように提示された弔いの暗い歌。
 それは大地の霊と唱和するむしろ祝祭の歌だった。
 
 大胆な音楽的実験が試みられていくその底でなお脈々と生き続ける大地の霊。
 地霊の永遠の夢に比べれば、地上の日々の出来事はむしろ白昼夢なのではなかろうか。
 作曲家の巨大なヴィジョン。
 そのヴィジョンをわたしたちのこの時代にこんなにも明快に、こんなにも画然と彫琢したこのチェリストとこのピアニストの稀有な魂。
 深い洞察と大きな勇気。
 
 知るのである、わたしたちも地球という同じ一つの球体を介して、これらの音楽家たちと同じ聖大地の上にいると。
 
 だとすれば、ドヴォルザークの「ポロネーズ イ長調」は、広大な空間へと踏み出していく伸びやかな精神の、みずみずしい喜びだった。
 シューベルトの「アルペジョーネソナタ イ短調」は、ときに厳しく迫ってくる空間との大いなる和解であった。
 ショパンの「ポロネーズ ブリランテ」は、鏡の迷宮をさまようような絢爛豪華な空間の輝きだった。
 
 わたしたちはそれらをこの日、耳と目と、そして体ぢゅうの細胞で聴いたのだ。

 「ミハル・カニュカ&伊藤ルミ スーパーデュオ2014 」は2014年12月13日に神戸新聞松方ホールで開かれた。ミハル・カニュカは1960年プラハ生まれ。チェコきってのチェリスト。音に高い品位と風格がある。伊藤ルミは神戸を拠点に日欧で活躍しているピアニスト。大きな包容力が響きにある。両演奏家のデュオは1997年に始まって、これまでに国内外で14回のツアーを重ねてきた。今回のコンサートでは、上で触れた作品のほかにイトウユミの「モルダウ幻想」も演奏された。
2014.12.27
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KOBECAT 0065
2014.11.29 神戸・東灘区民センター
菊本千永モダンダンスステージ?

――死と再生の静かな祭り――
■山本 忠勝


本千永のリサイタルを見た。
 あえて困難な課題に立ち向かっている舞踊家である。
 困難な課題とは、「切断」と「持続」という二つの局面をひとつに統合することだ。
 切れるもの、あるいは切ることができるものと、切れてもなお続いているもの、続いているはずのもの。
 たがいに対立して見えるこの二つの要素を、一つのダンスのなかに融け込ませ、一体化しようというのである。
 
 四回目となる今回の舞台にかけられたのは、ここ数年の間に振り付けられた五作品。
 「PORTRAIT」「なにごともなきこの眺め」「人形―アノコノシアワセイノッテル」「死者たちからのバトン」そして最新作の「流れの中で」。
 ポートレート(肖像写真あるいは肖像画)、それは人生のある断面(切断面)で切り取られたその人物のそのときかぎりの風景である。
 なにごともなく過ぎていく平和な日々、それはしかしいつ襲ってくるかもしれない切断 (自然災害、事故、病死、戦争など) の予感をはらんで、不安からのがれられない日々である(現にわたしたちはなんとしばしば破局に出遭っていることか)。
 人形、それはモノと人間との切断面に立ち上がってくる第三の存在にほかならない。
 そして死者たち、それは生者たちから最も鋭く切断されて、最も遠くへ立ち去った者たちだ。
 問題は、切断面がそこでいったん凝固すると、生命の循環がたちまち停滞してしまうことである。
 生の流れが堰き止められ、荒涼とした世界が現われる。
 この舞踊家は、だから、生き生きとした循環を守るために、切断に負けない持続を呼び起こそうとするのである。
 強靭な持続の力がわたしたちのなかに脈々と受け継がれていることを、その力が世界の底を強固に支えていることを、ダンスで確認しようとするのである。
 
 めざましい成功に達したのは「PORTRAIT」と最後の「流れの中で」であった。
 「PORTRAIT」は終始三人のダンサーによって踊られた。
 中が空洞の大きな枠を舞台の中央にしつらえたが、これは肖像写真あるいは肖像画がそこに現われたというこころである。
 枠の中でおおむねユニゾンを基軸に踊るダンサーたち。
 それは、ひとりの人物が幼年期、成年期、老年期へと向かっていく成長のプロセスのようでもあったし、また、親から子へ、子から孫へと移っていく世代の遷移のようでもあった。
 動作のひとつひとつを鋭角的に切り立たせて、フラッシュの連続のように見せたのも、大きな効果を発揮した。
 持続の矢が瞬間瞬間の切片(断面)をダイナミックに貫いていく、その推力と速度感を的確に視覚化した。
 
 「流れの中で」はこの舞踊家の闘いのなかで、おそらくひとつの頂点に位置づけられる作品である。
 まず特筆すべきは、舞台の大胆な構成だ。
 客席の前のほうから座席が大幅に取り払われた。
 広びろと空いたその床面に黒装束のダンサーがひとり、静かに座した形で幕が開かれたのである。
 黒装束の存在は、ただひっそりとそこに座っていることで、却って不思議な存在感を漂わせる。
 冥界の神ハデスのようでもあり、冥界へさらわれたペルセポネのようでもある。
 一方、ステージの上の群舞はこれも静かな動きである。
 円を描くようにめぐっていくのが、季節の移ろいのように美しい。
 やがてその円はゆっくりと下の床面へ下り始める。
 ステージの上と下とがそうして結ばれることになる。
 死の国と生の国が大きな円環でつながれたわけである。
 宇宙的な循環・持続が見えるかたちに現われた。
 まさに死と再生の静かな祭りのようだった。
   
 むろん観客のなかには、死の国と生の国の双極構造で世界をみるこのようなビジョンになじめないひともいるにちがいない(人間もモノと同様、しょせんは素粒子の集まりでしかないのだから!)。
 だが舞踊家の情熱がわたしたちの心の欲求に沿っている、その方向性はだれもが認めるのではなかろうか。
 芸術は心の欲求の上に独自の宇宙を構成する。
 その真摯な情熱こそ、この世界にまだ救いの道が残されている確かな証しになるのである。

 「菊本千永モダンダンスステージ?」は2014年11月29日に神戸市東灘区の区民センターうはらホールで開かれた。主催は藤田佳代舞踊研究所。
 「PORTRAIT」は出演が、かじのり子、向井華奈子、菊本千永。音楽が細野晴臣。
 「流れの中で」は出演が、寺井美津子、金沢景子、向井華奈子、石井麻子、板垣祐三子、灰谷留理子、梁河茜、平岡愛理、田中文菜、菊本千永。音楽がVASKS。
 STAFF 芸術監督=藤田佳代、構成・演出・作舞=菊本千永、照明=新田三郎、舞台監督=長島充伸、音響=藤田登、衣装=藤田啓子、工房かさご、向井直子、大道具=アトリエTETSU。
2014.12.6
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KOBECAT 0064
2014.10.5 兵庫県立芸術文化センター
貞松正一郎のカラボス…「眠れる森の美女」から

――高貴な悪、無限のダンス――
■山本 忠勝


松正一郎がチャイコフスキーのバレエ「眠れる森の美女」で悪役のカラボスを演じた。
 さまざまな王子役をエレガントに踊ってきた貴公子の劇的な変身だった。
 ダンスールノーブルの華麗このうえない履歴をすぱっと脱いで、全身悪そのものになりとげた。
 重厚な悪だった。
 高貴に輝く悪だった。
 さらになによりも、無限の悪。
 そして三つ目の悪にかぶせたこの「無限の」という修飾語が、かれの場合は決してうわべだけの美称や修辞(レトリック)ではなかったということ、それを明らかにすることがこの小さなエッセーのテーマである。
 観客の心を無限の宇宙にまで誘う広大なパフォーマンスだったのだ。
 
 オーロラ姫の命名を祝う宮殿の広間に雷雲のように登場して、まだ赤ん坊でしかない姫にはやくも死を宣告するカラボス。
 残酷で、風格に満ち、美しかった。
 国じゅうの妖精を祝宴に招待しながら、よりによって長老のカラボスひとりを見落としてしまったということは、明らかに王宮の手落ちである。
 老妖精はどの点からも優位にある。
 悪は優位を容赦なく使うのだ。
 居並ぶ王族貴族を睥睨(へいげい)する。
 烈しく怒鳴る。
 にじり寄る。
 ねめつける。
 にやりと笑う。
 やさしいそぶりを垣間見せてまだ望みがありそうに思わせたその瞬間、傲然と絶対的な絶望を宣告する。
 「死!」
 老妖精のまさに独壇場である。
 
 重要なのは、独壇場は台本がくれる無担保の贈り物ではまったくないということだ。
 台本が用意した場へ身を進めてそこに観客の目を引きつけるのは、ひとえにダンサーじしんの力である。
 ダンサーがもつ技量と容姿、それらをひっくるめた存在感にほかならない。
 黒マントをひるがえしてわがもの顔に舞台を歩きまわる巨大な悪。
 これが繊細精緻なジークフリート王子(白鳥の湖)やお菓子の国の王子(くるみ割り人形)を踊ったあの同じダンサーなのか? ほんとうに?
 かれの一挙手一投足が(カラボスの魔女的な資質を考えればここはむしろ、かの女の、というべきか)、いまや危険な意味を放つのだ。
 
 この日のカラボスはじっさい悪魔的なメッセージのひとつひとつを稲妻のように繰り出した。
 おまえたちはこのわたしをこんなにもないがしろにしたのである。
 こんなに侮辱されたのは長い生涯でもはじめてだ。
 目に物を見せないではすまされない。
 なに? 妖精たちはそれぞれに最高の贈り物を持ってきた?
 ならわたしも最高の贈り物をしようではないか、ここで眠っているこのかわいい赤ちゃんに。
 そう、姫は娘ざかりのまっただなかでこの世を去ることになるだろう。
 十六歳の誕生日に糸巻きで指を突いて、その傷がもとで死ぬだろう。
 さあ、これがわたしの心を込めた贈り物だ。
 受け取っていただこう。
 
 そしてここでとくに注目したいのは、この無慈悲なプレゼントに二つの時間が組み込まれている、その構造のことである。
 一つは十六年を区切りとする生の有限の時間である。
 より美しく成長していくそのことがより生を削っていくことになる宿命の時間である。
 恐ろしい予言への回答が日々刻々と近づいてくるのである。
 そしてもう一つは、その十六年目に不意に始まる死の無限の時間である。
 そこからは時間がただ永遠へ向かって茫漠と開かれる。
 新たな予言も新たな回答ももはやない。
 この有限と無限の二枚重ねの構造が王家に絶えることのない不安と緊張を強いるのだ。
 カラボスの理不尽な魔法は、つまり、時の魔法でもあった。
 
 時、この静かな暴力!
 ついでにちょっと付け足しておくならば、チャイコフスキーのバレエ作品は、「眠れる森の美女」ばかりか「白鳥の湖」も「くるみ割り人形」も、じつは時間というこの底深い構造を堅固に組み入れているのである。
 オデットが白鳥からもとの王女の姿に戻れるのは、夜の時間だけに限られる。
 クララがおとぎの国へ旅立つのはクリスマス・イヴの正零時、その境い目の一瞬が無限の時空へ開かれてかの女を冒険へと導くのだ。
 しかもそれらの時間を時の司祭のように操るのが、カラボスと同じようにみな暗い存在だということも、チャイコフスキーの作品に共通する要素である。
 姿そのものがもう怪異な悪魔にほかならないロットバルト。
 ものやわらかな紳士だが、どこか魔法使いのようでもあり、卓抜な科学技術者のようでもあり、いつも微妙な影を漂わせて登場するドロッセルマイヤー。
 大作曲家の三つのバレエは、見かたによっては時間と時間を操る魔物たちの物語だともいえるのだ。
 
 しかしカラボスのこれみよがしの独壇場は、美しい敵の突然の出現で中断される。
 同じ妖精仲間でも、カラボスの対極にあるリラの精。
 かの女には、老妖精の呪いを無に返すほどの力はないが、弱めることはできるのだ。
 一瞬の機転で、無限の死を百年の眠りに変えてやる。
 ありていにいえば、永遠を百年にまで値切ってやる。
 二妖精の対決は、象徴的にもここで無限の時間(死)と有限の時間(眠り)の相克となってあらわれる。
 姫君が糸巻きの傷で倒れるのは、これはもうわたしにはどうしようもありません。
 けれどご安心なさい。
 それは永遠の死ではないのです。
 姫君はそこで百年の眠りに入るのです。
 
 姫を守る美しい妖精の知恵で無限の時間が押しのけられる。
 有限の時間が戻ってくる。
 カラボスがせっかく作った宇宙の摂理(十六年目の死)がリラの精によってなかば骨抜きにされてしまうのだ。
 ふたりの妖精の地上での対決はそのまま宇宙的な闘いだったということだ。
 …もっとも、タナトス(死)はもともとヒュプノス(眠り)と兄弟だから、神々の目から眺めれば地上で見るほど大きな距離はないのだが。
 
 むろんわたしたちの心がこうして宇宙にまで駆られるのは、貞松正一郎の重厚高貴な悪の表現があってこそのことである。
 平凡なダンサーの演技であれば、ただカラボスの意地悪を見たというだけで終わるだろう。
 独壇場を作れる創造者のすばらしさはいくら強調しても決してしすぎることはない。
 優れたダンサーは観客たちをひととき哲学者にするのである。
 
 さて、かくしてこのエッセーも最も言いたいところへ進めるというわけだが、「眠れる森の美女」が作られた1889年(初演1890年)という年は、科学技術の勝利といわれたエッフェル塔がパリに完成したちょうどその年なのだった。
 世界は猛烈な勢いで科学の時代へ入っていた。
 初演からまだ十年(1900年)で、もう現代の最先端科学「量子論」の扉がマックス・プランクによって開かれる。
 その五年後にはアインシュタインの「特殊相対性理論」も出るのである。
 そしてこの科学にとって最大の悪夢というのが、実はカラボスが操ろうと企てたこの無限という怪物にほかならない。
 
 科学の方程式はいったん無限の解を出してしまうと実際のところもうその方程式は死んだも同然なのである。
 一つの問いに無数の回答が出るようでは、どの回答も意味のある回答ではないのである。
 早い話、光とエネルギーの研究でプランクが量子論を打ち出したのも、それまでの方程式(古典物理学)ではどうしても無限の答えが出てしまう、それを正そうとして未知の扉を開くことになったのだった。
 時代が下って1965年にノーベル物理学賞を受けた朝永振一郎博士の「くりこみ理論」(量子電磁力学)も、電子の質量やエネルギーが無限大になってしまう方程式の、その矛盾を乗り越えるための天才的な新機軸にほかならなかった。
 
 強調したかったのは、20世紀の前夜、時代はいよいよ無限というこの現代の悪魔と正面切った闘いに入っていたということである。
 ちょうどそんなおりに登場したのがこの「眠れる森の美女」だったし、カラボスでもあったということだ。
 かたちは中世の物語だが、その奧ではすでに現代の精神がうごめいていたのである。
 カラボスの挫折は、だから無限という旧時代の精神の象徴的な滅びであった。
 するとリラの精は現代を席捲する科学的理性のまさにアイコンなわけである。
 
 さらば、カラボス。
 もうあなたの時代は過ぎ去った。
 
 だが貞松正一郎じしんはどうだろう。
 やはりかれはかれが演じたカラボス同様、いぜん無限を愛しているのではなかろうか。
 だからこそあれだけの迫真の悪を見せたのだろうし、おそらくそれが芸術家という種族におしなべて刻印されている性なのだ。
 宇宙はまだまだ無限への扉を奧から開いてくるだろうし、芸術家はそこに現われる新たな悪魔にまた魅了されるのだ。
 繰り返し、永遠に。

 貞松正一郎が老妖精カラボスをつとめた「眠れる森の美女」は2014年10月5日に西宮市の兵庫県立芸術文化センターで貞松・浜田バレエ団によって上演された。キャストはほかに、お城ともども100年の眠りに落ちるオーロラ姫に瀬島五月、眠りの姫を目覚めに導くデジレ王子にアンドリュー・エルフィンストン、姫を守るリラの精に竹中優花、姫の命にさまざまな贈り物を授ける妖精たちに小松原千佳、山口益加、村田絵里子、正木志保、上村未香、姫の婚礼に童話世界からお祝いに駆けつけるキャラクターたちに角洋子、大門智、川崎麻衣、塚本士朗、小田綾香、尾花歩、佐々木優希、武藤天華ら。
 STAFF 演出=貞松融・浜田蓉子、振付=貞松正一郎、振付助手=小西康子、構成=長尾良子・小西直美、音楽プランと指揮=江原功、管弦楽=びわ湖の風オーケストラ、バレエマスター=ヤン・ヌイッツ・堤悠輔、照明プラン=柳原常夫・加藤美奈子・ライティングセブン、舞台美術デザイン=湊謙一・日野早苗・日本ステージ、舞台監督=坪崎和司・ステージハンド、衣装スタッフ=堀部富子・松良朋子、プログラム=殿井博。
2014.10.30
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20017 中村恩恵振り付け「TWO」

ベケットへの愛
 

 都市の夜のひとときをコクのあるコーヒのような上質な時間に変えてくれる、そのような舞台があります。
 中村恩恵(めぐみ)さんが振り付けたダンス作品「TWO」は、そのような舞台でした。
 夕暮れにひとりの老婆が現われます。
 孤独をまとって現われます。
 衰えた関節をきしきしと軋ませて、欠乏そのもののように現われます。
 ところで老婆は花をさがしているのです。
 花への希望が少しずつ膨らみます。
 夕闇をさまようにしたがって希望が深くなっていくのです。
 老婆が豊かになっていくのです。
 2014年9月13日に神戸文化ホールで開かれた貞松・浜田バレエ団の「創作リサイタル26」にかけられました。
 初演でした。
 
 中村さんの創作メモは、サミュエル・ベケットの奇異な小説「また終わるために」からの引用です。
 ベケットがこの小説に残したイメージは強烈、というより苛烈です。
 老婆が花を求めて野を歩きまわっているうちに何かにけつまずくのです。
 足もとに男が転がっていたのです。
 そこでうつぶせになっていたのです。
 老婆の靴が男の横腹にめりこんだ、そのぶよんとした弾力がもろに伝わってくるような一章(「ある夜」)です。
 そこの弾力を起点にして、夕暮れがぴしっと裂けていくような、そのようなデモーニッシュな風景です。
 
 ベケットの小説のこの濃密な一章をダンスで超えるのは、むろん容易なことではありません。
 しかしベケットから受けた衝撃をダンスに置き換えることで、ありありと見えてきたことがひとつあります。
 夕闇の野で起こったこの異様な女と男の遭遇を、振付家が深いところで受け止めたこと。
 振付家がそのように受け止めたそのことにわたしたち観客も共感して、舞台で起こるすべてのことをこよなく深く受け止めたこと。
 そしてそのように深く受け止めることがとてもうれしかった、そのことです。
 
 いうまでもなく振付家は小説を超えようなどとはしていません。
 かの女はただひたすらにベケットから受けた感動(というより動揺、動転)をまわりに伝えたかったのです。
 世界に伝えたかったのです。
 ベケットに伝え返したかったのです。
 それを正確に伝えるために、ダンスの純度にはとても心を砕きました。
 端正に仕上がりました。
 
 最初にすばらしいことが起こります。
 老婆が男を蹴ってつまずくような、そんな演劇的な振り付けは微塵もしなかった、そのことです。
 振付家は第一の誘惑をみごとに扼殺したのです。
 この殺戮にはおそらく最大のエネルギーが必要だったとおもわれます。
 そして舞台に実際に現われたのは、前屈みになって、ひっそりと歩き続ける小さな老婆(ダンサー=小田綾香)の姿です。
 
 もちろん男(堤悠輔)もそこで寝そべってたりはしませんでした。
 ごく静かに登場して、これも老婆と同じようにゆっくりと歩みます。
 老婆との間に絶妙の距離を保って、なめらかに舞台を回り続けます。
 
 わたしたちに深い感動が生まれたのは、揺るぎない偶力(ぐうりょく)がそこに生まれ、それがはっきりとみえたからです。
 偶力とは引きつけ合いながら、しかし決して一体化することはない、物理的な力のことです。
 ふたりは一つの世界で遭遇しながら、まだ別の世界にいるのです。
 別の世界に分かれていながら、すでに一つの世界にいるのです。
 たがいの時間と空間がそこで入れ子構造になったのです。
 野原にいちだんと深い時空ができたのです。
 
 愛も憎悪も誘惑も裏切りも、そんなものはなにもないところです。
 そこでひとが二人になるたったそれだけのことで、全体がこんなに豊かになるというのは驚きです。
 ふたりとも欠乏そのもののように登場しながら、しばしふたりとしてともにそこにあることで、ふたりとも徐々に豊かになっていった、それは奇跡のようでした。
 世界が二倍になっていくのがみえました。
 宇宙が二倍になっていくのがみえました。
 花が二倍に輝くのがみえました。
 そして二倍とは、もう無限のことだったのではないでしょうか。
 
 ベケットの作品にはいつも痛々しさがつきまといます。
 喜劇にあってさえ、ひりひりするものが裏に垣間見えるのです。
 けれど中村さんの舞台には、穏やかで、温かで、愛おしいものがひたひたと満ちました。
 都市の一夜が上質な時間になったというのも、このうつくしい雰囲気があってこその転位です。
 それは、たぶん、ベケットには遂になかったある重要なものが中村さんにあるからです。
 中村さんのなかにベケットにはなかったベケットへの愛があるからです。
 
 ベケットへの愛。
 そして、おそらくは敬意。
 それが、つまりは、このダンス舞台を中村さんの完全にオリジナルな作品にしたのです。
 その夜の観客に大きな幸福をもたらすことになったのです。
  2014.10.2 Tadakatsu Yamamoto
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KOBECAT 0063
2014.9.13 神戸文化ホール
藤井泉のダンス作品「Fashion Nightmare」…貞松・浜田バレエ団公演

――モード、または、食人鬼――
■山本 忠勝


ードを装うこと、それはたぶん夢への翼を着ることだ。
 翼を駆って今の自分から離陸すること。
 高く、さらに高く、…思いっきり晴れがましく。
 ただ、夢は悪夢になることもある。
 藤井泉のダンス作品「Fashion Nightmare」(ファッション・悪夢)は、微温的な常識を揺すぶって、モードの暗い魔性を鋭く突いた。
 おそろしくにぎやかに、おそろしくめまぐるしく、そして、さざなみのような笑いを誘って…。
 貞松・浜田バレエ団の「創作リサイタル26」のプログラムとして初演された(2014年9月13日 神戸文化ホール)。
 
 舞台はどうやら二つの流れからなっている。
 まず、男の部屋。
 かれはタイトでソフトな黒シャツと黒パンツをまとっている。
 あちらこちらをめくっては、また戻す。
 しっくりこないところがまだあるのか。
 それとも掘り出し物がうれしくて、着ている幸福をまた確かめなおすのか。
 いずれにせよ肉体と着衣の間にいぜん微妙な隙間がある。
 新鮮なずれ、たぶん95%の快感と5%の不快感、つまり、ちょっとした疎外感。
 つぎに、街。
 大通りに満艦飾の群衆が現われる。
 あるいは金魚の突然変異種?
 尾ひれ、背びれ、胸びれ、腹びれ、尻びれに、さらに腰びれや腋びれや頭びれ、下腹びれまでもひらひらさせて、超ファッショナブルな金魚たち。
 むしろ燃え上がる魚のよう。
 炎上たけなわ。
 火の氾濫のまっただなかで隙間も疎外もあるわけない。
 終始ユニゾン、強力に、派手派手しく。
 
 黒シャツの男はナイロンの質感にとくに思い入れがあるらしい。
 舞台の真ん中でやおら講釈をぶちはじめる。
 …ぼくは、やっぱり、ナイロンがいいですね。
 音楽とダンスの中にいきなり言葉がまぎれこむ。
 喋り続ける、悪びれることなく、淡々と、長々と。
 だがファッションに理屈は要らない。
 かれは無視され、取り残され、追い遣られる。
 
 振付家が才能をはっきりと出してくるのはそこからだ。
 意表を突く。
 裏で不穏なものが膨らんでいたのである、巨大なまでに。
 身の丈三メートルをゆうに超える、見るからに魔性のものが二体、ゆうらり、やおら上手から現われる。
 ひらひらをさらに大々的に飾り付けた大金魚。
 大炎上、見上げるばかりの。
 アフリカの精霊を思わせる。
 
 精霊とはすでに悪夢の領域である。
 どう見てもこの悪魔的なシルエットは、人がその手で身にまとってそこに生まれたものではない。
 反対だ。
 モードが人を案山子(かかし)の心棒みたいに呑み込んで、みずからの異形のシルエットをそこに堂々と立てたのだ。
 モードが人を食ったのだ。
 まるごと食って、美しくも不気味な精霊になったのだ。
 ファッション、または、食人鬼。
 
 人はモードで炎上する。
 まるごとそっくり食われてしまう。
 浸蝕されてしまうのだ、外から内へ、内部深くへ。
 
 ついに奇妙な逆転が起こってしまった。
 裸体でさえ今はひとつのモードである。
 大通りの群衆はほとんど裸で繰り出しているのだが、小さな飾りだけはつけている。
 いや、こう言っては、この場合、語順がまったく正しくない。
 正確にはこうである。
 小さな布切れが裸体を飾りにまとっている。
 布に隷属する身体。
 
 むろんみなさんはご存じだ。
 モードはすでに法までも乗っ取った。
 人は大通りで全裸になったら、つまりなんのことはない、生まれたときの形に戻ると、交番へ引っ張られる。
 悪夢はもう街の隅々に浸みている。
 
 モードの呪縛。
 

 藤井泉振り付けの「Fashion Nightmare」は2014年9月13日に神戸文化ホールでおこなわれた貞松・浜田バレエ団の秋の公演「創作リサイタル26」の第?部で上演された。今回が初演。音楽はマット&キム、ダヴィ・ベルジェ。
 出演は佐々木優希、瀬島五月、廣岡奈美、角洋子、小松原千佳、川崎麻衣、村田絵里子、村上倫子、川村康二、堤悠輔、大門智、尾花歩。
 STAFF 衣装=中島佑一、撮影協力=堤悠輔。
2014.9.25
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KOBECAT 0062
2014.9.13 神戸文化ホール
イリ・キリアンのダンス作品「小さな死」…貞松・浜田バレエ団公演

――生け贄のように、神々のように――
■山本 忠勝


り抜かれた六組の男女が踊った。
 たがいに近づき、たがいに重なり、たがいに遠のき、そしてまた近づいて、いっそう強く重なった。
 たがいがたがいの血濡れた生け贄(いけにえ)のように重なった。
 たがいがたがいの崇高な神のように重なった。
 イリ・キリアンのダンス作品「小さな死」の舞台である。
 貞松・浜田バレエ団の秋の公演「創作リサイタル26」の締めくくりのプログラムとして上演された。(20014年9月13日 神戸文化ホール)
 
 キリアンは創作メモの中に次のように書いている。
 “小さな死 Petite Mort”というのは、性交時のエクスタシーをいう、詩的な、かつ奇妙に意味深い言い回しである。
 まぎれもない、肉体の営みを正面から見据えて作られた舞台である。
 だとすれば、もともと肉体の動きを主体とするダンス、それがいっそう肉体に染まることになったのか?
 いっそう肉体へ下りていくことになったのか?
 ダンスがさらなる肉化を遂げたのか?
 Non!
 実際に起こったことはその逆だ。
 実際に起こったことは、肉体が肉体を超克して無限に上昇していく奇跡である。
 
 精神化といっては、陳腐に過ぎる。
 生け贄のように踊るということは、つねに血の匂いがそこに漂うということだ。
 血の匂いは肉体へ絶望を運んでくる雲である。
 生が絶望の驟雨(しゅうう)から逃れ出ることは決してない。
 だがそれでいて神のように、まさしく神そのもののようにこうごうしく踊るのだ。
 驟雨に濡れながら、しかしまっすぐに神の場所へのぼっていく。
 絶望をたずさえたまま、輝かしい不死の世界へのぼっていく。
 
 生け贄と神との合一。
 …または、エクスタシー。
 一瞬にせよ、奇跡に満ちた。
 
 しかし、たぶん、このダンスを語るのに、生け贄とか神とか、そのような過剰な言葉はむしろ避けるべきだった。
 観客がその目でそこに見たえもいえないエレガンスを損なうおそれがあるからだ。
 ダンサーたちは終始ギリシャの壷に描かれた壮健なアスリートのように、そして端正な巫女のように、ゆるぎなく高貴なフォルムをつづっていった。
 象徴的にも男たちはそろって剣を噛むのだが、その真っ赤な鍔(つば)を備えた剣は、かれらの口でまるでバラのようだった。
 
 むしろ十二本の木がそこに立ったというべきだろうか。
 舞台の奧を大黒で無限に変えた黒一色の空間にきりっと立った白い樹木。
 黒い無限空間に裂け目のように鋭く出現した樹木。
 裂け目のように屹立した肉体。
 
 裂け目。
 それはいっそう深遠な空間への門である。
 ここから向こうへの通路である。
 この地の裏への。
 宇宙への…。
 
 小さな死は、そうだったのだ、宇宙的な広大な生への裂け目であった。
 高い生へいっきにのぼりつめる裂け目であった。
 なんという高貴な反転。

 イリ・キリアン Jiri Kylian 振り付けの「小さな死」(Petite Mort)は2014年9月13日に神戸文化ホールで開かれた貞松・浜田バレエ団の「創作リサイタル26」で上演された。音楽はモーツァルトのピアノ協奏曲第23番第二楽章アダージョと同21番第二楽章アンダンテ。出演は女性ダンサーが上村未香、正木志保、竹中優花、瀬島五月、廣岡奈美、川崎麻衣、男性ダンサーがアンドリュー・エルフィンストン、武藤天華、堤悠輔、塚本士朗、水城卓哉、幸村恢麟。
 STAFF:振付指導=中村恩恵、コーラ・ボス・クルーセ 装置=イリ・キリアン、衣装=ヨーク・フィッセル 照明=イリ・キリアン(コンセプト)、ヨーブ・カボルト 空間演出=ヨースト・ビゲラー。
 なおこの作品の初演は1991年。モーツァルト没後200年のザルツブルグ・フェスティバルのために創作され、ネザーランド・ダンスシアター?によりオーストリア旧ザルツブルグ祝祭小劇場で上演された。日本のダンサーによる公演は貞松・浜田バレエ団の今回のプログラムが初めて。
2014.9.16
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KOBECAT 0061
風来舎刊
島田誠著「絵に生きる 絵を生きる」

――画商と画家…遭遇、そして対峙と透過――
■山本 忠勝


と人とが正面からぶつかってその拍子に相手の体を向こう側へ透け抜ける。今の物理学の見方(量子論)からすればそういう確率もゼロではないのだそうである。60兆個もの細胞でできているお互いの体が交錯し、透過し合う。だとすると透け抜けたあとのふたりというは、精神の上でも途方もない痕跡を印し合っているのではなかろうか。
 島田誠さんの近著「絵に生きる 絵を生きる―五人の作家の力」(風来舎刊)を読みながら、熱くなっていく心のなかでふと考えたのは、そのような奇跡の交錯のことだった。
 島田さんは神戸でギャラリーを開いている画廊社長で、だからこの本で語られるのも五人の画家との出会い、つまり五つの交錯のことなのだが、じっさいこの本から聴こえてくる主調音は、島田さんと美術家たちとのそのような深い透過のことなのだ。
 
 五人の画家は、これを書き始めているこのぼくも記者をしていたころに個展評を書かせてもらったことのあるひとたちで、特異な創造者との印象がひときわ強く残っている。
 
 島田さんの本に出てくる順序で登場人物をざっと紹介しておくと、まず松村光秀さん。
 天界と下界とを自在に往還することをもくろんでいる画家なのではなかろうか、その絵にはしばしば天上からくだってきた天女のような幽艶な女たちが現われる。むしろ日本画のような静かな絵肌と、それとはまったく対照的な、動きの強い洋画の構図がひとつになって、画面全体に不思議な浮遊感が醸される。その奇妙な雰囲気は、島田さんの言葉を借りて「異界」の空気と呼ぶのが多分いちばんいいだろう。世俗のものたちとは香りの異なる女たちがそこへ踊るように現われる。歌うように、そしてしばしば祈るように、そしてさらには狂うように現われる。
 
 次に山内雅夫さん。
 花や山や人や町や、そのようなぼくたちの目にくっきりと見えるもの、つまり具象的な対象には、逆説的だがこの画家は目もくれない。ではそこで表現されるものがいわゆる抽象画かというと、ふつうに抽象と呼ばれる絵とはまたずいぶんと違っている。絵の具は禁欲的なまでにただ一色、白(ジンクホワイト)だけが選ばれて、その白が毎日毎日はてしなく塗り重ねられていくのである。はた目には単調きわまりないその営みは苦行にも似て、描くというよりはむしろ生の営為そのもののようである。出来上がってくるものは、むしろ壁、あるいは地層、もしくは大地それ自体というほかない。ぼくたちがそこに見るのは、花や山や人や町やそれら目に見えるものの形を超えた、たぶん「存在」そのものの響きである。
 
 そして武内ヒロクニさん。
 破壊を繰り返す現代美術がそれでも公に発表されるものとして引きずっている最後のお行儀のようなもの、それをも木端微塵に砕いていく、つまりは悪魔的な画家といっていいだろう。だが一見乱暴なその創造が最終的に描き出すのは、破局(カタストロフィ)へあと一歩のところで踏みとどまって、そこで危うい均衡を保っている不思議な風景なのである。多くの場合、それは都市の鳥瞰図のような光景だが、緊張をはらんだその街はまるでオルガスムの沸騰のさなかにあるかのようにエロティックな象徴で満ちている。エロスの勃興…。イザナギとイザナミのさらに二代前の神の世界、この世が二つの異形の神、すなわち巨大な男性器そのもの(オオトノジ)と巨大な女性器そのもの(オオトノベ)の二体の神で営まれていた、あの怪異な原風景が現代の都市に甦ってきたような。
 
 それから高野卯港(うこう)さん。
 このひとはもう故人だが、むしろ現代に遅れてきたことを自分の存在根拠とするように、ノスタルジックな風景を描き続けた画家である。今の街を描いても、その街からはとりわけ昭和前期の湿った匂いが漂い出す。それはもはや画家の体臭といってもいい。あえて一口にいうならば、まだ遊郭ないし赤線があったころの、あのすこし危険で、隠微で、濃厚な空気の匂い…。
 
 そして五人目が石井一男さん。
 現代を代表するノンフィクション作家の一人・後藤正治さんが「奇蹟の画家」という本で広く世間に紹介して、いま現在進行形でその名が広がりつつある画家である。テレビのドキュメンタリーにも取り上げられ、まさしく一夜あけたら時の人になっていた、いわば現代にもまだこんな話があるのかと人を一様に驚かせる、遅れて来たシンデレラ。島田さんが個展への道を開くまで、つまり画家四十九の年になるまで、なんの発表のあてもなく、孤独な部屋で自分の女神(マドンナ)をひたすらに描き続けてきた、正真正銘の密室の作家である。


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 さて、この本で明かされるそれら五つの遭遇。ぼくがそこで最も喚起されたことをストレートに書かせていただくとすれば、それはなによりもひとつの幻視のことである。行間から不意に鋭いナイフが現われて、一度、二度、三度…、計五回、まぶしい光を放った、その閃きのことである。
 
 むろんそんな物騒な凶器のことが表立って本に書かれているわけではまったくない。剣戟もどきのそのような光景がこの本に見えましたと島田さんに報告したら、島田さんはきっと眼鏡越しの穏やかな目に微笑をたたえて、ふうん、そんなことがねえ、という顔をするだろう。けれど著者の率直な語り口をたどっていくと、著者と画家たちが交錯し、透け抜け合ったそのあとでは、双方が相手のナイフで鋭い切り傷を負っていること、それがおのずと見えてくる。そしてその切り傷がどれも花のように美しいこと、それもすぐにわかってくる。
 創造的傷痕とでもいえばいいか。
 魂の飛翔と生の躍動を刻んだ傷だ。
 
 著者のそのナイフが最も鋭く閃いたとき、言い換えればその刃に最も厳しい緊張が漲ったとき、それはおそらく山内雅夫さんとの遭遇のときである。白が積み上げられていくだけのそのデモーニッシュな制作に激しく打たれ、このひとの個展をギャラリー島田で開きたい、とそう決心したときのことである。一瞬にしてそう憑かれたときのことである。
 それにしても画商がまったく絵を売ることを度外視して、というより売れないことを百も承知で、なおひとりの作家の展覧会をじぶんの画廊で開くとしたら、ぼくたちはその画商のことを何と呼べばいいだろう。世間から画商と呼ばれるかれの日々に、名づけられない裂け目ができる。
 だがその裂け目にすかさず人間島田が浮かび出る。
 さながら神に立ち向かっていくかのようにこのひとは作家の世界へ分け入っていくのである。なるほどその作家はカントからフッサールあるいはハイデガーまで、西欧哲学の鍛えに鍛えられた理性的認識論、そしておそらくは空海をはじめとする仏教哲学の直観的認識論を創造の土台に置いて自己の世界を築いている手ごわい相手なのである。ニーチェふうにいうならば、まさしく超人的な創造者というべきか。そもそも自作を売ることなどこの画家にとっては論外のことなのだ。内的な衝動にのみ基づいた、どこまでも無償の創造。それはじっさい神の行為とほとんど並行のように見てとれる。
 すると、神に差し向けられた鋭いナイフがぎりぎりの緊張のなかでやがて光そのものになっていく、それはむしろ当然のことかもしれない。神へのナイフは同じ強さと鋭さで自分へも向けられる。おまえはどれほど誠実で純粋か、と。
 当然のこととして濁りが次々と浮かび出る。それはそのつど丁寧にぬぐわれていくのだが、そこで書き記されたひとつの文章、それはだからこの本の中で最も美しい告白の一つになる。この作家との出会いから個展開催までの五年間の葛藤を著者はこのように語るのだ。
 あれはまだじぶんの理想について「片目はつぶって歩いていた試行錯誤の時代」だった、と。
 心を吹く風の音が聴こえてくる。山内さんはむしろおのれのナイフを力いっぱい突き出すように島田さんに促した最初の作家だったかもしれない。精神の深いところで刺し違えること、それこそ創造的な出会いの門口だと。
 
 一転、まるで切り結ぶのを楽しんでいるかのようにお互いのナイフが踊り合うときがある。武内ヒロクニさんとの出遭いのときだ。
 実はこの画廊主とこの画家は、ぼくの知る限り水と油のように来歴の異なるふたりである。島田さんは大学で経営学を学んだ後、いったんは大手企業に幹部候補生として入社するが、やがて請われて神戸・元町の老舗書店の社長に迎えられることになる。さっそうとした青年社長がその書店の一角に小さな画廊を設けたのが、現在のギャラリー島田の源流になるのである。
 いっぽう武内さんはそのころのみずからの暮らしぶりをおおよそ次のように書いている。朝起きれば体からまず「自分の体臭」と「マリファナの臭い」が立ち昇ってくるのであった、と。アンダーグラウンドな芸術家の狂気の日々。島田さんが「「ヒロクニさんは、私の苦手な、ぎらぎらした眼で肩をそびやかす不良野郎」だったと追想するのはまさしくその通りだったろう。
 それが、これこそ人の出遭いの不思議を描き出すこの本の最もシンボリックな部分だが、互いに相手を「糞ったれ!」「あんたこそ糞ったれ!」と言い合いながら、とうとう個展を開催することになるのである。今に続くノーガードの打ち合いもそこから始まるというわけだが、やがてふたりの間に芽生えてくる阿吽(アウン)の呼吸には、まことに不可解でかつ味わい深い心のこまやかな襞がある。切り傷だらけになりながら、魂が相乗的に高揚していく、これはむしろ芸術的格闘技というべきだろう。
 
   あるいは、あそこまで水際立ったナイフの使い手であるのなら、突き刺され、倒されてもいい、と画家のほうから身を投げ出してくることもあるようだ。石井一男さんとの遭遇の場合がそんなふうに見てとれる。
 新聞配達で食べながら、あとはただ自室にこもってただただ絵筆に生きる意味を求めてきた孤独な画家が「このひとならわかってもらえるかもしれない」とすがるような思いである日一本の電話をかけた。今度は画家のほうが神に立ち向かうような張りつめた心でやってきた。「見ていただくだけでいいんです」。
 自称画家の売り込みにはもう慣れっこになっている画廊社長はむろんほとんど何の期待もなくこの突然の来訪者を迎えるが、これも出遭いという化学反応のダイナミズムなのだろう、瞬時にして事態は思いがけない方向へ展開する。島田さんの鋭敏なナイフは初対面にして画家がもっている二つの美質を突き止めた。一つは、絵が歴然と示している芸術的価値の確かさ。もう一つは、寡黙なこの作家が宿している稀有なほど純な魂。
 日曜画家の新聞配達人があっという間に立派なひとりのプロ作家に変身した、その決定的な瞬間はそのようにしてやってきた。
 タイトロープを渡るようなその出遭いがもしなかったら…。内気な新聞配達人は、膨大な数の無署名の絵を押し入れに残したまま、人知れず人生を終えたかもしれないのだ。奇蹟には、いつもぞっとさせるような裏面がある。
 
 面白いのはそんな怜悧なナイフにも、たまには行き惑うときがあることだ。高野卯港さんとの交錯のときである。「私より若い卯港さんが遊郭を描くのは空想あるいは憧れの絵空事と最初は思った」と島田さんは書いている。高野さんの仕事に対して、画廊社長が当初は懐疑的だったということが、率直にそこで明かされているのである(ちなみにぼくはこの本でそうだったのかと教えられるまで、高野さんにはずっと懐疑的なままだった)。
 画廊主のその懐疑は、これがまた出会いの奥深さのもうひとつに側面だが、ちょうど鏡が対称的な鏡像を生みだすように、画家の心に暗い不安をつくりだす。高野さんは島田さんへの屈折した思いをひそかに日記に残していた。
 「卯港画集、絵で食べること、世界の美術館での個展が、わが夢だ。そのどれも実現していないのだ。…けっして(島田社長は)私を上に上げないのだ。飼い殺しの関係なのだ」。
 画家は傷つき、煩悶する。だが実はそこから真の交錯が深まっていく、それもまた島田宇宙の運動法則なのである。やがて画家に曙光が差し始め、それとともに画家は画廊社長にどれほど寄り添われていたか、そこに気づくことになる。
 「…絵も売れた、社長も喜んだ、…ワッハッハ、ワッハッハ。長〜い苦しい待ちの日々だった」
 がんで亡くなる二か月前の日記であった。

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 さて、日本の刀剣伝説のなかに血の匂いに吸い寄せられる妖剣の話があるように、このようなナイフの場合、あるいはナイフのほうがいちはやく作家の血の芳香を嗅ぎ分けて、主人をぐいぐい引っ張っていく、そういうこともあるかもしれない。松村光秀さんとの出遭いには、どうもそんな奇譚めいたふしがある。
 これもまたふつうでは交わるはずのないふたりである。一方はKOBE GENTLEMAN(神戸紳士)の典型のような、都市のなかの都市に生きる、むしろ大地から離れたコスモポリタン。そしてもう一方は古都・京都の下町で在日二世として生まれ、疾風怒濤のような人生を積み重ねながら土地の匂いを刻んできた人。脱民族的で端正な世界人と、血と土俗の匂いを濃厚に発散する表現者。
 初めて画家のアトリエをたずねたときの衝撃を島田さんはこのように綴っている。
 「…作品から漂う妖気。あるいは、少しの狂気。…私の見てきた世界にはなかった異界であった」
 重要なのは、気もちはたじろぎながらも、しかし直感的な嗅覚(美のナイフ!)はもう相手の魂の何たるかを嗅ぎ分けて、奥へぐいと踏み込んでいることである。
 むしろそのとき水面下で起こっていた美の暗闘が、この対極的な両人を緊密に結びつけ、互いに反発を孕みながら、だからこそ却ってきずなを深めることになったらしい。やがて画家がへてきた大きな地獄、自宅(兼アトリエ)が夜中の火災に見舞われて妻と二児を失ってしまったという絶望的な悲劇もあかされてくるのだが、そこに触れるときの著者の筆使いにはむしろ悲劇への畏敬といったようなものが現われる。
 人生を打ち砕いた出来事がひとから尊厳をもったものとして迎えられる、それは人の出会いのなかでも最も深いレベルの出会いなのではなかろうか。
 
 スリリングな本なのだ。
 ナイフが幻視されるのは、画廊社長と作家とがお互いの芸術観と美意識の極致をかけてそこで出会うからである。
 とりわけ若いころの島田さんを少しばかり知っているぼくのような者にとって面白いのは、ここに登場する画家のほとんどが、昔のダンディSHIMADAからは限りなく遠い人たちのように見えることだ。
 いささか奇矯にさえ思えるほど我が道を突き進むこれら特異な作家たちと正円のようなバランス感覚に恵まれた島田さんとが一体どんな通路で結びつくのか?
 ぎょっとするような作品をギャラリーで見るたびにぼくが決まって感じた疑問であった。
 しかし今この本を読みながらその疑問が結局は了見の狭い傍観者の一時の戸惑いに過ぎなかったとわかるのだ。
 間違いなく人はじぶんとまったく異なる遠い他者とも自在に交錯する潜在力をもっている。
 深いところへ下っていけばいくらでも出会いの広場は見つかるのだ。
 そうしてそこでは、お互いがいっそう創造的に深まっていくのである。
 すばらしい人間世界。
 
 だがそうはいっても、と最後にはまたもとへ戻ってくるのだが、やっぱり美術という大きな媒介があってこその五つの交錯と透過であったということ、そのことをあらためて印象的に思い返すことになる。
 対極と対極とをいとも簡単に出遭わせる美の魔術。
 無限へ開かれた交差点。
 「絵に生きる 絵を生きる―五人の作家の力」は風来舎刊。発行2011年9月15日。238ページ。2000円。風来舎は〒660-0827尼崎市西大物町12ノ1。電話06.6488.2142
 
2012.1.31
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20016 萩原陽子さんのダンス「冬の夕闇」

生命のもがき、静と動
 

 「冬の夕闇」というのが萩原陽子さんの作品のタイトルでした。
 冷たく陰鬱な光景を思い浮かべます。
 
 音楽はエストニア出身の作曲家、アルヴォ・ペルトの「Pari Intervallo」。「等しい間隔で」といった意味のようです。
 オルガンのソロで、高音と低音が決してまじわることなく、遠い距離(間隔)で静かに呼応を繰り返します。天上的なものと地上的、人間的なものとの距離なのでしょう。
 
 藤田佳代舞踊研究所の公演「創作実験劇場」(2011年2月26日、芦屋ルナホール)の演目として、萩原さん自身によって踊られました。
 
 ダンサーは地上で、次第に立ちこめてくる闇の中でうごめき、もがいています。
 
 辺りの風景が闇に溶け込んでいくのを前にして、自分もまたそこへ没してしまうことをおそれているのでしょうか。
 
 ですが、そのもがきとは、苦悩や苦痛の表現とは、何かべつのもののようでした。
 
 死や絶望、そういうものを闇にみたてて苦しみもがく姿を踊るというなら、それはたいしておもしろみのない、ありふれたことです。そういう話なら、最後にはみんな、むしろあたたかな闇の中にかえる、それだけのことでしょうから。
 
 萩原さんが踊っていたのは、そうではなく、たぶんどんな小さな生命の中にでもある命のもがき、そういうものでした。
 
 そしてこのモチーフは、萩原さんが、先生である藤田佳代さんから受け継いだものといえるでしょう。
 
 藤田さんの作品にはしばしば、不意にそれまでの振りの脈絡や曲のリズムから逸れ、こらえきれなくなったというように、ばたつくような所作、過剰に踏まれるステップが現われます。
 
 それは卵や胚、あるいは蛹の中で起こっている誕生や羽化のためのほとんど暴力的な過程のようにもみえ、また、静かに眠る人の内でもつづいている筋肉の収縮や代謝といった生きることそのものの運動のようにもみえます。
 
 そういう生あるいは静を支える内なる激動というべきもの、このすぐれて本質的な舞踊モチーフを萩原さんは藤田さんから分かちもっています。
 
 つけ加えるならば、これは「生命讃歌」といった明るい物言いにおさまりきるものではありません。それは世界の底で蠕動する、もっと暗いものを表現しようとする試みです。
 
 闇はいま生まれ来たったのではなく、はじめからそれは闇の中の出来事です。
 
 うごめくよう、と言いました。モチーフは先生から引き継がれていても、振りの形には先生の作品とずいぶんちがったところがあります。二人のあいだにあるのは、むしろ内的な共振の関係です。
 
 さて、そのうごめきの振幅が次第に大きくなっていきます。
 そのときわたしたちは不思議な出来事を目にしました。
 
 静なるものの中の動が膨れあがり拡大されていくにしたがい、それがまたひとつの大きな静へと近づいていったのです。
 どこで反転が起こったというのでもありません。ダンサーのからだが速く激しく振れるその動の氾濫が、そのまま静の到来を示していたのです。
 
 あたかも大きくなっていったのは身振りの大きさではなく尺度、スケールの方で、たとえば途方もない速度で運動しているはずの銀河が、わたしたちとのあいだに横たわる途方もない空間と時間のスケールのちがいのため静止してみえる、そんなふうに。
 
 そうしてふたたび、大いなる静の回帰。
 
 萩原さんが現出させた驚くべき光景でした。
  2011.9.3 山本 貴士
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20015 藤田佳代さんの「今日のこの空 ほしいひと」

照らし合う喜び、ダンス
 

 ひとが生きていることの喜び、それは照らし合っていることの喜びなのかもしれません。
 ひとと花との照らし合い、ひととひととの照らし合い、ひとと星との照らし合い…。
 藤田佳代さんが振り付けた新しい作品を見せてもらいながら考えたことでした。
 「今日のこの空 ほしいひと―さいしょはグー」。
 そんなかわいい名前のついた、とても深い作品です。(2011年2月26日 芦屋・ルナホール)
 
 黒い衣装をつけた七人のダンサーがゆっくりと踊る群舞、それは闇と照らし合いながら深夜に舞う古代の巫女たちのようでした。
 白い衣装をつけた七人のダンサーがゆっくりと踊る群舞、それは光との照らし合いながら真昼に舞う同じように古代の巫女のようでした。
 そして青い衣装をつけた一人のダンサーの、群舞を横切っていくソロダンス、それは夕暮れの空と夜明けの空にまぶしいくらいに現われる金星(宵の明星、明けの明星)のようでした。
 
 藤田さんのモダンダンスを宗教的な言葉で語るのは、あまり適切なことではないでしょう。
 ぼくの聞いているかぎりでは彼女はなにかの宗教に従って人生を築いてきたようなそのようなひとではまったくありません。
 大学では社会学を専攻して、現代社会に対してむしろ合理的な批判精神をもつひとです。
 
 ですが、黒い衣装の群舞、そして白い衣装の群舞を見ているうちに最初にぼくの記憶にのぼってきたこと、それは空海が書き残した一文のことでした。
 仏教で語られる「加持祈祷」のなかんずく「加持」について、空海はじつに力強い解釈を残してくれているのです。
 おおよそ次のように語るのです。
 
 加(か)、それは、日の光のような仏の徳が、清水のように澄みきった人の心にまざまざと映ることをいうのです。
 持(じ)、それは、人の心にまざまざと映ったその仏の徳を、しっかりと全身に感じ取り、全身に受け止めることをいうのです。
 (佛日之影現衆生心水曰加。行者心水能感佛日名持。=空海著「即身成仏義」から)
 
 真理の前でひとは透明な器になるということでしょう。
 その透明な器に真理がなみなみと充たされるということでしょう。
 
 そうなんです、藤田さんの作品を踊る十五人のダンサーたち(ほかに七人の女児男児が出演)も、舞台で透明な器になっているように見えたのです。
 その器に充たされるのは、もちろん空海がイメージした宇宙の超越者(毘盧遮那仏)とダイレクトに結びつくものではないでしょう。
 一方は宗教家のビジョンです。
 もう一方は舞踊家なかんずくモダンダンサーの創造です。
 二人の間には一千年以上の時間の隔たりもあるのです。
 
 けれど、この地上ではもうほとんど忘れられて久しいもの、宇宙には生き生きと満ちているのにわたしたちの心ではすでに涸れかけているようにみえるもの、そういうものへのともに切実な呼びかけであること、その点ではこの宗教家と舞踊家の立場は重なります。
 そしてその呼びかけがすなわち、まったく同時に、現われになるということ、その点でも両者には共通項があるのです。
 
 ここで現われとは、ひとが超越的なものに呼びかけることによってその超越的なものと照らし合い、その超越的なものが目に見えるかたちになってひとの上に出現すること、そういうことをいうのです。
 端的にいえば、ひとがそっくり超越的なものになることです。
 
 平安時代の空海の場合は仏になること。
 それは、今ではちょっと古びた語感をおびますが、「即身成仏」と呼ばれます。
 現代の藤田さんの場合は空(そら)になること。
 それはタイトルがはっきりとあかしています。
 「今日のこの空 ほしいひと」。
 空とは宇宙のことでしょう。
 
 とすると、これはまあ蛇足のたぐいになるでしょうが、藤田さんの作品は「即身成空」あるいは「即身成宇」?
 
 それにしても美しい作品でした。
 舞踊で美しいというとき、そこにはほかのジャンルではあまりいわれない特別な意味があります。
 ダンサーがダンサー以上のものになること。
 人間が人間以上のものになることです。
 天上と照らし合い、天上の景観がひとの体に映ることだといってもいいでしょう。
 そして、ダンサーがひと以上のものになるということは、それを見る観客のぼくたちもそのときひと以上のものになっているということです。
 
 ほんのひとときのことですが。
 
 ひとときの、しかし心があからむ照らし合い。
 体があからむ照らし合い。
 
  2011.4.9 Tadakatsu Yamamoto
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20014 安原梨乃さんのクララ

時を翔ける少女
 

 貞松・浜田バレエ団のクリスマス公演「くるみ割り人形」は、お伽の国バージョンとお菓子の国バージョンの二通りの舞台が一日ずつ上演されるのが習わしです。
 今回は初日のお伽の国バージョンを見せてもらったのですが、安原梨乃さんの見事なクララに刺激されて、心躍る発見をしたのです。
 いままで疑問に思っていたシーンを、そうか、と一気に納得することになったのです。
 すばらしいダンサーというのはいつも観客のぼくたちに新しい発見をさせてくれるものなのだと、また改めて思いました。(2010年12月18日 神戸文化ホール)
 
 疑問に思っていたシーンというのは、第一幕のシュタールバウム家の広間の場をなかほどまで進んだところに出てきます。
 クララの家族や客人たちがダンスや会話を楽しんでいるそのさなかのこと、突然みなが動きを止めてまるで蝋人形みたいに固まってしまう、そういう場面があるのです。
 なにもかもが凍結してしまった世界のなかで、自由に動けるのはクララだけ。
 彼女も突然の変化に驚きます。
 驚きながら、けれど好奇心に誘われて不動の広間をおかしそうに歩き回るという筋立てです。
 
 チャイコフスキーのテンポのいい音楽が進むなかそれを中断してのしばらくの静止時間は、見方によっては取って付けたような演出だといえないこともありません。
 どんな必然性があってこのような奇異なエピソードが入れられたのか、永い間どうも合点がいかないままでいたのです。
 怪人ドロッセルマイヤーの魔法といってしまえばそれまでなのですが、別になくてもいい場面ではないか、と思ってもいたのです。
 それが今回は急になくてはならないものだと腑に落ちたという次第です。
 
 きっかけは、ほかでもありません、安原梨乃さんのきらめくような踊りに正真うたれたことでした。
 屹立、跳躍、旋回、飛翔…。
 この鋭いきらめきは何かに似てるな、とそう考えていたときです。
 そうだ、これは時計の秒針の輝きだ、と不意に思いついたのです。
 
 どこの家でも、壁の時計の秒針ほど鋭敏な感受性を感じさせるものはありません。
 ある位置に来ると決まってきらりと光ります。
 また別の位置へ移っていくと、今度は翳りをおびてほとんど消えそうになるのです。
 明るいところから暗いところへ、暗いところから明るいところへ、部屋のそのかぎられた空間にそんなに微妙な光の配分があるのかと、びっくりさせられるくらいです。
 むしろ部屋全体の光の加減がそこに集約的に映し込まれているように思えます。
 
 また秒針ほど瞬間瞬間を生き生きと感じさせるものもありません。
 時計でいちばん偉いのは王様のような短針で、つぎに偉いのは親衛隊長のような長針だと、そんなふうに感じてしまう癖のようなものがどうもぼくらにはあるようです。
 秒針はちょこまかと動く兵卒に過ぎないというわけです。
 けれど実際のところ、これはかなり古風な、あえていえば事大主義的な感覚なのではないでしょうか。
 生命感に満ちているのはどれかと考えたら、間違いなくそれは秒針のほうなのです。
 ぼくらの心臓と並行に、前へ前へと休みなく動き続けていくのです。
 長針や短針はむしろ秒針の過去、秒針が書き残した日記、秒針が刻々と脱いでいく影のようではありません?
 
 そして秒針ほど宇宙の運行を感じさせるものもありません。
 一周360度の円を正確に6度ずつ進んでいく秒針は、太陽のまわりを揺るぎない速度で周回する惑星の軌道を思わせます。
 地球も火星も水星もこんなふうに運行しているのだと考えて、なんの違和感もありません。
 秒針のこの超俗的な宇宙性に比べたら、短針や長針の鈍重な進行はずいぶん世俗的なのです。
 秒針はむしろ宇宙と相似形のふたごだの姉妹だといってもいいような気がします。
 
 ではその鋭敏な感受性の、生き生きとした生命感の、超俗的な宇宙と姉妹の、その秒針としての安原梨乃、その彼女はひとくちにつづめていえば一体どんな存在だと言うことができるでしょう。
 時を翔ける少女。
 映画のタイトル(タイトル通りに表記すれば、時をかける少女)を借用するのは少々気のひけることですが、やっぱりこれほどにぴったりと来る表現はちょっと思いつけません。
 大林宣彦監督と原作者の筒井康隆さんに敬意を表しながら、無断借用、乞お許し。
 まあ、もうすこしバレエに寄り添う格好で言い換えれば、
 時間を踊る少女、
 ということになるかもしれませんが、これでは、やっぱりやぼったい。
 
 まさしく、時を翔ける少女!
 それが「くるみ割り人形」の安原梨乃さんの印象です。
 
 おわかりでしょう、その日の彼女は、つまりクララは、俊敏な時間のトラベラー(旅人)だったというわけです。
 そしてあらためてそのような目で見直すと、いろんな局面が次つぎ納得されてくるのです。
 なかんずく重要なのは、クララのすばらしいその夜の旅が、クリスマス・イヴの「午後12時」から始まってクリスマス当日の「午前零時」に終わっているということです。
 始まりも終わりも同じ時間だったのです。
 雪の国からお伽の国へあんなに長くて深い旅だったのに、こちらの世界から眺めるかぎりそのあいだに時間はたったの一秒も進んでいなかったというわけです。
 
 時間がない世界?
 ではそれは一体どんな世界なのでしょう。
 答えは見かけ以上にシンプルです。
 無時間の世界、それはすなわち無限の世界だということです。
 クララの一夜の冒険は、ほかでもありません、無限の世界への旅だったわけなのです。
 シンプルですが、とても大きな仕掛けです。
 
 ひとりの少女の前に開かれたイヴとクリスマスの間の見えない裂け目。
 それはひろびろとした無限の世界(永遠の世界)への奇跡の扉だったのです。
 
 登場者たちもそこでは見かけからは測れないほど大きな存在に変わります。
 くるみ割り人形(お菓子の国の王子、弓場亮太)は、無限の世界からやってきた無限の国の王子です。
 雪の女王と雪の王(山口益加、武藤天華)は、無限の森に降る無限の雪の、いうなれば無限の雪を司る神なのです。
 お伽の国の女王とお伽の国の王(瀬島五月、アンドリュー・エルフィンストン)は、無限の花園に咲く無限の花の、いうなれば無限の花を司る神なのです。
 すると、ねずみの王(玉那覇雄介)は無限の世界に生きるものを有限の世界に閉じ込めようと画策する魔法使いということもできるでしょう。
 
 物語の底のほうが少し明るんで見えてきました。
 これは、そうです、振り返ればだれもがすでに直感的に感じ取ってきたことですが、無限の国の王子とクララの、無限の愛、永遠の愛の物語だったのです。
 クララがひと目でくるみ割り人形を愛することになったのも、彼女が愛の不思議、愛の永遠性を感受する少女だったからこそということになるでしょう。
 「くるみ割り人形」は、まさしく永遠の愛を形にしたその狙い通りに永遠のバレエになった作品だったわけなのです。
 
 ですから、シュタールバウム邸の静止した一瞬も、その大きなテーマを提示する最初の仕掛けだったのです。
 なくていい、どころか、不可欠の場面です。
 
 ということになると、さて、貞松正一郎さんが演じた怪人ドロッセルマイヤーはどのような意味をもつ存在になるのでしょう。
 時間の主宰者?
 全体を統御する大きな神?
 でも、まあ、それはこのすばらしい舞台の余韻をもっと先まで楽しむために、これからゆっくり考えることにいたしましょう。
  2011.3.13 Tadakatsu Yamamoto
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Cahier

 10077 梅田恭子展    一秒の無限
 言葉にして語られてしまうと、とたんにその言葉が刃になって、まるで返り討ちに遭ったみたいに自らがずたずたに裂かれてしまう、そういう繊細な心がある。
 沈黙のなかで辛うじてバランスを保っている、やわらかで、過敏な心。
 梅田恭子が描く不定形の、紙の裏から滲み出てくるような形象を見ていると、どうしてもそのような傷つきやすい心のことを思ってしまう。
 その形象はだから言葉と言葉の隙間から、言葉の目をかいくぐってそっとそこに表れてくるように見えるのだ。
 むしろ名づけられないように注意しながらひっそりと滲み出る。(2010年12月11日〜25日 神戸、ギャラリー島田)
 
 震えるような細い線、そしてこまやかなグラデーションで広がる面、この二つが梅田恭子の作品の要素である。
 なにか具体的な物象のイメージをそこから連想することはむずかしい。
 地でもないし気でもない。
 火でもないし水でもない。
 それどころかそこからなにかを連想することをそれはむしろ拒んでいる。
 これは、ここにあるこれがすべてで、これ以外の何ものでもない。
 控えめながらそのように宣言する。
 
 ギャラリーの島田社長が奥からルーペを持って近づいてきた。
 微妙な濃淡の面のところにそれを当てて、ごらんなさい、と例のバリトンで促した。
 覗いて驚く。
 面と見えていたところが、実は線の集積なのである。
 しかも一本一本が繊細に震えている。
 微細な震動。
 
 不意にマチスを撮った古い短編映画のことが浮かんできた。
 一気に描いたと見えた直線が、高速度撮影で撮ってみると、実に微妙に震えていた。
 たじろいで足踏みしているようなところもあった。
 いっそうびっくりさせられたのは、震えているのを見て、マチス自身がひどく驚いていたことだ。
 彼も直線を引いたつもりでいたのである。
 その映像の撮影者が(あるいは編集者だったか)、たしか無意識の震えというようなことを言っていた。
 
 無意識の震え。
 自身でさえ気づかない深層の震え。
 すなわち魂の震え。
 いのちはたぶんそのような震えに乗って表れてくるのである。
 
 じっさい、街に流れている表面の時間とは違う別の時間が梅田の線に流れているそのことに気づくのはそんなに難しいことではない。
 一秒ではまとまったことはなにもできないとついそう思ってしまう衝動がぼくらにはあるけれど、それは間違いなく外の時間に侵された荒っぽい心である。
 梅田の線の一秒には心のありあまるほどの動きがある。
 無限の複雑な震えがある。
 何層もの心の動きがそこに折り畳まれているのである。
 一秒がもう無限に深いのだ。
 
 カントは時間の実在を信じなかった。
 時間は、状況の変化を認識するための単に観念の形式に過ぎないと言い切った。
 現代の量子論もその方向に進んでいる。
 時間の革命…?
 そこであらたに見えてくるのは、ぼくらが一瞬としか感じない刹那の、その裂け目に漲り渡っている無限の豊饒さではなかろうか。
 むしろ時間がそこから誕生してくる、その時間の故郷が切り開かれる一瞬、刹那、…一瞬の無限。
 梅田恭子の創造もたぶんその方向に動いている。
 瞬間のなかに無限を見いだす方向へ。
 
 ということはつまりこうも言えるだろう。
 この作家は言葉に裂かれることに脅えつつ実は言葉の故郷へ向かっている、と。
 言葉が世界を切れ切れに分節してしまうその以前、最初の一音「あ」のなかに世界のすべてが映し込まれ、充溢し、その一音が世界の隅々へ響いていった、あの叫びの時代。
 すなわち、彼女の恐れと慄きの震えの裂け目にこそ全体が甦る。
 地と気と火と水のすべてが一体となった運動、その運動がそこにある。
 全宇宙の運動がその微細な震動に現われる。

photo-umeda.jpg
「音跡」
  2011.1.13 Tadakatsu Yamamoto


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20013 坂東呂扇さんの「狐火」

舞踊の錬金術
 

 坂東呂扇(ろせん)さんは立ち姿のとても美しい舞踊家です。
 姫路を拠点に活躍してきた坂東大蔵さんの娘さんです。
 ひょうご名流舞踊の会で「狐火」の八重垣姫を踊りました。(2010年10月2日 神戸国際会館)
 
 「狐火」は武田信玄と上杉謙信の合戦を描いた時代物浄瑠璃「本朝廿四孝」の一場面を舞踊にした作品です。
   八重垣姫は謙信の娘です。
 彼女は武田信玄の息子・勝頼と許嫁の仲だったのですが、ふたりの父親同士が敵対を深めたために、複雑な立場に追い込まれるという設定です。
 父・謙信が謀略をめぐらして、愛慕する勝頼が暗殺の危機にさらされるということになるのです。
 勝頼が討手にかかってしまう前になんとしても迫る危険を許嫁に伝えたい。
 その必死の思いが諏訪明神に伝わって、明神の使いの白狐が姫の助力に現われるという筋書きです。
 
 呂扇さんの立ち姿が美しいといったのは、もちろん舞踊家としてそれだけ洗練された身体表現を体得しているということです。
 けれど単にそれだけを言いたかったわけではありません。
 そこに立ったその姿に、八重垣姫が今どのような状況のなかにあるか、そしてその状況を姫がどんな心で受け止めているか、それら目に見えない要素のすべてが同時に現われていたということも、併せて言いたかったのです。
 現在に至る時間が一気に表現されていたということです。
 
 まず偉大な父・謙信への畏敬、これがあります。
 呂扇さんの八重垣姫は大きな品格と強い自己抑制を持って登場します。
 そこには謙信が娘をそのような高い品性へ導いたという、父のその威厳ある側面が垣間見えます。
 と同時に、そのように育てられた姫だからこそ父に対して抱かざるを得ない彼女の畏敬の側面が見えるのです。
 呂扇さんの体のなかでその二つが深く照射し合うのです。  
 つまり姫の勝頼への思いは父への畏怖と許嫁への愛という大きな葛藤の上にあるということです。
 その葛藤は自己抑制の力の下で内攻を深めます。
 内攻のなかで燃え立った情熱だからこそ、おどろおどろしいともいえる超自然的なものの救いがそこに到来するのです。
 心の深みで燃える炎が、自然の深いところで起こる神秘な変化(へんげ)と通じます。
 呂扇さんはその内面のドラマを実にみごとに舞いました。
 荒唐無稽な物語が、彼女の技術と心によって現実のものとなりました。
 舞踊の錬金術の完遂です。
 
 父の大蔵さんが以前に語っておられたことを思い出しました。
 「坂東の踊りは江戸歌舞伎から発展してきた舞踊です。江戸歌舞伎は男の芸です。ですから踊りの稽古に関するかぎり、私は娘を男として育てました」
 なるほど、と思いました。
 女(姫)を舞いながら女に流れないその抑制力に、大蔵さんの教えの深さを感じました。
 そこにははからずも「狐火」にあらわれる謙信と八重垣姫の関係がパラレルに見えました。
  2010.12.25 Tadakatsu Yamamoto
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KOBECAT 0060
2010.9.23 尼崎・アルカイックホール
「ドン・キホーテ」のA・エルフィンストン

――自由への記号、飛翔への塔――
■山本 忠勝


レエはひとつの記号である。
 美しい記号である。
 とりわけ自由への記号である。
 バレエはひとつの塔である。
 美しい塔である。
 とりわけ飛翔への塔である。
 床屋の若者バジルを踊ったアンドリュー・エルフィンストン(Andrew Elphinston)は、その夜、自由への記号となった。
 飛翔への塔となった。
 貞松・浜田バレエ団が尼崎のアルカイックホールで上演した「ドン・キホーテ」でのことである。(2010年9月23日)
 
 エルフィンストンはオーストラリア生まれのダンサーである。
 ニュージーランドで踊ったのち2003年に神戸の貞松・浜田バレエ団へ移ってきた。
 赤道を越えてきたのは恋のためだったようである。
 ロイヤル・ニュージーランド・バレエでプリンシパルを務めていた瀬島五月が貞松・浜田バレエ団へ帰るのを追いかけてとうとう神戸まで来たらしい。
 
 生き生きとした風貌はどこかサン=テグジュペリの星の王子様(プチ・プランス)を思わせる。
 立派な体躯をかんがえればむしろプチ・プランス(小さな王子様)のお兄さんというべきか?
 誠実そうなフィーリングは兄弟に共通する。
 
 記号はまず確かな場所を指し示す。
 アンドリューはバジルの場所をきわめて明快に提示した。
 第一幕。バルセロナの広場にて。
 陽気さに満ちた踊りは、心が絶え間なく明るい海を泳いでいることを示している。
 憂鬱な深海魚とは無縁である。
 色男ぶりをちょっとばかり鼻にかけた罪のない矜持。
 それは健全な現実感覚のあかしである。
 世俗のよろこびを謳歌している若者だということだ。
 この、ここに、いま生きているという信号。
 光の記号…。
 
 そういう明るい記号であることがこの作品でなぜそんなに重要か。
 いうまでもなく対極である闇の記号が目の前に現われるからである。
 ドン・キホーテ(岩本正治)。
 迷妄のなかを旅する騎士。
 ここではなく、どこか彼の地を、どこへともなく夢遊しているという信号。
 だが実は深い迷妄を歩む者ほど深い夢をみるのである。
 夢想のきわみのドルシネア姫、それは最も濃い闇の結晶にほかならない。
 
 そして観客は見た、闇の顔に出遭った刹那の、光の顔に浮かんだ絶妙の戸惑いを。
 それはこう語ってはいなかったか。
 かれはだれ?
 つまり、だれがかれ?
 それは同時にこう自問している顔だったのではなかったか。
 おれはだれ?
 つまり、だれがおれ?
 短いが分厚い表現。
 エルフィンストンはその一瞬に四重の表現を成し遂げていたわけだ。
 
 むろんそれでもまだそれはこれから始まる長い物語のほんの門口なのである。
 重要なのは、それを起点にひとつの飛翔とひとつの転落が観客の前にくっきりと現われたことである。
 
 ひとつは、世俗者バジルのいっそうの光への飛翔。
 愛への飛翔。
 自由への飛翔である。
 もうひとつは、夢想者キホーテのいっそうの闇への転落。
 情念への転落。
 囚われへの転落だ。
 ひとりの老人とひとりの若者の行きずりの邂逅が、闇と光が交錯する稀有な叙事詩へと高まっていくのである。
 
 刻々の変転。
 愛と自由への刻々の変転。
 エルフィンストンはそれを的確に踊ることになるだろう。
 わたしたち観客の想像力を刻々と掻き立てていくことになるだろう。
 そう、彼のダンスは刻々の変転だ。
 決して滞ることがない。
 
 そして、もうひとつの記号、塔。
 これはなにも観念から生まれるものの比喩ではない。
 広場の真ん中でバジルのエルフィンストンがキトリの廣岡奈美を頭上で反転させながらすばやく天空へ向かって掲げたときの、その正真正銘、物理的な高さのことだ。
 塔、すなわち宇宙へまで投げ上げるような大きなリフト。
 危険なばかりの、…しかし決して危険を感じさせない、完璧なバランスの。
 
 強く語るべきは、そのしゅんかん天空へ飛んだのは、恋人のキトリひとりだけではなかったということだ。
 その瞬間わたしたち観客が体におぼえた浮遊感。
 あのときわたしたちの体の奥で何かがうごめきはしなかったか。
 そしてそれは胸骨に沿って体を上へ抜けていき、天空へ翔け昇りはしなかったか。
 舞台と客席の間に生まれた深い空間的共感。
 わたしたちもそのときいっしょに飛んだのだ。
 
 塔になること。
 それは重力にあらがって宇宙へ飛び出すことである。
 エルフィンストンはみずからが頑丈な土台になり、廣岡奈美を頂にして、つかのまであれ、みごとに美しい塔を築いた。
 廣岡奈美を、そして観客すべてを、宇宙へと持ち上げた。
 
 無重力へ。
 自由へ。
 
 シャガールがあの幻想の絵画でしたことを、彼はダンスでしたのである。
 空を飛ぶベラ。
 空を飛ぶ奈美。
 空を飛ぶわたしたち。
 
 解放。
 
 さて、ふたたび光と闇の遭遇の局面に立ち返ろう。
 キホーテはひたすらに自分の闇へ転落する。
 迷妄のなかへ落ちていく。
 町のチャキチャキ娘キトリの前に大仰にひざまずいて、「ドルシネア姫よ」と騎士の礼を尽くすのだ。
 滑稽な錯誤。
 だが神はときどき間違ったふりをしながら本意を通す。
 夢遊者の錯誤に満ちた献身が結果としてキトリとバジルを結ばせることになる。
 バジルの狂言自殺。
 とりすがるドルシネア姫(キトリ)の悲嘆にほだされ、騎士はキトリの父親を説き伏せてしまうのだ。
 闇の記号が、その闇ゆえに、かえって光の記号の希望を全うさせることになる。
 
 そして、大詰め第三幕。公爵の城の前庭にて。
 晴れてふたりの恋人が白い婚礼の衣装で現われる。
 情熱的な赤と青の衣装で踊った広場のダンスとは対照的だ。
 原色から白への上昇。
 そしてふたたび天空へ飛ぶような高いリフト。
 すなわち、再度の塔。
 だが今度の塔はあの広場での塔とは微妙に違う。
 世俗の時間の真っただ中に立った塔と結婚の聖なる時間に立った塔。
 物質の塔が精神の塔へと変貌する。
 より高い飛翔へ…。
 その差異を巧みに表出したエルフィンストンの秀抜な技量。
 
 さあ、その感性とその身体に乾杯しよう。
 
 さて、言いたいことの本筋はひとまずこれで終わりだが、キホーテの闇の旅にもう少し触れておくのも無意味ではないだろう。
 第二幕第三場の、とってつけたようだがしかし無くてはならないエピソード「ドン・キホーテの夢」。
 ドルシネア姫(月)を天上へ追おうとしたのに、なんという逆説、悪魔(風車)に足をすくわれて瀕死、すなわち地獄の門口へ飛ばされる。
 だが死へあと一歩という危険な夢のまっただなかで、またしても逆説、彼はついにうるわしの目的地に到達する。
 姫との至福の邂逅を果たすのだ。
 永遠の夢のなかで結ばれたエンデュミオンとセレナのように。
 闇の極地での光との合一。
 
 結語。
 闇と光の邂逅がキトリとバジルを結ばせた。
 闇と光の統合がドルシネアとキホーテを出会わせる。
 二重に貫徹されるテーマ。
 「ドン・キホーテ」の深さ。
 豊かな記号に満ちたバレエ。

 貞松・浜田バレエ団の特別公演「ドン・キホーテ」は2010年9月23日に尼崎市のアルカイックホールで上演された。
 もちろんキトリの廣岡奈美を中心に論評を試みる材料も十分ある。
 とりわけ彼女のポワント・ワークの見事さは特筆に値する。
 さながら一本のユリが屹立したかと見えるほど、片脚の爪先だけで完璧に立つのである。
 秒数にしてどのくらい立っていたろう。
 常人をはるかに超えるその屹立は、臨界点を軽く抜けて、たしかに無限へ踏み出した。
 不動でありながら、それでいて無限への離陸!
 STAFF 芸術監督 貞松融/再演出・指導 ニコライ・フョードロフ/振付・指導 浜田蓉子、貞松正一郎/音楽監督・指揮 堤俊作/管弦楽 びわ湖の風オーケストラ/指導 山崎敬子、松良緑、堀部富子、長尾良子、小西康子、松良朋子、堤悠輔/衣装 エリザヴェータ・ドゥヴォールキナ、中江三従子、原田すみ子、石田コスチュ−ム、木下正子/照明 柳原常夫、加藤美奈子、ライティング・セブン/舞台装置 日本ステージ、湊謙一/舞台監督 坪崎和司/写真 テス・大阪/プログラム 殿井博、倉田印刷
 主催は同バレエ団と尼崎市総合文化センター。
2010.11.6
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KOBECAT 0059
2010.4.17〜5.30 兵庫県立美術館
中山岩太展

――異域への熱病――
■山本 忠勝


20世紀日本の写真文化、とりわけ大戦直前までの創造活動を彩ったモダニズム表現に大きな足跡を残している中山岩太の総括的な写真展が、神戸市の兵庫県立美術館で開かれています。
 展覧会は二部の構成で、中山の全体の仕事を概観する第一室と、特に神戸の街を写した作品を集中的に陳列する第二室とからなっています。
 活動の時期からいえばその二つは大半が重なっていて、都市神戸を撮った仕事(第二室)は生涯の無数の仕事(第一室)の一部に位置するわけですが、今回の企画でとても興味深いのは、作品がかもす雰囲気に第一室と第二室の間で微妙な違いが、むしろ見ようによってはきわだった違いがみられることです。
 全体の作品を概観する第一室の空気には、頂上でもあり絶壁でもある最終的な破局(カタストロフィー)へ向かって作家の精神が絶え間なく追い上げられていくような、そのようなキー(調、調子)の高さと緊張と不安があります。
 いっぽう作品を神戸に絞った第二室の空気には、作家の精神と都市の風景とが絶妙に釣り合っているような確かさと端正さと落ち着きがあるのです。
 魔がうごめく広大な陰画の森と、そして森の中の陽のあたる幸運な場所で美しく輝く陽画の果実を見るようです。
 モダニズムといわれる激動の時代を生きた写真家の複雑な精神の構造を垣間見る思いです。
 
 中山岩太は1895年(明治28年)に福岡県で生まれています。
 東京美術学校(現東京芸術大学)で写真を修めたあと、農商務省が派遣する研修生(海外実業練習生)としてアメリカに渡り、短期間ですがカリフォルニア大学で学んでいます。
 加大を終えたのちは1919年から足かけ6年をニューヨークで、その後の足かけ2年をパリで写真家として活動して、1927年(昭和2年)に帰国しました。
 帰国後はすぐに華族会館(東京)の写真師に迎えられ、いわば体制の中核部で仕事を保証されるわけですが、マン・レイらの前衛的な活動に親しく触れてきた写真家にとってそこはあまり居心地がよくなかったのかもしれません、翌々年(1929年、昭和4年)には早くも東京を脱出して芦屋にすまいを見つけています。
 仕事の中心も芦屋そして神戸へと移っていき、53歳の突然の死(1949年、昭和24年)までの20年間、この関西圏の新興都市から彼独得のモダンな感覚を全国へ発信することになるのです。


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《神戸風景(トンプソン商会)》1939年頃

 ところで、東京を体制の中枢都市ととらえるなら、当時その中枢から最も遠い大都市が神戸だったのではないでしょうか。
 大阪と京都の陰に隠れて体制の目配りの届きにくい非政治的な都市でしたし、なによりも海外との境界線に新興してきた辺境の非伝統的・非歴史的な、したがって(あくまでも相対的にいってのことではありますが)日本の諸都市のなかで最も自由な街でした。
 中山がその神戸と特段に関係を深めたのは1936年(昭和11年)、おりしも神戸大丸に写真室が新設されて、そこの責任者に招かれるという巡り合わせが重なったからでした。
 戦前の神戸は東京の100メートル先を走っていた―これは映画評論で一世を風靡した淀川長冶のことばですが、進取の気象に富んでいた神戸市の行政当局も中山の斬新な仕事に注目、観光課が彼にシリーズ「神戸風景」の撮影を委嘱します(1939年、昭和14年)。
 おそらく戦前神戸のコスモポリタンな感覚、よくいえばリベラルな感覚、悪くいえばアナーキーな感覚は、中山の感性にもフィットしたのでしょう、そうして神戸が最も神戸らしかったこの国際都市の典型期の光景が彼の目と彼のレンズで定着されることになったのでした。
 
 さて、第一室で中山の全体像を追いながら感じたこと、それは正直に心のなかをあかしますと、相反する二つの波動の微妙なもつれ合いでした。
 ひとつは、いくつかの作品に疑問の余地なく印されているめざましい成功への無条件の讃嘆です。
 そしてもうひとつは、かつては斬新に見えたに違いない手の込んだ試みが今は却って過剰な技巧に見えてしまう、その思いがけない喪失感、むしろ寂寥感でした。
 
 第一回国際広告写真展(1930年)で一等賞を獲得した「福助足袋」は、これはもう驚くべき作品です。
 日本の伝統的な衣装である足袋のどちらかというと古めかしいかたち、そして同じように日本の伝統的なシンボルである福助人形のどちらかというと紋切型のかたち、それらが逆に未来からの真新しいメッセージのかたちに脱皮してそこに現われているのです。
 時間と空間を一気に裏返してみせたような、つまり時間と空間を軽々と跳び越えたようなシュールな感覚の作品です。
 それも感動的なのは、単にヨーロッパのシュルレアリスムを持ち込んだという次元の作品ではないということです。
 日本の精神文化の根底にある「空(くう)」、すなわちぼくたちの世俗的な日常の言葉に翻訳すれば「間(ま)」、そのきわめて伝統的な「空白の感覚」を写真の隅々にまで押し広げて、遂に幻視のビジョンにまで突き進んでいるのです。
 「和」を極限にまで推し進めて「普遍」へ抜けるその感性には、デモーニッシュ(悪魔的)な力さえ想像させます。
 
 時空の超越、あるいは和から普遍へ、といえば、今展のポスターに採られている「長い髪の女」(1933年)もそうでしょう。
 ここでは、日本女性の象徴のような漆黒の髪の美人がモデルです。
 その彼女が、写真家・中山に凝視されているというその精神と肉体の緊張のまっただなかで、たぶんみずからはそうと意識しないまま稀有な輝きをハラリと見せた、その極限の一瞬をすかさずとらえているのです。
 重厚な陰翳のまっただなかで、女というものの存在の不思議、そして作家のみずみずしい感覚の、双方が際立ちます。
 
 このように極限の一瞬を鋭く切り取った作品、それは未来のどの時点で見直しても今ぼくたちが見ているのと全く同じみずみずしさで目に訴えてくるはずです。
 それこそ普遍の作品というものです。
 
 しかしそれとは反対に、「コンポジション(ヌードとガラス)」(1935年)や「冬眠」(1940年)や「創生」(1942年)など、ときには人体、ときには器物、ときには水生物、ときには昆虫を採り入れて構成された抽象色の強い一群の作品は、今の感覚でながめると、ある痛々しさが漂っているように感じられてなりません。
 そのときには冒険的な企てであったものが、軒並みに獰猛な時間の餌食になってしまった、今は激戦のあとのその廃墟がそこにあるように見えるのです。
 
 遺作となった「デモンの祭典」(1948年)は、異教的なダンスに没入しているような一組のヌードを軸に、海の巻貝などをそこに配した奇怪なコンポジションの作品です。
 たしかに鬼気迫るものがあるといえるでしょう。
 けれどその鬼気なるものは、残酷なことですが、枯渇した想像力をそれでもなお奮い立たせようと苦闘する、創造者の業(ごう)のような鬼気なのです。
 時間と空間を一気に超えるあのスリルと充足と幸福をもういちど得たいと渇望する写真家の焦燥が悲しいばかりに響くのです。
 
 とはいえ、ぼくたちはなにもそこでおじけづくことはありません。
 晴れやかな第二室で、お釣りがくるくらい、救いが待っていますから。

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《神戸風景(トアロード)》1939年頃

 都市神戸を見つめる中山の目、それは一転して婚礼の席で若妻の姿に見入る青年のまなざしを思わせます。
 いつもういういしいのです。
 大きな自信も漂います。
 この都市の神髄を取り出すのは、わたしのカメラをおいてない、とそう確信している自信です。
 そして神髄を取り出すとは、ほかの町では曖昧に散在して背景にまぎれてしまっているもの、しかしこの街では格別に凝縮して、だから前景におのずと立ち上がってくるもの、そのような際立った風景を渾身の力で握ることです。
 
 旧外国人居留地を撮った一連の「神戸風景(居留地)」(1939年頃)。
 そこでは、日本経済を牽引する有数の船会社が、先進建築家たちが設計した自信のビルを高密度で並べていた、まさしくそのような日本の近代化の中核ゾーンが鋭利に切り取られているのです。
 ビルの壁面を斜めに横切る光と影の精妙さ、そこに作家の繊細な感受性となみならない情熱があふれています。
 
 白亜の豪華客船を写した二枚の「神戸風景(エンプレス・オブ・ブリテン号)」(1937年頃)。
 巨大客船の圧倒的なボリュームが、ここではあえて船体のごく一部だけを大写しにするという大胆な構成で暗示されます。
 各国が国威をかけて建造した壮麗な汽船が次々と来航した国際港ならではの贅沢な撮り方です。
 そうしてこの日本文化の辺縁都市がその辺境性にもかかわらず海外の文明にほとんどじかに接しているまさしく先進都市にほかならなかった、その二重性と特異性をほとんど暴力的に示すのです。
 
 なかでも三宮駅のあの大きなガード下から、港のそれも空の方向へレンズを向けた「神戸風景」(年代不詳)は象徴的です。
 ここでの主人公はついに港都神戸の光です。
 税関のあたりはハレーションの炸裂のなかにあって、もう光のなかに埋もれています。
 いかにもこの都市では光は海からやってきて、それが街全体に満ちるのです。
 蛇足を許してもらえるなら、この作品の前でぼくが不意に思い出したのは、遠い昔に大阪で他界した祖母のことでした。
 夏が来ると国鉄の大阪駅から汽車に乗って須磨の海へ泳ぎにいくのが、祖母の一家のならわしでした。
 祖母のその思い出話をぼくは何度聞いたかしれませんが、そのたびに彼女はこんなふうに言ったのです。
   「神戸の街が近づいてきたら、もうワクワクしてたなあ。汽車が街へ入るやろ、そしたらあたりの空気が急にぱあっと明るうなる、違うとこへ来た、そう思う」
 
 むろん雨にうたれるわびしい街を、むしろいっそう深い情熱で撮っている(「神戸風景(雨)」 1939年頃)、それもこの写真家の心です。
 
 これは、じっさい、写真家の魂と都市の心の婚礼ではないでしょうか。
 
 ひとつの不幸とひとつの幸福が想定されます。
 
 ひとつの不幸というのは、絶えず新しいビジョンを求めないではいられない、その情熱の過剰さです。
 彼じしんも語っています。
 「私は美しいものが好きだ。運悪るく、美しいものに出逢わなかった時には、デッチあげてでも、美しいものを作りあげたい」
 写真の上で美しいものとは、むろん、それまでにだれも撮ったことのない新しいもの、あるいは新しい場所、あるいは新しい時間というのが必要条件になるでしょう。
 その美への彼の過剰な情熱は、いわばこの世界ならぬ、異域への熱病です。
 彼の心は鎮まることがありません。
 
 そしてひとつの幸福というのは、その異域への熱病が、この国の異域としてまさしく旬(しゅん)のきわみに向かっていた都市神戸と出遭ったことです。
 今日の神戸は、総体的に見て、もはや他の大都市と似たり寄ったりの一都市でしかありませんが、諸都市が確かな個性をもっていた戦前にあっては、なかでも群を抜いて独自性の強い都市でした。
 なにしろ幕末の外国人居留地を核に発展した都市なのです。
 日本のなかの異国、まごうかたなき異域でした。
 神戸を写すとき、中山にはなにもデッチあげる必要がなかったのです。
 
   行政当局から委嘱された仕事である以上、写真家にはとうぜん一定の自己抑制が求められていたでしょうが、今から振り返るとその制約も却って中山の作品に均衡と端正さを導き入れたように思われます。

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《長い髪の女》1933年

 ですが、締めくくりにあたっては、やはりこの異域神戸の底にあった不安定な都市精神にも触れておかねばならないでしょう。
   戦争へ向けて国家の権力が日に日に強化されていくなかにあって、神戸はもちまえのコスモポリタンな空気を内部に抱えて、そのはざまで内と外へ引き裂かれていくのです。
 その「引き裂かれ」は、日本人と外国人が混住する奇妙なホテルの戦時下の日々を活写した俳人・西東三鬼のドキュメントふう作品「神戸・続神戸」の悲喜劇に顕著です。
 
 そしてその「引き裂かれ」は、中山の心の葛藤ともパラレルです。
 彼は南満州鉄道の招待で1940年(昭和15年)に満州(現中国・東北)を訪問していますが、満州を写した作品は一枚も公にしていないといわれています。
 その年に残している作品は、なんと、今は鋭い痛みばかりが伝わってくるあの「冬眠」です。
 
 さて、異域神戸を中山が写した最後の写真は、すこぶる象徴的ですが、むしろ宿命的というべきものです。
 1945年(昭和20年)6月の空襲を背山のすその高台から撮ったものです。
 黒煙をあげてモダン神戸が燃えています。
 上空の逆光の中に機影があります。
 もうここには美しい被写体を選択する余裕も美しい構成を考える余裕もありません。
 ひたすら高台へ逃げ登って、まだ信じられない思いのまま、機械的に、炎上する神戸に向けてシャッターを切った、そのあわただしさが全体を覆っています。
 
 こうして「引き裂かれ」に苦闘した二つの精神にとつぜん終止符が打たれました。
 
 炎のなかへ異域神戸が消えました。
 中山も酒に体を蝕まれてその四年後に他界します。
 写真家・中山岩太(なかやま・いわた)の仕事を二つのフォーカスで展望する展覧会「写真家 中山岩太『私は美しいものが好きだ。』 レトロ・モダン 神戸」が2010年4月17日から5月30日まで神戸・脇浜の兵庫県立美術館で開かれた。
 第一部は「甦る中山岩太―モダニズムの光と影」と題して、ここでは2008年に東京都写真美術館で企画された中山岩太展を再現、初期から遺作までの作品と資料合わせて150点を紹介した。
 第二部「レトロ・モダン 神戸―中山岩太たちが遺した戦前の神戸」は、兵庫県立美術館のオリジナル企画で、中山の写真を中心に、洋画家・小磯良平、版画家・川西英ら他ジャンルの作家たちの作品も動員して、神戸が最も神戸らしかった戦前の都市風景を再構成した。
 神戸に住むものにとって刺激的だったのはやはり第二部で、そこでは空襲によってこの地上から永遠に蒸発してしまったモダン神戸が、現在の市民の想像をはるかに超えて日本の「異域」であったことが強烈に印象づけられた。
 日本の伝統風土からみればむしろ蜃気楼のような竹中郁の透明な詩作品や稲垣足穂の幻視的な短編小説を生んだ土壌が、少々逆説的な言い方になるのだが、強い「現実感・リアリティー」をもって迫ってきた。
 都市という場が、単に鉄とガラスとコンクリートと木の構造体にとどまらず、それ自体がひとつの深い精神でもあることを如実にあかす、そのような稀有な展覧会になったともいえるだろう。
 主催は兵庫県立美術館、読売新聞社、美術館連絡協議会。
2010.5.13
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Cahier

 10076 三沢かずこ展    青の乱
 青。
 さまざまなイメージを喚起する色である。
 宇宙から見た地球の色。地球で見る海の色。空の色。あるいはイエスを抱いたマリアの色。東大寺二月堂に幻影となって現われた不可思議な女人の色…。
 とりわけ天体では月のシンボルになっている。
 気高さと明るさと、それから静けさ。
 なかんずく、深い静けさ。
 三沢かずこがひたすらに描く青もそのような青だった。
 …だった、八年前までは。
 だが、2010年3月。
 神戸で再会した彼女の青は、動乱のなかにあった。
 沸騰。躍動。炸裂。
 あの青がこんな動きを始めるとは。
 個展「NATURE」。
 
 カンヴァス全体に広がる青、どこまでも深い青、そしてそこに溶け込むように配されるいくつかの繊細で小さなモチーフ。
 それが三沢かずこのスタイルだった。
 そう、かつては。
 青も音楽なら、きわめてデリケートなそのモチーフも音楽だった。
 コンチェルト・オン・ブルー。
 大空と、そこでひらひらと閃く蝶のような。
 海洋と、そこを漂う色鮮やかなヨットのような。
 宇宙と、そこを渡るほの明るい星雲のような。
 
 八年前の神戸での個展のあと、むしろヨーロッパの都市での展覧会が多くなったが、そこで評価されたのもその深さと繊細さであった。
 東洋のブルー。
 東洋の神秘。
 東洋の静けさ。
 もちろん彼女にもその明快な評価は快かった。
 日本への憧憬にこたえようと努めてきた。
 
   だから神戸の美術ファンは、たぶん今回の展覧会(2010年3月6日〜17日、ギャラリー島田)でもそのような繊細で精緻な世界に出遭えるものと思っていた。
 完璧に完成を遂げた青の世界。
 洗練がさらに進められたことだろう。
 その進化と深化に第一の関心があったのだ。
 裏を返せば、あそこまで突き詰められたあの世界にあれを根底から揺るがすほどの激動はもうないだろうと、暗にそう信じられていたということでもあるのだが。
 
 だが、違った。
 驚いたことに、静謐な青は消えていた。
 青がたぎっていたのである。
 ぐいっと立ち上がってくる青があった。
 たとえば作品「光」がそうだった。
 とめどなく降り注ぐ青があった。
 たとえば作品「恵み」がそうだった。
 激しく揺れ動く青があった。
 たとえば作品「響き」がそうだった。
 強く弾き合う青があった。
 たとえば作品「遊ぶ」がそうだった。
 
 青が変動を始めていた。
 青の乱…。
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「空」
 「ちょうどヨーロッパでの展覧会がひと区切りするのに併せて、故郷の松本市(長野県)から個展のお誘いを受けたのです。思いがけないことでした。個展は去年の春に市立の信州新町美術館で開いてくださいましたが、実はそれが転機になったのです」
 思いがけなくも扉が外からこじあけられた、といえなくもない。
 ことはむしろ物理的に始まって、それが精神を大きく動かすことになる。
 
 美術館の大きな壁面を作品で埋めるとなると、やはり100号クラスの大作がそこそこ必要になってくる。
 量が質に転位する微妙な臨界点が美術には必ずある。
 ヨーロッパでの展示では、搬送の制約もあって、比較的小さな作品が主体であった。
 もちろん欧州諸都市のギャラリーも流通に乗りやすい小品を喜んだ。
 制作の呼吸もいつしかそれになじんでいた。
 
 だが。
 「物理的に大きなキャンバスに向かうということ、それは物理的に絵を拡大すればいいというようなことではないのですね。構成にしても形態にしても色彩にしても、いままでの方法では納得しきれないものが次々あらわれてくるのです。もう体全体で、心全体でぶつかっていかないと解決できない」
 端正さを貫いてきた画家が、なりふりかまっていられなくなったというべきか。
 待っていたのは青の戦場だったのだ、肉体の、そしてそれ以上に精神の。
 そうして仕上げられた100号の大作は十数点。
 展覧会場には青のエネルギーが渦巻いた。
 氾濫した。
 
 「気がつくと、じぶんをもっと出していいのではないか、とそんな気もちに変わっている私が私の絵の前にいたのです」
 
 1950年の生まれである。
 中学校を卒業する15歳までの多感な時期を長野で過ごした。
 「私の青は、信州の青なのです」
 そして再びいま、故郷が青の新しい方向を指し示したようである。
 いのち漲る青…。
 
 信州の青が、白の神戸でまたいちだんと映え始めた。
 
 ちなみに青は、月と同時に太陽系最大の惑星・木星を示す色でもある。
 木星は発展と豊饒と、そしてより大きな幸運のシンボルだといわれている。
 
  2010.3.23 Tadakatsu Yamamoto


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KOBECAT 0058
2009.12.12〜2010.3.14 兵庫県立美術館
山本六三展  幻想とエロス

――なんと、高貴な、みだらさ――
■山本 忠勝


へささげられてきた男の愛、それはあるいはひとつの深い断念をへて、その諦めの上で推し進められてきたのではなかったか、とそう思う。
 山本六三(むつみ)が描いた妖しい女たちの前に立つと、あらためてそのように、むしろ思い知らされる。
 描かれているのは、まさしくエロスの結晶のような女である。
 内から光を放っているような純粋なエロスの雫。
 このような、ほとんど透明に近い女たちはこの地球の大地の上ではまず見つかりようがない。
 現実の女たちは生きているかぎり、多かれ少なかれみな生活という濁りをまとっているからだ。
 その濁りを受け入れて、つまり純粋さを放棄して、はじめてこの地上の愛は起動する。
 遠い昔に滅びてしまったプラトンのイデア(形相)のように、いつの時代にも断念されざるをえなかった透明な愛。
 あるいは、断念されたがゆえに、いつまでも輝かしい美の結晶…。
 異端の画家の、公立美術館での初めての展覧会が兵庫県立美術館で開かれた。
 
 9年前(2001年)に61歳で他界した画家である。
 神戸に生まれ、20代の終わりのわずかな期間を東京で過ごしたほかは、ずっと神戸で制作して、神戸で死んだ。
 しかしその神戸でも、市民に広く知られたというような画家ではない。
 開放的である反面、凡庸なものと特異なものとを嗅ぎわける嗅覚がいささか脆弱なこの都市の性向とは微妙にずれるところもあったようだ。
 だが、何をしても他者を害さなければするにまかせるこの都市の自由な空気は、悪魔の仕事のようなその芸術には好ましい環境だったはずである。
 山本が孤高を貫いたのは、というよりむしろ孤高を貫くことができたのは、おそらく彼じしんの鋭敏な感性と都市神戸の凡俗な感性の、二重の要因のゆえである。
 彼は多くの市民にとって謎の画家として静かに生き、そして謎の画家のまま静かに消えた。
 
 だから多くの市民にとってこの展覧会の第一の意義は、10代の後半に始まるこの画家の制作の遍歴をはじめて作品に沿って見渡せたことである。
 山本は遅ればせながらようやく神戸に発見された。
 
 市立神港高校の美術部時代に描かれた17歳の「自画像」(1957年)はすでに予言的である。
 早熟な青年の坊主頭が、はやくも彼を押し潰そうとする大きな力とそれに対する彼の巧みな防御姿勢とをほのめかす。
 丸刈りを一律に強制していた教育界の力への、おそろしく静かな従順、むしろ過剰に物分かりのいい従順、つまり青年の完璧な演技を示している。
 それほどにうつくしく、それほどにかなしく熟した頭のかたちなのである。
 そして、その目。
 世界を突き放し、世界を相対化し、そのように世界の根幹を絶え間なく崩しながら、すでに終末を見据えているまなざしがそこにある。
 17歳にして、この末期の目。
 鎖骨が浮き出た裸の胸は、彼が鏡の前で全裸なのを想像させるが、そこには濃厚な自己愛の匂いもある。
 孤独な青年のアニマの谷からたちのぼってくる芳醇なエロスの香。


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「眼球」(G.バタイユ『眼球譚』飾画)1973年 個人蔵

 劇的な転換が30歳(1970年)を迎えるころに訪れる。
 たぶんそのころ、彼の目が、すなわち彼の眼球が、反転した。
 絵そのものに「眼球」が登場してくるのは、象徴的というよりも、むしろ皮肉なことである。
 内部の変化をあまりにもダイレクトに示す外部の変化は、根源的な内奥の屈折を却って伝えないおそれがある。
 俊敏な精神にこそ起こる出来事なのに、その深度を浅く見積もられてしまうのだ。
 解釈の手間が省けるぶん、暗示の深さも半減する。
 
 20代の山本はあきらかに、世間から「画家」と呼ばれる、そういうものになろうとしていた。
 イーゼルの前ですこし窮屈に身構えた。
 洗濯にいそしむ女を描いた「一日が始まる」、漁船とおぼしき難破船をテーマにした「壊れた船」、そして水遊びの群像をとらえたタイトルのない浜辺の絵、それら1960年ころの油彩には、ことさらにエキセントリックなモチーフが登場する。
 洗濯桶や砂浜など、それら主要な道具立ての思いがけないところから黒い腕が空に向かって突き出される。
 まぎれもなく鬱屈した精神の表出だ。
 画家として世界(世間)へひとつの物語を差し出そうと身構えていたのである。
 むろん彼の孤独を投影して、そこに差し出されようとしていたのは、あくまでもそこには無いものの物語、解体したものの物語、不在のものの物語、陰のものの物語だが…。
 
 だがとつぜん世間へ語りかけることを断念する。
 その理由はわからない。
 しかし方法の変化がきっちりとそれに並行して進行する。
 にわかに銅版画を始めることを決心して(1965年、25歳)、この新しいメソドへ移っていくことで、彼じしんも新しい何者かに移行した。
 物語は全面的に解体され、眼球、臓器、三角錐、球体、標的、解剖された肉体、骸骨…、そういった個物がランダムに現われる。
 油彩の饒舌な線に代わって、エッチングの寡黙な線が刻まれる。
 油彩の時代とは比較にならないくらい鋭敏で繊細で、しかも堅牢な線である。
 外へ閉じることで、内側が深く覗かれる。
 
 おそらくみずから目をつぶしたオイディプスのあの未曽有の転回。
 それが、眼球の反転に共通する意味である。
 
 だから、運命的といっていいくらい劇的にやがてバタイユの「眼球譚」と出遭うことになるというのは、あまりにも出来すぎた話にみえる。
 しかし、その出来すぎた話が現実に起こるのだから、世界は時にいぜんとして怪異である。
 バタイユの訳者であるフランス文学者・生田耕作の要請で「初稿 眼球譚」に挿画を制作(1977年)することになるのである。
 眼球と眼球の遭遇。
 まるで招き合ったかのように。
 そしてこの幾何学と解剖学が結合したような精緻で官能的な一連の作品が、山本の代表的な仕事となる。
 いらい、幻想、象徴、神秘、夜…、それら特異な美空間を愛するひとびとの間で彼の名が深く知られることになる。
 
 併せてひとつの洪水がこの時期に出来(しゅったい)する。
 いっそう公然たるエロティシズムの奔流。
 いや、一作一作に精魂を注入する寡作の作家に洪水や奔流といった言いかたは却って失礼かもしれない。
 …湧出。
 美の泉の湧出。
 むろんバタイユのエロティシズムとの衝撃的な交錯が契機となったはずである。
 だが同時にそれは山本の本性の開花である。
 本性というような曖昧な言い回しが気になるなら、彼がわれわれの深層から持ち出すように宿命づけられた採鉱物といってもいい。
 もっともこのばあい宿命とは、みずからの立つ場所をまっすぐに、能動的に、苦闘を覚悟で掘り下げることである。
 生まれるときに星から授けられた受動的な道程のことではない。
 彼が彼の泉を掘り当てた。
 
 断片に解体していたものたちが集結する。
 そこに女たちの姿がくっきりと現われる。
 しかしむろん古い物語が蒸し返されるわけではない。
 以前の彼の物語では、女たちはこの世界の家の中で、この世界の波打ち際で、つまりこの世界の世俗的な空間と時間のなかで描かれたが、この新しい女たちの地平には、あるいはこの女たちの閨房にはもはやそういう意味での現実の空間と時間がない。
 一日を洗濯で始める女は追い払われ、代わって、この世界の始原から終末までただ愛にひたりつづける女たちだけがここにいる。
 だからむろん年齢も定かでない。
 少女のようい若々しいが、しかしその透明な肌に透け見える精神は、宇宙をとうに知り尽くした何億歳かの魔女のように老獪だ。
 
 しばしば放恣な姿態で戯れ合う。
 みだらさこそが生きるあかしであるかのように戯れ合う。
 美術館は、気むずかしいひとびとから苦言が出るのを気づかって、わざわざ会場の入り口に、エロティックな作品が中にある旨、おかしいくらいまじめな断り書きを掲示した(神戸の市民は芸術上のエロティシズムには寛容だが、確かに来館者は他の都市からもやってくる)。
 だが、なんと清潔な、このみだらさ…。
 
 もともと誠実な修練なしでは描き出せないエッチングの線である。
 その技法の禁欲性がエロティシズムの品位を守っていることも確かである。
 だがその品位を強固にするのは、あくまでも創造(制作)にかける作家じしんの倫理性だ。
 
 自己が立つ場所への忠誠、そして創造(制作)の倫理への忠誠。
 それら二つの忠誠が、みだらさを清潔に、そして高貴に描き切る。

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「スフィンクス」1984年 個人蔵

 40代(1980年代)に大挙して戻ってきた油彩の世界は豊麗にして豪華である。
 「無軌道な娘達?」(1982年)、「スフィンクス」(1984年)、「竪琴 オルフェウスに捧げるレクイエム」(1987年)、「イカロスの夢」(1989年)、「猫と裸婦」(1991年)、「夜の帳を持つ天使」(1993年)…。
 ひとつの決意が読み取れる。
 神話を描くこと、歴史を描くこと、それが画家の最高の仕事であったヨーロッパの古典主義の時代(より厳密にいうならばおそらく18世紀に始まる新古典主義時代)、そこを死までのすみかとすることだ。
 画家は最初たぶん20世紀の表現主義に近い圏域から出発したが、そこから19世紀の象徴主義へ遡行し、さらには18世紀の古典主義の復活期にまでさかのぼって、とうとうそこに自己の創造の部屋を見いだすことになったのだ。
 現代美術の喧騒からの完全な離脱である。
 時間も空間も超越した世界への移住である。
 むしろ再びプラトン的イデアの招来。
 そしてイデアの世界とは、永遠に不動の、完璧な、もはや進歩も退歩もない、究極の世界のことである。
 山本はもう変わらない。
 変わる必要がないのである。
 
 女たちは永遠の姿で現われた。
 いまや作家を超えてさえ生き延びることになるだろう。
 無限へ。
 
 だが山本に生み出された女たちは、彼が亡い今も作家の魂にけなげに忠実なのである。
 ここにいる娘たちは、わたしたちにはヨーロッパ出自の女に見える。
 だが、ヨーロッパのひとびとには、東洋的な匂いが濃厚に感じられるはずである。
 無国籍の娘たち…(そういう意味では、この画家が無国籍都市・神戸に生い立ったそのことに、強い蓋然性があるかもしれない)。
 そして、現代において普遍とは、結局のところ無国籍であることだ。
 
 おそらくこの地上の男たちのなにがしかは(さしあたっては独身の男たちに限られるかもしれないが) ごく近い将来に、一個のガラスの棺桶を自室に置くことになるだろう。
 白雪姫が横たわっていたあれと同じような中の透けた柩である。
 ただ、その21世紀の柩にはコンピューターが付いていて、キーとマウスの随意の操作で、ガラスの中に立体(3D)の女が浮き上がる。
 男は夜ごとそこに少しずつ電子的な修正を加えていき、その深夜の儀式に惜しみなく時間を注いで、ついに彼の理想の女をつくるのだ。
 彼はそうしてほんとうに愛せる完璧な女をひとり、この地上に降ろすのだ。
 
 山本六三の晩年(50代にしてもう晩年!)の執拗な制作には、そんな未来の錬金術を先取りした秘儀的な匂いもある。
 
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山本六三展プログラム

 さて、男の愛が女への諦念の上にあるなら、その男への女の愛はどうだろう。
 それは間違いなく対称的な構造であるはずだ。
 女もまたひとつの深い断念をへて、男を愛してきたのである。
 山本の絵はそのことも明快に告知する。
 
 山本が描く娘たちには、こんりんざい世俗的な男の愛は似合わない。
 究極の官能に浸りながらも、その戯れには男との性愛の異臭がない。
 相手はほとんどの場合、同じように透明な娘であり、合わせ鏡のようなそのカプルの姿こそ、じっさい、彼女たちにはふさわしい。
 
 しかし、ときおり男が彼女たちにふさわしい姿で登場する例外的なシーンがある。
 その男は、たしかにこの世のものならず高貴で、深く、美しい。
 死神、もしくは、死すべき宿命の男である。
 イカロス、ペレアス、オルフェウス…。
 
 これら不吉なエピソードは、このみだらな女たちの隠されたもう一つの側面を暗示する。
 しかり、この永遠の女たちは、実は、いつも死の瀬戸際にいるのである。
 はなばなしく生きるものの、深刻で、デモーニッシュなアイロニー。
 「山本六三展―幻想とエロス」は2009年12月2日から2010年3月14日まで神戸市中央区脇浜海岸通1の兵庫県立美術館で開かれた。
 1940年から2001年至る山本の61年の生涯のうち、1957年から1996年までの仕事を4期に分けて構成、そこで油彩、銅版、デッサンなど92点の作品のほか、書籍なども展示された。
 山本は濃厚なエロスの香を放つ異端の画家と目されて、公立の美術館で展覧会が実現するなど恐らく山本じしんさえ夢にも思わなかったことである。
 それだけに美術に関心を持つひとびとには大きな驚きの企画となった。
 国公立美術館における性のタブーはすでに1991年の春に京都国立博物館で開かれた「うきよ絵名品展」によって象徴的に破られているが、山本の作品には倒錯の魅惑といった不穏な要素もあるだけに、兵庫県立美術館としては大きな踏み込みであったはずだ。
 芸術への勇気に喝采をおくりたい。
 神戸に生まれ、神戸で制作を続けた画家だったにもかかわらず、神戸のギャラリーで彼の本格的な個展が開かれたことはついになかった。
 異端の芸術家の再評価へ地元の公立美術館がみずからのイニシアティブで先鞭をつけた、その意味でもエポックを画する展覧会となった。
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スパンアートギャラリー刊「山本六三展−聖なるエロス」から
2010.2.28
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KOBECAT 0057
2009.12.19 神戸文化ホール
貞松・浜田バレエ団「くるみ割り人形」'09





――「カオス」と「秩序」のドラマ――
■山本 忠勝


松・浜田バレエ団のエトワールたちは素晴らしくくっきりとした輝きをそれぞれにそなえている。
 瀬島五月が万能の魔力を放射するスペードのエースなら、上村未香は端正で清楚なクローバのエースである。
 正木志保が輝くダイヤのエースなら、新しく抜擢された安原梨乃は豊麗なハートのエースといえるだろう。
 2009年のクリスマス・プログラム「くるみ割り人形」は、二日にわたるダブルキャストのステージで、ヒロイン(少女クララ)はダイヤ(第一日)とハート(第二日)に任された。
 そのダイヤのほうの舞台を見た(2009年12月19日 神戸文化ホール)。


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撮影:田中聡(テス大阪)

 演出が浜田蓉子、そして全体の振り付けが貞松正一郎と長尾良子のふたりである。
 クララ(正木志保)や王子(武藤天華)やドロッセルマイヤー(川村康二)ら舞台の顔を語る前に、まず裏の柱を紹介しておきたいと思ったのには理由がある。
 ダンサーひとりひとりのきらめきもさることながら、二幕八景の全場を通して舞台全体を貫く骨格、つまりバレエづくりの背後の思想、もっといえば裏に置かれた哲学が、物語の場面々々に強力に浮かび上がってきたからだ。
 裏に一貫した意志が読めた。
 その一貫した意志が表にあらわれる個々のシーンを洗練へ導いた。
 
 結論から先にいえば、対極的な二つの相が相俟って、緊張に満ちた構造を常につくっていたということだ。
 まず、ひとつの相は「カオス」(混沌)である。
 そして、もうひとつ相は「秩序」である。
 いっけん矛盾するかに見える二つの流れが、対峙し、均衡し、統合され、最後には調和のビジョン、さらには浄化のビジョンへと上昇した。
 
 たとえば第一幕第二景、客でにぎわうシュタールバウム家の広間の場。
 少年や少女たちのいきいきとした遊びがある。
 大人たちを少々手こずらせるワルサもある。
 その大人たちにも自由な気分の交わりがある。
 気の置けない会話があり笑いがある。
 広間を満たすのはクリスマス・イヴを祝う明るいカオスの相である。
 だがいつしか大人も子供もきれいな列を整えて、気がついたらユニゾンの踊りが繰り広げられているのである。
 きれいな同心円のダンスの輪が広間の隅々にまで広がっていくのである。
 カオスから華麗な輪舞の秩序が現われる。
 
 たとえば第一幕第三景、敵味方入り乱れて戦うねずみの王の襲撃の場。
 いうまでもなく戦場はカオスである。
 カオスそのものなのである。
 砲弾が飛ぶ。
 剣がきらめく。
 カオスをいっそうカオスたらしめるかのように闘いのさなかにお化粧なおしに没頭するねずみの貴婦人たちまで登場する。
 だが、そのドタバタのまっただなかで、むしろまっただなかであればこそ、つつましいはずのクララが思いがけない蛮勇を発揮して、ねずみの王を打ち負かし(まあ、わたしとしたことが、…スリッパで王様の頭をぶつなんて)、それで王子への魔法が解けるのだ。
 喧騒のなかからクララと王子の最初の美しいデュエットが生まれてくる。
 愛、調和(秩序)、そして合一、その三つを象徴するダンスである。

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撮影:田中聡(テス大阪)

 たとえば第一幕第五景、このバレエ団の珠玉の見せ場でもある雪片のワルツの場。
 まったく奇蹟的なシーンである。
 奇蹟的というのは、カオスと秩序(調和)が、この白一色の幻想世界で、ついに同時並行で進行していくからである。
 象徴的にも対立するものが緊密に組み合わされて進行する。
 舞台いっぱいに展開するのは猛烈な吹雪である。
 総勢二十四人、雪の精たちが恐ろしい速さで舞い踊る。
 プレスト!
 危険なほどのプレスト!
 まさに雪の乱舞のように、疾走するダンサーたちの隊列を、もうひとつの疾走するダンサーたちの隊列がすりぬける。
 それは、実際、一秒の何分の一かのきわどさで交差する。
 デス・クロス…。
 最大級の緊張を維持しなければ、ほんとうに大きなケガにつながるだろう。
 カオスの極限、それが極限の秩序によってささえられているのである。
 カオスと秩序が均衡する夢のようなエレガンス…。
 
 おわかりだろう。
 まず舞台全体に揺れ動くようなカオスの相があらわれる。
 そしてカオスのあとには決まって完璧な、澄んだ秩序があらわれる。
 しかもついにはカオスと秩序が同じ時間のなかで共鳴する。
 至高のソナタ形式で構成された大交響楽を「見る」ようだ。
 もっとひらたく言うならば、鋭角的な美しい“メリハリ”が貫徹されていたということだ。
 そのメリハリが個別の場面のあらゆる細部を洗練させた。

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撮影:岡村昌夫(テス大阪)

 では、この躍動的なカオスの相は結局のところ何をあらわしているのだろう。
 ハーモニーに満ちた秩序の相は何をあらわしているのだろう。
 その謎を問うことは、カオスと秩序の規則的な交替、場合によっては奇蹟的な統合に、わたしたちの心がなぜこんなにも震えるのか、それを振り返ることである。
 じっさい、わたしたちは場面のドラマティックな転換に酔いしれた。
 ドキドキした。
 たぶん、カオスの大きな躍動感がわたしたちの生命の沸騰と呼応し合ったからである。
 秩序の高い澄明度が、わたしたちの精神の屹立、すなわち魂の輝きと呼応し合ったからである。
 
 貞松・浜田バレエ団の「くるみ割り人形」は、いまや命と魂の物語になったのだ。
 
 正木志保のクララと武藤天華の王子とが称賛に値する最も大きな理由もまた、したがって、ふたりが命の躍動と精神の輝きを見事に体現したからにほかならない。
 正木志保の、あのよろこびのダンス。
 彼女は全身から命の光を放つのだ。
 武藤天華の、あのいつくしみのダンス。
 彼は端正な精神の花になる。
 光と花は大地の硬い秩序に裂け目を入れるひとときのカオスだが、それによって大地はまたさらに豊かな秩序へと更新されていくのである。
 永遠に上昇する。
 
 そして、ふたりの最後のグラン・パ・ド・ドゥ。
 ハープの絶妙な導入で始まるアダージョにゆったりと乗ったふたりのダンスは、やがてチェロののびやかな歓喜の主題で高揚へと向かっていく。
 特筆すべきは、その踊りがいまや高貴な浄化の気分に満ちているということだ。
 別れが刻々と迫っている、その寂しい予感が哀しくも大きく膨らんでいくなかで、混じりけのない愛の形がますます気高く現われる。
 純粋な愛が世界を浄化するのである。
 
 わたしたちの心と体に、濁りのない哀しみと濁りのない喜びが残される。
 
 わたしたちはそうしてその夜、大いなるものと遭遇した。
 どんなプレゼントをも凌駕する魂の贈り物。
 貞松・浜田バレエ団の「くるみ割り人形」2009年公演は12月19日と20日に神戸文化ホールで上演された。一日目はクララに正木志保、王子に武藤天華、ドロッセルマイヤーに川村康二。二日目は(同順に)、安原梨乃、弓場亮太、貞松正一郎。ねずみの王は両日とも玉那覇雄介。
 演奏は御法川雄矢指揮のロイヤルメトロポリタン管弦楽団。1980年生まれのまだ若い指揮者だが、細部にまで心を注入した緻密・繊細そして膨らみの豊かな演奏で、陰翳の深い音楽をつくった。音楽監督・堤俊介氏の薫陶もあってか、ダンサーたちへの思い遣りも厚い。観客たちからの称賛はいちだんと大きな拍手であかされた。
 その他のスタッフ:芸術監督 貞松融/合唱 ムジカ・ヴィーヴァ/振付 高瀬浩幸(ゼリー)、秋定信哉(クッキー)、川村康二(エスパーダ)、松良緑(円舞曲)/指導 松良緑、堀部富子、小西康子、上村未香、松良朋子、堤悠輔/照明 柳原常夫、加藤美奈子、ライティング・セブン/美術 湊謙一、三島由美子、日野早苗、日本ステージ、金井舞台/舞台監督 坪崎和司/同補佐 今田満和/衣装 工房いーち、鈴木恵以子、原田すみ子、中江三従子、木下正子、チャコット、石田コスチューム/アナウンス ローズマリー/手話 平井圭子/写真 岡村昌夫、古都栄二、李亜衣、大宝智子(以上テス大阪)/プログラム 殿井博/主催 同バレエ団と神戸市民文化振興財団ならびに神戸文化ホール。

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撮影:文元克香(テス大阪)

2010.1.17
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KOBECAT 0056
2009.11.17〜29 京都・GALLERY ARTISLONG
鎌田祥平展

――流動化する仏像――
■山本 忠勝


物屋や雑貨屋や大衆食堂や…、昭和の雰囲気を濃厚に残す京都は三条会商店街の長い長いアーケードを東から入ったところにGALLERY ARTISLONG(ギャラリーアーティスロング)はあります。
 買い物客の雑踏を離れてドアを開けると、いきなりそこは静謐な異空間。
 驚いたことに、しっとりとした小さな庭が奧に見える画廊です。
 足元の床にまぶしいばかりに白く輝く石膏のかたまりがありました。
 石膏のかたまりは奧の庭へ向かって点々と並べられていますから、すぐに飛び石のイメージだとわかります。
 もちろんもう作品が始まっているのです。
 新進彫刻家・鎌田祥平さんの個展です(2009年11月17日〜29日)。
 
 蛇行しながら奧へ進む飛び石の河。
 その河に寄り添う丘のように、これも石膏の大きな像が三体あります。
 まずビーナスの半身像。
 そしてアポロン、それからヘルメスの胸像です。
 
 どれもどこかで一度は見た記憶のある典型的な古代ギリシャの神像です。
 おそらくは美術商の店の中で、美術クラブの部室の中で、美術全集の写真の中で…、アポロンはひょっとしたら高校か中学で習った歴史の教科書に載っていたかもしれません。
 ですが、なにかが、どうも、違います。
 どうも全体の雰囲気がしっくりとしないのです。
 どこがどう違うか、はっきりとは判別できないでいるのですが、心のかなり下層のほうで、違うぞ、やばいぞ、警戒を怠るな、とわめくものがあるのです。
 
 あっ、と思わず声をあげたのは、そこにいた鎌田さんじしんからひとこと聞いたときのことでした。
 「ヘルメスの頭のこの髪の形、この前髪のところは仏像のらほつ (螺髪)の形にしています」
 見れば、なるほどひたいに近いその部分は、髪の毛をひとつまみずつカタツムリのようにくるくると巻いたあの如来の髪型なのでした。
   
 解けてきました。
 ビーナスの半身像も、ここではその明るい眉間に仏の象徴である白毫(びゃくごう=白い毛)がありました。
 アポロンの胸像も、顔の右の半分はかっと見開いた大きな目で、いかにも太陽の苛烈な輝きなのですが、反対側の半分は如来が瞑想に耽っているような半眼で、むしろ月の静けさです。
 地中海の堂々とした神々に、アジアの柔和な仏たちの相貌が持ち込まれているのです。

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撮影:編集部
 融合、あるいは、溶融、とそういえばいいでしょうか。
 ビーナスと、あるいは、諸仏のなかできわだって女性性を豊かに放つ観音菩薩との溶融…?
 アポロンと、あるいは、宇宙の中心で深い思考を続けている大日如来(毘盧遮那仏)との溶融…?
 ヘルメスと、あるいは、魂を浄土へ運ぶ阿弥陀如来との溶融…?(研究者の間ではヘルメスは毘沙門天との縁戚がおもに語られはしますけど)
 
 しかし考えれば、なんと長大な精神の遍歴がこの融合あるいは溶融に透けて見えることでしょう。
 いかにも古代ギリシャの彫刻こそが、われらが仏たちの彫像のはるかな故郷だったのです。
 地中海に生まれた神像がやがてガンダーラ地方(アフガニスタン東部〜パキスタン北西部)へ伝わると、そこに住む仏教徒たちのインスピレーションを掻き立てます。
 これまでは虚空に形なく立っていた仏の姿に、石の形あるいは粘土の形が与えられることになったのです。
 仏像の誕生です。
 ガンダーラのひとびとの目と手とそして心のなかに大きな革命が起こったと、そう言ってもいいでしょう。
 およそ二千年前のことでした。
 
 となれば、いささか荒っぽい言いかたにはなりますが、つまりは、今回のこの展覧会の全体の光景は、こんな具合いにつづめて言っても、大目に見ていただけるのではないでしょうか。
 古代の地中海から流れ出た神々の形象が、アジアの仏教のうねりのなかで仏像の形へと転化され、独自の姿を形成し、深化させ、成熟させ、そうして21世紀を迎えたいま、その地中海の神の形とアジアの仏の形とがここで再会している、と。
 まさしくシルクロードの東の果て、アジアの東端のこの京都で。
 
 京都。
 特別な意味をもっている都市なのです。
 ほかでもありません、仏像が洗練の度を究極にまで推し進めた最終の都市という意味です。
 
 ガンダーラから歩み出した仏像は中国へ、そして朝鮮半島へと東進して、そこから日本海を渡って、奈良(平城京)へ、それから京都(平安京)へとやってきたのはもう周知のことですが、その長大な旅の間に仏像はただ場所を変えただけではありません。
 その相貌に微妙な変化が現われます。
 微妙、というより、もっと強く劇的な変化というべきかもしれません。
 じっさい、ガンダーラの仏、中国の仏、朝鮮半島の仏、そして奈良、京都の仏を同じ平面で眺められる今となっては、むしろ劇的と言いたい衝動がまさります。
 最終地の京都において、仏像がとうとう究極の空(くう)の相に達したように、そのように感じられるからなのです。
 
 もちろんわたしたちがひとつの民族に属するという、その文化的なバイアスがかかった眼でのことですが、削ぎ落とすことができるものはぜんぶ落とされ、いまやそこに在りながら、そこに無い存在になったように見えるのです。
 純粋に超越的な形象になったように見えるのです。
 
 平安期の仏像が醸し出すあの静けさ、あの明るさ、あの穏やかさ。
 醍醐寺の薬師仏、三千院の阿弥陀仏…。
 
 菩提樹の木だけを描いて、その樹下に仏の姿を心で眺め、あるいは仏の足跡を岩に刻んで、その岩上に仏の姿を心で見上げた、すなわちあの透明な信仰の原初の形へ再び近づいたようにも見えるのです。
 原始のビジョンへの回帰。
 
 精神の、この不思議な永劫回帰。
 
 すなわちこのさき仏像の上に再び何かが起こるとすれば、この京都こそそれが起こるのに最もふさわしい場所でもあるというわけです。

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 さて、仏像をモチーフにした現代美術の作品は、これまでおよそ二つの方向で進められてきたように受け取れます。
 古くからの民族的な信仰にのっとって、仏像を神聖なもの、不可侵のものとして全肯定で受け止める、その道がひとつ。
 逆に仏像を科学の時代・理性の時代の時代遅れの偶像として、揶揄的ないしは否定的に描き出す、それがひとつ。
 肯定、そうでなければ揶揄もしくは否定です。
 
 ですが注意すべきは、仏像を外側から表現してきたという点で、このふたつの道が結局は共通の立場にあった、そのことです。
 そこにはたぶん、仏像がすでに完璧な形象に達していて、だからもう変化を与える余地なんか全くなくて、したがって芸術制作のモチーフに採り上げるにも外側から扱うしか手がないと、そういう思い込みが強く働いているように思えます。
 すでに閉じたものとしてまるごと描くしかないという、強い先入観があるのです。
 もう少し挑発的にいうならば、裏口からいつしか禁忌(タブー)が忍び込んでいたのです。
 芸術の表現はほんらい完全な自由の上にあるはずのものですが、こと仏像に関しては、形を変えることへの罪の意識がちょうど裏張りのように意識の裏に張り付いているというわけです。
 
 しかし、2009年のこの晩秋。
 その凝固していた仏像に流動の芽が出たのです。
 小さなギャラリーでの出来事ですが、しかし流れはどんな河でも最初のひとしずくから始まります。
 もちろん鎌田さんの展覧会のことを言っているつもりです。
 
 等価性の原理。
 菩薩の表情をもつビーナス像、それは実は美しいビーナスの体で立つ観音菩薩と等価です。
 半眼のアポロンは、輝かしいアポロンの体を借りた大日如来(毘盧遮那仏)と等価です。
 螺髪のあるヘルメスは、飛翔するヘルメスの体に入った阿弥陀仏と等価です。
 観音菩薩が、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)が、阿弥陀如来が、いまや厳格な儀軌の縛りから解き放たれ、若々しい肉体にささえられてここに現前していると、そう考えても全然さしつかえないのです。
 いうまでもなくまだ流れは始まったばかりです。
 じゅうぶんな説得力をもつにはもう少し先へ進まないといけないかもしれません。
 しかし、仏像が内部から流動化を始めたその動きはあきらかです。
 
 ところで、では。
 この流動化ということに一体どんな意味があるのでしょう。
 
 答えはむしろわたしたちの肉体そのもののなかにあるといっていいでしょう。
 作品が立ち並ぶそのなかに分け入ってわたしたちじしんが感じるこの起伏に富んだ心の動きに最も確実な回答があるのです。
 最初の何かしら落ち着きのない気分、そしてその次にだしぬけに来た大きな驚き、やがて、なるほどそうか、と腑に落ちたときの、風が横切っていくような爽快感。
 感情のいきいきとした波動。
 
 おそらくこれはただ感情の上だけの波動ではありません。
 深層ではきっと精神の大きな波動が動輪のように一回転したのです。
 禁忌の崩落。
 罪の意識からの解放。
 いかにも芸術的創造とは、たえまない精神の解放にほかなりません。
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 さて、石膏の飛び石はギャラリーの次の間にも続いていて、その最深部でわたしたちはちょっと意外なものに出遭います。
 これも石膏でつくられたものですが、実物大の立派な石燈籠と出遭うのです。
 それは、この展覧会のむしろ主人のようにそこに置かれているのです。
 意表を突かれてその前でしばしたたずみ、したがっていやおうなく思考することになりました。
 
 もとをさかのぼれば燈籠は仏に献灯するための祭礼の装置として宗教空間に取り入れられたものでした。
 寺院の伽藍の枢要な場所に配された大燈籠、それは火そのもののシンボルだというわけです。
 そして火とはまさしくひとときとして鎮まることのないものです。
 流動し、変転しつづけるものなのです。
 しかもいきいきと、なによりもいきいきと。
 
 ところで、そのようにかつては仏の手前に置かれて、仏にささげられた火のシンボルが、ここでは並び立つ仏たちのその奧へ、むしろ展覧会の核の場所に置き直されているのです。
 この逆転は、すこし大仰な言いかたで強調すれば、親鸞の悪人正機論のように、イエスの神への最後の呼びかけ(マタイ伝)のように、きわどい思考へ誘います。
 逆説は世界の全重量を逆三角形の頂点の危うい一点にかけるのです。
 これは作家の計算でしょうか。
 それとも、作家たちがしばしば無意識で従うように、計算なき直感、すなわち心の深層からの指令でしょうか。
 
 しかし、そのめざましい逆転によって、この彫刻の空間は、そう、まぎれもなく全体的な流動へ投げ出されることになったのです。
 空間の最深部に火があるのです。
 観音菩薩も毘盧遮那仏も阿弥陀如来も、ここでは燃えているのです。
 真っ白な石膏によって真っ赤な火の空間ができたのです。
 流動の完成です。
 
 火、…光、…曙光、そんな連想のなかで帰りがけに不意にニーチェの言葉を思い出しました。
 「脱皮のできない蛇は死ぬ」
 たしか中期の著作「曙光」のなかにそんな一節があったはずです。
 
 そういえば、「スッタニパータ」(ブッダのことば)も、いきなりこんな言葉の繰り返しで始まっていたのです。
 「(それは)蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである」(中村元訳)
 悟りから新しい生へと向かう覚者の精神をこんな比喩で言ったのです。
 
 流動する仏。
 それは脱皮ではないでしょうか。
 凝固から甦ることなのではないでしょうか。
 いきいきとした新たないのちへ向かうことではないのでしょうか。
 鎌田祥平展は2009年11月17日から29日まで、京都市中京区堀川三条西入ルのギャラリーアーティスロングで開かれた。
 展覧会の案内には作家じしんの言葉で、あえて「物質を意識させる作品」を作った、とある。その文脈でこのインスタレーションを読めば、ここにある神像あるいは仏像は、石膏という堅い素材(白い色をしたモノそのもの)と、そしてその素材の上を漂う軟らかな精神的ヴィジョン(幻影、錯誤、心象、解釈、深読み)との絶え間ない緊張、相克、結合、乖離としてとらえられよう。その微妙な構造の現代的意味については、またの機会に触れたい。
 1979年京都市生まれ。京都精華大学大学院芸術研究科を修了。大学では、神戸市でもモニュメンタルな彫刻作品を多く制作している小林陸一郎氏に師事した。2007年に京都府美術工芸新鋭選抜展で最優秀賞を受賞。京都市を中心に個展、グループ展の活動を繰り広げているほか、海外ではおもにドイツで制作を行なっている。京都市在住。
   
2009.12.24
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KOBECAT 0055
2009.11.3 神戸文化ホール
藤田佳代のダンス作品「日は はや 暮れ」

――終焉、そして創生――
■山本 忠勝


のダンスのタイトルには少し寂しい響きがあった。
 「日は はや 暮れ」。
 とりわけ藤田佳代が振り付けた舞台であれば…(2009.11.3 神戸文化ホール)。
 
 藤田佳代の最後のリサイタルで上演された新作である。
 彼女は舞踊人生の半生をかけて十回のリサイタルを成し遂げようと心に誓った。
 三年の熟成期間を設けて、その間にかなり規模の作品を二つ、三つとまとめあげ、つまり三年ごとに新しい作品を数作ずつ発表しながら、それを三十年間にわたって続けるという大きな計画だったのだ。
 そして今年がとうとうその十回目の年になった。
 寂しい心が動くのは、タイトルの言葉がリサイタルの全計画の完遂、すなわち終焉と強く響き合うからだ。
 
 だが、夕暮れはなにも寂寥感だけでは終わらない。
 神々の黄昏(ワーグナー)はむしろ最も動的な音楽としてわたしたちの耳に響き渡っているではないか。
 世界の巨大な炎上と創生への予感…。
 藤田佳代の暮れゆく時間もそのように壮大な景色であった。
 重厚なダンスがひとときの感傷を圧倒的に破砕して、力強い希望を生んだ。
 

110131.jpg
撮影:中野良彦

 滔々(とうとう)たる流れがあった。
 舞台の左端から右端へ向かって果てしない群舞が続く。
 右(上手)に消えたダンサーたちは、舞台裏を全速力で駆け抜けて、ふたたび左(下手)から出てくることになるのだが、わたしたちの目には、永遠に続くかと思う群舞の連鎖が現われた。
 ゆっくりと傾き、ゆっくりと屈み、ゆっくりと伸び、まるで彫像のように鋭いシルエットを築きながら悠然と進んでいくダンサーたち…。
 
 思えば、河もこういうふうに流れていく。
 海流もこういうふうに流れていく。
 大気もこういうふうに流れていく。
 星々もこういうふうに流れていく。
 時もこういうふうに流れていく。
 人も…。
 
 そして、その無限の流れに全身のあらゆる感覚を浸しながら、なにものかがこれもまたゆっくりと進んでくる。
 そのなにものかは、流れとは逆の方向へ歩むのだが、それはどうやら流れに抗って遡上するとか、流れに敢然と対決するとか、流れを強引に押し分けるとか、そのような闘いの身構えとはいささか異なるようである。
 むしろ流れがそのものの体のなかを通過する。
 そのものは流れを受け止め、流れに加わり、やがて別れ、そうして流れが去っていくのにまかせるのだ。
 
 むろんわたしたちは、そのなにものかがソロを踊る藤田佳代であることを知っている。
 いっぽう流れのなかに現われたそのものが、すでに藤田佳代ではないこともわたしたちにはとうにわかっているのである。
 そのものは名前を超えて現われた。
 超越して、なにものかになって、その場所に立ったのだ。
 真のダンサーとは、そう、このように超越するもののことである。
 
 そのものは、河と出遭うものである。
 海と出遭うものである。
 大気と出遭うものである。
 星と出遭うものである。
 時と出遭うものである。
 人と出遭うものである。
 
 永遠の流れと交錯する。
 

200093.jpg

 おっ、流れが揺らいだ。
 揺らいで、渦になっていく。
 激しい渦になっていく。
 すると第二のなにものかがまた忽然と現われた。
 だが、それが渦から生まれたものなのか、外からそこへ来たものなのか、その出現の瞬間は見のがした。
 気づくと、そこにもう第二のそのものが立っていた。
 
 むろんわたしたちはそれがフラメンキストの東仲一矩であることを知っている。
 だが彼もまたそこへ名前を超越して現われた。
 なにものかになって現われた。
 
 あらためて言おう。
 名前を超越するとは、もはや閉じられたものではないということだ。
 あらゆる方位へ開かれたものになるということだ。
 もはや直線上を一方向へ通過していくものではないのである。
 おびただしいものたちが逆にその体を通過していくということだ。
 
 渦が二手に分かれて、二体のそのものが、それぞれの渦の中で屹立する。
 なんと壮大なイメージ…。
 猛火の中から目覚めてくる女神ブリュンヒルデのようである。
 超獣の血で朱に染まって神に近いものとなるジークフリートのようである。
 あるいは、混沌のなかに生まれ出るイザナミとイザナギ。
 
 大いなるものの誕生。
 時空そのものの新しい創生に直接にかかわるもの。
 

200099.jpg

 だが真に結ばれ合うためには、厳粛な試練に耐えねばならない。
 流れはいまや引き離すものとなる。
 二体のそのものは、無限の流れの向こうとこちらに引き裂かれる。
 そうして近くにいたときよりもっと深く互いの存在を確かめる。
 むしろ内部から見つめ合う。
 
 あるいは、これこそ死かもしれない。
 死とは見えないものを見ることだ。
 対象を宇宙と一体に見ることだ。
 宇宙を一気に果てまで見ることだ。
 
 じっさい、最後の大きな渦巻きは葬送の炎ではなかったか。
 そして静けさ。
 あれはまさしく終末のあとの完璧な虚空のようではなかったか。
 
 神々の死…?
 
 だが思い到ろう。
 神々の死とは、実はよりいっそう大きな創造への契機であるということに。
 不死の神の宿命。
 それは新たな世界を築くためにまた甦ることである。
 
 そして二体のそのものが、ついにいま、ゆっくりと互いに向かって歩みはじめた。
 幕がこれもゆっくりと降りはじめる。
 そう、新しい世界が生まれはじめた。
 舞踊作品「日は はや 暮れ」は2009年11月3日に神戸・大倉山の神戸文化ホールで開かれた第10回藤田佳代作品展で初演された。藤田佳代の振り付けで、出演は藤田、東仲のほかに、寺井美津子、金沢景子、菊本千永、かじのり子、向井華奈子、灰谷留理子、石井麻子、板垣祐三子。音楽はPeteris Vasksの「Musica Adventus」。舞台美術は南和好。
 なおこの作品展(リサイタル)では、同じく藤田の作舞による「運ぶ」と「響く」が上演された。「響く」はオリジナルのピアノ曲が丹生ナオミに委嘱された。
 STAFF 照明 新田三郎/舞台監督 長島充伸/音響 藤田登/美術 アトリエTETSU/衣装 藤田啓子 工房かさご/アナウンス 有村莉佐子。
2009.11.24
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20012 津田彩穂梨さんの絵画

創造の無限の旅路


 化石とは過去の時間の証しでしょうか。
 むしろ未来の時間の証しではないでしょうか。
 それは創造の終焉を印すものでは決してなく、創造の始まりを告知しているのではないでしょうか。
 津田彩穂梨さんの暗喩の絵はそんなふうに読み取れました。
 ECOLE DE KOBE(エコール・ド・コウベ)の第9回展でのことでした(2009年10月21日〜25日、神戸・兵庫県民アートギャラリー)。
 
 ある種の画家は、魔術師の末裔なのかもしれません。
 すくなくとも錬金術の継承者ではあるようです。
 終わったものを、始まるものに変えるのです。
 津田彩穂梨さんはそういう画家のひとりです。
 
 作品「地の記憶」に描き込まれた数々のモチーフは、本来からいえば閉じた時間の痕跡です。
 魚族とおぼしき異形の形をした形象は、原始の魚の化石でしょう。
 だから、むろん、もう死んで硬化しているはずなのです。
 そんな魚の形象が何層にも堆積した地層のなかに、古代文明の破片のような何か円形の金属も埋まっています。
 むろん、これももう用途を失い、錆びてしまっているはずです。
 
 終わったものの集積です。
 
 ところが津田さんが絵にするとそれがどうも終わったものではなくなってしまうのです。
 魚は硬化することで、むしろ永遠の生命を得て、今に生きているようです。
 金属の円盤はそこで凝固することで、却って永遠にメッセージを発信しはじめたようなのです。
 いっそうみずみずしく、いっそう強固に存在しはじめたようなのです。
 時間の秩序が壊れます。
 
 終わる時間と始まる時間が同じ空間に現われます。
 
 「時の積木」という作品では、その時間の溶解がもっとくっきりと描かれます。
 そこは宇宙空間です。
 遠方できらめいているのは、きっと銀河の流れです。
 そこでいろいろなものが出遭います。
 鳥になろうとしているようなまだ曖昧な形のもの。
 いままさに盛りのさなかにある植物のようなもの。
 もう解読のむずかしい太古の銘文のようなもの。
 遠い過去と現在と遥かな未来がこの同じ空間で出遭うのです。
 
 むしろもうここには時間が存在しないとそういったほうが正確なのかもしれません。
 
 混沌と秩序、それが一体となっているのです。
 残骸と創生、それが結び合っているのです。
 
 つまり、無限の空間で無限に繰り広げられる無限の創造。
 豊饒の宇宙。

photo-tsuda.jpg
「地の記憶」
 
  2009.11.7 Tadakatsu Yamamoto
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KOBECAT 0054
2009.10.10 神戸文化ホール
貞松・浜田バレエ団「6 DANCES」

――モーツァルトの万華鏡――
■山本 忠勝


ーツァルトは誰だったのか…。
 Wer war Mozart ?
 20世紀に生まれた問いのなかでもこれほど普遍的な問いはない。
 問いのこだまが未来に向かってますます大きくなっているのだから。
 無数の答えが連綿といまも続きつつあるのだから。
 
 あの問いはあるいはむしろ最初にモーツァルトがモーツァルト自身に投げていた密かな問いではなかったか。
 実は1756年にすでに始まっていた問いだった?
 世紀を超えてこだまがこだまを呼んできた?
 モーツァルト、おまえはいったい何者だ…。
 問いの散乱。
 答えの散乱。
 自問自答の永劫回帰。
 いささかブラックなユーモアをふんだんに散りばめながら、イリ・キリアンの「6 DNCES」(六つのダンス、モーツァルト曲)は、クスクス笑いを間断なく観客席に引き起こした。
 にもかかわらず、そのブラックな笑いのなかで、ときにはブラックな哄笑のさなかでさえ、世紀を渡ってきたその自問自答がかっと目を見開くのであった。
 おまえはだれだ、ねえ、だれなの、だれだってばあ、だれだっちゅうの、なあ。
 ひょっとして、いかさま? 悪党? とんま? ろば? くそったれ? 
 貞松・浜田バレエ団の刺激的な公演だった(2009年10月10日 神戸文化ホール)。
 
 18世紀ふうの白いカツラをつけた半裸のダンサーが登場する。
 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが現代のダンサーみたいにシャープな筋肉をつけていたか、そこのところはちょっと怪しい。
 だが、このカツラ、この化粧、この茶目っけは、どうやら神童と呼ばれたあの男に違いない。
 そいつがこっちを見つめている。
 あそこにいるあいつらはいったい誰だ。
 猜疑心に満ちた目だ。
 観客が彼を見はじめる前に、彼のほうがすでにこっちを見つめていた。
 そりゃあ、あっちのほうが目は早い。
 緞帳が上がる前から向こうはもう見る構えでいたのである。
 だしぬかれた。
 まなざしの反転。
 観客席と舞台の逆転。
 つまりその夜そこで踊ったのは、なんたること、客席のぼくらだったというわけだ。
 違うじゃないか、話が。
 いきなりの、錯乱。

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撮影:古都栄二(テス大阪)

 錯乱。
 そう、たしかにモーツァルトの音楽はいつも意表を突いて始まって、最初から絢爛たる錯乱で満ちている。
 狂気ではない。
 正気すぎる正気。
 正気の絶頂。
 狂気の接線がそこから虹のように彼岸へ向かう理性の辺縁。
 彼の音楽はその危うい絶頂へまっしぐらに翔けのぼる。
 光のめくるめく乱反射。
 明るすぎる視界。
 とりわけキリアンがこのダンスに選んだ「6つのドイツ舞曲」(1791年)のまさしくあふれんばかりの明度と彩度と祝祭感。
 閃光、炸裂。
 踊れ! 踊りながら一目散に翔けのぼれ!
 狂気の手前まで突っ走れ。
 錯乱せよ。
 
 さて錯乱の第一の定義、それは焦点が分散することにほかならない。
 ひとつが二つに見えること。
 やっ、舞台にふたりのモーツァルトが現われた。
 同じカツラ、同じ半裸、まるで鏡を横に置いたようにきっちりと同じ動き。
 ふたごのダンスははっきりとめまいをかもしながら世界に二つの焦点を差し入れる。
 二重のダンス。
 二重の宇宙。
 いや、まて、また出てきたぞ。
 いやはや、三人目のモーツァルトが現われた。
 どころじゃない。
 四人目も現われた。
 アマデウス・クヮルテット。
 ところで、舞台に同じ人物が四人も並べば、これはもう無限の群れのことである。
 モーツァルトの無限の群れがいっせいに跳びはねる。
 モーツァルト万華鏡。
 だが、モーツァルトがどんどん登場してくれば、その集積でモーツァルトがはっきり見えてくるかというと、どうもそういうわけではない。
 逆に彼はいまや、いかさま、悪党、とんま、ろば、チンポコ野郎、それらありとあらゆるものに分散する。
 モーツァルトの無限の群れが少しずつ別人となって並ぶのだ。
 神童が、ああ、万華鏡のなかに消えていく。
 見えなくなる。
 無限という矛盾。
 
 すると錯乱の第二の定義、それは超越ということになる。
 まさしくモーツァルトの音楽が音楽を超え出るように、モーツァルトがモーツァルトを超えていく。
 女になる。
 あさめしまえで、女になる。
 伯爵夫人? 侯爵夫人? なんにでもなる。
 胴をコルセットでぎゅうぎゅう締めに締めあげて、スカートをなんとも物理的即物的な腰わく(ファージンゲール)で大鐘みたいに膨らませて、まるで鋳型のように頑丈で豪華な衣装が、もう舞台にあつらえられている。
 いまかいまかとモーツァルトに着られるのを待っている。
 いや、逆か。
 むしろ鎧のように強固な衣装が、やわらかなモーツァルトをあつらえる。
 彼がそこへ飛び込むのだ。
 そう、変身とは体をやわらげてまるごとそこへ飛び込むこと。
 それに、衣装をモーツァルトに合わせるより、モーツァルトが衣装に合わせるほうが早いのだ。
 彼はいつも早いのが大好きだ(疾走するシンフォニー!)。
 
 そのうえこのマダム・アマデウスは驚いたことに背丈も伸縮自在ときているから、その超越性はもう申し分なく完璧だ。
 ほんとうに、見た目にありありと、すなわち物理的にデカくなる(なんたる仕掛け)。
 アリス。
 そう、ウサギの穴で小さくなったと思ったらたちまち大きくなるアリス。
 ああ、ぼくらはもうすっかり超越少女にイカれてしまった数学教授ドジソンだ。
 ドジソンの錯乱だ。
 
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撮影:金原優美(テス大阪)

 だとすれば、舞台の陰陽の陰を担った四人の女性ダンサーは(これまた、同じ髪型、同じ衣装、同じ茶目っけ)、このさい、超越モーツァルトにじゅうぶん超越的に対峙した従妹のベーズレと納得される。
 モーツァルトが、あなたのお尻に接吻する、とラヴレターをしたためた、あのベーズレ。
 ベーズレもだからもちろん無限のベーズレに分かれながら踊るのだ。
 いい勝負。
 あなたはあなたで、ぼくはぼくで、あなたはぼくで、ぼくはあなたで、おやまあ、あなたを抱きかかえたと思ったら、抱きかかえていたのはぼくだった、なら、ぼくを抱いているこのぼくっていうのは一体だれ? どうも、もう、…こんがらがっちまったなあ。
 
 超越とは、すると、こんがらがってしまうこと?
 こんがらがって、ウロボロスみたいにじぶんを呑んで、ついに消えてしまうこと?
 超越の矛盾。
 
 さてっと、ずいぶんと激しく踊った。
 このまままだまだ無限のダンス、超越のダンスを続けるか。
 それともまたいったん1756年から出直すか。
 それはご随意。
 いずれ永劫回帰の問いなのだし。
 
 で、けっきょく、モーツァルトは誰だった?
 つまり、観客席で踊ったこの私は誰だった?
 
 シーッ、舞台が終わる。
 拍手しなきゃあ。
 (割れんばかりの拍手でした、カーテンコール10回以上)
 
 ねえ、ところでさあ、もういちど訊きたいんだけど、ぼくって、だれ?
 イリ・キリアン(Jiri Kylian 1947年プラハ生まれ)の振り付けによる「6 DANCES」(1986年初演)は、貞松・浜田バレエ団によって2009年10月10日に神戸文化ホールで開かれた「創作リサイタル21」の四番目の作品として上演された。曲はモーツァルト作曲の「6つのドイツ舞曲」(1791年)。
 出演は、瀬島五月、安原梨乃、大江陽子、廣岡奈美、アンドリュー・エルフィンストン、武藤天華、堤悠輔、水城卓哉、そして正木志保、小田綾香、金子俊介、塚本士朗、大門智、本田翔悟。
 STAFF 振り付け指導 パトリック・デルクロワ/舞台装置と衣装デザイン イリ・キリアン/照明 ヨープ・カボート/空間演出 エリック・ヴァン・ホーテン/指導補佐 堤悠輔/協力 キリアンプロダクションとネザーランド・ダンス・シアター。
 なお「創作リサイタル21」ではほかに長尾良子振り付けの「セ・シ・ボン」、オハッド・ナハリン振り付けの「BLACK MILK」、ジョージ・バランシン振り付けの「セレナーデ」が上演された。
2009.10.15
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20011 笹田敬子展

記憶の海図、記憶の気圧図…


 「記憶」がテーマの絵画です。
 青の使い方がとりわけ深くて美しい抽象の作品です。
 笹田敬子さんの個展です。
 神戸のギャラリー島田で開かれました(2009年6月27日〜7月8日)。
 
 抽象の絵ですからむろんあの時のあの場所の、あの風景やあの人物やあの静物を具体的に描くというものではありません。
 あの時のあの場所にあのことが起こったそのときの、あたりの空気、心の波動、時間の密度、空間の濃度…、そういったものが流動的な形や色そして線になって現われます。
 あるいは、その記憶が今に戻ってきたこの今という時の、つまり現在の心の波紋、体の波動、空間の震動がそこに重なって現われます。
 記憶の海図、記憶の気流図、記憶の高度図、記憶の測深図、そしてその海図の記憶の今このときにおける美しさ、その気流の記憶の今このときにおける勢い、その高度の記憶の今このときにおける高さ、その深度の記憶の今このときにおける深さが、縦横に交錯しながら現われます。
 
 面白いのは、変幻とどまるところのないその記憶の時空に、かなり明瞭な方向性があることです。
 ひとつは、底のほうからこの地表へ昇ってくる、いわば地底から表層へ浮かんでくる上昇の方向です。
 そこでは成層圏から雲間を通して海洋と大地を覗くように、記憶が下方に見るものとして現われます。
 そしてもうひとつは、遠方からこの現在の地点へやってくる、いわば地平線から眼前へ向かってくる水平の方向です。
 そこでは地平のかなたから雲が近づいてくるのを眺めるように、記憶が遠方に見るものとして現われます。
 垂直に積み上げられていく記憶と、水平に広がっている記憶とがあるのです。
 
 「描きながら記憶の不思議と出遭います。ひとつのビジョンを追っていくと、思ってもいなかった扉が開いて、ふいに新しい場所に出るのです」
 
 思ってもいなかた記憶の浮上。
 それを最も重んじたのは「失われた時を求めて」を書いたマルセル・プルースト(1871〜1922)でした。
 小説の主人公が、紅茶にマドレーヌを浸して食べたその一瞬に、思いがけなくも記憶の幸福に遭遇した、その輝くような冒頭の一節を引用しましょう。
 …そのひと口のお茶が口の裏にふれたとたんに、私は自分の内部で異常なことが進行しつつあるのに気づいて、びくっとした。素晴らしい快感、孤立した、原因不明の快感が、私のうちにはいりこんでいたのだ。おかげでたちまち私には人生で起こるさまざまな苦難などどうでもよく、その災厄は無害なもので、人生の短さも錯覚だと思われるようになった…
 
 記憶こそは人間の根幹なのかもしれません。
 そしてその記憶は、たぶん、人間ひとりの意識を超えて、宇宙の底へ、宇宙のかなたへ広がっている記憶です。

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  2009.8.4 Tadakatsu Yamamoto
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Cahier

 10075 コウノ真理展    「無限」と「日常」の緊張の上に
 スパッと切りつけたその傷痕のようにまっ黒な裂け目が絵の中央に立っている。
 裂け目の周りは微熱をはらんでいるようにすこし赤みを帯びている。
 だがその微熱は急速に鎮まって、穏やかな灰白色の平面へ消えていく。
 無限の宇宙へと切り開かれたような真ん中の黒い亀裂…。
 そしてその周囲に広がる揺るぎない日常の空間…。
 コウノ真理の芸術は「無限」へと向かうビジョンと穏やかな「日常」の拘束のこの二つの要素の緊張の上に現われる。
 神戸のギャラリー島田で個展を開いた(2009年6月27日〜7月2日)。
 
 このわたしたちの世界では、ほんとういうと隠されているものは何もない。
 わたしたちにもし完璧な視力があれば、人も獣も草木も岩もすべてが同じ微粒子の集積として見えるだろう。
 もし完璧な聴力があれば、旅立った人がたとえ地球の反対側のサンチアゴで喋っていても目の前にいるのと同じ明晰さで話の中身を聴き取れよう。
 完璧な嗅覚があれば、ここにいながら地中海のオレンジの甘美な香りを嗅ぐことができるだろう。
 神のように完全な感覚を備えればあらゆるものがあらわに表相に現れる。
 隠されたもの、それはわたしたち人間が創るのだ。
 深さ、遠さ、高さ、無限、それらは精神が生み出すイリュージョンにほかならない。
 だが、それなしでは生きられないすばらしいイリュージョン!
 かくしてコウノ真理は無限をつくる。
 「日常の暮らしのなかで、ふと無限への通路のようなものを感じることがあるんです。そこにつながりたいと思うんです」  

photo-kono2.jpg
 もちろん仕掛けが必要だ。
 下地に黒を塗り込める。
 単調にならないようグレーもなかに差し入れるが、基調はやはり黒である。
 画面いっぱいにまず広大な夜をつくるというわけだ。
 宇宙をつくるというわけだ。
 そしてその上に灰白色の明るい昼をかぶせていく。
 明るい皮膚をかぶせていく。
 するとまもなく95パーセントが昼(皮膚)で覆い尽くされる。
 5パーセントがもとのまま残される。
 まるであとから切りつけられた傷のように5パーセントが鋭い形で残るのだ。
 つまり漆黒の宇宙が開かれる。
 つまり無限で充たされる。
 
 非在、すなわち塗り残すこと。
 すなわち非在によって現われる無限。
 
 あたかも素粒子の一瞬の軌跡のように絵の表面には無数の、しかし控え目な、つまり微小な線の破片がある。
 存在の幼虫たちだといってもいい。
 幼虫たちは億年単位で集積していずれ星になるだろう。
 これもまた無限の幼虫たちなのだ。
 だが絵の仕掛けという点では、この虫たちも絵の上にあとから加えられたものではない。
 鋭利な切っ先でひっかかれて、下地の黒がここにこういうふうに現われているのである。
 またしても、非在から創造される無限。
 
 無限。
 それは精神の大いなる企みだ。
 至高の創造だといってもいい。
 大数学者ヒルベルトのことばを引こう。
 「無限! 人間の精神をこれほど深く動かした問題はかつてなく、人間の知性をこれほど豊かに刺激した概念もかつてない」(青木薫訳)
 精神の至福の場所。
  2009.7.7 Tadakatsu Yamamoto



KOBECAT 0053
2009.5.5 神戸・湊川神社の境内
ギリヤーク尼ケ崎の舞踊

――向こう側へ開く裂け目――
■山本 忠勝


リヤーク尼ケ崎さんが5月5日(2009年)に神戸駅前の湊川神社で踊るという予告記事を神戸新聞で読みました。
 あ、よかった、元気なんだ、という喜びが胸に突き上げてくるのでした。
 ギリヤークさんにはとても不本意なことでしょうが、他界されたという風評が去年の暮れに神戸で流れていたのです。
 世田谷のお宅へ出した年賀状も戻ってきて、ああ、やっぱりそうか、と落ち込んでいたのでした。
 だから、よかった、っと、ぼくも生き返ったというわけです。
 
 ぼくのところからは湊川神社へ地下鉄で行くのです。
 途中の三宮駅で華やいだ少女たちの一団が乗ってきました。
 みんな髪をアップにして、すらっと脚の長い痩身で、ひと目でバレリーナをめざす少女たちだとわかります。
 ゴールデンウィークのこの時期、神戸では毎年クラシックバレエとモダンダンスと創作洋舞のコンクールが開かれて、プリンシパルやソリストやコレオグラファーを夢見る少年少女が全国から集まってくるのです。
 そうそう、ギリヤークさんも若いころにはこんなふうに洋舞(モダンダンス)をめざしていたんだよなあ、とそんなことをふと思い出しました。
 ギリヤークさんもいっときは新進としてけっこう評価を得ていたのに、ほんとうにやりたいのはこういう踊りではないと悩みはじめて、とうとう街頭へ飛び出すことになったのです。
 今は誇り高い大道芸人を自称しながら、路上や広場や公園で、ほこりまみれ、砂まみれ、土まみれ、そしてときには泥まみれになりながら踊るのです。
 
 そうして踊りに踊って40年。
 もう78歳の年なのです。

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撮影:編集部
 
 地下鉄を出ると、あらら、雨がポツポツと来ていました。
 ギリヤークさんはどんな場合も雨天決行を貫いていますから、中止の心配はこれっぽっちもないのですが、ことしの神戸は気の毒な踊りになるなあ、とそのことが気になります。
 でも、こういうのがむしろあのひとにふさわしいというべきか…?
 むしろ本領発揮、ということか。
 これも舞踊の神様の采配か。
 と、考えたりもするのです。
 沿道で満開の赤いサツキが見る見る濡れて光ってきます。
 
 湊川神社は横手の能楽堂のところから境内に入ります。
 北寄りの森のなかにある本殿からお神楽が響いてきました。
 たしか、これは越天楽です。
 どうやら赤ちゃんのお宮参りの気配です。
 拝殿の暗がりに赤い祝い着が見えました。
 
 一方、小雨のクスノキ林にはすでに分厚い人の群れがありました。
 津軽三味線の太い音が群れのまんなかではじけています。
 使いこんだ古いテープがガラガラ声さながらにサビの強い響きを立てているのです。
 
 新聞には午後二時開演とありましたが、この雨で早めに始まったのでしょう。
 一時間も前にやってきて待つ客がきょうもあったのかもしれません。
 あの、滑稽と言っていいのか、哀しいと言っていいのか、騒がしいと言っていいのか、寂しいと言っていいのか、はたまた泥くさいと言っていいのか、シュルレアリスムだと言っていいのか、いつも心が困って右往左往してしまう「白鳥の湖」は、すでに終わっている気配です。
 
photo-amagasaki2.jpg
 人垣は四重くらいだったでしょうか。
 最後列で水色のハカマの神官さんが何人か、食い入るように見ています。
 ひどくまじめな顔なのが、とても印象的でした。
 ほとんど傘をさすひとはありません。
 ギリヤークさんが踊り終わるまではわたしも一緒に濡れましょう、とみんなそういう表情です。
 
 もう終わりかけていた曲はたぶん「じょんがら一代」ではなかったかと思います。
 函館育ちのギリヤークさんは、海峡の向こうからやってくる門付けの芸人たちを幼いころから見ていました。
 その思い出が今も舞踊の原点にあるのです。
 感受性の強い少年は、それら旅芸人たちのなにか切羽つまった演奏と踊りのなかに、表の快活さと裏の暗さ、顔の笑いと心の不安、テクニカルなバチの動きと迷宮のような心の動き、それら光の相と影の相とを鋭敏に読み取っていたのではないでしょうか。
 彼の舞踊はまさにその光と影の間で繰り返される往還です。
 光と影の振動です。
 振動のうちにますます振幅が大きく深くなっていく、その劇的なプロセスです。
 
 舞踊という魔物と戦い、迷いに迷って、ついに街頭で踊ろうと決意したのはけっこう遅くて、三十代も半ばを越えてからでした。
 数寄屋橋の雑踏に立ったときには、恥ずかしくて恥ずかしくて、ただもう早くやり終えて逃げ帰りたい、その一心だったということです。
 何をしたのかさえ思い返せないくらい混乱して、ただうつむいて帰り仕度を急いでいると、ツツッと中学生くらいの少女が近づいてきたのです。
 少女も恥ずかしそうに手を差し出し、そうして必死の目で舞踊家になにかを握らせたのでした。
 彼女は真っ赤になりながらきびすを返して人ごみのなかへ走り去り、ぼうぜんと立っている舞踊家のてのひらに、すると、二枚の硬貨が残っていたということです。
 舞踊家が号泣を始めたのは部屋に帰ってからでした。
 彼がじぶんの表現で三十七年目にして獲得したそれが初めての熱い反応だったのです。
 涙のなかで決心が固まりました。
 
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 「念仏じょんがら」はたぶんギリヤークさんの最も重要な作品です。
 黒衣の旅の僧、それが長い行脚で肉体はもうくたくたに疲弊して、しかし精神はいよいよ高揚と恍惚のときに近づいている、そのような雰囲気でこの曲は始まります。
 圧倒的なのはその足の運びだといっていいでしょう。
 一歩がまるで千里の距離を渡るように、足が土をがしっがしっと噛みながら、踏み出されていくのです。
 ときおりナムアミダアと大声で唱えられるその念仏は唐突で、全身を四方へ開けきったような音声(おんじょう)です。
 飛び上がるほどびっくりしたことがありました。
 それは舞踊の空間に差し込まれる鋭い裂け目のようでした。
 
 むしろこの作品そのものが裂け目だと、そういっていいのかもしれません。
 この世界とあの世界とが一気に通じ合う裂け目です。
 
 ギリヤークさんが内外の各地で犠牲者の鎮魂に捧げてきたのもこの曲です。
 最初は神戸の大震災のときでした。
 菅原市場の焼け跡で苦行僧のようにガラスの破片で傷つきながら、死者たちに懸命に呼びかけました。
 いつしか周りの人びとの姿が消えて、ありありと死者たちの喜ぶ姿が見えました。
 生涯でただ一度、振りを忘れて立ち往生しかけたのもこのときです。
 一秒の何分の一かのほんのわずかなカタストローフの一瞬でしたが、しかし舞踊家には一生に一度の深刻な体験でした。
 「鬼の踊り」と言われ続けてきたパフォーマンスが、このときから「祈りの踊り」へと向かいます。
 
 ニューヨークのテロのあとでもグラウンド・ゼロまで訪ねていって踊りました。
 パトカーがやってきて東京と同じように追い立てられるんだと覚悟しました。
 しかしニューヨークの警官は途中まで近づいて、そこでふいに立ち止まると、静かに終わるまで見ていました。
 
 ことしはとりわけこの曲に三つの思いを込めました。
 大震災の犠牲者へ、そしてJR福知山線の犠牲者へ、そして朝日新聞の阪神支局でテロの凶弾に倒れた小尻知博記者の魂へ。
 
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 雨はいよいよ本降りの気配です。
 とつぜん舞踊家が駆け出しました。
 人垣をかき分けて、石畳の参道を本殿の方向へ走ります。
 たちまち小さくなりました。
 そしてふたたび人垣の中に戻ったとき、さげていたのは水の入ったバケツです。
 それをばさっと頭からかぶるのです。
 クライマックスに来たのです。
 
 かぶった水と本降りの雨とでもうズブ濡れになりながら泥のなかを転げ回って踊ります。
 人垣のなかから小さな嗚咽(おえつ)がとうとう抑えきれなくなって洩れだします。
 鼻をすする音が相次いで起こります。
 舞踊家は土に還っていくようです。
 
 終わりました。
 解き放たれたようにバケツにおサツが入れられます。
 真剣に入れられます。
 晴れやかに入れられます。
 これは恵みではありません。
 ギリヤークさんがお金の額を、じぶんの踊りへの掛け値なしの、裸形の評価だと信じている、そのことをほとんどの人がもうしっかり知っているのです。
 
 ひとりの夫人が掛け声をかけました。
 神戸の下町のなまりでした。
 どこそこのおばちゃん、という感じです。
 いま思うと、大向こうから飛ばす声というよりも、むしろ半ばひとりごとのような声だったかもしれません。
 
 その掛け声はこうでした。
 「もっと、生きてや、なっ」
 そんな切実な呼びかけをぼくはこれまで聞いたことがありません。
 ギリヤーク尼ケ崎さんとひさしぶりに握手をしました。あ、そうだ、このやわらかな手だ、と思い出しました。精神の高貴さをじかに感じさせるやわらかな手なのです。
 去年、肺気腫の疑いで診察を受けたのですが、肺気腫より心臓のほうが深刻だといわれて、暮れにペースメーカーを入れたそうです。
 土の上を転げまわるときに、ペースメーカーを下に打ちつけてしまったら器械が壊れてしまうので、そこだけは気をつけていますと、笑いながら語っていました。
 「でも、ぼくはまだまだ踊ります。来年もまた神戸に来ますから」
 
2009.5.30
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KOBECAT 0052
2009.4.10〜5.31 兵庫県立美術館
20世紀のはじまり ピカソとクレーの生きた時代展

――精神のふるさと…その大きな光、大きな影――
■山本 忠勝


ティスあるいはピカソあるいはカンディンスキーあるいはクレー。
 20世紀の美術を華々しく炸裂させたあれら巨匠たちは、さて、わたしたちにとって何だったのか、いやむしろ今のわたしたちにとって何なのか。
 そう問うてみることが今けっこう面白いことなのだと、たまたまの思いつきでそう問いを立ててみて、それから遅ればせに気がついた。
 兵庫県立美術館(神戸市)の展覧会「ピカソとクレーの生きた時代」に並べられた豪勢な作品群をめぐりながらのことである。
 21世紀のわたしたちの精神が、思っていた以上に彼らと緊密な場所にあることを、それもたぶん歴史上かつてなかった微妙で新しい場所にあることを、その自問自答が不意に照らし出してくれたのだ。
 
 かれらの絵の前に立つまでは、じっさい、そういうところまでは考えもしなかった。
 だが、いささか驚くべきことに、今のわたしたちにとって、かれらはもはやエトランジェ(異邦人)ではない。
 生まれでいえば確かにひとりはフランス人であり、ひとりはスペイン人であり、ひとりはロシア人であり、ひとりはスイス人である。
 日本人ではまったくない。
 だが、わたしたちはかれらの絵と今やこのように一メートルにもならない距離で親密に対面し、これまでにももういろんな場所でたびたびそのように親しく出会ってきているのだ。
 かれらの絵は、思えばすでにじゅうぶんわたしたちの一部である。
 それだけではない。
 わたしたちの時代の画家たちの作品にも、例外を捜すのが却って難しいくらい歴然とかれらのやりかたが生きている。
 ありありとかれらの心が生きている。

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 わたしたちのこの時代が生み出しつつある数々の現代美術、それも淵源をさかのぼればおしなべてあれら巨匠たちの作法と精神に行きつくのだ。
 
 どうやら源氏物語絵巻を描いた平安末期の画家のほうが、今のわたしたちには遠いらしい。
 
 今日の美術をやすむことなく揺さぶり続けている四つの熱狂。
 色彩への熱狂、形体への熱狂、精神(とりわけ意識下)への熱狂、そして抽象への熱狂。
 むろん、行動への熱狂(パフォーマンス)や環境への熱狂(インスタレーション)を、比較的今日に近いところで始まった新しい動きとして、そこに付け加えることはできるだろう。
 だが、現代美術の基軸の部分がいぜん上の四つの熱狂の上にあることに変わりはない。
   ここで強調したいのはそのことだ。
 現代美術を根底で動かしている衝動の圧倒的部分が、まさしく「ピカソとクレーの生きた時代」に始まっているということを。
 
 マティスが1905年に「緑のすじのあるマティス夫人の肖像」を展覧会に出したとき、その鮮やかな色彩は20世紀の初頭のひとびとにはまだあまりにも強すぎて、いかにもその驚愕を示すように「フォーブ」(野獣)という皮肉な、掻きむしるようなあだなをつけられた。
 だが、それこそ今日の色の氾濫への幕開けだった。
 ピカソが1907年に奇妙に角ばった裸婦像を「アビニヨンの娘たち」という作品に描いたとき、それは画家仲間に鮮烈な刺激をもたらしたが、その後さかんに彼が世に問い始めた変に歪んだ形体は、有名な画家の変身だっただけ一層ひとびとを困らせた。
 だが、それこそ今日の形体の氾濫への幕開けだった。
 マックス・エルンストやイヴ・タンギーやルネ・マグリットが描きだした夢幻的な形象には、絵の喜びというよりむしろ熱病の悪夢のような、それどころか人間の理想像を壊してしまうような不安があった。
 だが、それこそ意識下(無意識)の新しいエネルギーの解放だったし、そのエネルギーは今日の表現ではむしろ創造に不可欠の要素として美術のほぼ全分野をひたしている。
 そしてカンディンスキーは、同時代の少なからぬ画家と同様、転々と変貌を重ねたが、今日から見ればきわめてスジの通った変貌であったとはいえ、その急激な形体の崩壊に同時代のひとびとがじゅうぶんについていけたか、これもまたはなはだ疑わしいことである。
 だがそれこそ今日の抽象の氾濫への幕開けだった。
 
 まさしく現代美術の活断層がそこで最初の大きな変動をなしたのだ。
 19世紀末の憂愁がまだ深い余韻を残していたヨーロッパで、絵画の世界にいきなりまぶしいばかりの正午が来た。
 そしてわたしたちもまた今なおそのビッグバンの光芒のなかにある。
 つまり、あの異様なほど明るい場所、あそこは、ほかでもない、わたしたちの故郷のひとつなのである。
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 だが、かえすがえすも出会うたびに心が躍るそれら巨匠の奇跡の作品!
 
 展覧会場は、だから、わたしたちの心になつかしさをかきたてながら、同時に人間の精神がときにどんな高い跳躍を敢行するか、その証明の場ともなっている。
 マティスの「午後の休息(サン=トロペ湾)」(1904年)は、ちょうどあの劇的なフォーブの登場の前年の作品だ。
 色彩の豊かさは、オーロラ(暁の女神)の目覚めのように初々しい。
 いかにも美の幸福が満ちている。
 ピカソの「フェルナンドの肖像」(1909年)は、キュービスムの記念碑「アビニヨンの娘たち」からまだわずか2年目の労作だ。
 労作だとあえて言うのは、天才ピカソにしてはむしろ鈍重なそのタッチに、かえって彼の誠実な試行錯誤と懸命な創造の精神と並はずれた集中力が見て取れるからである。
 彼の軽やかさの背後にはこんなにも深い苦闘が隠れている。
 マグリットの「とてつもない日々」(1928年)も、彼がシュルレアリスムの表現を世に問い出してからまだ2年目の、しかもきわめて衝撃的な作品だ。
 判じ絵のように奇妙な具合いに組み合ったスーツの紳士と全裸の女との間には、明らかに襲うものと襲われるものの緊迫した空気がある。
 実生活では平凡な小市民を演じ通した画家のその穏やかな表の顔とは正反対に、ここには日常の空間にきわどく開いた不穏な鋭い裂け目がある。
 人間の深奥が覗ける裂け目。
 そして、カンディンスキーの「無題 即興?」(1914年)に見られる色彩の大洪水と大乱舞。
 絵画がいよいよ形体の制約から解き放たれて広大な抽象の宇宙へ踏み出した、その革命のエネルギーが溢れている。
 
 精神の跳躍!
 そして精神の跳躍とは、なにより精神の自由の証明にほかならない。
 そのことをクレーほど多面的に語ってくれる画家はない。
 彼においては深刻な美術上の実験も、ついに人間的なユーモアと結合する。
   「リズミカルな森のラクダ」(1920年)の大胆さと堅固さと軽快さとそして愉快さ…。
 1909年から40年にかけての27点の作品群は、絵画革命のひとつの総合のようである。
 自由な精神の生気と豊饒と気高さをわたしたちに指し示す。
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 だがそれが決して楽園の無条件の自由ではなかったこと、むしろ時代の重圧と緊張が深まるなかで、強靭な主体性と忍耐力とで貫かれた自由であったこと、それら歴史的背景と人間的条件もまたわたしたちを深くうつ。
 まず悲劇を象徴する二人の画家。
 「3匹の猫」(1913年)のフランツ・マルクと「フリブール大聖堂、スイス」(1914年)のアウグスト・マッケ。
 ドイツの新しい芸術運動「ブラウエ・ライター」(青騎士)の中心的な画家だったが、第一次世界大戦の、それも初期に戦死した。
 生前にはフランスの抽象の草分けドローネーと親交を結んでいるが、戦争はそうした芸術家のきずなも引き裂き、こころざしも断つことになったのだ。
 そしてピカソの苦悩。
 右派フランコ将軍の反乱で故国スペインは内戦へ突き進み、1937年にはフランコを支援するナチス・ドイツがゲルニカを爆撃して多くの市民が殺されることになる。
 今回が日本初公開の大きな作品「鏡の前の女」(1937年)は、くしくもピカソの断腸の名作「ゲルニカ」と同じ年の制作だ。
 その同じ年、ヒトラーがベルリンで開いた頽廃美術展も、自由な精神に屈辱を強いる歴史的な事件となった。
 ナチスはこの奇怪な展覧会で新しい芸術の破壊に乗り出し、あまつさえ国民的な嘲笑を煽ろうとしたのだが、そこには今回紹介されている作家たちの名も並ぶ。
 「恋わずらい」(1916年)のグロス、「夜」(1918―19年)や「無題(構成)」(1920年)のベックマン、「手すりのそばの人々?」(1931年)のシュレンマー、そして特にむきだしの憎悪と大々的な罵倒とでクレーが餌食にされたのだった。
 
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 芸術の覚醒の時代、それは受難の時代でもあったのだ。
 大いなる逆説の展覧会。
 まれに見る豊麗な花々が、まれに見る危機の上で開花した。
 
 だからあえてここで付言するなら、近代日本のとりわけ洋画の世界に数々の足跡を印してきた神戸の美術家と美術ファンが、20世紀をあざやかに映し出すこの展覧会を前にして今あらためて深い感懐のなかにあるとしても、それはごく自然なことである。
 精神の故郷の、こんなにも大きな光と、そしてこんなにも大きな影…。
 
 それにしても不思議な発見と感覚ではあった。
 時代が進むにしたがって、さかのぼるべき精神の故郷がこんなふうに広がってくるものとは。
 兵庫県立美術館の「20世紀のはじまり ピカソとクレーの生きた時代展」は2009年4月10日に開幕。5月31日まで開かれている。美術館と神戸新聞社、産経新聞社の主催。デュッセルドルフ(ドイツ)のノルトランド=ヴェストファーレン州立美術館の改修に伴い、そのコレクションで構成されている。同美術館は1960年に州政府がパウル・クレーの作品88点を購入したのをきっかけに設立された。クレーは1931年にデュッセルドルフの芸術アカデミーから教授に招かれたが、しかし1933年にヒトラーが政権をとるとともに追放され、亡命へと追いやられた。美術館の設立には、現代美術の復興への意志表示、そして亡きクレーへの贖罪の意味が込められた。コレクションの規模はそれほど大きくはないが、上質な作品で構成されていることには定評がある。昨今の経済的苦境のなかでも、文化への強い使命感で運営されている。
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2009.5.3
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KOBECAT 0051
2009.3.26〜31 神戸・ギャラリーほりかわ
朴一南展

――有限と無限の統合――
■山本 忠勝


流へさかのぼろうとしているのだろうか、それとも未知の前方へもっと突き進もうとしているのだろうか。
 朴一南の絵の前では一瞬であれ誰しも考えることになるだろう。
 そこには定型詩のような秩序への傾倒が強くある。
 だが同時に、未来への予測しがたい衝動もある。
 個展が2009年3月26日から31日まで神戸・三宮のギャラリーほりかわで開かれた。
 
 絵を形作っているその構成要素はシンプルだ。
 渋く染められたキャンバスの裏地。
 そしてその上をうねうねと這い回る線また線。
 その二つだけである。
 
 だが絵の空気には画家じしんでさえなかなか言語には換え切れない微妙なニュアンスと奥行きがある。
 唯一言葉にできるのは、その骨格に古代の中国で誕生した陰陽五行と風水の思想があるということだ。
 
 陰陽五行と風水の思想の流れは、中国から朴一南の魂の故郷である朝鮮半島を経て、日本列島にも伝わった。
 古代のピョンヤンもソウルも奈良(平城京)も京都(平安京)も基本的な都市計画と都市経営はこの古代の哲学に拠っている。
 近代以降の猛烈な科学主義はこれら古代の知恵を理性にもとる迷信として思考の中心から追い出したが、しかし21世紀の今日、大衆文化の一角に再び顕著に浮上してきた。
 背景には西欧的な進歩への信仰の挫折と、それとともに強まってきた自然への回帰そして精神の復権への願望がある。
 真面目な探究がある一方で、かなりマユツバな俗流解釈が横行していることも否めないが…。
 
 さて、形象と色彩の表現者である画家・朴一南にとってとりわけ重要なのは、風水思想がはらんでいる色彩の意味である。
 東西南北の四つの方位に四つの神(神獣)を配置する風水の世界観は、同時にその四つの方位を四つの色彩で区分する。
 東は青龍によって守られ、それを象徴する色は青である。
 同じように西は白虎で白、南は朱雀(鳳凰)で赤、北は玄武で黒となる。
 そしてもうひとつ、四つの方位に囲まれた中央には、古来中国で最も高貴な色とされてきた黄色が置かれる。
 朴一南は、気宇の大きなこの色彩座標を現代の創造のなかに導入する。
 その絵はしばしば屏風のように五作品で一セットを構成し、それら五つの作品に五つの色が配されることになる。
 
 この五つの色によって画家がほんとうに何を主張したいのか、彼が彼じしんの言葉でそれを平易に語ってくれるような、そのような機会にはまだ立ち会ったことがない。
 彼の説明はいつも複雑かつ微妙なニュアンスに満ちていて、簡潔に要約するのは難しい。
 ただ、五つの色を絵のなかに配することで、そこに広大な宇宙空間を表現しようとしていること、その無限宇宙と人間精神とのかかわりを深いところでとらえようとしていること、そのことはよくわかる。
 
 古代以来の知の永い体系のなかで熟成されたこの特異な色彩の制度。
 画家はその制度を今に生かして、宇宙と人間の複雑微妙な構造を表現しようというのである。
 彼の絵に定型詩的な秩序への傾倒があると冒頭でいったのは、この色の制度を念頭に置いてのことだった。
 
 だがいうまでもなく、無限の宇宙を有限な色の面(絵画面)に封じ込めようとすることは、そのことじたいが矛盾である。
 この表現上の矛盾をどう解くか、実際の絵のなかでどう具体的に乗り越えるか、そこにこの稀有な創造の成否もかかる。
 画面をうねうねと這い回る線を発見したのは、だからたぶん、画家の劇的なインスピレーションだったのだ。
 線の魔術!

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 もともと線とは無限の空間から有限な空間を切り出す技術なのだった。
 大地と空の茫漠とした大空間からファラオのピラミッドをくっきりと切り取るために、古代エジプトの建築家は四角錘の四本の線を練り上げた。
 よるべない都市空間から安定した住空間や労働空間を切り取るために、現代の建築家も垂直線と水平線とで高層ビルを設計する。
 株価の手に負えない変動にひとまずの形を与えて展望の糸口とするために、証券会社は店頭のディスプレイに折れ線グラフを掲示する。
 
 理性の線が、混沌(カオス)の大空間から秩序ある小空間を抜き出すのだ。
 流動的・夢幻的なものの一角を、線は静的・固定的なものに転化する。
 
 だが、その同じ線が逆に事態を流動化させることがある。
 曲線となってそこらじゅうを走り回るときである。
 それが朴一南の重要な発見だ。
 どこで始まったのか、どこで終わるのか、端緒の定かでない繊細な曲線が五つの色に描き分けられ、五つの画面を高密度で這い回る。
 その曲線は大空間から小空間を切り取ってそれを固定するのとは逆に、小空間を掻き乱し、揺すぶって、それを大空間の限りなさへ、底知れない自由さへ、果てしない奥行きへと押し広げる。
 
 非定形の曲線がわたしたちの視界を理性の制約から解き放つ。
 
 かくして朴一南の作品では、矛盾する二つの要素が統合された。
 定型(色彩)と非定形(曲線)の統合。
 有限(色彩)と無限(曲線)の統合。
 伝統的な知の制度とその制度を突き破って突進しようとする新しいエネルギーの沸騰が、そうして一つの画面で結合した。
 
 わたしたちはいまや、無限へと開かれた青、無限へと開かれた白、無限へと開かれた赤、無限へと開かれた黒に向かって立つのである。
 そしてそれはたぶん古代の知恵が到達した無限のビジョンを現代に蘇生させることでもある。
 すなわちそれは都市空間の向こうへ斥けられてしまった無限の宇宙をわたしたちの眼前へ取り戻すことなのだ。
 
 いかにも宇宙のまっただなかで宇宙に開かれて立ってこそ、人間は人間としての全体性を取り戻せる。
 
 朴一南は伝統への傾倒者であり、かつ未来への野心家だ。
 朴一南展は2009年3月26日から31日まで神戸・三宮のギャラリーほりかわで開かれた。
 風水思想の四神は現代の日本人の心の中にもわずかながら痕跡をとどめているが、それを色に結びつけて考える人はもうほとんどいない。
 ましてや中央部(中心部)に黄色をイメージできるような人は、一般にはほぼ皆無といっていいだろう。
 むしろ平均的な日本人にとって、中心というのはほとんどのばあい空(無)である。
 だが、朴一南は言う。
 「わたしは作品の中心に黄色を置かないと、どうしても落ち着かない」
 じぶんが在日コリアンであることを積極的に主張する朴一南は、朝鮮半島の文化に対して、場合によってはおそらく半島の人々以上に強い意識を持っている。
 彼はそうして半島の伝統文化・精神を現代に活性化させる作家として顕著な存在感を放っている。
 同時に、日本で真摯な制作を続ける作家として、日本の現代文化の幅を広げる役割も果たしている。
 神戸市在住。
2009.4.18
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KOBECAT 0050
2009.3.21 神戸・兵庫県民小劇場
藤田佳代の舞踊「運ぶ」

――比喩ではない、肉体は宇宙である――
■山本 忠勝


代において最も挑戦的な舞踊。
 それは肉体を用いて何かを表現する、そのような舞踊では多分ない。
 そういう作品ならもうすでに無数にある。
 むしろ何かを表現することによってそこで肉体を発見する、そのような舞踊である。
 今まで隠されていたみずみずしい肉体がそこにありありと現れる。
 藤田佳代の新しい作品に遭遇して、そのことに気がついた。
 兵庫県民小劇場で上演された「運ぶ」である(2009年3月21日)。
 
 これこそ藤田佳代の作品だ、とそう思った。
 正真正銘の感動だった。
 ひさびさのことである。
 彼女がこのようにじぶんの世界に立ち戻れば、その境界にはおそらく現代の舞踊家のだれひとりとして追いつけない。
 
 「運ぶ」はまずゆっくりとしたソロで始まる。
 そのソロを踊るダンサーは、藤田佳代じしんである。
 踊る、というよりも、これはむしろ運行だ。
 ちょうど銀河の中心を横切り始めた星のように。
 
 一歩、いや半歩、いやむしろ四分の一歩、あるいはむしろ八分の一歩、…その運行は微分的で、しかし、もはやわたしたちの日常の尺度で測ることのできる距離ではない。
 ごくわずかな前進にもかかわらず、そこで無限の空間と無限の時間が渡られる。
 脚の運びだけではない。
 水平に、あるいは斜め下方に、あるいはまた斜め上方に、こころもち開かれる腕もまた、そのわずかな水平角あるいは俯角、仰角によって、無限へ広がっていくのである。
 無限へとつながる脚。
 無限へとつながる腕。
 
 「運ぶ」は間断ない宇宙との連動だ。
 間断ない宇宙への広がりだ。
 間断ない宇宙からの収斂だ。
 
 そうなのだ。
 肉体とは、宇宙である。
 比喩でいわれる小宇宙なのでは決してない。
 宇宙そのものなのである。
 
 第一主題の提示ともいえるその厳かなソロダンスで、藤田はいきなりそのことをわたしたちに気づかせた。
 
 そして群舞へ。
 
 ひとりずつ舞台上のダンサーがふえていく。
 藤田が提示した第一主題を丁寧に引き継ぎながら、二人が、三人が、四人が、少しずつ、すなわちここでもまた微分的に、主題のヴァリエーションへと移っていく。
 やがてビジョンが飛躍的に広がったのが、四人にまで増したダンサーたちが藤田の周囲に端正に並んだときだ。
 ごく自然に曼荼羅の構図と重なった。
 中心に大日如来毘盧遮那仏。
 そして四方に、阿シュク如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来。
 密教では宇宙全体の構成をこの五つの聖性の配置によって一気に観る。
 
 ダンサーの肉体が聖性の法体に見えるとき、それがこんなふうに確かにある。
 ダンサーの肉体が宇宙そのものに転じるとき、それがこんなふうに確かにある。
 ダンサーがそこに立つこと、それが宇宙の原型になるのである。
 精神の原型になるのである。
 
 そして精神の原型と出遭うとき、わたしたちの心は例外なく根底から揺すられる。
 感動する。
 生命がこの体で沸騰する。
 
 舞踊。
 すくなくとも藤田の舞踊は、わたしたちにとってもはや逸楽の糧ではない。
 祈りである。
 わたしたちは彼女の舞踊に近づくことで、荘厳な宇宙への祈りに参加する。
 
 祈る肉体。
 肉体の最も高貴な形。
 
 わたしたちは今なんと確かに信じられることだろう。
 この肉体そのものが、この高貴な姿そのものが宇宙だと。
 肉体の外も宇宙だし、内も宇宙なのである。
 美しい祈りの形は、宇宙が宇宙へと祈りを捧げる極限の姿にほかならない。
 
 ああ、わたしはこんなにも美しい…。

 藤田佳代氏の振り付けによる舞踊作品「運ぶ」は2009年3月21日に神戸市の兵庫県民小劇場で開かれた藤田佳代舞踊研究所の公演「創作実験劇場」で上演された。
 彼女じしんの創作メモは次のように書かれている。
 「すべての生きものは、目に見えない命を運んでいる。わたしはわたしの命を、踊りの道を通ってここまで運んできた。振り向けば、若い人たちも、同じ道を歩いているではないか」。
 しかし、藤田氏の秀抜な作品はしばしば作家じしんのノートよりはるかに巨大な世界を含む。
 「運ぶ」は命のビジョンをさらに超えて、わたしたちを宇宙の無限時空へ誘い出した。
 おそらく彼女の巨大な深層(無意識層)が、作家の意識すら超えて、作品に全面的に具現されるからである。
 それこそ万人にひとりの天賦の才だ。
 ただ以下は評者のほとんど個人的な好みの問題によるものだから、それによって作品「運ぶ」の価値が些かも損なわれるものではないが、作品の完成度を貫徹する上では、キャスティングを藤田氏のほか四人のところまででとどめた方がよかったのではないかと思う。
 藤田氏とその四人の舞踊家の緊密なパフォーマンスで、無限の宇宙がすでにそこで十全に、完璧に現われていたからだ。
 「振り向けば、若い人たちも…」のメモに従えば、大勢の若手の登場に確かに意味がないではないのだが、やはり作品の内面を理解しているベテランのダンサーと振り付けられた形だけで踊っている若手のダンサーとの輝きの差は歴然として、舞台の密度はそれでかえって薄められることになったのでは、と思うのだ。
 蛇足と承知しながら、書いておきたい。
 STAFF 照明 新田三郎/舞台監督 長島充伸/音響 藤田登/アナウンス 有村茉佐子/衣装 藤田啓子、工房かさご/装置 アトリエTETSU。
2009.3.22
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徳永卓磨絵画展

風が吹いた

 風は顔に向かって正面から吹き付けてくるものと、そう思っていました、と画家の徳永卓磨さんは言います。
 少なくとも六甲おろしで有名な画家のふるさとの神戸では、そのように吹くのです。
 ところがラ・マンチャ(スペイン)の夏の風は違っていました。
 40度の熱風が猛烈な勢いで大地を這ってくるのです。
 それが足から体へとよじのぼり、鼻腔へまともに突き上げてくるのです。
 脳を焼き、むろん喉も気管も肺も焼きます。
 くらっとします。
 「暑いなあ、と思っているうちはいいんです。暑いのか、暑くないのか、どうもはっきりしないなあ、とそんなふうに思ったら、もう、ずいぶん危険な状態です」
 そんな過酷なところへ毎年のように通って、徳永さんは赤い大地を描いてきました。
 初めてスペインに渡ったのが29歳の年。今年はとうとう70歳を数えます。
 神戸のギャラリー島田で個展「ラ・マンチャの白い町?」を開きました(2009年2月7日〜18日)。
 
 画家の体でずっと響き続けているものがあります。
 ゴッホです。
 ゴッホは南仏アルルの麦畑にじぶんのいのちを映しました。
 徳永さんはスペインの大地にじぶんの麦畑を発見しました。
 ですが、描き方は対照的です。
 ゴッホは実りのさなかの黄金色の麦畑を描きました。
 徳永さんは、収穫が終わって、赤土がむきだしになっている、むしろ荒涼たる麦畑を描きます。
 
 ゴッホは、麦の穂や糸杉やカラスや雲や星や風や、おびただしい生と死の形象を絵にぎっしりと描き込みました。
 濃厚な闘争です。
 徳永さんは、むきだしの青空とむきだしの大地のほかは描きません。
 むしろむきだしの無が地平線まで広がります。
 しかもその無は、どんな細部も気の遠くなりそうな緻密なタッチで埋め尽くされているのです。
 苛烈な太陽と熱風に身をさらして、ぜんぶ現場で描くのです。
 重厚な空無です。
 
 画家の精神の形でしょうか。
 民族の感性の違いでしょうか。
 
 「ゴッホに追いつくなんてできることではありませんが、ゴッホのあと(実りの後)を描いているのかもしれませんね」と笑います。
 
 徳永さんは、バレエ映画「赤い靴」(1948年)のひとつのシーンが好きなのです。
 ダンサーが踊り始めると、そのダンスの風であたりに散らかっていた新聞紙がひとしきり舞い立ちます。
 「ぼくはあの新聞紙になりたいと思うんです」
 じぶんには創造力というような大それた力はないけれど、対象を一生懸命に描いているうちに、そこにかすかにでもあのような美しい風が吹いてくれるかもしれない、とそういう意味のようなんです。
 
 スペインの暴力的な熱風のなかで描かれる作品。
 空無の大地の果てに広がる、なんとも広大な地平線…。
 そこには、しかし、清冽に澄んだもうひとつの風が確かに流れているように思えます。
 
  2009.2.17 Tadakatsu Yamamoto
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貞松・浜田バレエ団「眠れる森の美女」

ダンス、表現、バレエ、…そして希望



 貞松・浜田バレエ団が「眠れる森の美女」を明石市立市民会館の大ホールで上演しました(2009年2月8日)。
 本拠地・神戸を離れての公演ですが、見どころの多い豊かなステージになりました。
 
 注目の第一は、やはりここにきてぐんぐん頭角を現わしている武藤天華さんのデジレ王子です。
 いよいよ本格的なダンスール・ノーブルの登場だと、そんなふうに思ったひともあったでしょう。
 
 武藤天華さんの秀抜さを紹介するには、あるいはパフォーマンスの構造そのものに注目して、構造的に少しこまかく読み解いて語るのがいいかもしれません。
 専門家には、今さら何をゴチャゴチャ言い出すの? と笑われるかもしれませんが、もういちど基本に戻って「バレエ」と「ダンス」と「表現」という三つの基軸ターム(用語)で考えてみるのがいいような気がします。

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撮影:貞松正一郎

 まず「ダンス」ですが、ここではどんなにいいジャンプが跳べるか、どんなにきれいなピルエットを回れるか、どんなに軽やかなバランスがとれるか、そういう肉体の技術的な面に重点を置いて、それを「ダンス」と呼びたいと思います。
 端的にいえば、体の運動のことです。
 次に「表現」ですが、これはどんなに豊かに喜びを表わせるか、どんなに深く悲しみをかたれるか、とりわけどんなに気高く人間のすばらしさをうたえるか、そういう精神的な表出に重点を置いて、それを「表現」と呼びたいと思うのです。
 端的にいえば、心の活動のことです。
 そして「バレエ」とは、この「ダンス」と「表現」の二つをきっちり備えた舞台のことだと、そう定義したいのです。
 体の運動と心の活動がきっちりと結合して、目に見える形でそこにはっきりと現れる、そういう舞台ということです。
 
 武藤さんはそういうバレエを踊れるのです。
 このひとが踊り始めると、ダンスと表現とが体の上で申し分なく溶け合って、動きが美しい物語になるのです。
 
 昨年暮れに神戸でくるみ割りの王子の大役を見事に果たして、きっと自信もついたのだと思います。
 なかでも跳躍の変化にそれが象徴的に出ていました。
 暮れにはさぐりさぐり跳んでいたように見えましたが、今回はみずからが理想とする形へ思い切って自分を飛ばし、確かに天空の圏域できれいなポーズをつくりました。
 飛行が鷹になりました。
 天空の星になりました。
 
 竹中優花さんのオーロラ姫は、豪華な蝶のようでした。
 ダンスが大きくて、だから時間がゆったりと進むように見えるのです。
 ひとつひとつの動きに心がこもるということです。
 呪いの錘(つむ)で指を刺して、眠り(仮死)へと落ちていくそのさなか、えっ、わたしってどうしたの? まだ踊れるはずなのに、えっ、どうしてこの体が踊れない? えっ、どうして、と二重の心を往き来しながら倒れていく、その姿がとても印象的でした。
 表現がじつに深いということです。

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撮影:堤悠輔

 さて、キャスティングをどう割り振るかによって、演出者の思想や哲学まで読めることがままあります。
 このたびの舞台は浜田蓉子さんと貞松正一郎さんの演出と振り付けでしたが、このおふたりは母上とご子息でもいらっしゃいます。
 悪役の老妖精カラボスを正一郎さん自身が担い、カラボスの企みに立ちふさがるリラの精には、バレエ団を代表するダンサーのひとり、山口益加さんが配されました。
 正一郎さんはいうまでもなく日本のバレエ文化を支える現役舞踊家の代表格ですし、山口さんはダンスに風格を付与することのできる実力豊かなソリストです。
 この強力なキャスティングによって、「眠れる森の美女」という作品を大きく支える二つのファクターがくっきりと舞台に現われることになりました。
 希望をさえぎる存在としてのカラボス、そして希望をつなぐ存在としてのリラの精、この二つの力の交錯です。
 
 「死」の運命を宣告するカラボスと、そしてその宣告を「眠り」に変えるリラの精。
 その変換の深い意味を掘り下げるのはまたの機会に譲りますが、ここでは20世紀を代表する哲学者ジル・ドゥルーズの言葉に重ねながら、そのさわりだけを書いておきたいと思います(カッコ内が宇野邦一ら訳「千のプラトー」からの引用)。
 
 人間は死を免れることはできない。しかし「死を消滅させるのではなく、死を減少させ、死それ自体を一つの変化とする」ことはできる。
 死すべき運命を、間断なく希望へ変えることができる、というのです。
 
 そうです。
 ひとは最後まで希望に向かって漕ぐのです。
 死への流れを、希望の舟で渡るのです。
 貞松・浜田バレエ団の「眠れる森の美女」で踊られたのは、そのことです。
 
  2009.2.15 Tadakatsu Yamamoto
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Miki Yumihari with ensemble

悪魔の微笑

 ホールの高い天井から悪魔がふわあっと降りてきました。
 弓張美季さんがショパンのバラードを弾いているそのさなかのことでした。
 第一番ト短調のあの哀しみをはらんだ精妙な第二主題が、いまや巨大な激情の響きへと拡張されて、力強い分散和音の伴奏で強力に燃え立ち始めたまさにそのときのことでした。
 動乱の音のなかに悪魔がすっくと立ち上がり、そして微笑したのです。
 兵庫県立芸術文化センターでのコンサート、Miki Yumihari with ensembleでのことでした(2009年1月27日)。
 
 弓張さんの演奏はピアノとの激しい抱擁のようです。
 シンデレラの靴のようなデリケートなハイヒールをさっとステージに脱ぎ棄てて、素足で弾奏に構えたところは、イデーへ向かってまっすぐに身構えるイサドラ・ダンカンの舞踊をほうふつとさせました。
 交歓が始まるようでもあれば、戦いが始まるようでもあったのです。
 やがて奇跡のような譜面の求めに従って、指や手や腕はむろんのこと、肩甲骨までが鋭く、俊敏に動くことになるのです。
 肉体が音楽になるのです。
 
 実は曲が荘重なラルゴでいよいよ助走(序奏)を始めたとき、何かが起こりそうな予感がそこですでにありました。
 その予感は、気宇の大きな第一主題の提示からあの絢爛たる移行部へ進むあいだに早くも熟してきたのです。
 そしてこの曲の最初の炸裂、すなわち右手がきらびやかなアルペッジョへと突進を始めたとき、それはまず客席の高揚となって表へ現われてきたのです。
 聴衆の体のなかに抑えようにも抑えきれない別の大きな人格が目覚め始めた、とそういってもいいでしょう。
 
 だから第二主題が螺旋のような上昇を繰り返しながら今まさに再現部のピークへ昇り詰めようとしたそのときには、観客にもまた大いなるものの降臨を迎えるにふさわしい心の準備ができていたというわけです。
 悪魔の降臨!
 そうなのです。
 衝撃的な芸術というのは、その衝撃の振幅が大きければ大きいほど、それはしばしば宇宙に恒久の秩序をもたらす神の営為というよりは、むしろその永遠の秩序に鋭い裂け目を刻み込む悪魔の仕業のように見えるのです。
 弓張さんの演奏はまさしく裂け目を持ち込みました。
 
 だが特筆しておかなければなりません。
 この夜わたしたちが見たその大いなるものの微笑のことを。
 驚いたことに、それはあの、半月のような、下心に満ちた、企(たくら)みの微笑ではなかったということです。
 確かにそれは、たぶん、むしろ、習慣に従って、憂鬱な顔の上に現われました。
 しかし、なんということ、最初に暗いほほえみと見えたものは劇的な転調そのままにたちまち明るく澄んだ笑いへと浮上を開始したのです。
 途中でためらうこともなく、つまり屈折で濁るようなことは一度としてないままに、光へと転身を遂げたのです。
 いまやそれはまごうかたなき神の笑顔だったのです。
 最後の、両手のオクターブのなんというこうごうしさ…。
 
 ショパンはしばしば定式化された、つまり予定調和的な作曲法に従うよりは、鍵盤の上で彼の手がじかに見つけた強い響きに惹かれました。
 神の設計図から逸脱して、音の素顔に触れたのです。
 むしろ物質としての音…。
 存在としての音。
 悪魔の爪。
 
 神の摂理と、そして悪魔の跳躍。
 ショパンはひとつの戦場でした。
 
 弓張さんは戦場を弾くのです。
 
 しかし、悪魔が満面に浮かべたあの神の微笑。
 あれは間違いなく同一の存在から放たれる二つの顔です。
 
  2009.2.3 Tadakatsu Yamamoto
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KOBECAT 0049
2009.1.17 神戸・元町高架通商店街 プラネットEartH
ますみとも のダンス





――1.17を踊る……アトラス、磁場、共同体――
■山本 貴士


じ神戸に住んでいたとしても、14年前の震災の体験には、人々のあいだで、とてもそれが同じ災害であったといえないようなちがいがある。
 僕自身のことでいえば、神戸市中央区の自宅で地震に遭った。しかし自宅のある町内の被害は比較的軽く、火災も起こらなかった。家族も家も失わなかった。そのあとの時期、もちろん傍観者となれるはずはないが、被害の渦中の人間というよりも、できるだけこの地震を見て、記憶に刻みつけようと過ごしたように思う。これは決して「被害の大きさ」に応じた資格や権利の問題ではないけれど、いまも震災の記憶に苦しんでいる人を前に、「僕も被災者の一人です」とはとても言えない、そういう思いがある。むしろ、いまだあの震災を見つづけ、そして証言を聞きつづける立場の人間であると思う。
 にもかかわらず、思い出させるというよりは、自分も何がしかの震災の体験者ではあったのだと気づかされる、そういう瞬間がある。自分ではない誰かが感じるのだろうと思っていた思いを、自分が感じるのに直面するのである。
 元町の高架下で舞踊家ますみともが踊った踊りもそうだった。「だいちノりきてん―1995・1・17・5・46・52―」展でのこと。
 カフェと隣り合わせの展示スペースで、たぶん20人ほどの観客。開け放した扉のすぐ外では高架下の商店街を人々が行き来している。小池照男の笛の演奏をバックに、ますみともが床に神戸の街の航空写真を並べはじめる。一枚一枚が大きい。海岸線と海岸線を、国道と国道を、山並みを……舞踊家はひとつひとつつなぎ合わせていく。

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 それは何ら舞踊的な仕草ではなかった。かがみこみ、ズレがないよう細心の注意を払い、作業に集中するようだった。この舞踊家は、漱石の『こころ』の「K」というのはこういう人だったろうという、そんな風貌の人である。ひたむきな求道者が、何かひとつの苦行に打ち込むように神戸の街並みを再現していった。それを見守る僕たちの胸に、言うに言われぬ思いが込みあげる。それは再生の儀式だった。神戸を出ては何ら一般性をもたない思いかもしれない。その写真は震災前の街並みだった。
 並べ終えるとその写真の周りで踊るのだろう、もしかしたら写真の上で踊るのかもしれない、そう考えながらみていたとしても、実際に写真の上に舞踊家が立ったときの衝撃は想像を超えて強かった。
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 写真の上で不安定に体を揺らしはじめた彼は、地に立つ人の震えを再現しているのだろう、というのはあとから来た解釈で、写真の街に立った瞬間、彼はむしろ地震そのものとして街に立ったと、そう僕たちの目に映った。地震におののく人というよりは、街を襲うひとつの脅威としてそこに来たったと。これは地震の擬人化、アニミズムとはちがう。なぜならこれは認識、解釈の問題だから。ただし、およそ非人間的な認識、あるいは非意図的な解釈の問題である。誰の意図でもなく、そのようにみえてしまうという、それはそういう出来事だった。地震にさえなれる、舞踊というもの。
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 街の上を行き来する彼は、さまようアトラスだった。肩と腕で空を支える巨人。むしろか細い、四肢の自由を奪われたアトラスだった。彼が街を行き来し、否が応でも写真の配置は乱れていく。断層がずれ、道路は寸断される。そしてまだ足りない、というようにその腕を天に伸ばすとき、僕たちは大地の天への志向を知った。地震が地中のエネルギーの解放なら、それは天に放たれるのだろう。地中から天へ―地表はその通り道にあった、ただそうであったということ。これは意味を受けつけない冷厳な事実だった。僕らは憎むことも納得することもできない。そうして彼のダンスの意味がいっそう明瞭になってくる。あきらめるのでも忘れるのでもなく、あの14年前の地震と関係を取り結ぶために、地震になるということ。地震そのものを踊るということ。これは子供が自分の怖れるものを演じて、その対象とある種の和解をはかるのとどこか共通点があるとしても、誰にでもできるというものでは、まったくない。舞踊家ますみともの修練を経た身体と集中力とがなし得たわざだった。
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 高架を走る列車が近づいて来る音が、まるであの朝遠くから鳴り響いてきた地鳴りのように聞こえた。彼の踊りを見守る僕たちの胸に呼び起こされるのは、しかし個人の体験をめぐる思いというよりも、ある共同性をおびた思いだったろう。一人の踊り手を中心にしたその特異な磁場の中で、僕たちは僕たちを襲った震災のことを思った。それぞれの体験や思いはさまざまでも、そのダンサーを囲む僕とあなたの出来事として、震災を思った。たぶん、これがセレモニーというものの意味なのだろう。そして、僕だけではなかったろう。震災に臨んで生まれた、あの隣人愛の共同体。それは以前にあった「古きよき」共同体が震災をきっかけによみがえったというのとはちがう。ひとつの危機にさらされた人々のあいだで瞬時に目ざめ、しかしまた瞬時に消えていく、そのような結びつき。あの奇跡のような市民共同体のことを思った。
2009.1.18
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KOBECAT 0048
2008.12.13〜2009.1.14 神戸・ギャラリー島田
山内雅夫展





――宇宙を横切る手――
■山本 忠勝


極大陸を一望におさめるにはどのくらいの高度が必要なのだろう。白一色の雪の原野のところどころに黒い地肌をむきだしにして山塊が見えるだろうか。山内雅夫の白の作品を眺めながら最初に思ったのは、その広大な眺望ことである。それどころか南極の上空のたぶん一万メートルくらいから現実の雪の大陸を見下ろしているような、ほとんどそんな気もちになっていた。むしろこの眼そのものが雪原の真上に浮かんでいた。いつしか作家の絵の具の表現と地球の雪の表現とが等価になっていたということだ。言い換えれば、ともに宇宙を源にする創造が画家の絵と地球の上に等価に現れていたということだ(山内雅夫展 2008年12月13日〜2009年1月14日 神戸・ギャラリー島田)。
 ジンクホワイト。山内雅夫が憑かれたように使い続けている絵の具である。酸化亜鉛を主成分とする白で、シルバーホワイト(鉛白)やチタニウムホワイト(チタン白)など数ある白系顔料のなかでもとりわけ透明度が高い。亜鉛華という美しい呼び名もある。だが亀裂や剥離を起こしやすいという短所もあって、キャンバスの下塗りのように何重にも塗るときにはあまり使わないほうがいい、とこれはメーカー自身が注意書きを付けている。それを山内は重ね塗る。敢えてそれだけを重ね塗る。それも二重や三重ではおさまらない。毎日毎日重ね塗って、しばしばそれは数年、十数年と継続して、作品がついにはジンクホワイトの塊と化すのである。重さ何十キロにも及ぶジンクホワイトの量塊! 尋常ではない。
 では、その執拗な重ね塗りで何が現われてくるのだろう。

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POSITION B-no.3
写真はいずれもギャラリー島田発行「POSITION」(撮影:岡田良司)から

 絵の具の途方もない量塊がどんな質的変化を作品にもたらすのか、それを計量的に語ることは難しい。結局のところその先は直観で言うしかないのだが、おそらく彼の作品は絵の具の量塊というよりも今やむしろ光の堆積なのである。
 山内はほかの画家たちのようにキャンバスは用いない。描くというよりは築き上げる作業だから、その“構築物”を支えるために頑丈な木を支持体として使うのだ。最初の一刷毛はたぶん木肌の上にじかに塗られることになる。だから絵の具のその第一層を透過してくる光というのは、木肌からのほとんど直接的な反射である。そこではまだ木のなまの感触が表面に浮かび上がってくるはずだ。だが何重にもジンクホワイトを重ねていくそのうちにやがて木肌の反射が消える瞬間が来るだろう。そこからはジンクホワイトに射し入った光線が、木の表面に行きつく手前で下層のジンクホワイトに反射して、その反射光が再びジンクホワイトの層を逆にたどって表面に湧出してくることになる。
 つまりジンクホワイトの分厚い層が、ついには光の貯水槽、つまり光のダム(いうなれば蓄光層)の役割を担うことになるのである。水なら光を通過させてしまうからそこに光の痕跡は残らない。だが山内が構築する絵の具のダムには、光が大量に滞留する。むしろ光が物質となって溜まるのだ。
 そこでは光が質量の塊に転化する。
 しかし無論これだけだと、議論はまだ制作上の手続きの上を撫でているだけのことである。塗り重ねることだけがすべてなら、ほかの作家でもできないことではないだろう。山内がそれをすると彼でなければならない或る抜きん出た表現が現れる、そこが重要なところである。そこに創造の核心が潜んでいる。そしてそれはたぶん、こういうことではなかろうか。この光のダムが絶えまなく波立っているということ、間断なく流動しているということ、この作家の手が光のダムに連続的な震動を起こすということ…。彼は恩寵のような手を得たのである。たぐいまれな創造の手を獲得した。
 もう少し、作品に寄り添って語ろうか。
 彼の完成作品、というよりむしろ現時点における暫定的な完成作というほうがいいのだろう、個展が終わると彼はアトリエに帰ってきた作品の荷を急いでほどいて再びそこにジンクホワイトを塗り重ね始めるかもしれない、そういう作家なのだから…、が、ともかく、今の時点での作品の最も確かな局面は、いちばん最後に塗られたジンクホワイトのその最終層の上にある。つまり最も新しい面にあらわれた白の波立ちのなかにある。そこには作品の基本の構造、言い換えればこの作品をこのような形へ駆り立ててきた根源的な動因もリアルに浮き出ているはずなのだ。芸術では最初に目指されたものが、最後になって現れる。
 最後の光景、しかしそれは一口に言って、いぜんとして終わることのない矛盾の光景なのである。新たなジンクホワイトは、その都度、その前に塗られたジンクホワイトの余計な波立ちを抑えるためにそこに丁寧に塗られるのだ。夾雑な要素がそうして潰されていくのである。だがそこには、その最後の絵の具のさらに微妙な波立ちがまたしても余計なものとして現れる。作家は再び塗るだろう。今度こそ最後の一刷毛になるはずだ。ところがそこにはまたしても、もっと微妙で、もっととらえどころのない、もっと微分的な夾雑物があらわれる。ならば、さらにもう一刷毛。しかし、まだ、またしてもこれではない…。すなわち、果てのない自己否定が積み上げられていくのである。自己の無化(否定)への膨大な情熱。膨大な無の蓄積。永遠の引き算、減算。永遠の(n−1)。
 いうまでもなくこの永遠の減算は、同時に永遠の加算である。それは完璧な創造面を得るためにジンクホワイトを際限なく足していく、その果てのない足し算と並行して進行する。しかも最終的なものとして目指されるその完璧な創造面は、今や目の仕事というよりはもっとデリケートな手の仕事に移っていく。手(触覚)に伝わってくる極微の感触が、完成と未完成のわずかな誤差を嗅ぎ分ける。目では見えない微細な差異を手が見るのだ。かぎりなく濃密なものになっていく。またしても果てのない、情熱的な、しかしこのたびは膨大な自己増殖の局面だ。そしてまた、完成(n)と未完成(n−1)の永劫回帰。まだ過剰だ、ということと、まだ足りないということは、この作家の場合はまったく同義なのである。
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虚空へ

 そしてこの尽きない過剰と尽きない不足のはざま、無限の引き算と無限の足し算のまっただなかで、これこそこの作家の表現の最大の奇跡である、えもいえぬ微妙な構造が実現されていくのである。
 ここは細心の注意を払って見るべきところなのである。山内のその微妙な構造の眼目は、作品の最も新しい一刷毛が、それまでに塗り重ねられたすべての層を根底から揺するかたちで、すなわち全体を一から揺すり直すかたちで、施されるという点だ。加えられた一刷毛は、物理的には絵の具の量がそのぶん増量したというただそれだけのことなのだが、表現の魔術というのは常に物理的変化のその先で出来(しゅったい)する。彼にあっては、今のその一刷毛が、作品の重さをふやすだけでなく、その瞬間に作品全体に根源的な震動をもたらしたということ、むしろ、刹那にして作品をそっくり根底から更新したということ、わたしたちはそのことをしっかり見るべきなのである。
 彼が五万回の重ね塗りを施したということは、五万個の作品をつくったということに実は等しい。大胆にも五万個目の最後の一点だけを生かしながら、四万九千九百九十九個の作品を廃棄したことに等しいのだ。表層の変化がそのつど根底を揺すっては、全体をダイナミックに変えていく。絶え間ない死があり、そして絶え間ない生がある。ほんとうに生きているとは、いかにも生と死の間で間断ない振動を激しく繰り返していることだ。表現者としての山内のほんとうの凄さというのは、作品の表層にその根源的な震動を力強く湧出させることである。作品のそのそこに生があると、明瞭に指し示せることである。それができる手を創造したということだ。
 永劫の震動…。生命の実在…。
 この作家は昨年(2008年)、西宮市の仁川学園のキャンパスに一つの印象的なモニュメントを制作した。多くのイマジネーションを収斂させたその作品をあえて単純なひとことで言うならば、それは天空へ向かってそそり立つ白い十八メートルの柱である。その名も「宇宙軸」と呼ばれている。清冽にして深淵。寡黙にして豊饒。輝きにして深い闇…。だが、さらに胸をうたれるのは、その柱が地下へ十五メートルも伸ばされて岩盤に達しているということだ。深さに驚くだけではない。岩盤が地球の宇宙的な運動で間断なく微細な震動のなかにあることを思い出そう。このモニュメントは、無限宇宙の空間的象徴であると同時にその宇宙の極微の震動、すなわち生命の磁場を体現している磁針である。
 宇宙の震動…。生命を生み出す震え…。それもまた彼の背景に満ちている通奏低音なのである。
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コスモス no.2

   さて、少し寄り道をした格好だが、ふたたび個展の作品に戻りたい。
 生命の震動と宇宙の震動のことに加えてもうひとつ今度の展覧会でぜひ語っておかないといけないことがある。そのジンクホワイトのまっただなかに真っ黒な岩の破片がなまで置かれて、強力なビジョンを放っているということだ。安山岩(火成岩)の一種で、建築の装飾や楽器に利用される稀石サヌカイトが、まるで刃物のような鋭利な割れ目を見せながら、ジンクホワイトのそこここから頭を出しているのである。雪原から鋭い山塊が黒々と露出しているようである。
 いや「山塊のようだ」という比喩的な言い回しを用いるのは正しくない。そう言うのなら明快に、山塊そのものだ、と言うべきだ。
 ジンクホワイトを無限に塗り重ねていくことは、無限に光へ近づいていくことだが、それは同時に、無限に比喩から遠ざかることである。山内は風景画家ではない。風景画家は、山や森や川を実際そこにある「ように」キャンバスの上に描くのだ。肖像画家でもない。肖像画家も、人が実際そこにいる「ように」キャンバスの上に描くのだ。それに抽象画家ですらないのである。抽象画家にしてもやはりそこになにかの形象がある「ように」キャンバスの上に描くのだ。比喩が中心的な役割を果たしている。だが山内は決して「ように」は描かない。サヌカイトは何かの「ように」そこに置かれたわけではない。サヌカイトは正真正銘のサヌカイトとしてそこに散りばめられたのだ。いやむしろこのような言い方でさえ実は正しくないのである。より正確には、サヌカイトがサヌカイトと名づけられる以前の「物」としてそこに配置されたのだ。なにかしら真っ黒な物。黒々とした或るものが作品の素材としてジンクホワイトに埋められた。
 赤裸な白のまっただなかに嵌められた赤裸な黒。
 むしろ裸形の存在…。
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観から律へ

 さてそこで、この小さな評論も一気に結びの段階に近づいた。
 ここまで慣用的に「ジンクホワイト」と書いてきたもの、そこにもういちど立ち返って、それも今やサヌカイトと同じように厳密にはもはやジンクホワイトではないということ、そのことを語る最終局面へ来たのである。
 ジンクホワイトは、本来の用途としては平面(絵画)に用いる絵の具であった。たとえば街を描く風景画の白壁の部分に施されたりするのである。メーカーも画材店もそしてむろん多くの美術家も評論家も鑑賞者も、だから、この絵の具がまるで高速道路のアスファルトのように“構築”されることになるなどとは想像すらできなかったはずである。つまり、ジンクホワイトがここではジンクホワイトから果敢な逃走を遂げたのだ。サヌカイトが山内の体を通過することでサヌカイトではなくなって、ある赤裸な「物」へと還ったように、ジンクホワイトもまた山内を通過するうちにジンクホワイトとは別のある赤裸な「物」へ逃亡してしまったということだ。端的に言えば、名づけることのできない「素材」に還元されたというわけだ。ここにあるこのものを、正しくはどう呼ぶべきなのか、もうわたしたちにはわからない。それはわたしたちの手元から流出した。素材が言葉をすり抜けた。手に負えないところへ超越した。
 換言すれば「物自体」に帰ってしまったということだ。
 「物自体」が異形の相で厳かに現れた、とそう逆から言ってもいいだろう。
 それにしても、この「物自体」という言葉で指し示される深淵!
 この、深い響き…。
 物自体は人間の認識を超えるとそう宣言して知の歴史に一大センセーションを巻き起こしたのは、まさしく山内が半生をかけて愛してきた哲学の巨人カントである。山内はカントの三つの大部な著作(純粋理性批判、実践理性批判、判断力批判)をことごとく大学ノートに、それも強い筆圧で刻み込むように筆写して、この革命の書をむしろ手で一語一語をむさぼった(ここでもまた、手!)。美術の創造は、そこに哲学的精神の発現がある、といってそれで語り尽くせるほど単純なものではない。だが哲学者が、そこは認識を超えるところだと言った、いわばその彼岸の時空で山内の仕事が進行している、そのことは確かである。知性と美術の時を超えた神秘な共振がそこにある。
 ここでは輝くばかりの白を放つ或るものとどこまでも深い黒の或るものとが、今や物自体として出遭いを遂げているのである。裸形の存在と裸形の存在の邂逅。それは言葉を超えた彼岸での、沈黙に満たされた厳粛な出来事だ。
 裸形の存在の沈黙の響き合い…。
 そして、物自体としての雪が物自体としての地球の上に降るときにも、これと同じ沈黙と厳粛さが現れるそのことは、もう説明も不要だろう。冒頭で作家の絵の具の表現と地球の雪の表現が等価だと述べたのは、こうした意味からなのだった。
 彼の創造は、大陸の移動で地殻が刻々と動いているその変動にも等しい。草花が大地を割って芽吹いてくるその伸長にも等しい。海洋の蒸散が天空で雲をつくるその変転にも等しい。生き物が胚胎されて生まれてくるその誕生にも等しい…。それらがまだそうと名づけられる前であれば。
 山内を駆り立てているもの。それが認識の限界を超えてさらに向こうへ進みたいという衝動であることは、これでもう明確になったのではなかろうか。
 では、認識を超えて広がるその大きな時空とは、いったいどういう場所なのか。
 山内が日々の創造を遂行しているその時空とは、いったいどんな場所なのか。
 それは宇宙という言葉で呼ばれている無限の時空のことである。
 だがそれは決して人工衛星の軌道の向こうに広がる遠い時空のことではない。
 ここ、このわたしたちの手元が、すでにその宇宙なのである。
 なによりも山内の作品はそのことを証(あか)すのだ。
 彼の手が何万回目かのジンクホワイトを運ぶとき、またしてもその手が宇宙空間を横切っていくのを、わたしたちはまざまざと見るのである。
 山内雅夫展は2008年12月13日から2009年1月14日まで神戸・ハンター坂のギャラリー島田で開かれた。山内氏は1935年生まれ。武蔵野美術大学で山口長男に師事した。ひたすらに思索と創造に打ち込んでいる孤高の姿に深く心を動かされたギャラリー島田社長・島田誠氏(当時・海文堂社長)の誘いで1995年に神戸では初めての本格的な個展を海文堂ギャラリーで開く。以後、ギャラリー島田での数年おきの個展を中心に発表を続けているが、重厚な作風もあってきわめて寡作。
 インタビューで非常に印象的だったことばがある。おおよそ次のような内容だった。
 「私の作品がどこで終わるかは、むしろ手持ちのお金でどれだけの量のジンクホワイトを買うことができるか、その経済的な制約にかかっています」
 無限への精神的営為と、有限な世俗的表象との、これ以上ない象徴的な交錯。まさしく永遠へ向かう心と、それを中断させる肉体の相克に並行する。
 むしろ有限なるものによって証(あか)される無限。
2009.1.13
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風呂本佳苗ピアノリサイタル

音の震動、眼球の震動

 不思議なピアノ演奏でした。
 音からなにかを感じたというよりも、むしろありありと見えたのです。
 月の光が、夜の湖に漂う波が、闇に満ちる得体の知れないさまざまな形象が…。
 風呂本佳苗さんのリサイタルです(2009年1月3日、兵庫県立芸術文化センター)。
 
 リサイタルの柱は「夜を聴く」。
 ベートーヴェンの「月光」(1801年)を皮切りにドビュッシーの「月の光が降り注ぐテラス」(1912年)やラヴェルの「夜のガスパール」(1908年)など、夜に因んで九人の作曲家のピアノ曲が弾かれました。
 
 確かな技術を持ったピアニストですから、どのようなプログラムにも決して破綻はないのですが、聴けば聴くほど強く驚嘆させられるのは、とりわけ二十世紀以降の音楽を弾くときの並はずれた力です。
 むしろ多くのピアニストが不得手とする近・現代の分野で、このひとは優れた輝きを放つのです。
 
 絵画における印象派の登場、キュービズムやシュルレアリスムなどに見られる目の実験、そして映画の発明、テレビの普及、インターネットの進出など、十九世紀後半から二十世紀に至る文明の基軸には視覚経験の飛躍的な拡大がありました。
 その基軸は二十一世紀の今日になっても変わりません。
 現代はまさしく“目の時代”といっていいでしょう。
 風呂本さんはその古典的な静けさと控えめな雰囲気にもかかわらず、実はこの視覚文明の骨格に優れて深い根を持った野心的なピアニストなのではないでしょうか。
 先鋭的な眼球のピアニスト…。
 
 そうなのです。
 彼女がドビュッシーの微妙な音の散乱を繰り出します。
 するとじかにわたしたちの眼球が震えます。
 音が白い月の光に変わるのです。
 スクリャービンの神秘な和音を打ち出します。
 するとまた新たな振幅で眼球が振動を始めます。
 夢の断片が飛び交うように不可思議な夜の形象が満ち溢れてくるのです。
 
 音響がそのつど眼球を鋭い震動へ誘うのです。
 
 もちろんベートーヴェンの「月光」でも新しい発見がありました。
 一音一音が響きをさらに深めているとそれは如実に感じました。
 物理的な強さを言うのではありません。
 心の強さ。
 むしろ人生の強さです。
 風呂本さんがこの間に蓄えた人生の質量、それがまっすぐに音を熟させてきたということです。
 古典派の音楽には内面の運動が表現に現れる、そのような独特の構造がもとから備わっているということもあるでしょうが。
 
 現代の音楽の超線形的・離散型・視覚性の表現に対して、あくまでも相対的という条件をつけた上でのことですが、古典派やロマン派の音楽には線形的・収斂型・精神性の表現が強く出るのかもしれません。
 
 風呂本さんの本性としての鮮やかな視覚表現そして履歴としての厚い精神表現。
 新しい年の初めに聴くのには格好の、清冽で深いコンサートになりました。
 
  2009.1.4 Tadakatsu Yamamoto
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貞松・浜田バレエ団 「くるみ割り人形」

端正なプリンス、武藤天華

 貞松・浜田バレエ団の年末公演「くるみ割り人形」は、バレエ団の一年の集大成であるとともに、いまや年の瀬の神戸の風物詩です。
 この2008年は20日と21日の二日間、「お菓子の国ヴァージョン」と「お伽の国ヴァージョン」の二つに分けて、神戸文化ホールで行われました。
 正木志保さんのクララと武藤天華さんのくるみ割りの王子で上演された初日の舞台を見てきました。
 
 神戸の街にこのように「くるみ割り人形」が定着したのは、やはりバレエ団をリードする貞松正一郎さんと上村未香さんが長い年月にわたってとてもエレガントな王子とクララを作り上げてきたからだという事実、この金字塔は永遠に揺らぎません。
 市民の間には、ですからふたりへの愛着が強くあります。
 それだけに後に抜擢されるダンサーは大変です。
 正一郎さんや未香さんを真似ようったってあそこまでエレガントな踊りというのはそうそうできるものではありません。
 といっても、ニューフェースの主役はニューフェースの主役なりにはっきりと見どころを示すことができないと市民は納得しないでしょう。
 
 クララ役の正木さんはすでに実績を持つ幅の広いダンサーですから、みな安心しています。
 いきおい若い武藤さんに注目が集まりました。
 
 武藤さんの経歴をながめると、くるみ割りの王子の役柄はこれが最初ではありません。
 しかし、都市神戸の風物詩とまでいわれるこの師走の大舞台で務めるのはこの夜が初めてです。
 この夜こそプリンシパルとして本格デビューだったといってもいいでしょう。
 幕が揚がる前の客席に期待半ば不安半ばの二重の空気があったのは当然のことでした。
 
 でも結果はなかなかのものでした。
 均整のとれた美しい肉体と整った容貌を持っていること。
 これが、不格好な人形がとつぜん凛とした王子に変身する、あの劇的な闇の一瞬にきらめきました(第一幕)。
 動的で鋭い動きを持っていること。
 それがネズミ軍団とのクリスマスイブの戦いをお菓子の国の精たちに報告する、あの愛と誇らしさに満ちたマイムのなかで生きました(第二幕)。
 そして、これはおそらく正一郎さん譲りと考えていいでしょう、無駄をそぎ落とした端正で説得力のあるフォルム(形、表現力)を持っていること。
 それが最後の見せ場、正木さんとの終幕のグラン・パ・ド・ドゥに大きな花となって咲きました。
 
   エレガントな正一郎王子から、端正な表現を吸収しながら、ちょっとストロングな天華王子が誕生しました。
 とりわけ重責への謙虚さと誠実さが輝きました。
 バレエ団がまたひとつ表現の幅と豊かさを広げたわけです。
 
 それにしても神戸のバレエファンの反応はシャープです。
 技量を発揮したダンサーにはその努力を称賛していちだんと強い拍手が贈られます。
 むろんバレエ団のたゆみない研鑽あってのことですが、バレエ団を育てている市民の心、その内なる力もまた団の発展の大きな要素になっている、とそんなふうにも思いました。
 家路につく観客たちの、あの幸福そうな顔といったら…。
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撮影:岡村昌夫(テス大阪)
  2008.12.21 Tadakatsu Yamamoto
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ブラジル×日本 旅が結ぶアート

21世紀の対話

 兵庫県立美術館で「ブラジル×日本 旅が結ぶアート」展を見ました(2008年11月1日〜12月7日)。
 いまブラジルで活躍している3人の美術家のホットな作品を紹介する企画です。
 マゼ・メンデスさん、ジョゼ・アントニオさん、フランシスコ・ファリアさんの作品です。
 ひとつの力とそれに対抗する力、そのふたつの力のせめぎ合いがぐいぐいと作品にあらわれる、そのようなひとたちです。
 
 マゼ・メンデス(Maze Mendes)さんは都市空間への関心を強く持っている抽象画家です。
 鮮やかな色彩で満たされた画面には、垂直方向に伸びやかに広がる色の縞、そしてときに橋梁のような構造体のシルエットが水平方向に出てきます。
 とりわけ舗道の水溜りをデジタル写真に撮った一連の作品がこの画家の体質を象徴的に示します。
 水溜りには独特の不思議な構造があらわれます。
 そこには逆さまの街が映りますが、ただ正確に映るだけではない、なにかそれ以上のものがひそかに潜入しています。
 見えているのに、見えないもの。
 もっと深くて、もっと高くて、もっと明るく輝くもの。
 都市はひとつの機能的な構造体ではありますが、物理的な構造を築くことで、構造以上の何かを生み出しているのでしょう。
 その剰余の部分を作家の感性が鋭く捕捉するのです。
 
 ジョゼ・アントニオ(Jose Antonio)さんは、ナイロンや布や鉄を使ったインスタレーションと抽象的な絵画作品を出しました。
 天井から吊るされた立体にせよ、平面に描かれた絵画にせよ、そこに鋭いリズムと豊かなメロディーがあらわれる、それがこの作家の特性です。
 「トラマス(横糸、筋)」という作品は、蝶の羽ともヨットの帆ともあるいは女性の下着の一部ともみえるたくさんの小さな布片(ビニール)を、何本もの紐にかけた大きなインスタレーションです。
 緊張した紐のラインがリズムを空間に刻みます。
 布片は空間いっぱいにメロディーを奏でます。
 音楽の世界で骨格と構造をつくるのはリズムです。
 メロディーがその骨格と構造を壊しながら外へ向かってはばたきます。
 音楽のその根源的な両義性を思い出さないではいられません。
 アントニオさんの制作にはその相反する力学が同時にそしてビジュアルにあらわれます。
 
 フランシスコ・ファリア(Francisco Faria)さんは、さて、奇才のわざといってもいいその精密な鉛筆画をどんなジャンルに分けたらいいか、少しばかり迷います。
 ブラジルの自然を描き続けていますから、ひとまず風景画といっておいていいでしょう。
 川面のさざなみのそれこそひと波ひと波が、岸を埋め尽くす木々の葉のそれこそ一枚一枚が克明に描かれます。
 ですが、いわゆる写実とは微妙におもむきが異なります。
 写実で重要なのはまず形態、そして色です。
 木は木の形をして、木の色をしていなければなりません。
 しかしファリアさんが第一に求めるのは、どうやらもっと別のもののようなのです。
 それはたぶん、自然にみなぎる強度です。
 樹木の強度、森林の強度、水の強度、河の強度、海の強度、空の強度…。
 それが黒鉛筆だけで描かれます。
 そこには単に自然と画家の交流とか共感とか均衡といったものでは言い尽くせないもっと厳しいスリルがあります。
 むしろ自然の力を洗い出す闘いです。
 画家はブラジルの大きな自然を愛しながら、その自然と決闘を重ねているのです。
 
 これら三人の作家をいまさら「ブラジルの作家」と呼ぶのは、あるいは用語法がずれているかもしれません。
 ぼくらがこれらの作品の前で感じるリアリティー。
 それは、彼らがブラジル人でありぼくらが日本人であるというそれぞれの立場にはもはや何の関係もありません。
 同じ二十一世紀に、同じ地球で生きている人間の、これはじかに体で響き合う対話です。
 
  2008.12.4 Tadakatsu Yamamoto
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菊本千永モダンダンスステージ?

切り立った三つの作品

 藤田佳代舞踊研究所のソリスト菊本千永(ちえ)さんのリサイタルが神戸の兵庫県民小劇場で開かれました(2008年11月22日)。
 藤田研究所では主だったダンサーたちが「モダンダンスステージ」と銘打って、数年ごとの回り持ちで、それぞれの創作の成果を観客に問うことになっています。
 菊本さんの出番はこれが三回目になります。
 
 三部に分けて六つの作品が上演されました。
 ここ何年かのうちに作り貯められた作品を並べた第二部のプログラムの中でとりわけ「GIFT」と「memories」と「doppelg?nger」の三作品が切り立った印象を残しました。
 
 「GIFT」は黒い衣装と白い衣装の二人のダンサー(金沢景子、向井華奈子)が、小さな箱を小道具にして踊る舞台です。
 小箱は、地球の運命を決めたパンドラの箱のように、人の運命を潜めている秘密の容器というわけです。
 蓋(ふた)を開けてしまったときのおののきがくっきりと描かれました。
 
 「memories」は、目すなわち眼球をテーマにしたようなダンスでした。
 すっきりとしたシャツとパンツの四人のダンサー(寺井美津子、かじのりこ、鎌倉亜矢子、灰谷留理子)が、簡潔な動きで絶えず対称的なフォーメーションを舞台に繰り広げていきますが、そこで最も強い存在感を発揮するのはそれぞれの眼球です。
 人がそこに在るということは、目がそこにあるということなのかもしれないな、とそんな思いにさえさせられました。
 創作メモには「直視したくないことほど、人は少しずつ異なったたくさんの記憶をつくりあげる」とありました。
 
 「doppelganger」は、ごくかいつまんでいえば“キゼンとした私”と“ショボクレた私”の踊りと言っていいでしょう。
 二人のダンサー(金沢景子、菊本千永)が、同じ衣装で二人の私を表現します。
 正面を向いてカツカツと進む私と、うつむいてトボトボと進む私がいます。
 決然たろうとする私と迷い続ける私…。
 身につまされるところもありました。
 
 上演作品はほかに、第一部で新しい大作「ゴーストバスターズ」、第二部で「cuddle me」、そして第三部で研究所主宰・藤田佳代さん振付の「歩く」(再演)。
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「memories」 撮影:中野良彦
  2008.11.22 Tadakatsu Yamamoto
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KOBECAT 0047
2008.10.10 神戸文化ホール(中ホール)
貞松・浜田バレエ団「創作リサイタル20」

――4つの作品と、「BLACK MILK」――
■山本 貴士


から射す光は以前あったかなかったか。森優貴の作品「羽の鎖」の再演。昨年の初演で森は文化庁芸術祭新人賞を受賞した。音楽はグレツキの交響曲第3番から。旋律というよりは響き―地響きのような管弦楽、その上を高く舞うソプラノの独唱。歌われているのは民衆蜂起で殺された子への母親の悲痛な叫び。8人の女性によるダンス。
 初演の新神戸オリエンタル劇場は何より客席の天上の低さのためと思うが舞台に高さを感じない。今回、舞台の高さと広さが作品の輪郭をいっそう明確にした。あるいは初演と同じ踊り手たちの、より深まった解釈が舞台世界を天と地の方向に押し広げたのか。おそらく究極的には野外で演じられるのがふさわしい作品なのだろう。すでに、この作品の深い大地への志向が指摘されている(山本忠勝「森優貴振り付け『羽の鎖』―こちらと向こうが出遭う場所―」参照)。生命を産み出す母なる大地、もしくは、大地なるものとしての母親。
 ところで森自身は歌詞を意識していないと書いている。女性の強さを表現したいのだと強調している。これは、女性=母という「古典的な」枠組みに女性を押し込まないようにという意図だろうか。いったい人間は、そのさまざまな「性」を取り払って自由を得ることができるのか、どうか。重厚なグレツキの音楽の中で、彼女たちはそうは高く飛翔できないようにみえる。確かにこれは問題提起である。

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「羽の鎖」撮影:古都英二(テス大阪)
 これまでの森の作品がいつも「最新の」振付であり、はたして森自身のイメージに真の形が与えられているのか吟味されるべき問題であるのに対し、貞松正一郎はいつも一貫してクラシカルである。貞松の「黒と白のタンゴ」は98年の作品の再演。ピアソラの曲を中心に6つの情景が踊られる。
 タンゴというのは言うまでもなく男と女の踊りである。だがこの作品では、女たちはむしろ「あしらわれる」といった感じ。完全に男たちが主役のダンス。カッコいい男がカッコいいんだぜと、いまひとりの男前、川村康二に二枚目を踊らせても貞松は彼の古典的美学を踊りつくす。粋なプレーボーイのイデア(原像)をそこに現出せしめたようで、男も女も思わず見惚れる。
 しかし、フィナーレ「フラカナバ」。とにかく貞松と川村が同時に舞台に立つと、凄いのだ。貞松の比類なき優雅さと、川村の完璧にコントロールされた豪快さ、二つが相俟って、もうこの二人にできないことは何もないような気にさせられる。優れた男性ダンサーが多く在籍する貞松・浜田バレエ団だが、1と1が2ではなく、10にも100にもなる劇的な化学反応。そんな無敵の相乗効果を、実際にまのあたりにしないでは信じられまい。
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「黒と白のタンゴ」撮影:古都英二(テス大阪)
 バレエ団団長 貞松融による「ボレロ」。81年の初演以来、最多上演演目になっているという。もちろんモーリス・ラヴェルの「ボレロ」。ジョルジュ・ドンにしてもギエムにしても一人で踊る。いや、大勢で踊るのだけれど、主役は一人、それが終始一段高いステージに立っており、あれは酒場で踊りだした一人の踊り手とギャラリーということらしい。貞松融の「ボレロ」もはじめは一人(瀬島五月)で踊っているが、すぐに群衆の中に溶け込む。これはむしろ群集のダンスとして作られている。有名なベジャールの振付では、15分の曲の最後に、人々は彼らの王ないし女王、あるいは生け贄(生け贄はその生のクライマックスで人々の王として君臨する)にひれ伏して終幕となる。貞松版では「くるみ割り人形」の「雪の国」のクライマックス(同バレエ団のこの場面のコール・ド・バレエは毎年息をのむ美しさである)よりもはるかに大規模な人間の塔を形づくる大団円。団長 貞松融の社会性への関心がうかがわれるようで興味深い。
 バレエ団のシステムにしてからがそうなのだ。上村未香がバレエ団のプリマであるのは間違いない。ただ、松山バレエ団に森下洋子あり、といった形とは違う。上村とは対照的とも言っていい特質をもった瀬島、そして正木志保(上村の休養中には堂々とプリマの役割を果たした)、大江陽子(春先に彼女が踊ったシルフィードは素晴らしかった)、安原梨乃(この冬にはとうとう彼女のクララが見られる)ら、個性と実力をもったダンサーが並び立っているという水平的な構成である。貞松融のバレエ団のあり方の理想と、浜田蓉子の美への情熱、これが現実に実を結び、これだけ層の厚いバレエ団を作っているというのは驚くべきことである。理念と現実の組織というのはいつもズレるものであるのに。「ボレロ」はこの集団にとって象徴的な作品なのだろう。
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「ボレロ」撮影:古都英二(テス大阪)
 最後のプログラム。後藤早知子の振付作品「光ほのかに―アンネの日記」。初演は91年。私たちが日本人として、あるいは日本にいながら世界に向けて表現する世界人として、ユダヤの人々が、しかしユダヤの、というよりは数えきれないあまたの生活者が無惨に殺された、その出来事をどう語るべきなのか。
 凄惨なその虐殺の以前に芸術が何もなし得なかったこと、大虐殺は喰い止められなかったこと、あとになって、安全な場所で虐殺を扱おうとする無数の作品が作られつづけていること。「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」というアドルノの言葉はそういう意味だったはずだ。詩は書かれつづけなくてはならない。アウシュヴィッツは語られつづけなくてはならない。だが、どれだけ深刻ぶってもだめだ。気安く語れるのは、私たちが遠い安全な場所に身をおいているからである。だからこそ、ハリウッド女優のオードリー・ヘプバーンは戦後、彼女が戦時中ナチスへの抵抗運動に加わり、レジスタンスの資金集めのためにバレリーナとして踊っていたその同じとき、その同じオランダで隠れ家での生活を送っていた自分と同年生まれのアンネ・フランクを演じることを拒んだのだ。語ることのそうした困難さを分かち持とうと努めないなら、私たちには資格がない。
 ナチスの旗を舞台に掲げ、制服のゲシュタポを登場させることの危うさがある。ヴィム・ヴェンダースの映画「ベルリン 天使の詩」の中で、あれはネオ・ナチの男などではなかった、単に出番を待っているエキストラの若者が、衣装のナチの制服を着て「いかしてる、昔のやつはわかっていた」などと心中でつぶやくシーン、思えば何という重層的な思考に支えられた表現だったろう。鉤十字の旗はいまでこそ死の象徴にほかならないが、当時のドイツ人にとってはハイパー・インフレの苦境から彼らを救済してくれた救いの旗だった。ナチスは悪である。だが、その悪が多数の善き人々の支持によって遺憾なく力を奮ったというのはどういうことなのか。そのことを問わないでナチスを死と恐怖の「象徴」として描くなら、それは童話のオニ退治と変わりはしない。フランク家の出来事ですら、悲運に見舞われた一家庭のホームドラマと映ってしまうだろう。それは作家の倫理に著しく反することである。
 2006年に貞松・浜田バレエ団は、イスラエルのバットシェバ・ダンス・カンパニーのオハッド・ナハリンの作品「BLACK MILK」を上演している。その「黒いミルク」というタイトルが、両親を収容所で殺され、彼自身も収容所を体験し、自殺でその生を閉じるまで終生ナチスの復活を恐れつづけた詩人、パウル・ツェランの作品「死のフーガ」からの引用であることは、おそらく間違いない。


    TODESFUGE


    Schwarze Milch der Fr?he wir trinken sie abends
    wir trinken sie mittags und morgens wir trinken sie nachts
    wir trinken und trinken ……



    明け方の黒いミルクぼくたちはそれを晩に飲む
    ぼくたちはそれを昼にそして朝に飲むぼくたちはそれを夜に飲む
    ぼくたちは飲むそして飲む
    (……)
    かれはかれのユダヤ人たちを口笛で呼び出し地面にひとつの墓を掘らせる
    かれはぼくたちに命ずるさあダンスの曲を奏でよ
    (……)
    かれは叫ぶもっと甘く死を奏でよ死はドイツからきたひとりのマイスターだ
    かれは叫ぶもっと暗くヴァイオリンを弾けそしてお前たちは煙となって空中に昇る
    そしてお前たちは雲の中にひとつの墓を持つそこは横たわるのに狭くない ……
                                          (中村朝子 訳)


 バケツの中のタールのような「黒いミルク」を顔に、体に塗りつけることによって狂気に襲われる男たち。掌で相手の額をつかみ、一種の暴力的バプテスマ(浸礼)を施そうとする仕種の反復が印象的だった。キリスト教とユダヤ教の関係について何か言おうというのではない。ここにあるのは、「救済=殲滅」という図式である。救済の論理と殲滅の論理があまりにも似てしまうということ。死は「マイスター」の技術でもたらされる。もはや神話の時代のように苦痛を与えている時間などないのだ。できるだけ速やかに、できるだけ多く─。
 ナハリンの作品の「筋」は極めて簡素なものだった。黒い液体を塗る−男たちを恐慌が襲う−黒い液体を洗い落として平穏に戻る。そして作品全体には奇妙にユーモラスな雰囲気が漂っていた。だが、そこには語り得ぬものを前にして、何重にも折り畳まれた思考がある。これは、よく練られている、といったことではない。それはむしろ延々たる躊躇の軌跡なき軌跡、重篤な失語症の症候といったものに近いかもしれない。
 後藤の作品「光ほのかに」でもっとも印象深かったのは、その最後の光景、アンネを踊り、家族を踊っていたダンサーたちが、舞台のすべての幕を上げた剥き出しのコンクリートの壁の前で並びたたずんでいたその光景である。沈黙と静止が強く私たちの心に訴える。その沈黙は真だった。そしてそこが出発点である。
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「光ほのかに−アンネの日記」撮影:岡村昌夫(テス大阪)
 厳粛な作品を作らねばならないのだろうか。希望よりも、より絶望について多く語らねばならないのだろうか。この点で勘違いをしている作家は少なくない。彼らは自分の恐怖と絶望を他者に押し広げようとするようにみえる。この点で、後藤の表現は正当な認識に支えられていた。「光ほのかに」の美しい場面。アンネの心から希望が失われることはない。ときに強くそれが湧きあがり、彼女の背後で「光」たちのダンスがはじまる。彼女たち、希望の列がアンネのうしろにつづく。つまり希望を抱く個の中には、希望を育む複数があるということ。すでに絶滅収容所の人々以前に、絶望の中で繰り返し育まれた無数の希望があるということ。つまり希望とは、ひらめきや思いつきなどではなく、圧し殺され途切れながらも、決して完全に絶えてしまうことなくつづいてきた歴史なのだということ。
 アンネは上村未香によって踊られた。地団駄を踏んで怒る、腰に手を当てて威張る、それら永遠なる少女性の仕種。貞松正一郎の体現する優男のイデアというものがあるのなら、また少女のイデアというものがあるのだろう。上村を通じて観客はそれをかいまみる。哲学者ジル・ドゥルーズがキャロルの「アリス」をめぐって「少女とは何か」と問うた、上村の踊りは、そのときそうした問いとして立ち現われる。生半可なダンサーではだめなのだ。上村のような並はずれた踊り手において、はじめてダンスは謎、問題となり得る。
 いつか上村が有名なバルコニーのシーンのジュリエットを踊ったとき、為された所作よりはるかに多い為されなかった所作、つまり仕種の無数の微小な萌芽を繊細に表現することで、恋にふるえる少女を途方もない可憐さで演じた。しかし恋とはすでに少女の自足性を剥ぎ取るものである。少女たる少女とは、為して為されなかった行為などあとに残しはしない。相手に構える態勢を取る間も与えず、電光石火の早業で為して為す存在である。傍若無人というよりは、少女のスピードに誰もついていけない。思考と所作の一致、あるいは所作のスピードでなされる思考。不意打ちと疾駆。上村の踊る少女にいったい誰が追いつけようか。
 STAFF 芸術監督 貞松融、浜田蓉子/照明 柳原常夫、加藤美奈子、ライティング・セブン/衣装 堀部富子、中江三従子/舞台監督 坪崎和司
2008.11.6
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KOBECAT 0046
2008.9.23 尼崎・アルカイックホ−ル
貞松・浜田バレエ団「コッペリア」

――秒針幻想…神の創造 そして人間の挑戦――
■山本 忠勝


時計にまだ特別な価値があったころ、クロームの裏蓋(うらぶた)を開いて初めて中を覗かせてもらったときのときめきは、五十年以上たった今も忘れられない。精巧なガンギ車、精緻な髭ゼンマイが渦を巻いているテンプ、不思議な形をしたアンクル…、それらが緊密に組み合わさった機械室は、秩序と均衡と調和に満たされた底深い宇宙であった。機械仕掛けの美しい乙女を陰の主人公にする貞松・浜田バレエ団の「コッペリア」。怪博士の実験室でいろんな機械(人形)が踊るその舞台を見つめながら同時に思い出したのは、その幼い日の記憶、すなわちめまいさえ感じながら腕時計の奥に発見したあの歯車宇宙の光景だった。まぎれもなく「時間」の神秘な光景だった(2008年9月23日 尼崎・アルカイックホール)。

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撮影はいずれも岡村昌夫(テス大阪)
 完璧な舞台というのは、それまで気づくことのできなかった作品の核心部をときに透け見させてくれる。貞松・浜田バレエ団の「コッペリア」はまさしくそのような舞台であった。ポーランドの田舎町に設定された若いカプルのコミカルなラブ・ストーリーが、なぜ「鐘祭り」の日の出来事なのか。町の若者たちが総出で踊る絢爛たるマズルカにもチャルダッシュにも、なぜあんなにきわだった円陣(円舞、輪舞、サークル)が出てくるのか。そして最終幕の中核部分に、なぜあんなに壮麗な「時の踊り」が置かれているのか。
 どれもきわめて深い印象を目に残すシーンだが、実をいうとこれまではそれらのパーツをパーツのまま並列的に、つまり内側で動いているものまでは気づけないまま、表層だけを眺めてきた。「時の踊り」の波状的な美しさと分厚い構成にうたれながらも、しかし「時」という抽象的なモチーフがなぜ第三幕のクライマックスにあんなふうにだしぬけに登場するのか、もうひとつピンと来なかったのである。だが。
 ああ、と小さな声を洩らしそうになったのは、スワニルダに扮した上村未香が怪博士コッペリウス(井勝)の実験室でみずから機械人形のコッペリア(石濱佑依)と入れ替わったときである。機械人形(実はスワニルダ)がまるで今いのちを得たみずみずしい乙女のように、ゼンマイ仕掛けのぎこちない動きから徐々に人間のなめらかな動きへ移っていく、そのダイナミックな変化(へんげ)のさなかのことだった。
 上村未香のスワニルダは巧みに二重に踊られる。なかば、怪博士に眠り薬を盛られてしまった恋人フランツ(貞松正一郎)の容態を気遣いながら、なかば、我が“夢の乙女”コッペリアが命を得たと真面目に信じているその怪博士コッペリウスをからかいながら、二重に、コミカルに踊られる。人間とモノとの混血児のような奇怪な人形たちがずらりと並ぶおどろおどろしい実験室で、だからいっそう際立って、むしろ二倍に明るく、二倍に軽快に、二倍に茶目っ気たっぷりに踊られる。シリアスな振り付けでは毛頭ない。
 だが、プリマ・バレリーナとして自己を休みなく鍛えてきた上村未香の身体は、そのコミカルなダンスのなかでどこまでも鋭く、輝かしく、揺るぎなく、従ってダンス表現のその中心部に、決して緊張を解くことのない針のようにシリアスに、いささかのブレもなくまっすぐに突き立った。重力から解き放たれ、一筋の光芒となって踊るバレリーナ上村未香…。機械がつくる奇妙な風景のまっただなかを蝶のように舞う光…。そのシャープでエレガントな身体と空気の精のような透明な踊りがなければ、たぶんこのヴィジョンは生まれなかったことだろう。
 この美しさはまるで針の輝きだ、その一瞬、そう思ったのがきっかけとなったのだった。
 しかも機械のなかを変転していくこの針はほかのどんな針でもない、時計のなかを進んでいく秒針だ、とそう確信したのがきっかけになったのだ。
 おそらく機械仕掛けで動くものをこの地球上に見渡して、12個の数字からなる正確な円陣(サークル)を揺るぎない規則で巡っていくあの秒針ほど、たくさんの象徴に満たされたものはほかにない。
 そのひと刻みで世界が更新されるのだ。
 世界どころか宇宙が更新されるのだ。
 いまあるすべてのいのちがそのどこかのひと刻みに誕生した。
 いまあるすべてのいのちがそのどこかのひと刻みに終焉する。
 あらゆる悲劇がそのどこかのひと刻みで現われてどこかのひと刻みで消えるのだ。
 あらゆる喜劇もまた同じ道をたどっていく。
 そしてその綺麗なリズムはなんといのちの鼓動に似ていることか。
 そしてその完璧このうえない円軌道は、なんと滑らかに、なんとスリリングに、現実と幻想の接点を移行していくことだろう。
 秒針幻想…。
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 そうなのだ、上村未香の繊細な身体はその瞬間、最も大きなものの象徴としてそこに屹立したのである。
 さまざまな機械たちでぎっしりと詰まったコッペリウスの実験室は、いまや各種の歯車や伝動装置を連結した大時計の精巧な内部であった。そこをダイヤの針さながらの上村未香の秒針が、ブライトに、エレガントに、そしてピュアに、舞い渡っていくのである。もっとはっきりいうならば、時間そのものの化身となって彼女がそこで踊るのだ。きらめくようなリルケの詩句が記憶の奥から現れた。
 
 いま時間が身を傾けて 私にふれる
 明るい 金属的な響(ひびき)をたてて。
 私の感覚はふるえる 私は感じる 私にはできると―
 そして造形的な日をとらえる      (富士川英郎訳)
 
 時間。それは、造形すなわち、創造の言い換えにほかならない。創世記は神の最初の七日間の創造を克明に、時系列的に記録する。古事記の国生みの叙述にも、背後には時間の揺るぎない流れがある。バレエ「コッペリア」は、若者たちのドタバタを前面に押し立てながら、しかし実は幾重もの意味を内部に潜めた、まさしく時間の踊りだったのだ。ほかならぬ創造のダンスであった。
 だからこそ、次々と舞台に登場するあれら豊かな象徴の群れ。鐘は時を告げ、だとするとその田舎町に新しい鐘が吊るされるその日は、新たな創造へと踏み出す記念の日にほかならない。おりしもその祝祭の日にフランツとスワニルダの婚礼も重なって、恋人たちもまた新しい創造の季節へと歩を進める。機械時計は象徴的にも中心の一点と美しい円(サークル)からなるが、それはとりもなおさず広大な宇宙の縮図で、したがってそのような目で見つめると、第一幕の群舞にきれいな円陣(時計、宇宙)が示されるのは、この作品の深い射程を暗示する重要な仕掛けだと読めてくる。ならば第三幕の「時の踊り」は第一幕に呼応して作品のクライマックスに現れる時間のヴィジョンの集大成で、すると、それに続く「あけぼの」の踊りは天地の開闢(かいびゃく)に、「祈り」は神の顕現に、そして「仕事の踊り」は神による創成の労働に、自然に重なることになる。
 わたしたちは目でラブ・コメディーを楽しみながら、心で宇宙の創成神話にひたるのだ。
 無限の深淵に築かれた広大な舞台である。
 だとすれば、締めくくりにあたって、この作品に秘められた強い毒にも少しは触れておかないといけないだろう。
 コッペリウスの実験室は、もはや単に化学と物理学の部屋ではないということだ。そこは錬金術の部屋である。錬金術とは、なにも銅を金に変えて大儲けをすることが目的の魔法などではないのである。マクロコズム(大宇宙)とミクロコズム(小宇宙)が出遭うその場所はあらゆる創造の源泉が潜む秘所で、だからそこでの最終的な欲望は、いずれ、より純粋な生命を生み出すこと、むしろいっそう卓抜な人間を創出すること、完璧に霊的な人間を創造することに向かっていく。コッペリウスは、ほかでもない、神がつくりたもうた女よりもっと美しく、もっと完全な女をわが手で生み出そうとした冒険者だったのだ。神のしわざへの挑戦者だったのだ。
 スワニルダにからかわれているとはつゆ知らず、“我が理想”コッペリアがいのちを持ったと信じ込んだ井勝の怪博士コッペリウス。その異端の喜びは、エクスタシーの奔流となって博士の肉体を貫いた。歓喜はつかの間の幻想でしかなかったが、確かに神を超えた歓喜の一瞬だったのだ。
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 さて、二十世紀を象徴する舞踊団のひとつ、フランスのローラン・プティ・マルセイユ・バレエ団は、怪博士コッペリウスの人形愛にある種の倒錯的な情動をにじませる新演出で「コッペリア」を上演した(1976年)。発表当時は世界のバレエ界に大きな衝撃を放ったが、しかし今あらためて振り返ると、創造原理(神)との対決という大きな原作のスケールが、この新しい振り付けで個の心理的なもだえという相対的に小さなレベルに縮小されたという観も否めない。二十世紀はそのようにあらゆる芸術を人間の条件で読み替える世紀であった。だが個に閉じ籠められた絶望と悲しみは、孤独な袋小路から出られない。出口もないし、他者との和解もないのである。
 一方、怪博士をからかってその夢を打ち砕いた上村未香のスワニルダと貞松正一郎のフランツは、最後には許しを乞うて婚礼の持参金を差し出すが、井勝のコッペリウスはシンボリックにもこれを拒み、拒んだうえで和解する。最終幕のごく短いシーンだが、井勝の一瞬の表情とともにそこで意味されるものは大きくて深い(原演出では、コッペリウスが仲介の村長から金貨をせしめて立ち去っていくのである)。確かにコッペリウスの企ては挫折して、彼は絶望のなかへ滑り落ちてしまったが、しかしどっこい、この21世紀の怪博士は内なる夢への希望まではまだ「売り渡さない」のである。金で取引はしないのだ。彼はなお秘かに宇宙的視界のなかで自己の錬金術を推し進め、彼の機械たちに囲まれながら、彼の時間を強力に生きるだろう。
 ローラン・プティの怪博士は孤独のなかに悲しく立ち尽くすほかなかったが、貞松・浜田のコッペリウスは最後に若者の輪に入ってダンスに浮かれ、体と心をほてらせながらまた自分の実験室へ帰っていく。
 そしてわたしたちのこの現代にあって神なるものとは、それら異端の企ても悠然と抱き込みながら、なお巨大な創造を推し進める強靭な全体者のことである。
 貞松・浜田バレエ団の「コッペリア」(ホフマン原作、サン=レオン原振付、ドリーブ音楽、全3幕)は同バレエ団と尼崎市総合文化センターの主催で2008年9月23日、尼崎市のアルカイックホールで上演された。貞松正一郎の演出および改訂振付で、オーケストラは堤俊作(音楽監督)指揮の大阪シンフォニカー交響楽団。演奏も完璧で、ダンスと音楽の呼応も、この日の観客の大きな喜びとなった。
 STAFF 総監督 貞松融/芸術監督 浜田蓉子/指導 松良緑、堀部富子、長尾良子、小西康子、松良朋子/衣装 林なつ子、工房いーち、鈴木恵以子、中江三従子、原田すみ子、チャコット/衣装デザイン画 小島ゆり/照明 柳原常夫、加藤美奈子、ライティング・セブン/装置 日本ステージ、アステム、NBA、遊カンパニー/舞台監督 坪崎和司/舞台監督補佐 兵庫寛/アナウンス 中江美穂/手話 平井圭子/写真 高田真、大宝智子/プログラム 殿井博/制作補佐 小西直美、吉田朱里、植木千枝子/総務 柏木正巳、宮武正彦、堤貴美子、柏木里恵。
2008.10.12
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クーリヤッタム

宇宙化する身体

 南インドに伝わる古代の舞踊劇クーリヤッタムが神戸ハーバーランドの神戸新聞松方ホールで上演されました(2008年8月3日)。
 現代に残る最古の舞踊劇ともいわれています。
 
 プログラムは、サンスクリットの大叙事詩「ラーマーヤナ」(紀元3世紀)の数ある物語の中の一つ「塔門の戦い」です。
 重々しい魔王ラーヴァナと小ズルそうな猿の神ハマヌーンの対決を軸に、そこに神々の世界のエピソードが奔放にからめられます。
 複雑絢爛な衣装の3人の演者が繰り広げるダンスと語りとマイム、そして素朴な打楽器をベースにした5人の伴奏者の演奏と詠唱、この二つによってそれは演じられていくのです。
 
 爽快なのは、空間と時間のとほうもないスケールです。
 自在に天を翔け、地を走る、これこそ神話的世界です。
 そしてそれは魔王ラーヴァナが聖なる山カイラーサを持ち上げるという段になって、最高潮に達します。
 そのときカイラーサの山頂には神妃パールヴァティーがいて、突然の大地震に驚きます。
 驚き、おびえて、思わず夫シヴァ神にすがりつき、おかげで冷えた夫婦仲にヨリが戻ったというのです。
 
 わずかな目の動き、微妙な指の動き、そのささやかな信号がたちまちにして天と地を動乱に導くさまは、表現の驚異としか言いようがありません。
 真言宗の空海は、頭部から脚部への身体各部に、風、火、水、地、すなわち宇宙の構成原理を配することによって人体を考えよ、と著書「即身成仏義」で述べています。
 そのように配することで身体と宇宙とを同時にとらえよというのです。
 なるほど、あれは単なる比喩ではなかったのだ、と思いました。
 いかにも舞踊において、人体は宇宙そのものになるのです。
 
 あるいは、太古において舞踊というのは、人間の身体を宇宙化する秘術だったのかもしれません。
 
 だとしたら、現代の舞踊は故郷を忘れているといえるでしょう。
 ダンスが宇宙的出来事であることを少し思い出してみることも無駄のことではないのでは、とそんな思いになりました。
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  2008.9.19 Tadakatsu Yamamoto
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Cahier

 千秋次郎    遠い恋歌…浄土へつながる無限平面
 垂直に上昇していく音楽と水平に広がっていく音楽とがある。日本の古い歌謡をもとに千秋次郎が作曲する野心的な合唱曲は水平に広がっていく音楽だ。どこまでも、むしろ無限に広がっていく曲である。あるいは、現代のまっただなかで西方浄土を密かにめざしているように…。西宮混声合唱団(中桐宏二郎団長、73人)の第53回定期演奏会で新曲「遠い恋歌」が発表された(2008年8月24日 兵庫県立芸術文化センター)。
 垂直の方向と水平の方向がくっきりと見えたのは、これはたぶん聴衆の耳への効果と演奏のバランスを考えてのことだろうが、幸運にも合唱団がプログラムの一番目にモーツァルトの「ミサ曲 ハ短調」を持ってきて、そのすぐ後ろに千秋の混声合唱組曲「遠い恋歌」(合唱団委嘱曲)を置いてくれたからである。いうまでもなくモーツァルトは果敢に、間断なく上昇する。これはもう一目瞭然で、俗世から天上の超越者(神)に向かって情熱的に駆け上がる。一方、千秋の新曲は、こちらは少し注意をもって耳を傾けることが必要だが、むしろ俗世に沿いながら地平をひろびろと広がっていくのである。地平線の向こうにまで広がっていくのである。だが考えればすぐにわかることなのだが、わたしたちにはそれが自然なのである。この列島の民族が何世紀にもわたって希求してきた超越者(阿弥陀仏)は、頭上の天空にではなく太陽が沈む方角、すなわち西の地平線の向こうにいた。
 「遠い恋歌」は、日本に伝わる二つの歌謡集からその時代に流行した五つのラブソングを抜き出して(一部の曲は歌詞を作曲家が編集)、そこに現代のメロディーと生命を吹き込んだ歌である。戦国時代の「閑吟集」(1518年)と江戸時代の「松の葉」(1703年)が、選ばれたそのテクストなのである。忍び逢いの胸の高鳴り、夜明けの鶏鳴の口惜しさ、物狂おしい夜の残り香、はかない世をはかないと知りながらだからこそ心を焦がす男と女…。
 モーツァルトの音楽が天上の中心者に収斂するなら、わたしたちの愛の歌は無限に広がる平面をどこまでも漂泊する。それは感覚的な印象だけのことではない。記譜によって明快に数理化された構造上でも、いうなれば数学的にもそうなのだ。千秋の譜面に密度濃く登場する半音階。フラットの周辺に何と多くの音が群がっていることか。それは全音階的な調和と統御の世界(神の世界!)から間断なく外延へ向かって流れ出す。中心から流出する。
 千秋の曲には西欧的な旋法と日本的な旋法との深い結合と葛藤がある。緊密な競合と対立がある。そして最終的には日本旋法の、美しい、微妙な勝利が現れる。
 半音階の巧みな活用。これは不思議な音階だ。平均律のなかにあって、平均律を内部から切り崩す。秩序のなかに組み込まれた一瞬の無秩序。論理のなかの刹那の超論理。だが千秋がこれを扱うと、その不安定な踊り場が単なる通過点に終わらない。独特の強度を得て、無限へと広がる普遍的な水平面になるのである。
 地平線への憧れ。落日への信仰。だがとりわけ重要なのはその無限平面が隅々まで無常観で満たされているということだ。激情に満ちた骨太な呼びかけの代わりに、むしろ微分的に繊細な情感のさざなみがそこにある。遠い明日より今を深く濃やかに生きること…。
 
  2008.9.7 Tadakatsu Yamamoto



大塚温子展

「カメ」と呼ばれた猫がいました

 大塚温子さんの個展の案内状には少し風変わりなことが書いてありました。
 家族の一員だった老猫を介護していたこと、その猫がとうとう最期を迎えたこと、そして将来どこかにその猫と再会できる場があるだろうということ…。
 そういうことを考えながらこのたびの作品を描き上げたというのです。
 
 正直いうと猫のことはすぐ忘れました。
 一匹の猫の死が絵の上に何か影響を及ぼすような、そんなことがあろうとは考えなかったからでした。
 美術はそんなものじゃない、という思いがどこかにあったのだと思います。
 
 でも神戸・トア・ロードのTOR GALLERYできょう個展を見てきて、いま頭のなかを占めているのは大塚さんと19年を一緒に生きたその「カメ」と呼ばれる雄猫のことです。
 「カメ」の死が大塚さんの絵をどんなに深め、高めたか、それは、まったく、一目瞭然のことだったからなのです。
 
 ブルーの世界をまるで大河が横切っていくように、微細な赤や緑や紫を点描ふうに散りばめた作品は、タイトルに「無題」とありますが、これは間違いなく宇宙のかなたへ想像を誘っていくビジョンです。
 可視領域を紫外線の方向かあるいは赤外線の方向に少しずらせば、天の川はこんな絢爛たる流れになって、頭上を渡るのではないでしょうか。
 銀河鉄道の路線図をたどっていけば、「猫の駅」がきっと見つかりそうな気がします。
 
 「青き時間」は今度の個展の最高の作品といっていいでしょう。
 これも深いブルーの空間ですが、そこにハイライトとなって三本の光の塔が立ちました。
 ブルーとハイライトに見え隠れしながら、なにかの記号が天から地へと連なります。
 くさび形の文字のようにも見えますし、宇宙音楽の楽譜のようにも見えますし、星から星への通信信号にも見えるのです。
 不思議なのは、頭では理解できないにもかかわらず、心の底ではとうに親しい記号だということです。
 これは猫たちとわたしたちと、それから宇宙のあらゆる存在との共通言語なのでしょう。
 
   猫の恩返しというモチーフが童話にも出てきます。
 「カメ」は大塚さんにインスピレーションという大きな贈り物をしたのです。
 むしろ一匹の雄猫が大仕事をやりとげて天界へ去っていったというべきでしょうか。
 
 (なおTOR GALLERYで大塚温子展と並行して開かれたPenPen展については本サイトの姉妹ブログ「しゅぷりったあえこお nano」8月7日付けに記事があります)
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「青き時間」
  2008.8.7 Tadakatsu Yamamoto
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KOBECAT 0045
2008.7.13 神戸・イカロスの森
劇団・豪玉万里紀行?「連結コイル」

――悲劇の構造化から悲劇の水平化へ――
■山本 忠勝


村一平というひとりの役者が巧みにふたりの対照的な男を演じた。ひとつの役は戦中から戦後そして激動の昭和30年代から高度成長のピーク期までを教壇に立って生きた大学の教官だ。もうひとつの役はバブル崩壊後の現在をまさしくリアルタイムで生きているIT企業の一サラリーマン(ITコンサルタント)である。教授は温厚な人物だが、思想的にはスジの通った左翼系学者だったようである。サラリーマンのほうも同じように温厚な人柄だが、こちらにはとくに核になる思想といったものはなさそうだ。ただ新しいタイプの知識集約型産業の担い手として、事態を冷静に分析する知的トレーニングはまず過不足なく経てきている。そのふたりがときには舞台上の空間でときにはスクリ−ン(映像)の中の空間で、相前後しながらそれぞれの時間を生きていく。つまりはそれぞれの悲劇を、温厚に、穏やかに、ということは、外には目立つこともなく生きていくということだ。武谷嘉之の脚色・脚本・演出による劇団・豪玉万里紀行?の新作「連結コイル」はそのように二重の構成で、二重の悲劇を、それも静かに、ゆっくりと編み上げた(2008年7月13日、神戸・イカロスの森)。
 原作は札幌市に住むフリーライターの海東セラが大阪女性文芸賞(第24回、大阪女性文芸協会主催)を受賞した同じ題名の中編の小説だ。海東のオリジナル作品には、大学教授は出てこない。主人公は40代を迎えたサラリーマン(原作では環境コンサルタント)とその妻で、物語の中心に置かれているモチーフは、無用の長物になってしまったベッドの解体作業である。夢だった南欧風のマイホ−ムを7年前に完成させ、ベッドもわざわざクレーン車で3階の寝室へ入れたのだが、今は妻が腰痛を発症して床の上で寝る始末。場をとるだけになってしまったそのベッドを荒ゴミの日に出すために、妻の頼みで夫が壊しにかかったというわけだ。題の「連結コイル」も、解体作業の難敵として現れる無数のコイル型スプリングのことである。
 さて、数えれば290個にもなるこの厄介な鋼鉄コイルをどんなふうに外していくか…。
 段取りが綿密に組み立てられ、その段取りを着実に、むしろ偏執的に遂行していく男の姿が主旋律として小説の中心を進むのだが、それ以上に特異なのはハイカラな3階建て住宅に満ちている奇妙な貧しさの空気である。男のIT会社は経営難に直面して給料の支払いも滞ったままである。妻は出版社の記者だったが、これも倒産して、今はパートの仕事でその日暮らしを支えている。ベッドを自分たちで壊すのも、専門の業者に頼む金がないからだ。このままでは間違いなくローンの返済もできなくなる。家を手放すのも時間の問題なのである。だが、あえて奇妙な貧しさと言ったのは、事態の切迫感が一向に表へ出てこないからである。貧しいという意識が稀薄な貧しさ…。しかもそれが不気味なのは、その稀薄さが実はわたしたち読者(観客)に却ってリアルだからである。同じ事態に置かれたら、わたしたちも多分それをそんなふうに、他人事のように感じることになるだろう。そして実感のないままに破局に向かっていくだろう。
 つまり状況はずいぶんと悲劇的でありながら、ことは平板に進んでいくということだ。コイルの精緻な輝きを一個ずつ浮き彫りにしていくような細部の描写を重ねながら(主人公の偏執性ときれいに重なる作家自身の偏執性!)、しかし小説は平板に、言い換えれば始まりも終わりもさしてレベルの変わらない水平面を進んでいくということだ。そして海東のこの小説が武谷の戯曲に置き換えられるとき、これがすなわちこのエッセーでいちばん強調したい論点だが、その水平面にちょっと意表を突く形で立体的な構造が挿し入れられることになる。
 小説の存在を知った武谷がどの時点で教授の挿入を思い立ったのか、そこにこの戯曲の狙いを解く大きなカギもあるはずだが、ここではその詮索には立ち入らない。まず心を打ったのが、戯曲が順序を追って繰り広げていく筋立てより、この戯曲がわたしたちに一気に示す特異な構成だったからである。わたしたちはいきなりある種の複眼的な視点へと誘い出されることになる。片方の目で小説にも書かれているポスト・バブルの奇妙に実感から遠い、稀薄な貧しさを眺めながら、もう片方の目で、こちらは小説には出てこない濃厚な古典的貧しさを目撃することになるからだ。
 教授がわたしたちの前へ最初に現れるのは敗戦後まもない統制経済の時代である。そこではたった一個の鶏卵が自己の生きざまを問うようなのっぴきならない存在にまでなるのである。衣川佳子の演じる妻が闇市でようやく一個の卵を手に入れて夫の食膳に乗せるのだが、教授は妻の思い遣りに頭を下げながらもしかし穏やかに謝絶する。
 「どんなに理不尽な法であっても、それが法としてあるかぎり、私は守らねばならない」
 彼には深い悔悟がある。
 左翼思想を信奉する友人たちが戦争のさなかに次々と拘束された。殺されてしまったものもいる。だが彼は信念を内部に隠して生き延びた。共同体(国、社会)の法は守らねばならないという、いわばソクラテス的大義によって自己を正当化したのである。だが明晰な精神の持ち主であるだけに、日和見と批判されてもしかたがないという悲しみが胸の奥を離れない。いま闇の卵を食べるのは、その日和見的な弱い自分をいよいよ決定づけることになる。法が強大なときには法に隠れ、法が脆弱になったときには法を破る。二重の欺瞞を犯すことになるのである。そこまでは自分をおとしめたくはない。
 重要なのは一教授のこの悔悟を通して、ひとつの時代がわたしたちの前に構造的に甦ってくることだ。たった一個の食材がひとりの人間の全思想を照らし出し、そればかりか社会の全構造を照らし出す、そういう時代がかつてあったということを思い出すことになるのである。闇市の卵を前に、それを食べた人間と食べなかった人間、その双方の立場の違いがくっきりと見えた時代があったのだ。さらには最初から食べることのできない階級とそんなひどい時代でもじゅうぶんに食べることができた階級、その二つの階級が鮮明に見えた時代があったのだ。ひとりの個人から共同体(国、社会)の全構成員にいたるまで、あれか、これか、あちらか、こちらか、すべてが二つのうちのどちらかに振り分けられた時代である。貧しさから永久に抜けられそうにない階級、そしてその貧しい人びとの労働の上で却って豊かさを増す階級…。教授はもちろん社会を批判的に見る知識人のひとりとして大学の講義でもその非人間的な局面を構造的に定式化する。
 「資本主義社会では、労働者は自分たちの労働からいつも疎外されることになる」
 なにもここで唯物論的弁証法のおさらいをしたいわけではない。教授は戦後最大の労使対決となった三池炭鉱の大争議(昭和34年―35年)にもオルガナイザーとして加わった学者のように設定され(三池闘争は実際にマルクス経済学者で九州大学の教授だった向坂逸郎が現地に入って全面的に指導した)、「三池は勝つと思ったが…」と述懐するシーンなども点景のように挟まれているのだが、この戯曲がわたしたちに深い印象を刻んだのは、戦後の前衛運動の消長をかいつまんで描き出したからではない。貧しさをどう感じ、どうとらえるか、その意識の差異をくっきりと彫り出したからである。
 意識のあり方が大きく変化したのである。すると見える風景が違ってきた。ひとりの個人の貧しさの原因が単にそのひと個人の能力や努力や運・不運に収まらず、そこに社会の全体的な構造が圧倒的な力をもって重なった、そういう時代がかつて確かにあったのだ。あのころは貧しさがだれの目にも構造的に見えていた。だが気がつくと、ひとりの個人の貧しさが、いくらかは社会に原因があるにせよ、大半はその個人の個別的な状況としてしか見られなくなっていた、そういう時代にいつしかなっていたのである。社会にもまだまだ不完全な面はある、しかしより大きな問題は能力と努力そして運がおまえに欠けていたそのことだ、というわけだ。貧しさはいまや構造を失って、茫漠とした水平面で眺められているのである。
 むろん、認識論にまで降っていくと、ことはいささか微妙な論争に行き当たる。社会が劇的に変化して、それに伴ってわたしたちの意識も劇的な変化を遂げたのか。逆に、わたしたちの意識が劇的に変化して、それに伴って社会も変化を遂げたのか。それとも、社会の根幹は変わらないまま、わたしたちの意識の変化に伴って、視界が変わることになったのか。あるいはむしろ、社会も劇的な変化を遂げ、わたしたちの意識も劇的な変化を遂げ、しかし必ずしも双方に原因―結果のストレートな関係はなく、むしろ社会と意識の絶え間ない混乱とズレこそが恒常的なものなのか。
 だが今その争点に関わっては論点を拡散させることになる。なによりもここで見据えておきたいのは、かつては構造的に、従って恒常的なものとしてきわめてリアルにとらえられていた貧しさが、今はその構造が解体して、むしろ水平的に、従ってなにか夢の中の一時的な出来事のように稀薄にとらえられているということだ。
 記者の仕事を失ってしまった妻も、いま失職の瀬戸際に立たされている夫も、自分たちのその苦境を資本と労働の対立(階級対立)といった明快な構図によって、構造的に把握する意識からすでにほど遠いところにいる。出版社にしてもIT企業にしても、失敗は経営者個人の手腕あるいは見通しの甘さによる特殊個別的な破綻である、自分が社長の立場なら、同じような失敗をしたかもしれない、そういう不思議な共感さえ言葉のはしばしに現れる。貧しさと豊かさはいまや同じ水平面のモザイク模様なのである。濃度の違いに過ぎないのだ。
 とりもなおさずそれは、悲劇の形が大きく変わったということだ。教授は構造を見据え、その構造を覆すことに全力を傾けながら、しかしそれを達成できなかった無力感にひっそりと沈んでいく。構造の悲劇である。巨大な一つの階級の歴史的な敗退だ。一方、彼の孫の世代にあたるサラリーマンは、モザイク状あるいは襞状の濃淡が果てしなく広がる水平面で、寡黙に、穏やかに、無力感を漂流する。水平の悲劇である。ささやかな個人のまさしく個人史的むしろ自分史的敗退だ。
 290個のコイルを解体し終えた夫が、見守る妻を横にして、まるで独り言のように言うのである。
 「一個一個になったら、全然ちゃうなあ。こんなにバラバラや。全然ちゃうもんになるねんなあ」
 それにしても、この水平化の時代をすでにひたひたと浸食している新たな疎外の深刻さと不気味さにわたしたちはまだじゅうぶん気づいていない。戯曲「連結コイル」が最終的な射程に置いているのも、たぶんそこのところである。構造の時代には、疎外は連帯への入り口だった。万国の労働者よ、団結せよ! 階級的アイデンティティへの共通の土壌であった。だがこの水平化の時代には、疎外は域外への個別的な追放だ。ひとりひとりが荒野へ追われるリアとなる。叫んでもそれに答えるものも和するものもないのである。今度こそ本物の孤独がやってくる。
 さて、どうする。
 いや、どうしよう。
 「全然ちゃうなあ」と語る中村一平のその最後の台詞の声色には、孤独の場所での居直りとでも形容しようか、なにかしら新しい形の自立と連帯と再生を予感させるかすかな明るさもあったのだが…。

 武谷嘉之が主宰する劇団・豪玉万里紀行?の第6回公演「連結コイル」は2008年7月11日から13日まで神戸・三宮の小劇場イカロスの森で行われた。坦々と運んでいく二組の夫婦の物語を中村一平と衣川佳子がそれぞれ二役で好演したが、ほかに渡辺由美、赤松由美、平松京子が電話の声、アナウンサーの声として出演した。
 STAFF 照明プラン 鬼無桃犬郎/照明オペレーター 河西沙織/音響 山本慎也/制作 江間敦子/映像制作 奈良産業大学山田ゼミ/制作協力 コドモドア局
2008.8.2
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神戸二紀女流作家展

精緻な時間、巨大鉄橋、奇妙な遊園地…

 神戸二紀女流作家展が神戸・三宮のギャラリーほりかわで開かれました(2008年7月10日〜15日)。
 神戸二紀(二紀会兵庫県支部)でめざましい活動を続けている女性作家の18回目の合同展です。
 22人が力作を並べました。
 
 合同展となるとやはり強い個性を発揮する作家のほうに目が行きます。
 群を抜いているのは「刻」のシリーズを描いている津田仁子さんです。
 機械仕掛けの人形が中心的な役割を果たすのはこれまでと変わりませんが、今回はそこに旧い機関車や双葉機などの精巧なミニチュアが加わりました。
 スーパーリアルな砂時計やランプとともにまさしく精緻な時間がそこに出現しています。
 
 がしっとした構造体の表現に惹かれている向田友美さんの今回の作品は「鉄橋」です。
 余部鉄橋がモチーフでしょうか、橋脚の下からまるで天空を走るような単線鉄道が描かれました。
 高さを表出するというのはそれじたいが空間のドラマです。
 
 八木茉莉子さんの不思議なビジョンはいつも不安な夢のようですが、今回の「ある日」には、遊園地がもつ二重性のようなものが漂います。
 遊園地はもちろん喜びのために造られる場所ですが、どうかすると設計されたもの以外の何かが忍び込んできて、喜びの裏側を奇怪に侵食するのです。
 闇のようなもの。狂気のようなもの。喪失のようなもの…。
 
 岡和美さんは街のショーウィンドーを見つめ続けているひとです。
 ひと昔前だったら、虚飾の空間の典型として芸術的には格下の題材と見られたでしょう。
 けれど岡さんはこのガラス世界への愛を貫き、いまや確かに独自のビジョンを切り開こうとしています。
 あと少しでいよいよ最も強く言いたいことがビシッと現われてきそうです。
 
 中畑佳子さんの「夢もよう」は、3メートルを超えるでしょうか、細い帯のような奇妙な絵です。
 ブルーとグリーンを基調にして、惑星のような、星座のような、あるいは星間に満ちる波動のような、定めがたい形象が連なります。
 宇宙の音楽を「見る」ようです。
 宇宙創生の絵巻物のようなのです。
  2008.7.14 Tadakatsu Yamamoto
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Cahier

 F.ノボトニー & 伊藤ルミ    天空への情熱、大地への憧憬
 天空へ上昇したいと熱望する根強い憧れの系譜がある。イカロス、ファエトン、そしてたぶんアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ…。フランティシェック・ノボトニー(チェコ)が奏でるヴァイオリンの澄んだ音色はその系譜が今も力強く生き続けていることを証明する。大地の母に支えられていたいと熱望する原始からの憧れの系譜がある。ガイア、イシュタル、あるいはイザナミ…。伊藤ルミが弾くピアノの深い音響はその大いなる女性性への憧憬が完璧に満たされるそういう瞬間が現実にあることを保証する。神戸新聞松方ホールで開かれた「フランティシェック・ノボトニー&伊藤ルミ デュオ2008」は、天上を目指す精神の精緻な響きと大地が織り出す豊麗な感情の響きとの豊かで深い共振だった(2008年6月28日)。
 グリーグの「ヴァイオリン・ソナタ第3番 ハ短調 作品45」(1886年)とリヒャルト・シュトラウスの同じく「変ホ長調 作品18」(1888年)。対照的な曲想である。43歳のグリーグはきわめて大胆な飛翔によって、混沌とした激情の奔流から輝くばかりの清明な精神を紡ぎ出す。24歳のシュトラウスはきわめて知的な推論によって破局の前兆を嗅ぎ取りながら、しかし強い楽観的な意志によって運命の好転を目指していく。だが、その曲に仕込まれた両義性の構造において、ふたつの作品は通底する。まず、激情の闇と精神の光から成る二重の構造。そして、運命の不安と生の喜びから成る二重の構造。ノボトニーのヴァイオリンと伊藤のピアノは、とりわけこの両義性の構造に鋭敏に感応した。
 終楽章(第3楽章)の舞曲ふうパセージで光と闇が響き合うグリーグのヴァイオリン・ソナタは、同じ時代に同じモチーフを絵で表現することになる同国人(ノルウエー)エドヴァルト・ムンク(1863―1944)のまさしく「生命のダンス」を思わせる。やがて精神は天上へ帰り、肉体は大地へ戻るだろう。ここで生きるということは、天と地の間(中間部!)でしばし引き裂かれているということだ。だが、だからこそわたしたちには天空の高さがわかり、地の深さに思いが至る。そしてダンスは天と地の往還を鋭くなどる旅である。ヴァイオリンはイカロスとなってどこまでもどこまでも昇っていった、ピアノはガイアとなって優しくその帰還を待ち受けた。望むだけ飛びなさい。墜落すれば優しく抱き止めてあげるから。
 他方、下降を繰り返し重ねたのちに、終楽章でついに劇的な上昇へ転じていくシュトラウスの変ホ長調。生きることのこの大きな歓喜。だが地平のかなたに今浮かんだあの雲は暗い運命の予兆ではないか。ここでは上方への力と下方への力がさらに明確に現れる。ピアノが重力を象徴するようにいっそう力強く、いっそう荘重に進行していくからである。するとヴァイオリンはそれを振りほどくように急速に上昇する。だが重力があってこそ上昇が方向づけられ、上昇にリアリティーが現れるという、この逆説。ガイアの力があればこそ、イカロスは飛び立つのだ。
 なんと大きな音楽空間。無限に高い天空と無限に深い地底の間に精神が満ちるのだ。デュオを組んで19年。ノボトニーと伊藤とはそういう音楽をつくるのだ。
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  2008.7.12 Tadakatsu Yamamoto


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KOBECAT 0044
2008.6.19〜29 神戸・トアロード画廊
岸本吉弘個展

――永劫回帰の振動…豊饒なる挫折――
■山本 忠勝


ンカレッジへ向けて初めて北極圏の上空を飛んだときに経験した目の混乱は忘れられない。はるか成層圏から見下ろす地球の表面はありあまる陽光でハレーションのように輝いて、一面に真っ白な雲海が広がっているのか、それとも光の満ち溢れる海面に白い流氷がびっしりと浮かんでいるのか、判然としなかった。ただ海面と雲との距離が思っていたほどに大きくないのには驚いた。まるで海にはりついたように低く漂っていくちぎれ雲がところどころで確かめられたからである。地表で見れば空と海に截然と分かれる二つの流れが、そこではほとんど同じ水平面を移っていた。岸本吉弘の個展を訪ねて最初に思い出したのは、この北極の空の記憶であった(2008年6月19日〜29日 神戸・トアロード画廊)。

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「龍の梯子」
 色づかいの面から言えば、岸本の作品は北極圏の白銀の風景とはむしろ対極の世界である。濁りを含んだ青、濁りを含んだ緑、濁りを含んだ黒ないし灰色が、微妙なグラデーションでさまざまな諧調を見せながら、大きな画面を覆っている。あえて比喩を用いれば、巨大に広がる森林とそして同じように巨大に広がる台地との複雑な交錯がそこで織り出されているとでも言えようか。ただ、それらが水平面に同じレベルで展開しているという点で、もっと厳密に言うならば、同じ水平面で展開したいと強く望んでいる点で、まさしく極北の成層圏で遭遇したまなざしの混乱と重なってくるのである。
 画家の多くがいまだ絵の奥行きやボリュームやときには空気の厚さの表現に腐心しているなかにあって、あらゆる色彩、あらゆる形象、すなわち絵画のあらゆる表現要素を厳格に平面の出来事として扱おうとする岸本の制作態度はいぜんとして際立ったものである。
 岸本はときにそれを「水平狂」とまで言い放つ。
 ではなぜ、そんなにまで平面か。
 ここからはまだ推測にしか過ぎないが、その裏にはおそらく創造へ踏み出すにあたって画家が彼の全創造の前提として選択したひとつの知的態度がある。それはたぶん認識論にまでくだっていく原理的な身構えだ。
 わたしたちは実をいうと平面すなわち二次元空間を駆使できるようになることで、無限への表現を確保した。彫刻(立体)は、これが三次元的な作品の持つ宿命だが、塑彫、鋳造、あるいは彫木によって空間をその素材(粘土、銅、木、あるいは鉄やコンクリートや合成樹脂、その他)のなかに固く閉じ込めることになる。つまり全体をひとつの切片へ凝集し、凍結する。いっぽう絵(平面)は、むろんタブローの中に対象全体を閉じ込めてしまうそういう描写の方向もあるけれど、原理的には空間の一角をキャンバス(あるいは紙、板、その他)の上にごく控え目にかすめ取るそのことで、却って空間を無限に向かって解き放つ。つまりひとつの切片を全体へ押し開き、離散させていくのである。建築(立体)は封じ込め、庭園(平面)は解き放つ。
 ついでに言えば、平面の表現がもっぱらの今のテレビも技術的にはすでに立体化が可能だが、商品化のもくろみはどこにもない。小さなガラスの箱の中で指ほどの大きさの朝青龍と白鵬がどれほど激しい取り組みを見せたとしても、ほとんどそれはノミの相撲で、今のスリルには及ぶべくもないのである。技術者たちは、立体の画像より平面の画像のほうが含むものの大きいことにすでに直観で気づいている。力士の闘争心、履歴、性格、位階、言い換えれば相撲世界の全体が、平面にこそいっそうありありと現れる。しかも自在に流動し、刻々と更新されながら現れる。
 水平狂の画家岸本は、まさしく平面がもつこの無限性、全体性を徹底しようとするのである。
 そしてたぶん画家のこの特異な身構えは、意識するかしないかにかかわらず、21世紀を生きるわたしたちの全般的な認識の構造と底で鋭く交差する。すでにジル・ドゥルーズ(1925―95、フランス)は、ありとあらゆるものの生成の場として宇宙に広がる「存立平面」というビジョンを提示しているが、今日のコンピューターの膨大な記憶装置はいかにも無限の水平面に構築されたネットワークにほかならない。クリックごとに奥へ進むように感じるのは、ひとつのカテゴリーから次のカテゴリーへの横滑りを、わたしたちが習慣的に奥行きと感じてしまうからなのだ。波動関数で展望する今日の新しい宇宙像では、ついに時間的な奥行きすらも消滅する。時間が空間的な座標の遷移にすっかり還元されるからである。
 だが。
 芸術はいつも内部に深刻な矛盾をはらみながら成立する。とりわけ大きな問題を提起する芸術ほどそうである。岸本の絵の前でわたしたちはぶしつけにも、ということは素朴に、そして根源的にということだが、こう問い返したい衝動に誘惑されることになる。ここにあるのはほんとうに水平の絵だろうか…?
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「S.T」
 この青い色とこの黒い色はほんとうに同じレベルにあるのだろうか。
 もちろんそこに使われている絵具、すなわちその物理的な素材に関して言うかぎり、どの色も同じ水平面に置かれている。蜜蝋を溶かしこむ独特の手法(エンコースティック技法)も、むしろのっぺりとした光のなかに絵具のさざなみを巧みに抑え、いわば絵画の突出した発言を封じている。高低や深浅や陰影などマチエールが引き起こすイリュージョン(幻視)は慎重に排されて、感情的な動きを徹底的にそぎ落としたこの頑なまでの静謐は、抽象画の常識をすら超えている。いかに抽象画であっても、どこかに呼びかけへの意志を潜り込ませているからだ。むしろ「超抽象」と定義したいほどである。
 だが、それにもかかわらず、わたしたちは青と黒の間になにかしら相対的な重さの違いを、厚さの違いを、熱の違いを、そしてこのわたしたちの立つ位置からの距離の違いを、いうなれば極めて微妙な単位での比重、比熱、スペクトル、位階、距離の差異をいぜん感じてしまいはしないだろうか。青が前面に浮かび出て、それを修正しようとまなざしを新たにすると、今度は黒が前面に浮かび出る、そのような往還運動に巻き込まれはしないだろうか。振動の永劫回帰が始まりはしないだろうか。
 そして、そこに却って見るものの喜びがないだろうか。
 画家が画面を静謐にコントロールしようとすればするほど、わたしたしはそこにいっそう強力で豊かな歌を聴き取りはしないか、ということだ。
 じっさい、画家が鎮まれと強く命じれば命じるほど、ダンスはいっそう激しくなって、わたしたちはさらなる高揚へいざなわれていくのである。
 ならば、これはひとりの果敢な創造的冒険者の挫折だろうか…?
 永劫に続く挫折?
 さて、絵画はわたしたちの前にただ単に提示されるだけのものではない。
 それは踏み込んでくるものだ。鋭利に切れ込んでくるのである。ひとまず均衡を保っているわたしたちの遺伝子の配列に強い変数を突き付けるものなのだ。
 わたしたちは好むと好まざるとにかかわらず実は緊密に位階づけられた価値体系の網のなかでそれぞれの色の位置(比重、比熱、色価)を定めている。黒は重い夜であり、しばしば死の色なのである。白は軽やかな光であり、しばしば無垢のあかしである。青は広大な空であり、海であり、東大寺に現れた幻想の女人と聖母マリアの衣装であり、しばしば横断歩道の安全の記号である。ある作家のある作品のある色づかいに遭遇するその前に、わたしたちの意識のなかにはすでにひとつの色の体系が、ひとまずの定数として、堅牢に築かれているのである。岸本の作品はそこにトロイの木馬となって潜入する。毒が仕掛けられるわけである。
 だが、それにしてもこの毒、わたしたちの眼球で始まるこの永劫回帰の振動の、このうえない豊饒さ!
 北極圏の上空での驚きのあとにすぐさまあらためて感じたこと。それはいまやほとんど同じ平面上の出来事にしか見えない雲の流れと海の流れのわずかな隙間に、じつに全世界があるという、その底知れなさへの驚愕だった。際限のない生命の広がり、自然の多様さ、昆虫と獣と鳥そして魚、花々、森、文明の分厚さ、都市の跋扈、間断ない生と間断ない死、旅、希望の光、嘆き、心の奥の無限の闇…。
 岸本の作品は、それが作家の当面の企図ではないかもしれないが、わたしたちの目に、それも一気に、全世界を持ち込んでくるのである。このトロイの木馬はふたつの座標軸に沿ってわたしたちのなかで戦いを進めるのだ。横軸に沿っては、平面Xが宇宙の果てに向かって流出、拡大、離散していくその破壊的な速度によって。縦軸に沿っては、高度Yの極微の閾値で、すなわち一ミリの数百分の一、あるいは数千分の一のわずかな隙間で全世界が、それどころか全宇宙が振動するその膨大な密度によって。
 で、はたして画家は究極的に自己のビジョンの完遂に至るだろうか。
 もちろんわたしたちもわくわくしながらその達成を熱望する。
 だが、おそらく完遂に至るまでにはこの先もまだ厳しい挫折を繰り返すことになるだろう。
 そしてわたしたちは、なんという創造のアイロニー! むしろ作家の挫折のたびにそれだけ豊饒に熟した果実を楽しむことになるだろう。
 振動の幅はなおも死にもの狂いで縮められ、そうして、振動の強度はさらにいっそう強くなる。
 人身御供のような創造。永劫回帰の…。
 岸本吉弘個展は2008年6月19日から29日まで神戸市中央区元町通3のトアロード画廊で開かれた。200号の大作が中心の展観だったが、なかには白い画面に墨でシンプルな表現を施した小品も並べられ、画家の別の側面を発見する機会にもなった。 岸本吉弘個展は2008年6月19日から29日まで神戸市中央区元町通3のトアロード画廊で開かれた。200号の大作が中心の展観だったが、なかには白い画面に墨でシンプルな表現を施した小品も並べられ、画家の別の側面を発見する機会にもなった。
 
2008.6.28
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Cahier

 武内ヒロクニ    裏への感受性
 絵画の理想を現実の正確な描写のように主張するのは、古典的な嘘である。人間の心の直接的な表現のように主張するのも、古典的な嘘である。写真の出現によって絵画の未来がなくなると真剣に恐れた十九世紀の画家たちは、けっきょく空騒ぎをしただけだ。絵画はむしろ現実に切れ目を入れて、そこにみずからを差し挟む。人間の心の一部をめくって、そこにみずからを張り付ける。絵は受動的な「投影」ではなく、闘争的な「介入」だ。武内ヒロクニの鉛筆画は、まさしくそういう挑発的な絵なのである。神戸・ハンター坂のギャラリー島田で個展を開いた(2008年6月14日〜25日)。
 しばしば都市がモチーフに採り上げられる。都市はもちろん取引が主機能だ。だが武内が都市に描き込む取引は、単に物品や労働や貨幣の交換だけではない。そこで最も強調されるのはふつうは隠されている二つの取引、すなわち死の取引とセックスの取引だ。死はバーゲンセールの看板に掲げられるほどおおっぴらに。そしてセックスは淫靡なホテルでほのめかされるだけの慎ましさで。
 「中学を出たころでした。神戸から梅田に出て、地下鉄に乗ったときの思いがけないあのにおい、あれは鮮烈な経験でした。歯磨き粉のにおい、そう、ライオン歯磨のにおいです。それが車内に満ちていた。梅田にまだ戦後のバラック街があったころです」
 歯磨きのにおい。それは唇の奥から、人間の体の裏から漏れ出てくるにおいである。都市の裏側を渡っていくにおいである。裏への感受性。裏からの視界。死、セックス…。
 裏からの視界がとりわけ特異なのは、表の風景がいつも結果で出来ているのに対して、裏からのまなざしが根源から結果に向かって上昇していくからである。根源においては死もセックスも生も労働も物質も同じレベルで混濁しているはずである。人間も都市もそこではアマルガムのように混合し、流動し、絶え間ない変形を重ねている。
 さて、武内の最近の作品は女と花をモチーフにした異様な草花のシリーズだ。庭の草花と違うのは、ここでは花の部分に女の顔が、葉の部分にブラジャーのパットのような奇妙な形象が生え出ていることである。然り。裏の視線で眺めれば女は花のメタモルフォーゼにほかならない。もっと根源的にトポロジック(位相幾何学的)な関係にあるといってもいい。
 「パットのような…? でも、これはぼくの着想の前に、すでにワコールの発明ですね」
 女と花と下着会社のトポロジー!
 武内が幼年期を過ごした奄美ではある伝承が語られていた。深夜に甲冑姿の神が首のない馬に乗って山を駆け下り、海に向かう。イワトシガミと呼ばれるその神に出会った者は、みずからのフンドシで頭を覆って道にひれ伏し、決して神を見てはならない。さもなければ、その者は槍で両目をえぐられよう。その神の駆け下る細い道に画家の家が建っていた。
 「ぼくは幸か不幸か、神に遭遇しませんでした。しかし、響きが耳の底に残っている。馬の蹄(ひずめ)と甲冑とが一体になった暗い轟き」
 深夜の神。時間の裏の疾走。反―世界への感受性。反―世界から正―世界への「介入」。
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「TALK IS CHEAP」
  2008.6.18 Tadakatsu Yamamoto


Cahier

 高濱浩子    無限流動
 郵便切手というこの小さな生き物はたくさんの気流を越えながら世界を旅する精緻な蝶のようである。画家・高濱浩子はその蝶の飛翔に魅せられた。その飛翔に魅せられるとは、それが飛んできた空間と時間に寄り添ってもう一度そこで舞い戯れるということだ。彼女の作品はそれら蝶との乱舞である。おびただしい空間との舞い、おびただしい時間との舞い…。個展が神戸・海岸通のギャラリーヴィーで開かれた(2008年6月2日〜14日)。
 ジャマイカ、キプロス、トリニダードトバゴ、ギアナ、モーリシャス…。詩人なら詩句のなかに第一に歌い込みたいような国の名が、まるで水平線の向こうからの豊かな漂流物のようにそこにある。高濱浩子の切手コレクションは、冒険と郷愁と憧憬のイコンである。その一枚一枚が彼女を創造へ突き動かす。異国の花、異国の英雄、異国の神話、異国の聖人、そしてそれらイコンが母国を旅立ったその日の日付をまるで運命の日のようにしっかりととどめている円い消印…。彼女は炸裂するイメージを、切手に最もふさわしい小宇宙、すなわち葉書大の紙の上に描き出し、それを配達されたばかりの郵便みたいに、むしろ無造作に展覧会場に積み上げた。
 それらの切手はもとをたどればエアメールの束とともに旧神戸中央郵便局のまさしく実在の私書箱1284から取り出されたものである。高濱の父は貿易商を営んでいた。商用の通信が世界各地からやってきた。私書箱が並ぶ郵便局の特別な一室はどこか秘密めいていて、少女は異国の報告が暗い箱からあふれ出てくるのを見上げながら、なぜか心がおののいた。
 切手と蝶の接点、それはともに精緻であるということ、そしてなによりも流動するということだ。画家が描き出すイメージも絶え間ない流動のなかを突き進む。天空を運行する星座系のような幾何学図形、風に波打つ草原のような緑の展開、波紋に揺れる光のような微妙な振動、どれも地平の彼方へと広がっていく無限音楽のその途上の一角をスパッと切って、そこにとどめたようである。どれもが明るい波動の旋律の一部である。
 「もしだれかが作品を買ってくだされば、ふたたびそこから旅立ちが始まります。どこまで広がっていくか、それを思うとたかぶってくるんです。私だけのひそかな約束ごとですが、作品の裏にぜんぶ割印を押しました。そうしておけば、それぞれの旅が広がれば広がるほど、それだけ大きな輪でつながることになるでしょう、旅を裏から眺めれば」
 ランボーというのは詩人から砂漠の貿易商に転身した稀有な精神の呼び名だが、ならば貿易商から詩人へと転身する精神があってもおかしくない。高濱の父は異国のイコンを詩の素材として無数に準備し、おそらく潜在的な詩精神がそこでは繭まで進んで終わったが、それは娘の中で蝶に羽化して新たな飛翔が始まった、としきりにそう言いたい心が動く。
 娘は今度の個展に「私書箱1284」のタイトルを添えている。
 そうそう、洪水のような父への封書から丁寧に切手をはがして、それを大切に保管するのが彼女の母の喜びだったと、そのことも書いておかないといけないだろう。
 人から人へ。そして人から人へ流れることで一層深く高く大きくなるもの。
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撮影:編集部
  2008.6.12 Tadakatsu Yamamoto


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 中辻悦子    棘の上の開花
 静かに語る人である。穏やかな物腰の人である。だが中辻悦子が描く作品には鋭い棘が潜んでいる。おそらくは「心」という言葉や「命」という言葉を添えておけばそれでもう作品のアリバイができたとみなしてしまう、そのような安易な風潮に対する棘である。彼女は感情過多、説明過多、表現過多の時代から逃走する。だから彼女の作品はほとんど記号といってもいいような幾何学的な構成と明晰な色彩に純化されていくのである。だがそのストイックな創造の道程に驚くべき展開が待っていた。むしろ豊麗な開花と呼ぶべきか? 棘の上の開花。バラのような…。神戸・ハンター坂のギャラリー島田で開かれた個展での印象だ(2008年5月31日〜6月11日)。
 「顔絵」―。それが今回の展覧会のタイトルだ。実際おびただしい人の顔が並ぶことになったのだ。それだけでもこの構成的な画家にとってはエポックメイキングなことである。
 むろん、いわゆる内面の掘り下げに傾注してきた昔からの肖像画の顔ではない。モチーフを為し得る限り幾何学的に処理しようと試みてきたこれまでの絵画作法を最大限にここでも生かしている点で、これは紛うかたなき中辻悦子の世界である。簡潔な線と明快な色面に還元された顔である。立体感や距離感や陰影を徹底的に排斥して、文字通り二次元の完全な平面に、ぺったりとはりつけられたように描かれた顔である。
 平面にはりつけられた顔。
 厳密に言うとそれは顔としてそこに実在することを禁じられた顔である。言葉を口から発することを封じられた顔である。自己を説明する手立てを奪われた顔。完璧な沈黙のなかの顔…。だがそこで奇跡が起こる。顔がいかに並はずれた存在であるかがあらわになる。顔は禁じられたこと、封じられたこと、それをむしろデモーニッシュ(悪魔的)に超えてくる。
 顔はそこに実在しないのに、しかし実在以上の幻となって現前する。言葉以上の記号となって現前する。端的に言って、顔は顔である以上すでに表現なのである。もう決してゼロには戻らない。たぶんこのことが今回の制作で中辻が発見した最大の芸術的力学だ。
 そしてそれが微妙に震動することも書いておかないといけないだろう。たとえば笑っているように見えるこの顔は、実はそう見えるだけかもしれないわけで、だからそうかもしれないという直感とそうでないかもしれないという反省の間で永遠の振動を繰り返すことになる。しかもそうでないかもしれないという領野は、あらゆる可能性へ開かれている無限時空なのである。笑っているように見えるこの顔は、すでにあらゆる表情を含んでいる。
 これはすなわち、切り詰められた線と色によるこの顔が、ここで正味に生きているということではなかろうか。つまり作家は自己の作品を紋切り型の「心」や「命」から慎重に遠ざけながら、むしろそれらと忍耐強く闘いながら、その迂回の果てにいつしかほんとうの心と命のこのうえなく純粋な表現へ踏み出していたということではなかろうか。
 「こういう表現もあるかなあと思って」と、作家自身はごく自然ななりゆきの過程のようにその展開を、持ち前のあの静けさと穏やかさで語るのだが。
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  2008.6.5 Tadakatsu Yamamoto


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 山中馨    愛。…言葉で濁る前の
 古い水を汲み出す。そこに新しい水を入れる。すると水が変わるだけではない。覗き込む目が変わる。それを飲む心が変わる。水ばかりではない。絵にも不思議な働きをする絵がある。作品の前に立った者の目を変える。心を変える。山中馨の絵はそういう絵だ。神戸のギャラリーほりかわで七年ぶりの個展を開いた(2008年5月23日〜31日)。
 一貫して愛がテーマだ。難しいテーマである。むろん稀有な主題だからではない。反対に、あまりにしばしば描かれてきたからだ。「愛」とタイトルを読むだけで、人びとはもうすべてを見てとった気もちになる。それどころかタイトルが前に出て、絵の方がその注釈になっているようなときすらある。言葉が作品を隠蔽してしまうのだ。
 むろん山中はその危険を痛いほど知っている。だから、彼は奇妙な作法を生み出した。むしろ「愛」を否定するような手続きで描くのだ。
 あらゆる物質にスペクトルがあるようにおそらく愛には愛の色がある。だが、画家はその愛の色彩の現れを警戒する。彼にとってそれはたぶんあまりに喋り過ぎるのだ。修辞の過剰な詩のように、神髄が華やかな表現の海に埋没する。饒舌過ぎる愛は、愛の死だ。
 だから、削る。
 喋り出そうとする色を徹底的に削るのだ。なにもこれは比喩ではない。ほんとうに削り取る。色を金属のブラシでそぎ落とす。水で画面から洗い出す。
 母と子がしっかりと抱き合っている「流砂(愛)」という大きな作品(150号)の前で、少々ぶしつけだとは思いながらも、この絵は何回くらいそぎ落としていますかと、じっさいに訊ねてみた。
 画家は遡って回数を数えなおす目になったが、「うっ」とうなって、ついに黙った。
 彼にもわからないのである。
 それは、経てきた七十九年の歳月をむしろもっと先まで遡るような目に見えた。
 奇跡が起こるのは、そういうなかでのことである。
 あるところからまるで絵自身が意志を持ち始めるかのように、絵が自分で残したい色を残していく。洗い出しても落ちないものが残っていく。絵面はたえず平面に戻りながら、しかし絵の奥は限りなく深くなる。洗いざらしのようになりながら、限りなく豊かになる。真に必要な、鋭い線だけが残っていく。より強く、よりくっきりと現れる。
 最後に何が起こったか。
 饒舌の破壊である。言葉の滅びだ。言葉を超えた愛がそこに忽然と現れた。むしろ言葉に置き換えられる前の愛そのものがそこに堅固に現れた。
 「余震」と題される作品では、色彩が全面的に後退して、とうとう墨の微妙なグラデーションが全体の基調となった。墨の寡黙…。愛の実相がいっそう際立ったのもそのためだ。震災の不安のなかで母は子を抱いて、子のいのちを支えている。だがこの子はただ守られているだけではない。母に抱かれながら、母を支え、母を大きく包んでいる。
 
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「愛」
  2008.5.27 Tadakatsu Yamamoto


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 地力.?    地底路地の奇怪なビジョン
 六甲連山の南斜面に広がる“向日的”な都市神戸。隅々にまで陽光が行き渡るこの街で陰影に満ちた路地裏を捜すのは難しい。だが無くはない。むしろ都市のど真ん中を横切っていく長大な路地裏があるといってもいい。JRの高架下を刳り抜くようにして延びていくいわゆる元町高架通商店街だ。天井までコンクリートで固められたこのウナギの“寝床”状商店街は、実感としては地底路地といった方がいいかもしれない。都市の底…。その一角で現代美術の展覧会が開かれた。宮崎みよしが企画する「地力」(ちりき)シリーズの第二弾「ARTイマジネーションin KOBE モトコー2008」である(2008年5月10日〜25日)。
 都市の地底に穿たれた路地! そこでは街を構成するさまざまな要素が解体し、分解し、連結し、重合し、溶融し、新しいアマルガム(合金)にさえ転化していくようである。
 國府理は車のボディと飛行機のプロペラとそれにアバラ骨みたいな鉄の構造体を合体させて、巨大な怪獣を制作した。都市に生まれた21世紀のキマイラだ。名づけて「ROBO Whale」(ロボット・クジラ)。「線路の下でおやすみ」とユーモラスな注書きがある。
 ソン・ジュンナンは女と花を結びつけて、“人面魚”ならぬ“人面草”を発表した。おびただしい数の紙の造花のそのひとつひとつの花の部分に女の顔をプリントして、それらを展覧会の期間中、高架下の暗がりで栽培した。いかにも都市では、女はあらゆるものと強力に合体する。女とモード、女と車、女と酒、そしてしばしば女と密室、女と金、etc
 ワァ・ダダ・コウドーは、案内書の説明にある海の中のイメージというよりは、むしろ廃棄物たちの舞踏会のような混沌とした空間を演出した。使い古された椅子と破壊された自転車とそれから三角形をしたなにかの部品とさらにはこれまた金属製のなにかの機材を結合して、脈絡なき脈絡、すなわちカオスの奇妙な均衡を創造した。都市とはまさしく混沌が生み出す奇跡のような危うい刻々の調和である。
 人や物の解体・再生だけではない。それを時間にまで押し広げた作家もいる。小池照男は映画を専門としてきたが、映像作品の一コマ一コマをすべて静止した写真に焼いて、それでひとつの部屋の壁、床、天井を埋め尽くした。フジツボの群生が織り成す微妙な変化、鉄錆が見せる精緻な襞、それらが時系列的な秩序を破って、わっと目の前に溢れ出た。「時間とはすべてのことが一挙に生じるのを妨げる、神様のやり方である」(ジョン・D・バロー)としたら、これは神への反逆だ。なるほど現代の都市にもはや時間の摂理はない。
 そして今日の都市のさらなる不気味は、これらおびただしいキマイラの出現を、ただじっと見つめている、異様に静かな目があるということだ。あまりにも多くのことが起こるので、もう恐れさえしていない。かといって心から面白がるほど、もうそれほどには幼くない。むしろ無感動に、しかし目をそらさずにただ凝視を続けている。おそらくこれは終末の眼球だ。壁面に球体をいくつも並べた宮崎みよしのドローイング「不可視」は、そのような目に見える。
 地底露地に繰り広げられた数々の奇怪なビジョン。都市への予言か。
 
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ソン・ジュンナン「無題」と國府理「ROBO Whale」(撮影:編集部)
  2008.5.24 Tadakatsu Yamamoto


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 コウノ真理    美しい廃墟
 画家の劇的な変化に遭遇してびっくりさせられることがある。蝶の羽化を見るような喜びだ。コウノ真理の場合がそうだった(2008年2月9日〜14日、神戸・TOR GALLERY)。
 説明したいという欲求が控えめながらもまだ画面に残っていた、と彼女のかつての作品についてはそのような記憶があった。ある意味をある言葉に託すように、一つの意味を一つの形に描き込む、そのような形象が、ときにはむしろ入念に、繊細に、絵の一角に置かれていた、そんな記憶があったのだ。
 だが新しい絵を前にして、記憶は間違いだったかもしれない、とそう思った。だれか他の画家の印象が紛れ込んだか、と不安になった。それほどに作品が変わっていたということだ。つまり説明の要素が完全に消えていたということだ。
 圧倒的に白が支配する画面である。厚い霧が全体を覆い尽くしているようだ。そこに影のようなもの、あるいは大理石の柱の名残りか、あるいは崩落した塔の名残りか、そのようなほの暗いいくつかの垂直のものが浮かんでいる。
 すばらしいのは、何の強制もここにはないということだ。この絵はじぶんをどのように見てもらいたいか、それをいっさい語らない。むしろみずからを無に近づけ、そのぶんわたしたちを解き放つ。自由へと解き放つ。
 廃墟…。これは、そう、このうえなく美しい廃墟である。
 滅びた都市は、塔の残骸や壁の一部や砕けた柱を残すばかりで、もはや何も語らない。書記が記録した王国の歴史も、語り継がれたあまたの物語も、個人の日々の覚書も、すべて風と砂に消えてしまった。だが、これほど多くを語るものもないのである。それは文明の強靭な骨格を語る。宇宙との壮大な対話を語る。人間の精神の巨大さを語る。なぜなら、そこで消えたものが、いまこのように全世界に広がっているのだから。いうまでもなく、いつか来る最終的な滅亡への予感も含めて。
 廃墟。それは、消えることによって過去から未来へのすべてが現れる場所なのだ。
 コウノの絵が現在のような独自の形へと展開を始めたのは十五年ほど前からのことだという。それ以前はジャコメッティに傾倒していた。
 だが、ジャコメッティこそは、立像を無へと際限なく削りながら、そうして全宇宙をそこにとらえた稀有な彫刻家ではなかったか。
 彫刻家を貫いて画家へと流れる探究の系譜。
 もちろん時系列的な影響関係を語るのはあまり意味のないことだ。創造の上で起こるのは伝授ではなく常に共振だからである。それどころか、無の探究をさかのぼれば、あっというまに空海(9世紀)にまで達してしまう、それほどのスケールの世界である。
 画風が変わりましたねえ、と語りかけると、「わたしは、こんなに変わらないものなのか、と驚いています」と画家がこたえた。
 なるほど、考えれば、彼女が正しい。
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撮影:編集部
  2008.4.17 Tadakatsu Yamamoto


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 名流舞踊の会 '08    美しい3人の男たち
 クラシックバレエの人気、社交ダンスの隆盛、そして一時ほどではないにせよフラメンコダンスの熱気…。それら洋舞の攻勢で日本の伝統舞踊はいまひとつ影が薄い感じだが、なかなかどうして、日本舞踊の正統なわざとこころを際立って堅持・発展させている地域がある。兵庫県だ。各流派が横の連携を強めながら互いに切磋琢磨を怠らないのが、おそらく勢いの理由だが、その核となる兵庫県舞踊文化協会の春の恒例プログラム「名流舞踊の会」(第57回)が神戸国際会館のこくさいホールで開かれた(2008年3月2日)。
 勢いがあるところには名手が輩出するということ。これはおそらくどんな文化にもあてはまる象徴的な法則だが、いかにもことしの舞台が晴れ晴れとしたものになったのも、ここぞというところを的確におさえてみせるそれら名手が期待通りの舞台をつくったからである。なかでも3人の男たちが特に美しく輝いた。番組の順序に沿って紹介すれば、まず「文屋」をみずみずしいばかりにすっきりと踊った花柳小三郎、次に「保名」を狂おしくも濃艶に表現した若柳吉金吾、そして「三保の松」の舞台の上にまるで光のように澄明に立った花柳五三朗の面々だ。
 小三郎の「文屋」(清元)は、六歌仙の文屋康秀が小野小町に言い寄ってふられたという故事を、江戸・吉原の恋のかけひきに置き換えて洒脱に踊るという趣向。烏帽子と狩衣という公家ふうの装いをあえて避けて、すっきりと薄紫のきもの、そして浅黄色のはかま姿。素踊りの風情だがこれが申し分なく美しい。だが、江戸で浅葱(浅黄)といえば田舎武士の記号だったことを思い起こせば、小三郎がこの舞台にかけた二重の意味も味わい深く読めるだろう。いかにも軽妙にして奥深く、ユーモラスにして辛辣(しんらつ)、端正にして華麗…。とりわけ踊りが一瞬の「静」に至ったときの香りには絶妙な花がある。空間も大きくなる。
 吉金吾の「保名」(清元)は、自害した榊のことを忘れられない安部保名が、形見の小袖を肩にして春の野で狂い舞うという筋立て。吉金吾の舞踊は、いわゆるプラトンが言うイデアの世界、すなわち恋なら恋の、失意なら失意の、狂気なら狂気の、その最も純粋な形へ果敢な接近を企てる。この日の舞台もまさしく、悲恋の大きな哀しみがあたかも一羽の蝶の形をとって、きらきらと菜の花の上を舞うようだった。この人が踊ると、世俗の悲しみが天上の悲しみへと昇っていく。そして天上的なものこそは、わたしたちのこの苦しみに満ちた世界を生きるに値する世界に変えるのだ。
 そして、五三朗が芳圭次と踊った「三保の松」(常磐津)。この日の会を締めくくる祝儀の曲でもあったのだが、風格といい品位といい香りといい、五三朗はいまや舞踊一筋に生き抜いてきた人だけが到達する美の頂点に位置している。空気のように軽やかに立ちながら、不動である。光のように重力から放たれながら、そこに明快に存在する。美しいということは、そのことだけで人の心をあらゆる桎梏(しっこく)から解き放つ。舞台を命永らえるわざだといった世阿弥は、おそらく芸能と人間の間で交わされる生の根源的な交流を喝破していたに違いない。五三朗は、まぎれもない、舞踊の最も上質な精神を担う創造者だ。
 
  2008.2.1 Tadakatsu Yamamoto


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KOBECAT 0043
2008.2.3  カトリック加古川教会
バルトルド・クイケンのバッハ「フルートと通奏低音のためのソナタ」

――カオスと摂理――
■山本 忠勝


ッハがフルートの曲を書いたとき、彼の頭のなかで鳴っていたのは今では古楽器に分類されるトラヴェルソの響きであった。文字通り木に彫ったバロック時代のこの質実な木管楽器は、むろん現代の金属製フルートほど精緻な仕掛けは備えていないが、それだけに生命のなまの息吹に近いともいえるだろう。そのトラヴェルソで現在の最高の奏者と評されるバルトルド・クイケンがバッハを吹いた。たった一本の木管が切り開いていく音の深さと音の崇(たか)さ。そこにあらためて、というよりむしろ呆然と、バッハ宇宙の巨大さをみた(2008年2月3日、カトリック加古川教会)。
 無限の深さ、そして無限の崇さである。その途方もない音楽のカテドラルに驚くには、五つのプログラムのうち前半に置かれた二つの対照的(且つ対称的)な作品を聴くだけで、もうじゅうぶん過ぎるほどだったといっていい。「フルートと通奏低音のためのソナタ」シリーズの「ホ短調」(BWV1034)と「ホ長調」(BWV1035)の二つである。これら双生児のような二作品は一見それぞれに固有の音楽像を提示するようにみえるのだが、クイケンのその夜の演奏でわたしたちがまざまざと思い知ることになったのは、実はむしろ一つの大宇宙から放たれる対照(対称)的な、そして強力な二つの波動だったということだ。
 大宇宙が放つ二つの波動、すなわち大宇宙が繰り広げる二つの顔。ひとつは、未知の現象がそこから次々と生まれてくるカオスの顔、つまり底知れない豊かさの相貌だ。そしてもうひとつは、完璧な均衡と調和がそこにゆるぎなく行きわたる秩序の顔、つまり気高い摂理(法則)の相貌だ。いささか味気ない言い換えにはなるのだが、その対照的な性格をもっと際立たせるために現代物理学ふうに翻訳すれば、「非線形原理」の相とそして「線形原理」の相、とそう置き換えてもいいだろう。法則・秩序を超えて果てしなく広がっていく複雑・多様な非線形の構造と、法則・秩序を寸分の狂いもなく目に見える形に具現していく明快・確実な線形の構造。確率でしか語れない動乱の世界と、予測がそのままきっちりと実現する透徹の世界。論理的にはむしろ対極にある二相である。大きく矛盾する顔なのだ。しかもその双方がいずれも完全な美となってひとりの作曲家の精神から溢れ出してくるのである。その美の氾濫に呼応してひとりの現代の演奏家がトラヴェルソの豊麗な響きのなかにその意味深い精神を完璧に描き出してみせるのだ。
 いかにも「ホ短調」はカオスのまっただなかを切り開いていく危険に満ちた旅のように、緊張をはらんだアダージョで曲が始まる。ゆっくりと進みながら、しかし高度に張り詰めた精神…。わたしたちを未知の風へと差し向ける思いがけない音形が悠然と、絶え間なく立ち現れてくるのである。おそらく次の音はあの位置だろうとわたしたちの直感は予測する。だがバッハは大胆に別の方位を選ぶのだ。するととっさにわたしたちは気づかされることになる。ああ、バッハこそ正しい、と。わたしたちが真に求めていたのはこれだった、と。この深さ、この崇さだ、と。彼はわたしたち自身よりわたしたちを知っている。
 バッハが踏み出すと、見通しのきかなかった暗い道がたちまちみずみずしい必然の、明るい道に変わるのだ。わたしたちは刻々とカタストロフィー(破局)に立たされて、しかしそれは一気に美しく解決され、大きな喜びのなかで、しかしもう、もっと大きな冒険を隠している次のカタストロフィーに対峙させられているのである。危機の連続と、その危機のこれまた連続的な克服。無限の自由へと絶え間なく開かれながら、同時にこのうえない明晰さでそこにくっきりと刻まれていく必然の航跡。
 ここでは整然たる必然が、なんとありあまる自由のなかから紡ぎ出されてくるのである。
 そして「ホ長調」もまた同じようにアダージョで始まるのだが、しかしこちらはもうはじめから明るい光に満たされて進行する。ゆったりと、伸びやかに広がる精神…。「短調」が、堅牢な和声を軸に正面突破の厳しい構えを終始保ち続けたのに比べると、「長調」はいたるところに繊細な装飾をちりばめながら、ありあまる微笑でパッセージを満たしていく。「短調」のあの強風と、「長調」のこの微風。ここでのわたしたちの幸福は、なによりも視界の輝かしさと広さである。バッハは地平の果てを指し示す。わたしたちはあそこへこれから向かうのだ。なんと高い空。豊かな大地。美しい風。確かな道。しかも行くべき地点は決して見失われることがない。遠方へ着実に近づくとは、こんなに喜ばしいことなのか。
 これは大いなる予定調和に身を預けることの安らぎだ。最後には間違いなく救いに至るという必然と、その確固たる運命と一体になることで得られる自由。
 ここでは悠々たる自由が、なんと堅固な必然のなかから紡ぎだされてくるのである。
 こんにち音楽の概論書や教科書をめくってみると、「短調」の音楽的特性を解説するのにそれは暗く沈んだ曲想を生む調性だと書かれている。これに対して「長調」は、明るく開放的な調性だと対比的に説かれている。問題は、このあまりにも短絡的な二分法の説明でしばしば事足れりとされてしまっていることだ。バッハに関していうなれば、これではほとんどなにも説明したことにならないだろう。バッハにあってこの対照的な調性は、単に音楽の明度や彩度や対比の問題ではないのである。それは宇宙の根源と感応する二つの共鳴法なのだ。音色の問題というよりはむしろ宇宙観の問題だ。
 だから最も注意を払うべきは、この対照的な調性がバッハのなかでまさしく対称的に統合されているその強固で柔軟な構造だ。「ホ短調」は先の見えないカオスのなかから劇的に生まれてくる。「ホ長調」は予定調和の秩序のなかから悠々と生まれてくる。しかもその双方がバッハの精神のともに等価で十全な自己実現に至っているということだ。重ね重ね驚嘆せずにおれないのは、その矛盾する二つのビジョンをそれぞれ究極にまで推し進めながら、彼の精神がそこで均衡を保ち続けているその大きさと強さである。地動説と天動説とがともに同じ力と存在感で彼のなかに生きている。無限に拡大を続けるビッグバン宇宙の動乱と、神の摂理を貫徹する神学的宇宙の静謐。その二つの歯車が彼のなかで奇跡のように噛み合っているということだ。
 だがその奇跡的な統合こそ、実は人間精神の原型なのではなかろうか。だからこそわたしたちはバッハの地動説的音楽にも、彼の天動説的音楽にも、ともにこんなに深く共感し、精神的にも生理的にも至福の時に浸れるのではなかろうか。地が動くのも、天が動くのも、わたしたちの精神と生理にとっては、実は矛盾などでは全然なく、むしろ一つの全体に統合される対称的な二面なのではなかろうか。
 バッハは全宇宙を表現する。バッハは全人間を表現する。宇宙と人間が相似形であることを表現する。そしてクイケンはわたしたちにそのことを気づかせる。トラヴェルソが全宇宙と共鳴する。

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 バルトルド・クイケン氏(Barthold Kuijiken)のトラヴェルソによるバッハ作品「フルートと通奏低音のためのソナタ ホ短調」と「同 ホ長調」の演奏は、エヴァルト・デメイエル氏(Evald Demeyere)のチェンバロを伴って2008年2月3日夜、加古川市加古川町のカソリック加古川教会でおこなわれた。これはバロックヴァイオリンの奏者・佐藤泉氏が10年計画で進めている「バッハからのメッセージ」連続コンサート(2000年〜2010年)の特別プログラムで、当夜の会場ではその佐藤氏の労に対してクイケン氏から厚い謝辞が述べられた。
 クイケン氏はこのほか「フルートのための無伴奏パルティータ イ短調」(BWW1013)の演奏で、むしろ四次元時空を超えてさらに大きな多元空間(現代の宇宙認識でいえば10次元空間ともいえるだろうか?)へ浸透していくようなこれまた壮大なバッハ宇宙を披露。デメイエル氏も「フランス組曲第5番 ト短調」(BWV816)の独奏で、デリケートの極みであるがゆえに却って強力に実在する美の世界を、“圧倒的な繊細さ”でわたしたちに示してみせた。
2008.2.22
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Cahier

 坪谷令子    トウガンに宇宙が見える
 注連縄(しめなわ)を張り巡らした大きな木を村で見かけることがある。神様の木だという。ところでそれはその鬱蒼とした木そのものが神のたたずみとして村人の心を打つのだろうか、それともその木が影を落としているその涼しげな場所こそが神のたたずむ地点として人びとに訴えてくるのだろうか。坪谷令子の野菜や果実の絵を見ていると、タマネギやザクロの輝きもさることながら、それらが描き込まれているその場所がとりわけ神聖な一角なのだとわかってくる。その一点に目を凝らすと、そこから宇宙が見えてくる(坪谷令子個展 2008年1月26日〜2月6日 神戸・ギャラリー島田)。
 「いのちは まるい」。それが、今回の個展の直接のテーマである。ジャガイモやらダイコンやらキウイやらカキやらイチゴやらリンゴやら…。もう少しで百種にも届く野菜や果物や草花の数々が精緻に、克明に描かれる。まっすぐな形態把握とクリアな彩色が、みずみずしい輝きを放射する。確かにそこには生き生きとしたいのちがある。
 だがそれだけのことなら、いのちはこんなにも光あふれるものである、とひとこと言えば、もう骨格を語り尽くしたことになる。むろんいくらでも喋れるが、あとは言葉の変奏だ。これをもっと熱っぽく語りたいと掻き立てるのは、じつは野菜や果実が描き込まれているその場所の、大胆で、いささか凶暴な配列、むしろ熱狂的な“陣取り”のゆえである。
 「踊る」と題されたブドウの絵。そこでは紫色に熟した房が、画面の上方に異様なほど偏って現れる。中心部の空間はただ圧倒的な虚無の広がりなのである。「包む」と題されたホオズキと風船カズラ。ここでも二つのモチーフが上と下にきっぱりと二分され、真ん中は真っ白なままである。そして「呼ぶ」というイネやムギの作品では、今度は全部が下の方に配されて、画面にはもっと大きな空(くう)の領域が開くのだ。なんでそんな配列が?
 「真っ白な画面を前に最初は心が定まりません。私はわずかに現れる最初の感覚に従って、薄い墨でどこかそのあたりをまずさっと刷くんです。そこに風をさまよませます。ええ、ドライヤーで。すると墨の表面にさざ波が立ち、強弱が生まれ、広がり、飛び、思いがけない形が生まれて、そこで私の心も定まってくるんです。この始めのプロセスにエネルギーの大半を費やしてしまうと言ってもいいでしょう。へとへとです。そしてその墨の上に野菜や果物を描き込んでいきますが、ここはもう歌うような、とても楽しい時間です」
 あるいはまだ描かれないうちから白い画面が潜在的に持っていた位置ごとの多様な密度のせいかもしれない、あるいはそのときの作家自身の心の地図の等高線のせいかもしれない、あるいは星々の運行のせいかもしれない、何かがこうして場所の強度を決めるのだ。
 「決まると、それは、もう、ありがとう…。なにものかに感謝しないではいられません」
 このトウガンは美しい。だが緑の果皮と白い果肉が美しいだけではない。トウガンが描き込まれているその場所がそれにもまして美しい。わたしたちはトウガンに打たれながらその場所に揺すられる。たぶん神のたたずむ地点である。つまり宇宙の見える場所なのだ。
 なるほど、村は神の木を持つことで宇宙に開かれた村になる。
   
  2008.2.2 Tadakatsu Yamamoto
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「いのちは まるい 開く」


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 桑畑佳主巳    光に浮かぶ都市
 金閣寺を描けばすぐにそこが京都だとわかるばかりかそこに都市京都の深層さえ見えてくる。通天閣を描けばそこが大阪だとわかるばかりかそこに都市大阪の深層さえ見えてくる。では何を描けば神戸だとわかり、神戸の深層が現れてくるだろう。ポートタワー? いやポートタワーでは軽すぎる。それが神戸港の風景だとわかっても、そこに都市神戸の内奥までは出てこない。この街を集約できるほどの点景はたぶんまだ熟しきっていないのだ。ならばどう表現すれば神戸が出るか。おそらく桑畑佳主巳のアプローチはそれへの有力な回答のひとつである。彼は点景としてではなく、構造体として神戸を把握するのである(桑畑佳主巳近作展 2007年12月8日〜19日 神戸・ギャラリー島田)。
 構造体としての都市。それは物語を消し去った街だともいえるだろう。そこに描き出されるのは、圧倒的なボリュームのコンクリートの壁である。むしろ無機的な穴となって外に開かれた窓である。飾り気のない屋上の四角な平面。そしてまっすぐに伸びていく広い通り…。幾何学的に配された建築は、全体の風景のなかでひとつの調和をつくっているが、といってもこの建築がここに建っていなければならない切実な理由はない。金閣寺は京都の北山になければならないし、通天閣は大阪の新世界になくてはならないが、場所とのそのような親密な結びつきは、神戸の街のどの建物にもないのである。どれもが入れ替えが可能である。それをそこに引きとどめておくほどの濃厚な歴史的物語がないわけだ。
 しかし、それなら、異人館は? そういう問いがあるかもしれない。それにはこう答えるべきである。異人館は現代の神戸にとってはむしろひとつの錯誤だと。異人館は罠である。それは待ち伏せし、誘導し、わたしたちを蜃気楼へ誘うのだ。路地の一角にかろうじて残っている小風景、すでに仮死している小風景を、都市の全空間に匹敵するような大風景と混同させる、そのような幻覚をもたらすのだ。近代ヨーロッパからのこの一時的な漂流体は、歴史の実に美しい遺産だが、都市神戸を甘く小さな感傷へ閉じ込める危険がある。
 では直線の構造体として表現される都市神戸のその深層とは…? それは果てしない空虚である。都市京都の構造には平安以来の王城の骨格が埋もれている。都市大阪の構造にはさらに古い難波の都以来の骨格が潜んでいる。そこには無数の物語が絡んでいる。だが神戸はたかだか140年前の開港で忽然と現れた都市である。古代からの大輪田の泊(兵庫津)を含むといっても、それが都市の核になったことは一度もない。わたしたちは整然と格子状に並んだ現代都市神戸の道路が、古代条里制のあぜ道からいきなり発展したものだと知ってその長大な歴史的空虚にめまいする。街の底にすぐ古代の大地が透けるのだ。
 だが空虚も美しい在り方の一つである。それは明るい空間だ。神戸には京都や大阪が蓄えているような闇はない。むしろ街全体が光のなかに浮かんでいる。それにしてもこのように空虚・光を明快に構造化できるのは、逆説的だが画家が神戸の精神の核心によほど深く触れていてのことだろう。神戸への愛があってこそである。神戸は故郷喪失者たちが作った街だが、空虚を故郷とする者たちの新しい精神史が深まっているのである。
 
  2008.1.31 Tadakatsu Yamamoto
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「シャドウ」


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  北村美和子    ゆらぎ 屈折 なること
 ゆらぎに魅了されてきた画家である。風のゆらぎ、光のゆらぎ、水のゆらぎ…。しかも現代の化学工業はその刹那の美を画布の上にとどめるのに、格好の絵具を提供した。アクリルの絵具である。従来の油彩に比べて、格段に透明感が出てくれる。加えて、乾きが速いから、疾走する感覚を遅れることなくつかまえることができるのだ。色が濁ることもない。北村美和子も合成樹脂(プラスチック)から生まれたこの絵具をわが分身のように愛してきたひとりである。
 それが、いつのころからだったか、微妙な違和感が漂い始めた。最初は取るに足りない路傍の小石のように思ったが、気がついてみると、いつのまにかそれが行く手を阻む大きな岩になっていた。ゆらぎを素早く把捉できるアクリル絵具の持ち味が、そのシャープな持ち味ゆえに却ってなにかもっと大事なものを取り逃がしていないだろうか、そんな不安が大きくなってきたのである。
 立ち上がってきたイメージを効率よく、ほとんど近似的に表現できる、それが画家にとってはたして望ましいことなのか?
 贅沢にさえみえる奇妙な問い。だが芸術とは実は奇妙な問いの連続の上に成り立ってきたのである。二次元の空間(平面)に三次元の空間(立体)を作れないか。色彩を厳密に光として扱えないか。心の運動をそのまま色の運動に移せないか、頭の中の観念を中空に建てられないか。新しい表現は例外なく常軌を逸した欲求から出発した。まっすぐに行けばいいものを、わざわざ入り組んだ道へ。あえて、深い屈折へ。
 屈折! 水に差し込んだ光は、水の密度に遭遇して微妙に曲がる。だがそうして水は光を表現し、光は水を表現するのではなかろうか。そればかりか、水はそうして水じしんを、光は光じしんを表現するのではなかろうか。表現とは屈折のことを言うのではなかろうか。
 「苦しみました」
 北村美和子はひさびさの個展の会場で率直にそう言った(2007年12月8日〜13日 神戸・ギャラリー島田)。夕暮れの空でつかのま、はなばなしくも美しいゆらぎを見せる宵の明星…。葉裏にまで光を透かせて、どこもかしこも緑の光が跳躍する森の陽光…。まるで地球の奥から放たれてくる光のように、闇の中に幻視を生み出す深海の微光…。イメージの洪水のようなそれら一連の作品が、すべて今回は油彩で並べられていたのである。透明度を損なわないために格段の配慮が必要だったはずである。忍耐が必要だったはずである。タッチにもおそらくは微分単位の修正が必要だったはずである。で、何が変わった?
 見たところ、深い生命感の表現は変わらない。この画家のゆらぎは、いわが宇宙エネルギーの流動だ。その波動との共鳴は一貫している。だが確かに表現に深い変化が起こっていた。アクリルを用いていたときの彼女はそのエネルギーを絵で指し示していたようだ。だが油彩と格闘するなかで、いまや彼女は絵の中でエネルギーそのものになっている。
 花の中に入った蜜蜂が花そのものになるように。
  2008.1.16 Tadakatsu Yamamoto
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Vesper -Abyss
撮影:編集部


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  小阪美鈴    Engli-sho(イングリッ書)
 アルファベット。…いうまでもなく、ABCのことである。今からここで語るのはこの英語圏の文字列のことなのだが、しかしきょうだけは何か別の適切な呼び方はないものだろうかと思うのだ。できればABCに精神性の味付けをして例えば「聖アルファベット」だとか、ついでに神秘性も少しは加えて「聖フェニキア文字」だとか。書家・小阪美鈴が英語を墨書した軸作品「BELIEVE」をここでこのように論じるにあたっては(小阪美鈴書展 2007年1月5日〜10日 神戸・TOR GALLERY)。
 冒険である。間違いなく評価が分かれる作品である。小阪にしても、依頼者からの切実な要請がなかったなら、おそらくおいそれと踏み入ることのできなかった領域である。BERIEVE(信じる)。七つのアルファベットを縦に墨書して、軸装にした。二重の格闘があった。まず字形そのものが墨になじまないということ。そして横書きが習わしの書き方を無理やりに縦書きにするということ。だが仕上げられた書は、あたかも塔のようにそこに立った。むしろ漢字やかなよりも凛と立った。信じる、という魂の意志表示がまぶしいくらい現れた。ブッダの聖なる心を体したストゥーパのように。
 伏線はあった。小阪はかなり前に「LET IT BE」(レット・イット・ビー)という作品を発表している。ザ・ビートルズの名盤から採ったモチーフだが、それは一瞬の噴火のように紙の上に現れた。ポール・マッカートニーの宗教的な内なるビジョンに根ざしたこの歌は、不思議なくらい東洋の知恵とも共振する。なるがままにまかせなさい…。ビートルズ解体の危機の中で、しかし危機ゆえに激しく、深く絶唱されたこの曲は、小阪を勇気づけ、解放し、共感が書の中で炸裂した。「LET IT BE」は、魂が疾走するような書になった。疾風のような作品になっていた。
 今度の依頼者も初めは「LET IT BE」を所望した。それをやがて「BELIEVE」へと変更する。
 「やっぱり、これ、これしかない、信じるしかない、って、そう彼女(依頼者)は言ったんです。しばらく熟考したあとで」
 人はときにその一言にそれまでの全人生が響き渡るような、そのような深い一言をなすものだ。「LET IT BE」から「BERIEVE」へ…。生の曲折を経てきた女性にとって、二つの言葉の間には無限ともいうべき深い淵が横たわっていたはずだ。そこを越える大きな飛翔があったはずだ。小阪はそれを聞いたのだ。だから、書けた。高い、高い塔が立った。
 さて、限られた字数の中でもう一点だけ作品を紹介しておきたい。こちらはオーソドックスに漢字とかなの文である。作品に採られた部分を、全文ここに書き出そう。こうである。「われらは全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生存する権利を有することを確認する」。
 日本国憲法の前文である。
 明るい、心のこもった書なのである。
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  撮影:編集部
  2008.1.10 Tadakatsu Yamamoto


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KOBECAT 0042
2007.2.6―11 神戸・GALLERY北野坂
三木次代の着物「はなつ」

――よくよくめでたく舞うものは――
■山本 忠勝


めから織り、そして最後の仕立てまで、何役もの手仕事をたったひとりで運びながら、伝統の継承、霊感の感受、そして表現の変革の三重奏を追求する、まさに「和」の創造者である三木次代。彼女がたった一点の個展のために縫い上げたシンプルな、しかし謎めいた着物(和服)を見たのは、今年(2007年)の2月のことだった。その着物は神戸のGALLERY北野坂の展示室の中央に天井からユラリと吊るされていたのだが、それをほとんど目と同じ高さで眺めながら、まず頭の中に浮かんできたのは「天の羽衣」という遠い記憶の言葉であった。決して実用的ではない、なにか超俗的な雰囲気が着物にあったからである。だがむろん、これだけではこの着物の核心に至ることはできないと、そういう直観も響いていた。それで、作品のまわりをなおぐるりぐるりと歩きながら、次に心にのぼってきたのは「梁塵秘抄」という古い歌謡集の名であった。踊りと歌のイメージを着物に感じたからだろう。よし、これでいい、とそう思った。ともかく「天の羽衣」と「梁塵秘抄」の二つの言葉が摘めたので、そこでもうある程度のことは書けるだろうとそういう気もちになったのだ。じっさい書きかけたのである。それも、春から夏、夏から秋へ、なんと六回も書きかけた。書きかけ、書きかけ、しかしそのつど書きかけるばかりで、つまりは、三つの季節を通して頓挫を繰り返し続けたというわけだ。言葉を足せば足すほどに、いっそうまさぐるばかりである。着物の喉首がどうしてもつかめない。とうとう師走がやってきた。もうあきらめかけていた。

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撮影:編集部
 あっ、と思ったのは、ルミナリエが近づく三宮の街なかで編集の仲間とコーヒーを飲んでいて、話の風向きで竹取物語が話題にのぼったときである。この最古の説話には荒唐無稽なスジに似合わずおそろしく理知的かつ合理的な思考法が流れている、とそういう話がその場の雑談の軸だったが、若い編集長がその象徴的なケースとしてかぐや姫の別れのシーンを挙げたのだ。月から迎えにきた一行が、いよいよかぐや姫に天の羽衣を着せようとするのである。だが彼女は「しばし待て」とそれをとどめて、悠然とこの世界への別れの文をしたためる。天の羽衣をまとってしまうと、もう地上のことはぜんぶ忘れて、天人へ還ってしまうからである。そうだった。天の羽衣といえば、三保の松原のすばらしい景色とともにまずは衣装の天上的な美しさのことばかりが頭に浮かんでいたのだが、もっと重要なことがその奥に隠れていた。ほかでもない、羽衣がこの世界から向こうの世界へ移るその境界にあるということ、俗域と聖域とを切断するまさしく結界に位置しているということだ。天女の体を飾るものである前に、それは時空を超えるもの、心の形を変えるもの、命の姿を変えるもの、世界を変えるものだった。「それ、もらった」。思わず口走ったことである。
 れっきとした陳列室で一作家の作品を一週間にわたって一点だけ展示するGALLERY北野坂の贅沢な企画である。その三木次代編で彼女が出品した着物には「はなつ」というタイトルがついていた。形の上から見ると少し逆説的なネーミングだな、とそう感じたのがまずさしあたっての印象だった。「放つ」「解き放つ」「解放する」「開放する」…、それら「はなつ」につながる一連の類縁語彙は、どれも外へ向かって開かれるある種の「広がり」、それも裾を床に向かって晴れやかに開いていくウェディングドレスのようなデコラティフ(装飾的)な「広がり」を暗示するように思えるのに、そこに吊るされた実際の作品は、素材も最小単位に突き詰められ、装飾もぎりぎりに抑制され、どちらかというと内部に向かって求心的な力を充溢させている、とそのように受け取れたからである。
 とにかくオクミ(衽)すら省いてしまっているのである。だから左右のマエミゴロ(前身頃)をちょうど両開きの扉みたいにいきなり胸で合わせて着る、これ以上ない単純な構造になっている。色合いも朝の霧に薄日が溶け込んでいるような、ごくシンプルな乳白色。そこに、草木染めでいろんな色に染め上げた四角な裂(きれ)を、ちょうど占いのカードを秩序正しく並べるように、幾何学的にはりつけた。媚態のようなものはことごとく排斥して、むしろつっけんどんな装飾といっていい。ただ襟だけはたっぷりと白をとって、花の蕾が大きく膨らんでくるように、さすがに三木好みの豊麗な風情だが、それとて全体の抑制された印象を決して壊さない程度に配慮の届いた豊麗さなのである。つまり、振り袖であれ、訪問着であれ、留袖であれ、それら豪奢なイリュージョン(幻視)を命とする現代の和装の流れのまっただなかで、これは過剰な要素をいっさい除去して、ミニマルな(最小の)要素で構成した、いわば反―時代的な着物の印象だったのだ。
 多彩な装飾で隅々まで彩られて、華々しいイリュージョンで輝く装い、そのような外向的な衣装というのは、いっけん複雑に見えはしても実はつかまえやすいものである。装飾とは、どれだけ込み入っていようとも、比較的明快な意図に還元できる記号のかたまりだからである。階級を明示する装飾。共同体の一員であることを証す装飾。価値を共有する装飾。共有の価値に反抗する装飾。全体に同化する装飾。孤立を強調する装飾。そしてせいぜいそのおのおのについてこれ見よがしの擬態を演じる、モドキの装飾、などなど。果てしない多様化を繰り広げているように見えはしても、要はどれもこの世俗の場に収まってしまう出来事で、それも同化と異化の座標の上にきれいに並んで、相互にすっきりとしたポジションをとるのである。とりわけ和装の世界では、その記号性がきわめて顕著で、したがって読み取りもそんなに難しいことではない。幼女や少女や婚前の娘を晴れやかに飾る振り袖。婚礼の日の凛と輝く白無垢とそして豪華な色打ち掛け。既婚の婦人が儀礼に着用する黒留袖…。
 ということは、反対に記号性をまったく欠いた衣装の前に立ったとき、わたしたちはそれと馴染み合うためにどんな身構えをとればいいのか、そこに次の問題が現れるということだ。三木次代の「はなつ」がまさにそのような反―記号的な作品だからである。
 もちろんいかにミニマルな仕立てといっても、ひとまず三木の作品にも装飾があるではないか、とそのような反論がすぐに出てくるはずである。確かに色無地の上に整然とコラージュされた草木染めの四角な裂は、どれも彼女が長い年月をかけて織り上げてきた、思い入れ深い布地である。むしろ彼女の美の履歴をその時期その時期にたどっていくアンソロジー(詩華集)の趣で、そこに込められた心の密度も鮮やかに伝わってくるのである。だが同時に、装飾を否定する装飾があるということ、その逆説的な構造にわたしたちはここで気づかされることになる。整然と、といえば、あまりにも整然と、幾何学的に、といえば、あまりにも幾何学的に、脱主題的に、といえば、あまりにも脱主題的に配列された二十八枚の四角な裂は(その裂じたいも何の作為もない真四角だ)、数学における機械的、非情緒的、没価値的な順列組み合わせのようである。もう少し気の利いた配列がありそうなものなのに、という微妙な不満が見る者の心のうちに驚きの剰余のように生まれ出る。だがそこにこそ作家の強力な意志があると、そのことに気づくのにもそれほどの時間はかからない。このうえなく入念に仕上げたものを、あえてぞんざいに扱って見せる卓抜さ。この装飾を破壊する装飾は、いかにも自己を否定するメッセージを満々と漲らせて、そこに置かれているのである。
 否定の着物なわけなのだ。座標から脱け出していく着物である。言い換えれば、言葉を追い抜いていく着物である。かぐや姫が地上の暮らしを完全に忘却するということは、とりもなおさず地上の言語をすっかり忘れて、月の言葉(むしろ宇宙の沈黙)に還ってしまうということだったはずである。天上の着物に着替えるということ、それはそこで心の形を変え、命の姿を変え、言語の世界から脱―言語の世界へ脱け出していくということと等価である。時空の結界を越えて、宇宙的沈黙へ開かれていくということだ。
 すなわち人間から宇宙へのその境い目に立つ着物。
 いったん内に包んだものを包むやたちまち無限の沈黙へ開いていく着物である。
 寒さや乾燥や外傷などから身を守るために人間が着物を作り出したということ、そのことは総論としてはおそらく正しいに違いない。だが、原始の人びとが最初にまとった毛皮や樹皮がそのまま現代の着物のルーツだと言い切ってしまっては、たぶん粗雑に過ぎるだろう。現代の家は古代の竪穴住居がそのまま発展したものではないのである。わたしたちの今の家は、神のために建てられた床の高い神殿の世俗化であり、進化(むしろ退化?)である。住居の歴史に起こったのとまったく同じ屈折が衣類のうえにも出来(しゅったい)した。神と交信する神官(シャーマン)が、宇宙の沈黙に聞き耳を立てるために特別に羽織った儀礼的衣装こそ、今の着物の直接の祖先になったのだ。
 強調したいのは、着物とは実は宇宙的出来事だったということだ。「はなつ」と名づけられたこの着物は、少なからぬ驚愕で打ちすえながらわたしたちをその最初の地点へ連れ戻していくのである。着物が原始の宇宙服にほかならなかったその原点へ。
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 さて、すると「梁塵秘抄」は? 少し思いがけないことなのだが、この平安後期(12世紀)の歌謡集は、初めに直感していたより今となってはもっと深い推理へとわたしたちを誘い込む。単に歌や踊りの問題にとどまらないということだ。三木の作品「はなつ」はこれまで述べてきたとおり着物に原初のコスモロジー(宇宙とのつながり)を生き生きと回復させることになったのだが、そのことは裏を返せばつまり、わたしたち現代人の「宇宙喪失」を鋭く浮き彫りにすることになるのである。ここで宇宙喪失とは、宇宙がどれほど巨大な空間だろうと結局はそっけないチリの粗密に還元されてしまう、そのいささか侘しい最近の物理的な認識と、そこから来るロマンの喪失のことだけをいうのでは決してない。それよりもっと深刻なのは、宇宙の中心を占めていた超越的な精神(一つの神あるいは多数の神々、もしくは如来)が滅びていくことなのである。人間精神の存立を保証してきた最も大きな枠組みが崩壊のさなかにあるということだ。そしてここでまさしく思いがけなくも示唆深いのは、後白河法皇が「梁塵秘抄」を編んだのもいかにも宇宙喪失の時代だったということだ。
 仏の教えが無に帰する「末法」の時代であった。歴史的現実としては貴族を主体とした旧仏教が権威を失墜して、代わって武士・庶民層を主体とする新仏教が台頭してくる、そのような宗教的混沌の時代であった。難解な教理の中に解体してしまった仏のビジョンを、武士・民衆の率直な表現で再構成を試みようと企てる、鎌倉期宗教改革の前夜であった。「梁塵秘抄」は、その隠れ去ろうとする仏への、直接的かつ切実な呼びかけで満ちている。


 仏は常にいませども 現(うつつ)ならぬぞあわれなる 人の音せぬ暁にほのかに夢に見え給う


 率直さ! 危機の時代には、物事はシンで率直に語られる。沈黙のぎりぎり手前で端的に語られる。修辞に満ちた饒舌な和歌よりも、ミニマルに切り詰めた今様に、権力のトップにあるものすらが心の拠り所を求めざるを得なかった、それはきわめて象徴的なことなのだ。そして現代のこの精神的な混乱と闇の中で多くの人びとに共感を広げた、この「はなつ」のミニマリズム。宇宙精神とのまっすぐなコンタクトを回復したいと切望する、その真剣な気構えの点で今様(現代)の羽衣は古代末期の歌謡の心に通底する。
 さてこうなると端正な宇宙服であるこの「はなつ」が実際に着用されるところをどこかで見たいものである。だがむろん普段着には向かないし、儀礼の場からははみ出るし、お洒落というにしてはあまりに挑発的である。環境が難しい。しかし、ここのところだけは、そう、最初の直感通り、むしろ喜んで受け入れられる、とっておきの場所がひとつ見つかるはずである。踊りの場だ。舞踊は今でもなお人間を宇宙へと解放する数少ない場のひとつだし、今日「梁塵秘抄」が広くもてはやされるのも、舞いはもちろん音曲や遊びなど主として舞踊のジャンルにことよせて歌われる快い解放の諧調があってこそのことなのだ。


 よくよくめでたく舞うものは 巫(かんなぎ) 小楢の葉 車の筒とかや
 やちくま 侏儒(ひき)舞 手傀儡 花の園には蝶 小鳥


 さあ、「はなつ」をまとって、ここでひとつ、今様を舞って進ぜましょう。さすれば、この着物の秘密が一気にはじけて、ひろびろと無限へほどけていきましょう。
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 「1点で個展―三木次代“はなつ”」は2007年2月6日から11日まで、神戸市中央区山本通1丁目7番17号のGALLERY北野坂で開かれた。この個展について三木じしんは次のように言っている。「これまで染め織った着物の片らを、一点の着物に集めて、大好きなこの空間へ、そして、そこから拡がる空へ、放ちました」。作家は染め、織り、縫いのすべてをみずからの手仕事で進める和装のクリエーター。神戸市須磨区在住。
2007.12.30
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Cahier

  豪玉万里紀行?    To be also not to be
 世紀が移って、それを単に時間の経過に過ぎないと、そんなふうに物理的に納得して落ち着いていられたら、これはかなり幸福な心だと言っていい。暗澹たる終末の渦へ運命的に吸い寄せられているなどと、そんな妄想に苦しめられることもないからだ。だが別役実の以前の演劇作品に今あらためて遭遇すると、二つの世紀を経るうちにわたしたちの心の構造がどれほど大きく変わったか、その不穏な変容を目のあたりにすることになるだろう。作品は同じだが、それを見る目と心が変化した。劇団豪玉万里紀行?の公演「いかけしごむ」(演出・武谷嘉之。11月11日、イカロスの森)を見ながら考えさせられたことである。
 「いかけしごむ」は別役の1989年の作品である。海を泳ぐあのイカで消しゴムを量産する技術を開発したという奇妙な男(山本慎也)が、イカを大量に詰め込んだポリ袋を胸に抱えて登場する。新製品に脅威を覚えた消しゴムの業界が殺し屋を雇い入れ、それで彼は必死で逃げてきたのである。だがそこで出遭ったこれもまた風変わりな“千里眼”女(衣川佳子)が、荒唐無稽な男のイカ談義を問い詰めて、とうとうポリ袋の正体が実は赤ん坊の死体であることを暴き出す。妻に逃げられた男が、邪魔になった赤ん坊を殺してしまい、捨て場を捜していたのである。と、ここまでは推理劇ふうの趣だが、結末にはむろん別役的仕掛けが待っていて、男は女に説き伏せられて警察へ自首に向かうのだが、するとあっけなくくだんの殺し屋に撃ち殺され、袋からはイカがどっとこぼれ出してくるのである…。
 別役の作品はよく不条理劇といわれてきた。劇が進行するにつれ、わたしたちはいつしか始めの線路から別の線路へ導かれ、二つの線路はどちらかが間違っているはずなのだが、奇妙にも条理(合理的な推論)は双方とも通っていて、そこでわたしたちはむしろ“条理の迷宮”で立ち惑う。二つの相容れない真実の間で想像力が決着のつかない往還運動に囚われる。そうでなければ二つの真実が相殺し合ってどちらも頼りなく消えていく。…そうなのだ。ポリ袋の中は、実は赤ちゃんの遺体であった。そして、実は大量のイカだった。
 さてシュレーディンガーの猫というのは、現代の物理学が生んだ知の象徴的な迷宮だ。かわいい一匹の猫が小さな箱に入れられる。箱の中には核分裂が起きる装置と、核分裂が起きるとそれに連動して毒ガスを発生する装置とがセットでしつらえられている。では、猫の命はどうなるか? 答えは別役ワールドそのものだ。量子論の立場では、箱の中に生きている猫と死んでいる猫とが「ともに」いる。生きている「か」死んでいる、ではない。生きている「し」死んでいる。その両義性を物理学者は「重ね合い」と呼ぶのである。
 むろん、20世紀に別役作品に遭遇したときのあの衝撃は、この21世紀にはもはやない。若い別役のデビューによってその衝撃はすでに経験されているからでもあるのだが、むしろ時代全体が別役化を深めているというべきだ。いまやだれもが心の中に一匹の猫を飼っている。生きるべきか死すべきかと二者択一に苦悩したハムレット的絶対の時代から、生死がハナから不分明なリア的相対の時代に入ったともいえるだろう。
 だれでもいい、オレを知っている者はいないのか?(リア)
生き且つ死して  2007.12.6 Tadakatsu Yamamoto
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写真提供:豪玉万里紀行?


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KOBECAT 0041
2007.11.23―12.5 神戸・ギャラリー島田
岡井美穂展

――脱出ウサギ――
■山本 忠勝


を焼いてつくったこの白いウサギは、見たとおりのウサギだろうか。タイトルにも「イタリア生まれのうさぎ」云々とあるくらいだから、ウサギと了解してむろん間違いではないだろう。だがむしろこうとも受け取れる。このウサギは地上に流通している「ウサギ」という言葉をスポンジみたいにことごとく吸い取って、もはやだれの語彙集にも「ウサギ」という言葉を残さない、つまり「ウサギ」という言葉を使わせない、そういう沈黙のウサギではなかろうか、と。むしろ禁忌(タヴー)のウサギではなかろうか、と。禁忌というのがきつすぎるなら、スルリと言語の網をすりぬける、超越ウサギ(スーパーウサギ)ではなかろうか、と。岡井美穂の陶と絵の展覧会で考えさせられたことである(2007年11月23日―12月5日 神戸・ギャラリー島田)。

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イタリア生まれのうさぎメリーゴーランド1(撮影:編集部)
 いうまでもないことだが、この陶の小動物をながめながら、分類学上これは哺乳類のウサギ科に属する生き物で…、などとそんな教科書みたいな言語を並べてこれを理解しようと考えるものなどまずいない。とてもそのような静かな作品ではないのである。むしろアリスを不思議の穴へ誘い込んだ、せわしない時計ウサギが跳び出してくるだろう。「遅れちまった!」というあの独白が聞こえさえするかもしれない。月の都で今なお杵を打ち続ける餅つきウサギが思い出されることだろう。ペッタン、ペッタンと繰り返されるにぎやかな擬態語がいっしょに立ち上がりさえするかもしれない。ひょっとしたら裸にむかれた因幡の白兎も出てくるのではなかろうか。サメたちをだました巧みな話術を連想するひともいるだろう。とにかく周りに説話や童話のヒーローたちがいろんな言語や音声を引き連れてわっと集まってくるのである。
 しかし、ではこれはアリスのウサギかというと、それは全然そうではない。月のウサギかというと、それも全然そうではないない。むろん因幡の白兎でも全然ない。問い詰めていけば結局はそうでない形ということになるのだが、しかし依然としてそのような形でそこにありありと在り続けるもの、そのような二重の形で在るものをしっかりと言い当てるのは少々骨の折れる仕事だが、いうなれば、否―アリスのウサギ、否―月のウサギ、否―因幡の白兎でありながら、そのすべてであるような白いウサギが目の前に出現しているというわけだ。無数の言葉で語られながら、しかしそのすべての言葉を超えるもの。ウサギとほとんど一体でありながら、むしろウサギから最も遠くへ走るもの。
 脱出するウサギである。ウサギと定義づけられるその言語の監獄から果敢に逃走をくわだてる「否―ウサギ」なのである。どこへ…? 言語に捕縛される前の広々とした場所へ。なぜ? 自由と威厳のためである。
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鏡の中
 もちろん脱獄にはいつもテクニック(技術)の裏づけと、それに加えて多かれ少なかれ奇跡が必要なものである。空間と時間のわずかな裂け目を間髪いれずにすり抜ける瞬時の幸運に恵まれなければ、間違いなくまた鉄格子のお決まりの生活へ引き戻されることになる。陶の作家である岡井の奇跡は当然のこと、土と熱と釉薬の上で跳躍する。
 「イタリア生まれのうさぎメリーゴーランド」といういささか奇妙な作品のタイトルが示すように、彼女は地中海圏の陶芸の町ファエンツァで制作を続けている。幸運にも「彼女の土」を地球上でただ一か所そこで見いだしたからである。この遭遇こそ、最も大きな第一の奇跡である。
 陶土として十分に熟成を深めている日本の土は1200度を超える高熱で焼かれても平気である。しかしそんなに硬く焼けてしまうと、彼女の感覚では作品が彼女の心からあまりにも遠くへ進んで、かえって達成感がなくなるのだ。自己と作品との間に乖離が生じて、その寂しさが埋め切れない。一方、イタリアの土は日本の土ほどの高い熱にさらされると、もう耐えることができなくなって崩壊が始まってしまうのだ。それで現地の陶芸家はふつう900度から1000度くらいで焼くことになるのだが、岡井はそこをあえてぎりぎり上限の1100度で焼成することを考えた。するとなんという喜び、彼女にぴったりのフィーリングが生まれてきたというのである。自己の感性と均衡する土、それと彼女はようやく地中海圏の一点で邂逅した。
 そして、第二の奇跡はむろん釉薬。岡井の白ウサギは、少し重めの、なんとも微妙な白である。それが手ひねりの形態とあいまって(その形態もまた鋭さとおおらかさとが交錯する、微妙な両義的ビジョンだが)、見るもののイマジネーションを強力に広げていく。すぐに出せた色ではない。あるときのこと、たまたま白い釉薬の作品と素焼きの作品を同じ窯の中に並べて置いた。するとそこで計算以上のことが出来(しゅったい)する。そのときの釉薬の組成が大きく作用したようなのだが、薬の一部が素焼きに飛んで、かつてない独自の白が現れることになったのだ。彼女はいうまでもなくその白に夢中になった。ところが一定の至福の時が過ぎてしまうと、まるで星の運行が変わったようにその白はふいとどこかへかき消えた。それほどデリケートな出遭いだったわけである。「また来てくれるか、それはもう、ただ待つしかないんです」。奇跡の中の奇跡だったというほかない。
 そしておそらくもうひとつ、第三の奇跡として彼女の魂を挙げておいてもいいだろう。願うこと。信じること。向かうこと。そして、待つこと…。危ういバランスの中にかろうじて現れてくるものを彼女は敏捷にキャッチして、それを恒常的な形にする。奇跡はこの世界に出現するつかのまの裂け目だが、彼女の魂はそれを無限に広げるもうひとつの奇跡である。
 白ウサギは幾重もの奇跡の塊なのである。
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イタリア生まれのうさぎメリーゴーランド2
 さて、このように「否―ウサギ」として陶のウサギがわたしたちの前に現れること、それがなおさら重要なのは、その否定のウサギの出現で、わたしたちが現に生きているこの場所にも否定が持ち込まれるからである。否―ウサギは、巣を編むように、そこに否定の場所を作り出す(イナバ=否場=の白兎!)。では、否定の場所とは何なのか。もちろん言語の牢獄から解放された場所である。
 いまやここはもうギャラリーという一つの単語で言い切られるような一律の空間ではないのである。日常の街のそのまっただなかで、深々と開かれた裂け目である。すなわち宇宙へ開かれた鋭い裂け目。どんな言葉でももはや名づけようのない場所だ。大きな沈黙への裂け目である。
 ミシェル・フーコーが書いている。
 「見えるものを口(言葉)で言ってみてもむだである。見えるものは言われることのうちには決して宿りはしないのだ」
 真に存在するものは沈黙のなかにこそ存在する。
 そこでこそ存在は自由と威厳に満たされる。
 つまり、そこでこそわたしたちの魂が自由と威厳を回復するということだ。
 もはやそれをそうと呼ぶことができなくなって、そこでわたしたちもわたしたちに還るのだ。
   禁忌(タヴー)のウサギこそ真実のウサギであり、その前でこそわたしたちも自由と威厳を取り戻す。
 それにしても、なぜウサギ? 最後にあらためてそう岡井にたずねてみた。
 「この世界でいちばん黙っている生き物のように、そう私には見えるんです。そう感じられる、と言ったほうがいいのかな。…ほんとうは、けっこう高い声で鳴くんですけど、ウサギって」
 「岡井美穂イタリアのうさぎ&うつわ絵 展―絵とやきもの造形、絵本出版を記念して」は2007年11月23日から12月5日まで神戸市中央区山本通2のギャラリー島田で開かれた。会場にはタブローや絵本原画も並べられ、岡井の最近の仕事を総合的に見せる企画となったが、絵画表現に現れる「超越性」も陶の造形と同じように複雑で深い。いつか論評を試みたい。岡井美穂は神戸市生まれ。京都市立芸術大学卒。1990年にイタリア政府官費留学生としてイタリアに渡り、古くからの陶芸の町ファエンツァで自己の創造の核心を見いだす。エッセイにも豊かな感性を発揮する。
2007.12.2
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Cahier

  藤田舞踊発表会    Utopia
 なんだかんだで遅くなってしまった。ホールの扉を開けるとプログラムは第1部「カッパのポッチは山のてっぺんで」のもう終わりごろだった。席に落ち着いたところで最後のパート「滝の淵のぼくのすみかに帰ろう 天から降ってくる藤の花を見に」がはじまった。
 ストレートで力強いヴィジョンだった。垂れ下がったたくさんの藤の花。あたたかな照明とおだやかな音楽。そのなかで障害をもったダンサーとそうでないダンサーが一緒に踊っている。こうしたユートピアのイメージというのは、モダンダンスがいちばんうまく表現できるのかもしれない。絵や言葉では及ばないリアリティをもつのじゃないだろうか。ストレートに理想を語れば小馬鹿にされるものだし、またストレートに理想を語る人が必ずしも思慮深いとは限らず、そういう人は警戒しなくちゃいけない。だけど直情的なプロパガンダやインチキくさい宗教ではなく、こんなふうに舞踊の作品の現場でそうしたユートピアの理想が保持されているのを目の当たりにして、何だか素朴に共感の思いが胸に広がっていく。
 「障害者なのにあんなに頑張って…」と感動しちゃう、そういう見方は根強くあるだろうが、それは藤田佳代さんの意図するところとは正反対で、といって、障害をもった人とそうでない人が「分け隔てなく」という話でもない。この数年、藤田さんの教室のダウン症のダンサー、安田蓮美さんが大活躍、大人気だが、どうして安田さんの踊りはあんなに人を感動させるんでしょう? と藤田さんに訊くと「ダウン症だからでしょう」と答えが返ってくる。藤田佳代舞踊研究所のホームページを開いてみるといいが、安田さんの紹介のところにはダウン症ダウン症と、くどいぐらいに書いてある。つまり観念の上でだって障害がなくなるわけではないし、なかったことにする必要もない。障害が彼・彼女の「個性」です、と言葉を代える必要もなく、「ダウン症はダウン症です」と、経験の浅いこちらがちょっとたじろいでしまうような力強い、しかしきわめて自然な肯定が、藤田さんの態度と言える。
 だからこそ、安田さんたちが出演していたあの藤の花の場面の踊りは変にさわやかで、変に甘酸っぱい感じで、ユートピアの夢にしばしうっとりとさせられてしまったのだ。藤田さんの肯定の力が作品にしみわたっていて、猜疑や穿鑿の思いもわきへ追いやられてしまう、というのか。
 美的か否か、芸術的か否か、この問題は、難しい。芸術という概念はもうずいぶん拡散してしまったろうけど、それは普遍的な側面と、ローカルな制度の側面をもっている。制度というのは、特に舞踊の場合、これ以上のことができますか、できませんか、という基準の問題であり、テクニック主義というのか、クラシックバレエはそれがもっとも厳しいけれど、モダンダンスだって、自由を求めたのがその出自だからとて、何をやってもいいという話では、まったくない。「美」も「芸術」も言葉に過ぎないと、不問に付してしまうのは許しがたい怠慢だけど、簡単に答えは出ず、検討されつづけなくてはならない問題である。
 「発表会」という場は、その点で、気楽と言ってはいけないが、是が非でも完璧に美的な作品をという場でもなく、作品というよりは、踊り手が主役であり、障害をもったダンサーとそうでないダンサーが同じ必然性をもって舞台に立っている。客席は客席でわが子わが孫の登場のみ待ち遠しく、ヨソの子の登場する場面ではすっかり肩の力を抜いて、始終がやがやしている。コリオグラファー・藤田佳代は時と場所を心得た、さすがショーマンシップに長けた人だといつも思わせるが、その一方で、客席ががやがやしてようと、世界ががやがやしてようと、もう何十年ひとり静かに変わらぬ夢を紡ぎつづけていて、いまではその夢を自分の夢とする頼もしい弟子たち同志たちも周囲に集め、「カッパのポッチ」なんてちょっとかわいすぎるタイトルの作品でも、やっぱりその命がけの夢のヴィジョンが不意に現われて、迫ってくる。


(なお第30回藤田佳代舞踊研究所発表会は2007年10月7日に神戸文化ホールで開かれた)
ユートピア  2007.11.19  山本 貴士
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撮影:中野良彦


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Cahier

  古巻・あさうみ他    Bottom in heart
 たぶん人はそれぞれに自分の内部へ降りていく暗い階段を備えている。下で何に出遭うだろう。むろん花に出遭いたい。だが出遭うのはむしろ瓦礫ではなかろうか。人骨の山かもしれない。古巻和芳とあさうみまゆみと夜間工房の共同制作によるインスタレーション「掃き清められた余白から」が放つ“幻視”はわたしたちをそんな不安へ誘い込む。
 大きな海運用のコンテナを七十基近くも港に並べて催されている美術イベント「神戸ビエンナーレ2007」(10月6日―11月25日)への出品作の一つである。コンテナの中をファンタスティックな映像で満たしたり、鮮烈な光線で照らしたり、エッシャー好みの不思議空間にしつらえたり、あるいは電磁的な構造体の場にしたり、だいたいが動的な演出に努力が払われているなかで、「掃き清められた余白から」はおそろしく静的な時空である。時間がそこで止まったような、いささかカビ臭い空間だといってもいい。
 あるいはニューヨークへも航海したかもしれないその金属製の暗い箱。その中で出遭うのは、まず茶色い畳が敷き詰められた四畳半の小部屋である。小さな古い鏡台がある。黒ずんだ書き物机と座布団がある。ススけた御殿まりが飾ってある…。一昔前のしもた屋ではどこでも見られた、庶民の、肌の延長のような、しかしちょっぴりわびしい茶の間(あるいは玄関?)である。古巻が妻の祖父母の家を思い出してそこに再現したという。王子公園の近くにあったその家はあの大地震(1995年)で倒壊して、もう場所さえ定かでない。
 そして引き戸を開けて奥に入ると、今度は真正の闇である。闇の中に何か白いものが浮かんでいる。人骨の山かと思う。少したじろぎながら近づくと、それは瓦礫の堆積だ。カワラ、タイル、茶碗、鶏卵のパック、キューピーの人形、リモコン、携帯電話…。地震の後、街のいたるところで厭というほど見た光景。それら生活の残骸を忠実に写し取って、あさうみが真っ白な焼き物の小山にした。
 大震災を忘れまい、というのはほとんど神戸の市民的合言葉になっている。だが街の姿は刻々と変わり、傷は塞がり、忘却は確実に進んでいる。芸術家はアジテーターではないから、忘れるな! と叫びはしない。代わりに、わたしたちはもうこんなに忘れている、とその現実を突きつける。じっさい、わたしたちは、こんなにも忘れていた。
 だが忘却とは、消えて無くなることではない。精神分析の見方によれば、それはむしろ「内攻」だ。記憶の表面に漂っていたものが、ゆっくりと底へ沈んで、身体の一部になっていく。都市の修復はほぼ終わった。掃き清められたわけである。だが、いまやわたしたち自身が震災だ。地震が肉になっている。
 逃げられない。わたしたちがわたしたちの肉から逃げられない以上、もう震災から逃げられない。だがそれは決して悪いことではない。人間の内部がどんなに深いか、はっきりとそこで教えられるのだ。コンテナの中のたった数メートルを歩くうち、わたしたちは自分の底へ向かう暗いハシゴをほとんど無限の深さにまで降りていく。そして気づかされるのだ。この底で花々と出会うには、その前に地上を花々で満たさなければならない、と。
心の底  2007.11.13  Tadakatsu Yamamoto
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KOBECAT 0040
2007.10.20 新神戸オリエンタル劇場
森優貴振り付け「羽の鎖」

――こちらと向こうが出遭う場所――
■山本 忠勝


れは悲嘆だろうか。
 いや、悲嘆ではないかもしれない。
 悔恨だろうか。
 いや、悔恨ではないかもしれない。
 絶望だろうか。
 いや、絶望ではないかもしれない。
 そうではなくて、渇望だろうか。
 いや、渇望でもないかもしれない。
 それともこれは祈りだろうか。
 いや、祈りでさえないかもしれない。
 八人の女性ダンサーが暗いシンフォニーの響きとともに刻々と繰り広げていく密度の高い体の動き、どちらかといえばゆったりと進む体の動き、その動きが休むことなく観客の方へ放ってくる微妙な印象のことである。
 森優貴が貞松・浜田バレエ団のために振り付けたこれが五つ目となるダンス作品の初演であった(2007年10月20日 新神戸オリエンタル劇場)。

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撮影:いずれも古都栄二(テス大阪)
 作品のタイトルは「羽の鎖」。音楽はポーランドの作曲家ヘンリク・ミコワイ・グレッキの交響曲第三番から第三楽章。人の命が木の葉のように行き当たりばったりに弄ばれる現代に、なお深い運命をそこに読もうとくわだてる強靭な管弦楽とソプラノだ。戦いで殺された息子への母親の哀歌である。
 現代舞踊の世界において、ダンスは音楽の主題がもたらす拘束からしばしば遠く離れてつくられる。ときにはあえてミス・マッチの組み合わせさえ選ばれる。そこに新たな表現への契機があり、自由もある。とはいえ森優貴の「羽の鎖」が、グレッキの音楽に現れる母親の悲しい叫び声をなにがしか底で引きずらないでは踏み出せなかった、そのことも確かである。厳粛な曲の動機は、渇きを癒す最初の一杯の清水のように振付家のインスピレーションに浸透する。重い詩句のテクストは、彼の心の重心をときには身動きも困難な地の底へ誘い込む。そしてなによりも声楽家のソプラノと一体化して曲の中心に君臨する母という存在の重合性。それはむしろ若いコレオグラファー(振付家)には第一の試練となったに違いない。
 重合性? 母の存在の?
 すなわち愛の高貴と愛の狂気のことである。強い光と深い闇。救済への上昇と復讐への下降。生への衝動と死への頽落。矛盾する対極のことである。意識の根底に横たわるこの大きな破綻に目をつぶって、これまでの作舞家がしてきたように今回もまた「美しく豊かな」母の愛を快適なフーガで語り継ごうとしただけなら、舞踊家の身体表現はその時点でもう古色蒼然たるものになっていたに違いない。これはこれでまた別に考えなければならない難しい課題だが、母の名を冠した素材に対してこんにちの創造者はかつてなく強い警戒心を携えて臨むことが必要だ。
 じつに多くのこどもたちが母親の過剰な心で精神的にそして肉体的に殺されているのである。幼い命がまるで悪魔の仕業のようにむごたらしく母の手で殺される。そればかりか母親の条件に耐えられない女たちが次々と母からの逃走をくわだてて、死を選ぶ。この二十一世紀、母とは最も不安に満ちた秘境であり、最も深い謎である。
 だがもちろんコレオグラファーとしての森優貴は、この作品に関するかぎりそれら重い制約と深い危険を鋭い直観と高度な作法で巧妙に乗り越えた。いや正確にはむしろ危険に満ちた激流を奇跡のようにさかのぼっていったのだ。
 先導の役割を果たしたのは間違いなく持ち前の芸術的嗅覚だ。動機を超え、テクストを超え、母のデモーニッシュな渦をも超えて、彼はまさしく作曲家グレッキが最初に立ったその地点に到達した。巨神アトラスさながらに音楽家が世界の重圧に耐えているその孤独の場所をすみやかに嗅ぎ分けた。舞踊家はそこでしっかりと彼の担うべき重量を分担した。
 なによりも重要なことである。母の叫びから最も気高い音域を受け止めて、しかもただ受け止めただけではなくそこからさらにもとをたぐって地球の奥の声にまで至ったこと。宇宙の声へ抜け出たこと。ワルシャワの作曲家がそこから第三交響曲へと旅立ったその最初の地点に立ち返って、神戸の舞踊家もそこから彼の「羽の鎖」へ独自の旅を始めたということだ。まぎれもなく新しい作品が誕生した。卓越した芸術というものがすべからくそのように最初の地点を決して老いないみずみずしさで指し示すものであるにせよ。
 まことに心を打つ創造は接木からは生まれない。
 地底の根から立ち上がる。
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 さて、森優貴が八人のダンサーたちに求めた動き。それは入念な構成ではあるけれど、比較的穏やかなエレメントの組み合わせで進行する。驚愕するような劇的な局面に観客が遭遇するわけでは決してない。同じ貞松・浜田バレエ団で上演された「眠れぬ森の美女」(ユーリ・ン振り付け 2001年)あるいは「DANCE」(オハッド・ナハリン振り付け 2005年)の度肝を抜くような革新性・革命性に比べたら、むしろ既視性の強い安定したフォルムが絶えず基底を流れていく。どの動きも確かに現代の舞踊家たちが開拓した斬新な財産目録ではあるけれど、もう危うさを伴うようなものではない。ほとんどスタンダードに落ち着き始めている端正なリストである。
 だがそれにもかかわらず「羽の鎖」にはなお他の多くのダンス作品とは決定的にニュアンスを異にする要素がある。八人のダンサーが順を追って地にかがむ。ダンサーたちは当然みずからの屈み込みを大地によって阻まれる。だが彼女たちの肉体はそこでそのように阻まれながらしかし一つの強いメッセージを発信することになるのである。私の体はここでこんなふうにとどまりはしたけれど、私の心(魂)はすでに、ほら、地の下二十センチのところまで潜っている、とそのように。今度は聖像のようにエレガントに水平方向へ手を伸ばす。すると手は腕の長さに制限されて中空の一点で停止することになるのだが、しかしここでもまた一つの強烈なメッセージが腕から発信されてくる。目に見える手はここで止まっているけれど、ほんとうの私の手はすでに、ほら、五十センチばかり向こうまで届いている、とそのように。舞台を前へ歩んでいた隊列が思いがけないところで鋭く止まって、美しく静止する。身体はそこで意表をついて止まったが、そのしゅんかん彼女たちの肉体で炸裂するメッセージはこうである。ほら、見ててごらん、もうすぐ地球が自転するのをやめるから。
 宿命的にそこは超えられないと定められている者が、その超えられない絶対の境界線に踏み込んで、しかもわずかながら向こう側へ超出する。森優貴がダンサーたちを立たせたいと熱望するそのそこは、おそらくそういうぎりぎりの場所である。息子を戦いで失った母親は悲しみを胸の底から汲み出し汲み出し、全力で語るだろう。だがどんなに言葉を費やしても、彼女がほんとうに語りたかったのは、もうすこし向こうのことである。彼女の言葉では届くことのかなわない、もうすこし、ほんのもうすこし向こうの何者かの「言葉」である。森優貴はそこに迫ろうと闘うのだ、…たぶん。
 だから、手が手を追い抜いてすこしだけ向こうへ伸びていく。体が体を追い抜いてすこしだけ向こう側で立つのである。心が心を追い抜いてすこしだけ向こうで叫びを上げるのだ。
 わずかだがしかし確実な一瞬の追い抜き。だがそここそがダンサーたちにとって最高の場所なのではなかろうか。間違いなく観客にめまいを起こさせる場所である。ふつうのわたしたちの言葉ではついに到ることのない第三の場所である。
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 いささか憚られることではあるけれど、その稀有な「言葉」、かろうじて第三の場所で響くその稀有な「言葉」をわずかでも記憶に反芻しておけば、あるいはその場所の深遠さがもうすこし表に現れようか。
 一つは、ほかでもない、マタイ伝。
 「わが神、わが神」で始まるあの呼びかけ。「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
 説明するまでもなく十字架上のイエスが最後に叫んだ不可解な言葉である。今も悲痛に、そして不気味に響き続ける叫びである。聞きようによっては、生涯にわたって神の救いを熱烈に説き続けてきた超人(ないしは神そのひと)が、死の瀬戸際で救いへの疑問を投げかけたようにさえ受け取れる。
 そしてもう一つは阿含経にある一行。
 「諸行は壊法なり」
 涅槃に入ろうとする仏陀が最後に語ったこれも不思議な言葉である。穏やかな言葉で穏やかな説法を重ねてきた悟りの人が、しかし臨終のときに表白した棘をはらむ言葉である。読みようによっては、生涯をかけて法を説いてきたものが、死の瀬戸際に法の無力を明かしたようにさえ受け取れる。
 だが、たぶん、最も火急なのは、これをどう解釈するのが正しいのか、その当否を詮索することではないだろう。詮索は避けられないし、わたしたちを深い示唆へ誘い入れることでもある。だがもっと重いのは、この衝撃的な表白に遭遇してわたしたちの心が一瞬にして見知らぬ場所へ突き出される、その特異な時空を体と心ではっきり見知ることではなかろうか。
 めくるめくばかりに澄み切った時空である。
 この世界の全貌が一気に見える位置である。
 神がまさしく「実在」し、仏がまさしく「実在」する場所である。
 信仰の場所と舞踊の場所、その二様の場所をむろん安易に混同することは許されない。しかし明らかにこの二つの場所は通底する。あらゆるものがそこには二重の意味で現れる。
 二重の言葉で現れる。言葉と「言葉」…。
 二重の動きで現れる。動きと「動き」…。
 悲嘆の表現(あるいは言葉)が、ここでは悲嘆そのものと悲嘆以上の大きななにものかを示すのだ。渇望の表現(あるいは言葉)が、ここでは渇望そのものと渇望以上の大きななにものかを指し示す。祈りの表現(あるいは言葉)が、ここでは祈りそのものと祈り以上の大きななにものかを指し示す。こちらから向かうものと向こうから来るものとがそこで出遭うからである。こちらから向かうものも切実だが、向こうから来るものがそれよりももっと大きいからである。
 氷面のような舞台の床に八人のダンサーたちがゆるやかに腰を下ろして、それぞれにみずからの体をやさしく撫でた。
 つかのま立ち現れてすぐ消えた、かろうじて目にとまっただけのごくごく小さな身振りであった。
 時間の色がそこで変わったわけではない。
 だが機は十分に熟していた。
 観客のだれもが、たとえ自分の推測に100パーセントの自信まではなかったにせよ、その刹那、ありありと一つの明るいビジョンを見た。
 同じ一つのビジョンであった。
 ああ、いま、新しい生命が誕生する!
 きれいな羽を、見えない透明な羽をもって赤ちゃんが生まれてくる。
 向こうからやってくる。
 なにものをも超えるその場所に、なにものをも超えるものが誕生する。
 祈りさえ超えるその場所に…。
 決して犯してはならないもの、殺してはならないものが今そこに現れる。
 そしてそれはこちらに移ってくるだろう。
 輝きながら。
 いっしょにここでわたしたちと生きるため。
 森優貴は生と死のはざまに立つ。
 やさしく生を抱き起こす。
 はばたこう、さあ、ともに。
 そればかりでない。
 死もやさしく抱き起こす。
 すると死もそこに立ち上がる。
 飛び立とうとするのである。
 自由へ。
 現代にそれは不可能だと知りながら、しかし彼はそれに傾注する。
 舞踊は彼にとっていぜんとして再生への呪術である。
 自由への呪術である。


 鎖…? 鎖についてはもうここでは語るまい。
 むしろすでに語ったと、僭越ながらそう述べさせていただこう。
 ただひとこと、ひとは羽から鎖になるのではないし鎖から羽になるのでもない、鎖であり羽なのだと、そう追記するだけにして。
 森優貴振り付けによる創作ダンス「羽の鎖」は2007年10月19日と20日にわたって新神戸オリエンタル劇場で開かれた貞松・浜田バレエ団の特別公演「創作リサイタル19」で初演された。出演は上村未香、正木志保、竹中優花、吉田朱里、佐々木優希、武田宜子、大江陽子、小松原千佳。
 森優貴は1978年生まれ。96年に貞松・浜田バレエ団に入り、97年に渡独。ニュルンベルグバレエ団、ハノーヴァーバレエ・トス・タンツ・カンパニー、スウェーデン王立ヨーテボリ・バレエ団を経て、現在はヴィースバーデンバレエ・トス・タンツ・カンパニーのソリスト兼コレオグラファー。2005年にはハノーヴァー振付国際コンクールに「Missing Link」を発表して、批評家賞・観客賞を受賞している。
 なお「創作リサイタル19」では、ほかに山崎敬子振り付けの「Do You Like The Piano?」(初演)そして石井潤振り付けの「泥棒詩人ヴィヨン」(1988年、芸術選奨文部大臣新人賞)が上演された。
 STAFF 芸術監督:貞松融、浜田蓉子/指導補佐:植木千枝子、小西康子、長尾良子、松良緑、松良朋子/照明:柳原常夫、ライティング・セブン/音響:神戸国際ステージサービス/美術:日本ステージ、湊謙一/衣装:木下正子、中江三従子、八重田喜美子/舞台監督:坪崎和司/舞台写真:岡村昌夫、古都栄二(=テス大阪)/プログラム:殿井博。
2007.11.2
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KOBECAT 0039
2007.9.27―10.2 神戸・元町カルチャー倶楽部
中井博子作品展

――バラのふるえ――
■山本 貴士


い、いく本かのバラがそこで、ささやかな園をなしている。中井博子が描いた花々の野の一隅で、それは、エロティックなバラたちだった。
 かたわらに、画家が以前に描いたバラが一輪、黒いバックにおのれの赤をきわだたせ、これはむしろ志操堅固な花にみえる。ある評者は、中井のバラの魅力を、満開のその時にあって微かな衰微の予兆を漂わせている、そのことから来ると論じたが、このバラはそんな凋落の運命をも張りつめた意識で引き受け、沈思のうちに、無限の闇をゆっくりと降下している。
 中井の新しいバラはエロティックだ。これはそこで性的なイメージが展開されている、ということではない。情欲をかきたてる淫らさも、また情欲をかきたてる清楚さもここにはみあたらず、描写という点では、これはどちらかというと即物的ですらある。アンニュイは、少々。斜め正面から差す光は所在のない午後の物憂さを思わせ、それを受けて横たわる花の姿は、どこか、しどけない。といってコケティッシュというほどでもなく、淡い色彩は、むしろ透明感を印象づける。花のバックは、やわらかく光が充ちたような無地の白。つまりこれは、みずみずしく、たいそうきれいな小品。隠微な雰囲気、性的な暗示というものは、どこにもない。
 だからこれは、つぼみを開き、咲いたバラが、そもそも女陰に似た形をもっているから、という話でもなく、たとえバラが、助平心から繰り返しそう言ってはずかしめられるとしても、性器的なエロティシズムは、エロティシズムの小さな一角を占めているにすぎない。端的に言って、わたしたちは性器がなくとも生きていける。だけど、どうか。このバラのエロティシズムなしでも?
 以前のバラが、満開であっても固く閉ざしていたもの、それを新しいバラたちは、ゆるやかに押し開いている。そこに身を投げ出し、それは何かを待っているよう。何を? 愛? いや、愛というなら、たぶん、むしろ死を。

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 しかし、このバラは知らないのだろう、自分が待っているものを。そうして、いまだ訪れぬ未知のものに向けて、ゆるやかに花弁を開いている。
 歓待し、受け入れるため、身を開いてある、ということ。
 これは、自然体でいる、ということとはちがう。花を描きつづける画家というと、あるいは、自然を愛するナチュラリストの心性を想像するだろうか。だが、ナチュラリスト的な自然体は、自然に深く信頼をおき、自然との一体化を目指すものだろう。
 中井は最近、植物園にバラの剪定に行くのだという。剪定とはもちろん、見栄えのために花を切ること。作品に描かれたバラ自体、あるがままの姿にはほど遠く、枝の切り口も無残に、無頓着にそこに横たえられ、また、瓶に挿されている。それが横長、縦長の画面に閉じ込められ、画面に収まりきらない不要な部分は、さらにフレームにたち切られる。
 また、バラという花。日常目にするバラのほとんどは、19世紀以降の爆発的な品種改良の中で、人工的に作られたものだということ。
 つまり、何重にも人工の花。あるがままの自然などということは、ここでは問題にならない。この点で、中井は一貫している。これまでも野の花が描かれることはまれで、たとえ描かれたとしても、細密な水芭蕉や女郎花(おみなえし)が、実は記憶の像をもとに再構成されたものであったり、色とりどりの花畑の風景が、よくながめられるなら、移ろう季節のそのときどきの花々を、四季のパノラマ画として一枚の画布に収めようとする試みであったりした。画家自身、生け花のエキスパートだが、彼女の絵画作品も画中の生け花というべきもので、そこで追求されているのは、花という素材をどう組み合わせ、どう配置するかという、構成の美である。事実としての花を扱うのとはちがい、空間的、時間的制約のない、むしろ人を途方に暮れさせる自由の中で、画家の強靭な美の意志が、構成するのである。
 もちろん、画家に、人工/自然の二分法をつきつけてもとまどうだけだろう。画家はそのバラを美しいと思った。画家の言い分というのは、いつもこれに尽きるもの。としても、バラは画家の絵の中でいっそう美しく、エロティックになった。その絵筆の先で、いったい何が起こったのだろう。
 この神秘に、例の粗雑な二分法は、何の役にも立ちそうにない。が、いまあえてそれにこだわり、もし、最高度にナチュラリスト的な精神をもった画家がいて、花を描くなら、と想定してみる。おそらく、その人は、花を描くのみだろう。自然への愛と情熱で、たいそう美しく花を描き、そして結局、花だけを描くことだろう。
 中井はちがう。並はずれた精度をもった目で捉え、この上なく正確な手で画布に花を再現する、それはそれで驚くべきことだが、それは中井の腕のよさの証明とはなっても、彼女の花に潜む何か、わたしたち自身にも手が届きがたい、わたしたちのどこか心の部位にパルスを送りつづける何かを説明し尽くすことはない。
 中井の花に潜むもの。たとえばこれを、精神とか、内奥というと取り逃がしてしまいそうで、それを、あらかじめ奥の院に隠された宝物のようなものとして考えるべきではない。価値があるから隠されている、というよりは、隠されていることがそれに価値を与えるのであり、覆われていない性器は、視線の前で次第にひとつの器官へと色あせていくが、下着に隠されてあることで、それははかり知れない特権的な地位を手にしている。中井のみずみずしく透明なバラたちは、しかし、何も隠していないのだ。ただしそこには、潜むものがある。
 中井の花に、隠れることなく潜むもの。いわく言いがたいそれは、花びらの奥に隠された花芯ではなく、花びらそのもののふるえ、決してゆれも開きもしない花びらの上に顫動する、ふるえである。しかし、ふるえとは、ふるえという名前をもったものなのではない。何々である、と、意味に充満した述語では、どうしても名指し尽くすことのできないもの。中井は花を前にして、そのふるえを感受する。それを感受できるのは、たぶんそれが彼女のふるえでもあるからだろう。中井とその花が対峙した、ただそのときにだけ、それはふるえるともいえない仕方でふるえ、それでもひとたび出会ったなら、中井もバラもこの瞬間を待っていたことに気づき、もうためらうことはない、一気に身を開き、抱擁する。画家はバラとともにふるえ、バラの開きを自己の開きとして経験しつつ、描く。あるいは描くというそのことにおいて、ふるえ、押し開かれる。何という、これはエロティックな経験。
 これは、自然との一体化とはちがう。真正のナチュラリストである例の画家は言うだろう。本来自然の一部である人間が、自然との交感を通じそこへ還り、本来の自己を取り戻すのだ、と。しかし、セックスの快楽が、単に自己の確認に過ぎないとすれば、何と退屈なことか。自分ではなくなるかもしれない、自分のなかの他者によって行為しているのかもしれないという、恐怖と背中合わせのスリル。それだからこそ、男も女もわななく。
 幸福な一体感も、よりよきものへの総合の約束もなく、各々先刻まで確かなものと思われていた自己を、互いに当てもなくほどいていく。花に身を開き、そして花が彼女に身を開き、中井もバラも、もう中井でもバラでもいられない。だから二人の寝所には、死の香りさえ立ちのぼる。この交接は最高に、感じる。
 そのecstasyの感覚を、この絵はとどめている。とどめつづけている。Orgasmusで他愛なく終わる交接では、これはない。だからこのバラを、たとえば画家とバラの子に喩えるなどは問題外で、これは生殖とはまったく関係のないセックスである。生よりは、むしろ死に近い営み。生産性という点では無に等しい。そしてこの無の営みが、くめども尽きぬよろこびをもたらすのである。このバラの作品を前にしたとき、わたしたちはいつも、何かを待つようにゆるく花弁を開いたこのバラの開きに画家がその身を開いた、その法悦のときをかいまみる。
 あるいは、貪婪な画家はこののち、まだいっそう遠く花の快楽の世界に踏み込んでいくのかもしれない。淫蕩なわたしたちもそれを望まずにはいられない。それは安易な快楽主義とは無関係の、身を賭した探究の道だ。バラもまた遍歴を重ねていくのかもしれない。いずれにせよ中井は花を描きつづけていくのだろう。花に魅入られたのだ。花を愛する画家は多くとも、花に愛され、花が身を任せる画家はいない。中井の作品は、画家とバラが共にふるえた、その奇跡の抱擁の名残りである。その花びらに潜むふるえなきふるえ、もっともかすかなふるえの中に、途方もなく深い快楽がある。
「中井博子作品展 〜花の贈りもの〜 こうべの街角・野原・山で出合った花達…」は2007年9/27〜10/2、元町カルチャー倶楽部6階で開催された。  
2007.10.30
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KOBECAT 0038
2007.9.22 尼崎・アルカイックホール
貞松・浜田バレエ団公演「白鳥の湖」

――運命と対決するオデット――
■山本 忠勝


鳥に変えられてしまった自分の重い運命をこれほど真正面から見据えたオデットがはたしてこれまでにあっただろうか。彼女は身に帯びた災厄をただ悲しんだだけではない。その重い運命と対決し、むしろ呪い、反抗の構えを垣間見せさえしたのである。そればかりか、つかのまのことだとしても、悪魔の目を盗んで愛する王子との歓喜の時間を全力で抱き締めさえしたのである。幻想的で、しかも毅然たるオデットだった。瀬島五月の舞台である。尼崎のアルカイックホールで行われた貞松・浜田バレエ団の「白鳥の湖」(チャイコフスキー曲)の目を見張らせる公演だった(2007年9月22日)。
 凛としたオデットの登場である。すでに第一幕の「城の庭」のシーンから、奥行きの深い舞台になるだろうという予感はあった。パ・ド・トロワ(王子ジークフリートの親友そして二人の村娘のダンス)に貞松正一郎、上村未香、正木志保というバレエ団の主力を配したその厚い布陣からいちはやく想像されたことでもあるのだが、この贅沢な布陣と均衡するように青年貴族のグループにも女官たちのグループにもソリストをこなせる男女のダンサーがずらっと並んで、まだ始まったばかりの場面場面を申し分なく大きなダンスで早くも大団円のようにつくりあげたからである。
 きわだったプリマを迎えるためにおのずと大きな風景が築かれることになったのか、あるいはプリマはそのようにみずからはまだ登場しない場面にもすでに陰の力を及ぼすのか。ともあれ観客はいきなり示されたこのキャスティングの厚さとダンスのダイナミズムに導かれ、最も美しい第二幕「湖のほとり」に向かう心の準備をより深く成し終えた。十分に身構えてあの白の幻想を待つことになったのだ。

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撮影:古都栄二(テス大阪)
 じっさい、瀬島のオデットは現れた途端にもう全体を掌握する強い磁場を放射して、あたかも煌々と照る月のようにそこにいた。バレエの舞台で全体を掌握するとは、まずもって自分の真実の姿を一点の隠し立てもなくそこに見せることである。真実の姿こそ、無防備でやわらかな共感を誘い出す。すなわち澄明な満月そのものになるということだ。自分の影をふりほどき、自分の影を追い抜いて、身も心も光に開いて立つことだ。
 瀬島のオデットは何ひとつ隠さない。
 もちろん観客に対して隠さないというだけの意味ではない。もっと重要なこと、それは自己自身に対しても隠さないということだ。彼女はいまや外へも内へも大きく見開かれた「目」であった。オデットがオデットみずからを曇りなく凝視する、その自己を刺し貫く目であった。そこに現れたのは、水晶のようにきらめく美しい肢体であったが、同時に目の構造の主要部にある水晶体そのもののまぶしい輝きだったのだ。
 これまでのオデットはほとんどの場合みずからの運命には半ば目をふさいだものとして空をさまよい、夜の湖に舞い降りてきたのではなかったか。魔王ロットバルトに誘拐され、呪いによって白鳥に変えられてしまったその表面のいきさつ(現象)は彼女も理解してはいる。だが、なにが理由でそんな理不尽な呪いがかけられたのか、裏面のいきさつ(内実)はついに知らされないままできた。この神秘な湖は母(王妃)の涙なのである。だが母はどういう理由で娘を悪魔に奪われるようなそんな仕打ちに遭ったのか、肝心のところは伏せられたままである。しかも考えればじつに不思議なことなのだが、その不条理を「なぜ」と問うオデットがこれまでにたったの一羽もいなかった。重い運命を嘆きはしたが、しかし運命に異議を唱えはしなかった。
 むろんこの「なぜ」に答えはない。むしろ答えがないということが、たぶん「白鳥の湖」というこの曲の永遠性もしくは神秘性なのである。わたしたちはだれもが人生のまだ早い時期にみずからにこう尋ねる。なぜわたしはこのようなわたしとなってこの世に出た? だれの魔法でこんな姿で今ここにいる? 解はない。わたしたちもまたそれぞれに呪いを負ってこの世界と出遭っている不可解な存在だということだ。オデットはわたしたちみんなの、といえばあまりに野放図な言い方になってしまうということなら、すくなくとも疑念と不安に揺れ動くわたしたちの青春のまさしく鏡像なのである。それがこの不朽の名作の隠された核心だ。
 だが瀬島のこの新しいオデットは、その暗黙のタブーを破って自己に課せられた不条理を敢然と問おうとした。彼女の踊りはありありとそう見えた。わたしは一体なにものか? どうしてこのようなわたしになった? これからどんなわたしになっていく? ダンスの舞台でそれを問うとは、つまり、みずからの一挙手一投足にみずからの視線を間断なく注ぎ込むことにほかならない。思い出していただきたい。自分の存在に不審を抱く人びとが最初に見るのが、おしなべて自分の手であるということを。えっ、これはだれの手? えっ、わたしの手? そこから自己の体のすみずみへ意識をみなぎらせていくのである。
 むろん瀬島も、先人たちが築いてきた白鳥の美しい嘆きのフォルムを丁寧に、敬意をもって踏襲する。時間を潜り抜けてきた美の形式は、どれも理由があってのことである。だが彼女はそれを与えられたマニュアルとしてではなく、みずからの血から出たものとして新しく踊るのだ。刻一刻を心の鏡に映しながら入念に踊っていく。わたしはなぜこのパをこう踊る…? なぜ、こう踊らなければならないのか…? 羽ばたきのひとつひとつに、心をしっかりとしたためる。なぜわたしは太陽の現れとともにこんなふうに白鳥の中に死に、月とともにまるで吸血鬼のように甦って、ふたたび太陽とともにこんなふうに白鳥の柩に戻るのか。
 そして凝視のまなざしは、このように運命への問いを執拗に繰り返して、今やついに見るべきものを見る地点に至るのだ。正確に言えば、その極限の地点へとわたしたち観客の視線を誘導する。
 オデットというこの呪縛された存在、この悲劇的な運命のほんとうの軸線は、そうか、夜に生き、昼に死ぬ、その転生の相にあるのだ、と。
 振り返れば夜と昼の間で来る日も来る日も希望のない転身が繰り返されてきたのである。
 生と死の永劫回帰…。
 そうなのだ。この転身の物語は単に人間と白鳥とを往還するファンタジックなおとぎ話ではないのである。出口のない生死の往還がそこにある。青春の苦悩も、根をたどれば死の不安へ降りていく。ほとんど毎日のように現れる死への不安と生への情熱。絶望と希望の往還運動。美しいが、しかし果てしのない徒労。しかもこの現代のオデットはそこから目をそらすことがない。運命の一部始終を見届ける。
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 かつてアルベール・カミユは「シーシュポスの神話」のなかでギリシャ神話に語られてきたひとつの特異な往還運動について詳しく述べた。シーシュポスは神をだしぬいたという罪によって、巨大な岩を山頂まで押し上げる罰を負わされる。ようやく頂上へ着いた岩はふたたび麓まで転がり落ち、彼はまた同じ徒労を繰り返すことになる。カミユは言う。
 この神話が悲劇的であるのは、主人公が意識に目覚めているからだ。…無力でしかも反抗するシーシュポスは、自分の悲惨な在り方をすみずみまで知っている。(清水徹訳)
 しかり、オデットはヨーロッパ世紀末の幻視的な精神界で結晶した新しいシーシュポスだったのだ。ロマンティックな衣装をまとってはいるが、その底を脈々と流れる古代ギリシャからの人間悲劇。瀬島が彼女の体で浮き彫りにした中心核はそこなのだ。
 曲の進行とともにますますエレガントに、ますます幻想的に深められていく絶望と死への凝視!
 だから、終幕に悪魔ロットバルトの目を盗んで王子ジークフリート(アンドリュー・エルフィンストン)と踊られる最後のダンスは、すでに死を覚悟しているという状況に並行して、いっそう情熱的で、凄絶なものになる。近松悲劇の曽根崎の森の道行きにも匹敵する哀切な、しかし切迫した束の間の、黄金のようなデュエットが現れた。そこで炸裂する最後の歓喜は、もはや少女のひたすらな、直線的な愛だけにはおさまらない。命がけの妖しい情感が大きな余韻を残すのだ。
 バレリーナたちの永遠の女神である森下洋子。彼女の表現の凄さのひとつは、可憐な少女と艶麗な女性それぞれの精神世界をその華奢な体に深いビジョンで浮き上がらせることである。「くるみ割り人形」の始めと終わりで踊り分けられる“少女クララ”のういういしい透明感と“女クララ”の豊麗な色彩感。そのたぐいまれなコントラストは人間への鋭い洞察の結果である。洞察から生まれる表現の驚異である。そして瀬島にもこの永遠の女神に通じる二重の美学がすでに見てとれるということだ。彼女のオデットは逆境のなかで、むしろ逆境なればこその愛の激しい高揚に身と心を燃やすのだ。逆境の頂上で深く激しく美しく成熟する。
 なるほど先のカミユは同じエッセーの中でこうも語っていたのである。
 かれ(シーシュポス)の岩はかれの持ち物なのだ。…いまや、シーシュポスは幸福なのだと想わねばならぬ。(同)
 目覚めた意識のもとでは苦しみは無限になる。だが、喜びも一気に無限へと上昇する。
 だとすれば、あくまでも意識的であるオデットが、決然と死を選んでみずからの運命を乗り越えるのも、きわめて論理的なことである。彼女は苦しい生をのがれる逃走者としてではなく、むしろ自分の運命への挑戦者として死へ向かう。自分の命をみずから断つという決断をこんなに強い意志で舞台に示したオデットもそうはなかったのではなかろうか。王子ジークフリートはオデットの決断に追いすがるものとして、いくらか驚きの表情で彼女のあとを追うのである。目の底に焼き付いたオデットの最後の強烈なシルエットは、荘厳な磔刑(たっけい)の形であった。
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   愛と死による運命の劇的超克。それはこの「白鳥の湖」(1877年初演)ばかりではなく、ワーグナーの「さまよえるオランダ人」(1842年)や「タンホイザー」(1845年)など19世紀西欧音楽の大山嶺を形成する楽曲の主要モチーフであったことも、あるいはこの機会に併せて思い出しておくのがいいだろうか。
 ダイアナ妃―。悲劇の死へと疾走したイギリスの皇太子妃である。瀬島のオデットが死に向かってきっぱりと立ったとき、一瞬そこに皇太子妃の苛烈な死が重なったのは、単に無秩序な観念連合のひとつに過ぎないものだったろうか。
 いや、たぶん理由があった。
 この英国皇太子妃がわたしたちの記憶に深く刻み込まれているのは、全力で自己を生き抜こうとした女性としてドラマティックで象徴的なエピソードをその短い生にぎっしりと残したからではなかったか。
 時代はいま、女性が構造的に大きく変化しているそのまっただなかにある。
 女性に構造変化が進んでいるということは、人間全体に構造変化が進んでいるということだ。
 瀬島五月はそういう新しい時代のドラスティックな気流のなかでそれにふさわしい意志的なオデットに化身した。
 しかもなおクラシカルな美しさに輝きながら飛翔した。
 貞松・浜田バレエ団特別公演「白鳥の湖」(作曲=チャイコフスキー、原振付=マリウス・プティパ/レフ・イワーノフ)は同バレエ団と尼崎市総合文化センターの主催で2007年9月22日、尼崎・アルカイックホールで上演された。演出・振付は浜田蓉子と貞松正一郎。芸術監督が貞松融。
 ほかの主なキャストは、オディールが廣岡奈美、ヴォルフガングが井勝、ロットバルトが川村康二、四羽の白鳥が安原梨乃、大江陽子、半井聡子、小松原千佳、三羽の白鳥が山口益加、竹中優花、武用宜子。とりわけ川村は彼独自の強烈なロットバルト像を造形した点で特筆に価する。悪魔もまた悪魔自身の運命を呪っているかのような彼の“苦悶するロットバルト”は、裸形の神経のような鋭い動きとあいまって、鬼気迫る空気をつくった。演奏は堤俊作指揮・関西バレエシアターオーケストラ。
 STAFF 照明=柳原常夫、ライティング・セブン/美術=朝倉摂、清水忠雄/衣装=工房いーち、鈴木恵以子、中江三従子、原田すみ子、チャコット、石田コスチューム/大道具=湊謙一、日本ステージ/舞台監督=坪崎和司/プログラム=殿井博/写真=岡村昌夫、古都栄二。
2007.10.7
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KOBECAT 0037
2007.9.30 西宮市民会館アミティホール
千秋次郎作曲 混声合唱組曲「良寛詩抄」

――宇宙的な力学――
■山本 忠勝


西宮混声合唱団の第52回定期演奏会で強い喚起力をもつ新曲を聴いた(2007年9月30日 西宮市民会館アミティホール)。江戸後期の有名な禅僧・良寛の漢詩に作曲した「良寛詩抄〜富貴はわが願いにあらず」である。季節感あふれる三つの律詩「早い秋に」「歳の暮に」「めぐり来る春に」にそれぞれ独立の曲をつけた三部構成の組曲で、作曲者は千秋次郎。瑣末で夾雑な光景に周囲を封じられている現代に、広々と明るい風光を切り開いてくれる初演であった。
 良寛といえども、時代に沿って新しい読み替えのエネルギーに恵まれなければ、ドグマの中に凝固してしまう危険がある。こんにち良寛は却って「脱俗」あるいは「自由」という鋳型の中に堅く封印されてはいないだろうか。こどもたちとの屈託ない遊びのなかに時を忘れる老僧の姿は、なるほど精神の楽園のビジョンではあるけれど、しかしそれが彼のスタイルの典型になってしまうと、わたしたちの心は今度はその不動のビジョンに拘束されることになる。スタイルにはいつもうさんくさい力学がつきまとう。それをそのように見せたいなにものかの意志が背後に働くからである。良寛はいまやむしろ「自由」という紋切り型の定義に囲まれ、最も不自由な僧の象徴ではないだろうか。
 千秋次郎が良寛の漢詩に出遭ったのは比較的最近のことだという。それまで作曲家の想像力を占めていた良寛のイメージは、おそらくわたしたちのだれもがほぼそうであるように、万物の運動にゆったりと身を託して、きたるものをきたるがままに受け容れる、いわば宇宙の大いなる受容者の姿ではなかったか。わたしたちの良寛像はいささかウェットな彼の一群の和歌によっておおむね固められてきたものだが、心の微妙な変転をそれにふさわしいゆるやかな勾配で写し取る日本語特有のこの和歌という表現法もまた、彼を絶対受動のおだやかな覚者に造型するうえで大きな作用をなしただろう。だが漢詩の鋭い勾配はその伝来の良寛像を思いのほか深いところから揺すぶって、馴染みの映像をずらすのだ。やさしさに満ちた面差しをつかのまであれ棚上げして、禅僧の切れ味のいい感性と鋭角的な意識とをきわだたせる。「脱俗」の堅い鋳型が正面から一気に割られて、やわらかな肉体が現れる。ここでの良寛は、ずいぶん敏捷に世界へまなざしを向けるのだ。敏捷に世界を聴く。敏捷に世界へ向かって動くのだ。
 敏捷であるということ。それは時空の裂け目に鋭敏な感受性を差し伸ばすことにほかならない。夏の裂け目にいちはやく秋を嗅ぐこと(早い秋に)。現在の裂け目にすばやく過去の全貌を見通すこと(歳の暮に)。冬の裂け目にはやくも春を見いだすこと(めぐり来る春に)。なにごとにもおっとりと構えるのがトレードマークになっていたはずの宗教者が、ここでは微細な裂け目に俊敏な神経を差し入れて稲妻のように屹立する。時代の向こうから来たその一瞬の稲妻が現代の音楽家を撃ったのだ。音楽家はきりっと対峙し、そして曲を作るという行為を通してこの禅者をあざやかに読み替える。
 ひとつの大きな精神を新しい音楽言語で読み替えるということ。それは単に音階の操作の問題ではないらしい。「良寛詩抄」というこの曲には、どうやら骨格そのものをそれにふさわしい強度にするための精密な設計図が奥に組み込まれているのである。漢詩に対応する明快なリズム、大悟の境地と通底する広々とした旋律、精神の高い品位に均衡する澄んだ和声。それらは確かに表現の重要な要素だし、作曲家がどれほど慎重に個々の表現要素を選択したか、そのことはその端正な響きから十分にわかるのだが、ここには実はそれら聴覚上の表現効果を突き抜けてたちどころに心の深奥にまで入ってくるもうひとつのものがある。表現の奥にある力である。曲を内部から支えている構造の力である。
 じつに巧妙な構造だ。一見、静かなパッセージの推移である。「戸外□練長江流」(戸外には白絹を引き延べたような長江の流れ)あるいは「千山木落葉」(千山 木葉落ち)あるいは「鉢香千家飯」(鉢には香る千家の飯)というふうに、いわゆる白髪三千丈的な大仰なフレーズ(律詩は七文字または五文字で一行の句を構成する)も詩の一角にはあるのだが、それら言葉の過剰な身振りに音楽が流されることは決してない。この作曲家は筋金入りの新古典主義者である。頑として形式の美は譲らない。だからドラマは外部よりもいっそう内部で起こるのだ。
 最も象徴的なのは、混声合唱の何よりの特徴である男声と女声とのこの互いにずれ合いながら統合する二つの要素が、ある明確なビジョンを追うかたちでむしろ建築的に組み立てられたことである。音響的な効果が練り上げられたのはいうまでもない。しかしこの冒険に満ちた新曲では音響的である前にまず建築的であったと、あえてそう言いたい誘惑にあらがえない。
 フーガの妙味。ここではそれが表現の技法というより、さらに深く、まさしく構造の骨格に据えられているのである。作曲家のこの周到で綿密な工夫をフーガという一つのカテゴリー(範疇)でとらえて果たして正しいのかどうか、じつをいうとそこのところにはあまり自信はないのだが、同じひとつのパッセージ(同じ時間)に、男声と女声がそれぞれ別のフレーズ(詩句)を担いながら並行して現れるときの美しさと輝かしさ、それは尋常のものではない。それは交わり合いながら、濁らない。交差しながら、もつれない。競合しながら、調和する。漢詩の生命であるきりっとした対句の美が、西欧の感性から出たフーガの美と交差して、音楽に新しい奥行きと光芒を築いたといってもいいだろう。耳に響き、目に響き、体の中でゆっくりと、完全燃焼へと炸裂する。
 時間のなかを線形に伸びていく音楽が、四次元の奥行きをこんなにまで深めるのは、じっさい、魔法のようである。線の内部に高い穹窿が現れる。むしろ成層圏である。深い階段が現れる。むしろ底知れない地底である。遠い壁が現れる。むしろ地平線である。
 むしろこれは神殿だ。男声と女声とがそれぞれに別のビジョンを提示しながらそそり立ち、しかも大きな調和をつくりだすその光景は、大理石の列柱がそれぞれに輝きながら、しかも巨大な神の殿堂を持ち上げるあの宇宙的な力学にそっくりだ。
 いかにも神殿や寺院は広大な内部を持つ。物理的な面積のことではない。内部に宇宙が開かれるということだ。良寛なら、それを空(くう)と言うだろう。無限と言う。
 そう。作曲家は、その精緻な音楽で禅僧をあらためて無限の中心へ連れ戻す。解き放つ。みずみずしく。

 混声合唱組曲「良寛詩抄」は西宮混声合唱団(団長・中桐宏二郎氏)の委嘱によって千秋次郎氏が作曲し、2007年9月30日に西宮市民会館アミティホールで開かれた合唱団の第52回定期演奏会で初演された(指揮・八木宣好氏、ピアノ・田中景代氏)。歌詞は入矢義高氏(中国文学者、故人)による現代語訳が用いられた。千秋氏は作曲の動機を次のように述べている。「平凡社の東洋文庫の新刊案内で『良寛詩集』が目に留まり購入してみたのですが、心に慈雨をもたらす新鮮な発見がありました。そしてまた、訳注者・入矢義高氏による現代語訳の詩が素晴らしく洗練されたもので、合唱曲への作曲を思い立ったわけです」。千秋氏は1934年生まれ。京都大学・大学院で工学を専攻したのち作曲家に転進。2005年まで大阪芸術大学教授。
 
2007.10.2
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  笹田敬子    Love for blue
 青い月、青い城、青い霧…。青はポップスの主役である。聖母の青、モスクの青、東大寺に現れた青衣(しょうえ)の女人…。青はまた聖性の象徴だ。そして、宇宙からの第一声も青だった。「空はとても暗かったが、地球は青かった」(ガガーリン)。青には意味と暗喩がぎっしりと詰まっている。青の領域へ入っていくのは、だから芸術家にとってむしろ危険な冒険だ。俗に溺れないか。紋切り型に流されないか。感傷過多に堕ちないか。だが画家・笹田敬子は決然と青に向かい、青を新たな目覚めへと導いて、未知の響きを生み出した(笹田敬子展 2007年9月15日―26日、神戸・ギャラリー島田)。
 むろん愛があってのことである。青への愛だ。だが、画家は言う。
 「追いかければ追いかけるほど遠くへ逃げる、青はそういう色ですね」
 どうやら青をとらえるには、巧緻な計略が要ったのだ。恋の成就に策略が要るように。
 だしぬけに近づくこと。鋭く刺すこと。全速力で飛び去ること。蜂のように。
 つまり、この画家の作品では、青のなかを線がそのように疾走する。
 笹田敬子のすばやい線!
 線がいつも裂け目として世界に格段の緊張をもたらすことを思い出そう。
 壁の亀裂は家の崩壊の兆しとして家族に不安をかきたてる。国境の長い線は民族をときとして凶暴な戦いへ駆り立てる。地下を走る断層線はいつ大地震を起こさないともかぎらない。神が座を占める結界は、厳かな感情を喚起する聖域の線である。
 線は時空を揺するのだ。
 だから青の上の青い線、青の上の黒い線、青の上の臙脂の線…。じっさい、この画家の鋭利で、繊細で、ときに強靭な線のリズムは、空間と敏捷に呼応する神経の震動のようである。彼女の線は空間のひそかな呼吸に鋭く耳をそばだてる。どんな変化も逃さない。いまだ! 攻撃! だが一瞬たりとそこに囚われてはならない。すかさず、退却! 逃走! 全力の逃走…。
 しかり、恋の要諦は相手を刺し、逃げ、追いすがらせることである。
 キューピッドの金の矢はアポロンを射てたちまちダフネを追跡させることになる。
 そしてそこに生まれる大いなる逆説。囚われの宿命にさらされながらしかしなお自由への逃走を企てることで美しい物語と月桂冠が誕生した。
 そうなのだ。愛が最も精彩を放つのも、自由と宿命とが半ばするこの逃走のさなかである。画家が仕掛けた攻撃と逃走、すなわちそこに起こる撹乱が青に新しい歌を歌わせる。
 撹乱…? モーツァルトは、そうか、時空の最高級の撹乱者ではなかったか。モーツァルトもわたしたちをだしぬけに攻撃する。襲ってきたと思ったら、もうあらぬ方へ逃れている。再び疾走を始めている。なんときらびやかな音楽。なんときらびやかな自由。なんときらびやかな命。モーツァルトこそは最も強力で、最も軽やかな逃走線にほかならない。
 笹田敬子のこの秋の展覧会のタイトルも「‘イマージュ’―私の音楽ノートより」である。
  
青への愛  2007.9.18  Tadakatsu Yamamoto
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  石井一男    Maya
 ブッダがどんな顔だったか、ほんとうはだれも知らない。仏教はもともと偶像を禁じていた。だからブッダ入滅の五百年後に最初の仏像が作られたとき、それはまず想像から生み出され、やがて少しずつ形を深めて今のいわば「空(くう)」の相貌に成熟した。イエスの顔もほんとうはだれも知らない。基本的にはブッダと同じことである。ともに遥か彼方へ失われてしまった顔なのだ。だがそれらはなんと高貴に再生されたことだろう。人びとの心にはおそらく聖性のイメージを汲み上げる堅固で深い水系が潜んでいる。
 画家・石井一男は今なおその聖なる水系と強固につながっている幻視者だ。六十代の今に至るまでひたすら女性の顔に打ち込んできた。だがモデルがあったわけではない。現代を生きるにはあまりに傷つきやすいこの画家は、たぶんあからさまにモデルを見つめることができないし、いわんやモデルから見つめられることにも耐えられない。感じやすい目にとって人間の目は最も残酷な剣である。彼が安心できるのは、世俗の視線が届かない世界、すなわち彼じしんの深部である。完璧な意味での内視者…。そしてその深部こそ、白毫(びゃくごう)を額に持つ覚者のあの穏やかな顔が、イバラの冠に宿命をしるしたあの聖なる顔が、ゆっくりと浮かび出てきたその同じ潭水(たんすい)域なのだ。
 釈迦の瞑想像が、あるいはキリストの磔刑(たっけい)像が、今日のあの超越的な姿にまで熟するには、おそらく数百年の時を要したはずである。その気の遠くなるような時間のことを考えると、石井が究極の女性像に至るのに人生の大半を費やしてしまったにせよ、それはまだ幸運なことだろう。約束のない探求のなかで、ともかく遂に至ったのだから。
 2007年・晩夏。
 画家が無題のまま展示したこの肖像は、むしろ日付をタイトルとするのがふさわしい(石井一男個展 2007年9月1日―12日、神戸・ギャラリー島田)。その日付で革命が、この画家の革命が起こったからだ。憂愁? 悔恨? 愛惜? 諦念? 希求? これほどおびただしい言葉を含み、含みながらすべての言葉をこんなに超越した顔が、これまでにどれほどあったろう。まさしく革命とは、すべての言葉を一気に超えることである。
 むろん技術も劇的に深まった。和紙の上にグワッシュで焦げ茶と黒を丁寧に下塗りする。そして、なんと、それをクシャッと潰すのだ。すると複雑に広がる皺に沿ってあたかも無意識の層が浮き出るように、下の色が微妙な色合いで現れる。そうして、その底からの呼びかけと呼応しながら、女の顔のまず暗い部分が整えられ、そして最後に頬や鼻の明るみが闇から滲み上がってくるのである。
 寡黙な画家が絵の前でポツリと言った。
 「いまから考えると、むかし思っていたひとに似ているような…」
 おそらくは画家のなかでいつしか永遠の精神へと成熟を遂げたその女性。
 さて、石井が制作に没頭してきたこの神戸は、近代に誕生した都市にもかかわらずブッダの母の名を冠した高貴な山を背骨に持つ。その地勢にちなんでマヤ(摩耶)と呼ぼうか。
 
摩耶  2007.9.6  Tadakatsu Yamamoto
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  新家保夫    Signs for rebirth ?
 裏の路地へ開くように設計されている通用口の飾り気のない小さなドア。緊急時に駆け下りるために作られたビルの背面のむしろ侘しい非常階段。火急を報せる誘導灯が点灯している即物的な脱出口。あるいは遺体を病室から霊安室へ人知れず降ろすための特設のエレベータ…。都市には表からは見えない陰の装置が無数にある。新家保夫はそれら裏の構造に鋭い嗅覚を働かせる。飾り立てられた表通りに比べると単調で、ときには陰気にさえ見える空間だが、実はそこをこそ裸の生と裸の死が通っていく。
 淡路島の洲本市で制作を続けている画家である。洲本もすでに一つの都市だが、いまだ高い空と広い海と豊かな緑を持っている。京阪神の巨大都市圏の周縁部に位置することで、そこから都市文明をいっそうクリアに相対視できる、そういう境界域の町である。
 「淡路島から海峡大橋を渡りながら明石から神戸への海岸線を眺めますと、長い海岸線がコンクリートでびっしりと埋め尽くされてしまっているのにいまさらながら驚かされます。神戸に入って、長田あたりまでやって来ますと、なにか、こう、ワッと覆いかぶさってくるようなものがあって、元町に着きますと、もう押しつぶされそうな気分です」
 じっさい大都市で生きるには幾重もの武装が必要だ。武装とは有機(命)の弱さを乗り越えるために無機的になることだ。優秀な社員のモデルはいまや性能のいいコンピュータにほかならない。正確な計算。速い思考。強い決断。情緒に流れたりしないこと。そしてなにより契約期間中はまさに機械のように死なないこと。死には一文の値打ちもない。
 一つの大都市が一日に出す死者の数はどのくらいになるのだろう。画家の近作「Where am I going?」(新家保夫展 2007年8月30日〜9月4日、神戸・ギャラリーほりかわ)は、超高層ビルが林立する都市の、その周辺に広がる原野に髑髏(どくろ)とおぼしき物体が無数に散乱しているが、まさしく現代の大都市は死者を排泄物のように都市部の外へ出すのである。そして死をさげすむ構造はむろん生をも軽んじることになる。人が自分の生に戻れるのはようやく会社の裏口を出てからだ。それどころか命を守るために何十階もの無機的な裏階段を必死に駆け下りるはめにならないともかぎらない。
 だが創造の不思議を考えないでいられないのは、ここにきて絶望の形象のような画家の絵にある種の詩情が満ち始めたからである。圧倒的に黒が優勢だった絵に、にわかに白の氾濫が現れた。風が捲き起こったようである。水が流れ出たようである。死の街にジャズが甦ったようである。
 「今年の春ごろになって、急に白を使ってみたくなったんです。薄っぺらな感じにならないか、心配は心配だったんですが、けれど使ってみると、なにか、こう、心が開かれるような、凝(こ)りが解けていくような、体が軽くなるような…」
 注目すべきは画家の七十七歳の変革が思考のレベルではなくむしろ生理のレベルで起こったということだ。なぜなら、それは鋭敏な芸術家の魂がしばしばとらえる未来の予兆かもしれないからだ。すなわち、都市の再生への予兆。荒廃の極から希望の時代への転換…。
再生への予兆?  2007.9.2  Tadakatsu Yamamoto
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「Where am I going?」


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  湯川麻美子    Dance Noir
 大地を下っていった冥(くら)い底。そこで影たちが鋭く飛び跳ねるようだった。
 深く流れていく水の層。そこを影たちがすばやく泳ぎ走るようだった。
 激しく立ち昇る火の柱。そこで影たちがゆらゆら揺れ動くようだった。
 ざざっと巻き上がる風の渦。そこを影たちが閃き昇るようだった。
 そして無限へと開く空(くう)。そこを影たちがさまよい渡るようだった。
 湯川麻美子のダンス作品「Digves Amic―愛しい人よ 教えておくれ」は、影たちが訴えるおびただしい未知の言葉で満ちていた。
 江川バレエスクールの発表会に合わせて初演された湯川の初めての創作である(2007年8月11日、神戸文化ホール)。
 湯川は江川バレエスクールから巣立って、げんざい新国立劇場バレエ団のソリストを務めている。注目を集めているバレリーナのひとりである。夏のふるさとでちっちゃな“後輩”たちと懐かしい舞台に立って、と同時にこれを機会にコレオグラファーとしての本格的な一歩を切った。時空(世界、宇宙)を見る確かな視点と、見えるものを的確に彫琢するシャープな技量が示された。
 「Digvas Amic―愛しい人よ 教えておくれ」は地中海の魂を歌う歌手マリア・デル・マール・ボネットの同名の曲を中心に構成された。
 地中海の魂といっても、いわゆる紺碧の海と古代ポリスの明澄な精神によって象徴されるあのまったき明るさとはまた違う。
 マジョルカ島出身のマリアの歌はむしろ明晰さの裏にある狂気、明るさの裏にある闇だ。
 湯川も、だから、振り付けの動機をこう語る。
 マリアの神秘的で情熱的な歌声に触発されて、と。
 その神秘と情熱が湯川の底にある深い闇と共振した。
 闇のダンスだ。
 そして、闇のダンスとは、まだ適正な文字と的確な発声とに出遭っていない未知の言語の、その敏捷な跳躍のことである。
 いままさに沈黙から誕生へと身構えている新しい言葉である。
 彼女の踊りはなんと古代の楔形(くさびがた)文字に似ていたことか。
 永遠のバラを嗅ぐ女神イシュタルのような鋭利なソロ。
 冥界に眠る詩人たちにいま一度地上へ目覚めよと訴える、そのような呪文にも聴こえた波状群舞。
 そう、新しい彼女の言葉は地下の偉大な詩人たちに呼びかける呪文であった。
 来たれ。ふたたび来たって、この精神を救え、と。
 その太古の地層は地中海の底にあり、この列島の底にもある。
 湯川はたぶんそこをしっかりと見据えている。
 
黒のダンス  2007.8.14  Tadakatsu Yamamoto


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  河東けいのリンダ    Death in structure
 セールスマンの妻リンダの役を演じる河東けいを舞台にとつおいつ追いながらとうとう、そうか、と思い当たった。夫のウィリー・ローマンが自殺して寂しい葬儀のシーンでのことだから、「セールスマンの死」(アーサー・ミラー作、倉橋健訳)の上演もいよいよ終局に迫ってからのことである。劇の途中からスフィンクスの謎のようにつきまとったひとつの疑問は、河東けいが登場すると男たちの陰影が格段に際立ってくるその魔法はなぜなのか、ということだった。それは無論、演出家・熊本一の切れのいいアクセントに負うところも大きいだろうし、田端猛雄(ウィリー)の読みの深さも松浦達也(長男ビフ)の構想力の厚さも、そして山本隆史(次男ハッピー)の直観力の鋭さも、相乗的な力となったに違いない。だがそれでもやはり、河東が独特のスタイルでそこに挟まっていなければ、彼らは悲劇の三角形を明快な図式に構成できても、あれほど深く人間として対峙し合ったかどうか…。つまり河東はそこで葛藤を繰り広げる男たちに、まさしく人間の存在の重さと輝きを吹き込んだ。ではなぜそのような奇跡が起こったのか。劇の最後になって思い当たったその奇跡の秘密は、河東けいの愛だった。この女優が自分の役柄であるリンダを愛し、そしてリンダを取り巻くウィリーを、ビフを、ハッピーを、劇中の出来事としてではなく人間としてたぶん本当に愛していた、その愛のことだった。(2007年7月12日、吹田メイシアター)
 もちろん俳優は役柄を愛さなければその役になりきることは困難だろう。劇中人物への愛は役者の責務のようなものである。だが河東の愛はそのような舞台の上の作法としての愛を大きく超えたもののように受け取れた。それはほとんど身内だけのわびしい夫の葬儀のあと、墓標に向かってリンダが呼びかける最後の言葉の、なかんずくその声の響きに象徴的に現れた。ごめんなさい、と妻は夫に謝るのだ。わたしは泣くことができません。その河東の声は二重の響きを伴って客席に浸(し)み渡りはしなかったか。死者に語りかける妻の声と、そしてそのように泣けない妻に心からの共感を重ねる人間河東そのひとの、慈しみ・愛の声との…。演劇にはときおりこのように魔術みたいな美しい瞬間が訪れる。そのとき劇中人物の一片の台詞のなかで、役者そのひとの全宇宙がありありと炸裂する。愛、憎悪、喜び、悲しみ、くわえて人間観、世界観といった形而上の構造も…。
 そして愛は、救済の盾であるとともに、認識の剣である。落涙できないという一つの行為に、河東ほどに救済の力と認識の力とを濃厚に込め得た女優がかつてどれほどあっただろう。救済とは、生と死の境目まで、そのぎりぎりの別れの線まで、愛を抱いて死者に寄り添っていくことだ。認識とは、そのぎりぎりの線上で、死者を死にいたらしめた構造を愛の尺度で鋭く見抜くことである。もはやドリームを追えない時代になおアメリカン・ドリームを追ったウィリーは、目論見の違った人生を自殺によって締めくくる。せめて二万ドルの保険金で人生の帳尻を合わせようとしたのである。だが見かけは見栄っぱりな時代錯誤者の個人的な死であっても、それは現代社会がもたらした構造の死であった。自殺はいつも構造的な殺人だ。河東はそれがくっきりと見える地点へわたしたちを導いた。愛によって…。
構造の死  2007.8.3  Tadakatsu Yamamoto
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撮影:森口ミツル


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   田波克己個展    Intensity of existence
 人間の顔はこの世界で最も深い不在の場所ではなかろうか。
 そこには無数の意味が埋め込まれ、無数の演出が積み上げられ、あまつさえしばしば恋のような空しい幻想さえ託される。
 顔はたぶん鏡にすら正確には映らない。
 そこでじぶんの顔を確かめようとする人は、しかし鏡面を覗こうとしたその瞬間にもう“鏡ゆき”の表情で構えている。
 彼(彼女)はじぶんにだまされる。
 むしろ喜んでだまされる。
 顔は底知れない穴なのだ。
 田波克己がデフォルメにデフォルメを重ねて顔を描くのは、だから、形態のおもしろさを繰り広げたいというような造形的な理由からではたぶんない。
 不在の場所をつかむには、つまり顔という穴をとらえるには、中をまさぐるほかないのである。
 過敏なまでに感覚を研ぎ澄まして穴の奥をまさぐること…。
 眼窩の窪み、鼻梁の突起、頬の勾配、むろんそれらは仮の構造体にしか過ぎない。
 鋭くとらえないといけないのは、穴に満ちる気流であり、磁場である。
 不在の底の暗がりから存在が放ってくる波動である。
 だから波動の襞(ひだ)へ感覚を差し入れる。
 襞に沿ってその感覚を伸ばしていく。
 そこでは存在の手ごたえの強いものが増幅され、弱いものは捨てられる。
 つまりこの画家の絵は、正しくはデフォルメを目的としたものではないのである。
 デフォルメは結果に過ぎない。
 むしろこれは存在の遠近法というべきだ。
 波動と感覚が出遭うところで存在の強度が測られ、正確に描かれる。
 強度の座標では顔はこういう形になる。
 今回の個展(2007年7月20日〜26日、神戸・トアロード画廊)では、顔に静物が加わった。
 でこぼこに歪(ゆが)んだボトル。
 だがそれは何とそこにありありと立ち上がっていることか。
 このボトルは、スケッチされたあの棚のガラス瓶ではもはやないというその完璧な否定の身振りによって、言い換えれば棚のガラス瓶の不在によって、ここに実在するのである。
 もう少しデリケートに言うならば、棚のガラス瓶が放つ波動と画家の感覚が出遭ったその場の強度によって実在する。
 田波克己はいまなお頑として存在の画家である。
存在の強度  2007.7.31  Tadakatsu Yamamoto
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「FACE」


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随想 風月花 第5回
下村 俊子
汽笛
 今よりもう少し騒音のなかった頃、神戸港を出入りする船の合図は、とてもよく聞こえて、それがお昼頃であったりすると、何だかとてものんびりした午後が始まるように思えたものであった。昭和十六、十七年頃、私の幼稚園時代の記憶である。
 後年、昭和史の年表を繰ってみて、国内の情勢も海外の対応も決してのんびりしたものではなかったことを知るのだけれど、どうしてあんなにのどかに聞こえたのであろう。港のそばに住んで日常、汽船もよく眺めていたのに、実際に船の中に入ったのは昭和二十八年だったように思う。ハワイの教会にチャプレンとして旅立たれる先生を、見送りに行った時である。出航まで時間がなくて、同級生たちとあわただしく第四突堤に降りた春の宵であった。見上げた船の大きさにのみ感激を深くして、先生のお気持ちまでは思い至らなかった。
 石川達三の「蒼氓」を新潮文庫で読み始めたのもその頃であった。「神戸港は雨である。細々とけぶる春雨である。……」という一節にひかれて、私は何度も鯉川筋を歩いたし、諏訪山の麓の当時「移民斡旋所」と呼ばれていた建物の前まで行ったりした。移住船の内情を垣間見た気になっていた。
 戦前の客船時代は、野上彌生子著「欧米の旅」で知った。しかし、この旅も太平洋戦争の勃発により逃げるように帰国する。
 昭和六十四年(1989年)商船三井客船「ふじ丸」の登場により新客船時代が始まり、この年をクルーズ元年と定めたそうである。移住船と客船の歴史について調べなければという思いが強い。
 明年、平成二十年(2008年)、神戸港は開港百四十年を迎え、ブラジル移民の歴史は百年を数える。
 今、元町通りは、汽笛の録音をCDにとって流している。
2007.7.16            神戸?月堂会長


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   金田弘詩集「青衣の女人」    Absence
 「青衣の女人」という詩集のその表題をつい「セイイのニョニン」と読んで、まず思ったのは聖母マリアのことだった。西欧絵画の伝統では聖母は青い衣装で描かれる。青はマリアの色である。だが、違った。詩集の序によるとこれは「ショウエのニョニン」と読むのが正しく、東大寺の二月堂に現れた美しい幻のことである。お水取りの名で呼ばれる修二会では、東大寺に功のあった人びとの過去帳が延々と読まれるが、あるときその読誦の場に不意に青い衣の女が立った。そして「なぜ私の名を落としたのか」と問いかけるや、たちまち消え去ったというのである。以来、この女性が「ショウエのニョニン」として過去張に加えられることになった。忽然たる出現と、忽然たる消滅。金田弘のこの八十五歳の新詩集にはそのような存在と非在の交錯が随所にある。
 その表題詩「青衣の女人」は収録十八編のちょうど真ん中の九つ目に、無論強力なトポスを与えられて置かれている。まず聞かれるのは深い「非在」の響きである。いきなり一行目でこう歌われる。「お前さんは人類はいらないという」。そしてたたみかけるように二行目でまたこう歌われる。「色もいらないという」と。行間にふっと存在への憎悪のようなものが香り立つ。しかもそれはこの作品に限らない。詩集冒頭の「八月」では、その八月が「海龍王寺と不退寺を結ぶ線上で/消滅する」。「春日野」では牡鹿の足音が「土塀の向う側へ/消えていく」。「そがの」ではついに「永遠も/なくなる」のだ。すべてのものが向こう側へ去っていく。まだ去ったとはいえないものも、すでに去る構えでここにいる。
 だが、去るとは、実は…。実は、いっそう来ることではないのか。消えるとは、いっそう現れる、そのことの謂いではないか。即座にそう考えさせるのが、この新詩集の響きである。「八月」では、夏が透明になって消えた後に「紅いろの風が吹く」。秋の花野さながらに命を搾り出すような苛烈な愛が生まれたようだ。「春日野」では、ひとけのなくなった月下の道でだしぬけに「女の旅人」と遭遇する。「…面(おもて)/をあげよ」。その顔はまるで月の双生児のようにありありと、不安なくらい白くはないか?
 金田弘は詩に堅固な構造を構築するおそらく今日ただひとりの詩人である。無論それは彼にとって必然の作法である。かつてだれがなしたよりも深く消すこと。すなわち、だれがなしたよりもここに厳然と現すこと。
 「青衣の女人」の最後の行はこうである。
 ――わたしはもういないのよ――
 そこでわたしたちは驚愕する。いないというその非在が、その一行にまるでもう、居すぎるほどに存在しているそのことに。堅固な構造と洞察のこれが究極のビジョンである。
 さて、聖母を連想したのは誤りだった。だがあの西方の女性は彼の地でイエスという巨大な「非在」を生むことになる。最も深く消え、最もありありと現れたあの存在を。
 あるいは同じ魂がそれぞれの土地の姿で向こうとこちらに出現したのではなかったか。偉大な詩はいつも根源から形象を掬い取る。
非在  2007.7.1  Tadakatsu Yamamoto
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出版記念会の金田弘さん


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  若柳壽延・吉由二    Eternal flow
 踊りとはまずもって流れである。たぶん流れに化すことだ。ひとときも淀むことなく、ここから向こうへ、もっと向こうへ、さらに向こうへ、ひろびろと流れ出ていくことである。若柳吉由二(きちよしじ)が若柳流の四世家元・壽延(じゅえん)を神戸に招いて、ともに踊った平成生まれの名曲「河涛々」(かわとうとう)。それはまさしく広くて深くて果てしのない流れであった。無限の流れへの讃歌であった。(2007年5月27日、神戸国際会館)
 「河涛々」は壽延みずからの振り付けで平成3年(1991年)に大阪の国立文楽劇場で初演された、日本舞踊ではまだ新しい曲である。若柳流三世宗家・寿童(1921―89)の三回忌追善のために、駒井義之の詞、清元美治郎の曲によって作られた。作調は望月太明蔵。今回は、吉由二が神戸で主宰する舞踊公演(若由会、31回目)のメーンプログラムとしての再演で、とくに吉由二が彼女の師・故吉玉二の三回忌追善に重ねて組んだものである。
 作詞の駒井義之がみずから寄せている解説によると、ここに歌われているのはおもに二つの川の流れである。東の隅田川と西の宇治川(下流で淀川)。宗家・寿童が江戸の生まれで、やがて京都に移った、その舞踊人生の航跡を眺めるうちに、この二つの川が結びついたというのである。江戸文化と上方文化のいうなれば脊柱を形成する大きな流れが、鋭い洞察とみずみずしい想像力で結ばれた。精神の美しい奇跡である。
 永代橋や清洲橋のにぎわいなど隅田川の流れが織り出すエネルギッシュな江戸の活力。あるいは伏見の船宿や三十石船の回航など宇治川が醸すゆったりとした上方情緒。そこにはそれぞれの彩りにあふれる暮らしがあり、仕事があり、遊びある。恋があり、祭りがあり、旅がある。「河涛々」はそれらの流れが生み出す豊かな息吹きを絵巻物のように豪奢に紡いでいくのだが、しかしこの豊麗な曲の神髄は、実はそれら絢爛たる風俗描写のまっただなかから一つの澄明な精神が立ち上がってくる、その心のドラマにある。
 祈り、である。
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撮影:八木淳
 舞踊の先人への追善とそして若柳流という流派の永遠を願っての曲なのだから祈りは当然ともいえるのだが、だがそれが直接の動機であるにせよ、強調しなければならないのは、この曲のニュアンスからはその動機をはるかに超えた、大きな精神が現れてくるということだ。ほとんど宇宙に広がるような大きな祈りの世界である。魚河岸や水天宮や遊女や鳳凰堂や、それらおびただしい聖俗の形象を貫いて強力に流れていく宇宙への祈りである。壽延と吉由二が舞台に印した品位と風格。その美学の核心は、すなわち曲に折り畳まれているその深い精神を刻々と解き放ち、わたしたちの心を祈りへといざなったことなのだ。
 あるいはプラトンが思い描いたようなイデアの世界は、現代の多くの哲学者たちが示唆するようにどこを探しても無いかもしれない。だが、練達の舞踊家の踊りのなかには、まぎれもない、そのイデアの輝きが現れる。世俗の川に、明澄な精神の流れが透けた。それはおびただしい地の霊を呼び起こし、おびただしい季節を横切り、おびただしい心を渡って、そうしていつしか宇宙の銀河へと開かれていったのだ。無限へ流れていったのだ。
無限の流れ  2007.6.23  Tadakatsu Yamamoto


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  道化座公演    From Kobe to Hiroshima
 地震はもとをたどると海底の巨大プレートの運動から発生する。震災はその物理的な運動が地上にもたらす大きな破壊の様である。物理的な出来事がこのときから人間の暮らしの出来事になるのである。そしてそれら破壊と喪失への人びとの悲しみは、ひとりひとりの内部に開く痛烈な心の裂け目にほかならない。いまや地震が精神の出来事へと上昇する。だが人間の美しさと深さと気高さが始まるのも、実はこの精神の出来事からのことである。人の心は大きな破壊に傷つくことで、他者の苦しみや悲しみへも鋭敏な感受性を広げていく。他者の悲劇を自分の悲劇として受け止める。精神の丘の上に、この宇宙での最も稀有な奇跡といっていいだろう、「良心」という心の働きが立ち上がる。劇団道化座の春季公演「ジイジイが来た夏」は、震災の破壊を生きることで神戸の市民が身に付けた、まさしく良心の発現のようだった。それは62年前の大破壊、ヒロシマへ向かっての遅ればせながらも懸命な感受性の発信だった。(2007年5月28日、29日、新神戸オリエンタル劇場)
 小さな家庭での一つの和解が描かれた。父親が若くして他界して、そのために母(馬場晶子)が身を削って三人の娘を育ててきた、平穏な家庭である。だが、ある事情が伏線にある。夫婦は結婚を反対されて、それで夫の郷里の広島を出て神戸で暮らすようになったのだ。だからいまだにジイジイ、つまり広島の義父(須永克彦)には母も娘もこだわりの感情を抱いている。冷たい義父だと思っている。静かな家庭の奥底でひそかに震動を続けている心の活断層なのである。そこへ突然、ジイジイから神戸を訪ねるとの連絡が来た。
 母親はもちろん心の波立ちを沈めながらジイジイを迎えるが、娘たち、なかでも次女のめぐみ(吉安愛)は母の苦労の年月を幼いころから見てきただけに、ことのほか冷たく当たる。無理もない。微妙な空気が広がり始める。だが思いがけない方向からジイジイの実像が浮かび出てくることになる。
 原爆だ。
 まだ少年だったジイジイはその日、広島の町で地獄を見た。とても言葉で言い尽くせない巨大で複雑な悲しみが彼の心に深く刻まれることになる。生き延びたとはいえ、体の底に食い入っている原爆症への不安。それが子供にも影響していないかという明日の世代への不安…。息子の結婚をすなおに祝福できなかったのもそのためだ。だが、母と娘はまったく知らずにいたのだが、破壊の怖さを身をもって経験しているジイジイは、神戸のあの震災の日、矢も盾もたまらず独りこの街に駆けつけて、大混乱の中を一家の安否を尋ねて歩き回っていたのであった。一家は知人をたよっていちはやく神戸を出てしまっていたのだが…。ジイジイの芯の温かさに触れて、閉ざされていた母子の心が開かれていく。
 物語の構成から眺めれば、これは義父が広島から神戸に向けて出てくるという筋立てだ。だが表現の精神を見るならば、神戸から広島へ向けて今あらためて共感のメッセージを送りたいという舞台である。私たちは決して神戸の震災を忘れない。しかしそれと同じ切実さで決して広島のことも忘れない。たぶん震災を生き抜いた道化座のそれが心の声である。


 「ジイジイが来た夏」は作・渡辺鶴、演出・須永克彦。出演はほかに松澤ふゆ、宮内政徳、阿曽修三、淺川恭徳、島田知子。2003年から取り組んできた「ともに生きる」シリーズの6作目で、これがシリーズ最終編である。
神戸から広島へ  2007.6.20  Tadakatsu Yamamoto
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撮影:岩田浩一


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  別役実とピッコロ劇団    Text
 別役実の戯曲作品を一度でも読んだことのある人なら、役者の話すセリフを聞きながら、そこに影のように寄りそうテキストそのものをたぶんありありとみている。それは飽くまでページに印刷された黒い文字の影であり、内容と必ずしも重なるものではない。字面の存在感というのか。だけど別役作品の喚起力はその影にこそ由来するのじゃないかとも思う。もちろん個々の作品にはそれぞれのテーマがあり得ようし、今度上演された「場所と思い出」(兵庫県立ピッコロ劇団第28回公演)なら、人間関係の不確かさ、記憶、言葉の排他性等、それなりの豊かな意味が折りたたまれている。としてもそれは、いまや別役自身によってすでに切り開かれたものとしてあらためて驚くほどのものでもない。驚くべきは、むしろ別役作品のテキストそのものにみなぎる力の方じゃないだろうか。
 こういうことがある。いつも不思議に思っていた。別役作品は放っておけば誰がやっても同じになる。つまりテキストが役者に強力に強いるものがある。少々の演出なら無いも同じで、役者は必ずテキストに命じられるそのようにセリフを口にする。目にみえる原因も確かにあって、別役作品のほとんどのセリフの終わりに脅迫的にぶらさがっている「……」。役者はそこで言い尽くせない思いのうちに沈黙し、次のセリフの役者はご丁寧にもその間(ま)をとってやる。これはしかし不幸な誤解というもので、多くの「……」は今度の松本修の演出がそうだったように、あるいは作者が口をはさめるこの環境で釈明がなされたであろうように、エゴイスティックな人物たちが人の話を最後まで聞けずに言葉をかぶせていくそのマイナスの間の表記である。しかしそれはいい。目にみえる原因と言ったが、テキストとはそもそも目にみえるものだ。みえなくては話にならない。にもかかわらずそこではたらいている強力な力は、強力であるにもかかわらず目にみえない。「……」の誤解が解けたところで、別役作品の舞台においてはどうしてもテキストの影が目に浮かぶ。
 紅茶入りの水筒、ビスケット、カセットプレーヤー……「場所と思い出」にも別役作品のいつもの小道具が登場する。小道具が同じであるように、別役作品というのは、ある側面ではいつも同一だという仮定。100本を越えて執念のように書きつづけられる動機は、ただあのテキストの力を維持することだとしたら? すると別役の作品に取り組みつづける演出家と役者が直面するのは、いつも同じ材料をその都度どう違った料理に調理するかという課題だろう。これは演劇において同じ作品が繰り返し上演され得るといったこととは次元が違う。気を抜けば何をやっても同じ、とはつまり何もやらなかったことになる、という別役作品の緊張感。
 今回、なりゆきだということだが、セリフまわしに方言が採用されたことは、別役テキストの磁場の中で一定の自由を手に入れる可能性を示していたかもしれない。女1を演じた安達朋子の流れるような関西弁は作品全体に軽さを与え、ひいてはそれがユーモラスな前半とその後の展開とのあいだに効果的なコントラストをもたらし得た。それだけにいわゆる標準語を話す男1の孫高宏があのテキストの磁力に捕らえられていることがよくわかり、ある種の懐かしさすら感じながらみていたもの。
 並大抵のことでは対抗できない別役テキストの力。もとよりそれは内容=意味ではなく、いわば音のない「声」のようなものだから、こうして書き言葉を通じて表現するのは難しい。その「声」は意味内容を越えて生き延びる力だろう。聞こえもせずに命令する声。ただしそれは舞台の上だけでのことで、観客として体験するほかはない。そうした「声」の神秘を感じさせる希有な作家だということである、別役実は。作家自身は、もちろん斬新な演出でいい舞台が実現することを願っているだろうけれど、あまたの役者と演出家たちが抗しがたく彼の磁場におちこんでいくのをみて、おのれの「声」がおとろえていないことを確かめつつ、ほくそえんでいる姿が目に浮かぶようなのだ。
 セリフまわしのスタンスは明確ではなかったけれど、女2を演じた木全晶子は深みのあるまなざしが印象的で、また、ひとり周囲に違った時間を漂わせ、共演者のあいだで必要以上に息の間が「共有」されて単調になるのを防ぐ重要な役割を果たしていた。付け加えておきたい。


 なおこの「場所と思い出」は兵庫県尼崎市・ピッコロシアター大ホールで6月19日 (火)まで上演。バス停を舞台にバスを待つセールスマンと女たち のあいだに奇妙な会話が繰り広げられる。出演はほかに和田友紀、福島栄一、森好文・松本修(ダブルキャスト)。別役実は2003年よりピッコロ劇団代表。ピッコロ劇団は同作品で本年7月のチェーホフ国際演劇祭(モスクワ)に参加する。
テキスト  2007.6.14  山本貴士


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  関西舞踊華扇会    A Tale of Three Cities
 関西舞踊華扇(かせん)会がNHK大阪ホールで開かれた。報知新聞社の主催で、今年が43回目。関西を中心に日本舞踊各流派の名手がつどって、舞いに踊りにそれぞれの世界を奥ゆきも深く彫り上げた。神戸からもいま最も注目を集めている三舞踊家がそろって出演。番組の順にたどってゆくと、まず大和松蒔(しょうまき)、次に若柳吉由二(きちよしじ)、そして若柳吉金吾(きちきんご)の三人である。(2007年6月9日)
 今回の華扇会は、秋に催されるもう一つの舞踊の催し「特選上方舞の会」を統合する形で、それを第一部に置いての新構成だが、松蒔はその「上方舞の部」で吉村輝章(きしょう)や山村楽清芳(らくせいほう)らとともに地唄の曲に出演した。彼女のプログラムは「閨(ねや)の扇」。夏が去るとともに遠ざけられる扇のように、かりそめの愛の戯れですぐ忘れられていく遊女、そのよるべない身の上を情感こまやかに歌い上げる作品だ。松蒔はそこに二つの心を重ねて舞った(ように見て取れた、というべきか)が、そのひとつはいうまでもなく遊女ものの典型ともいうべき哀切さ。そしてもうひとつが、これはたぶんこの舞踊家の根源の女性観(人間観)から出るものだが、哀切の中にも貫かれる遊女の矜持。この矜持が表現を内側から明るくし、ほのかに軽妙ささえ垣間見せて、舞いに彼女独特の艶をつくった。
 次に吉由二の踊りは長唄の「紀文大尽」。江戸の豪商・紀国屋文左衛門の豪快な生き様に題材を採ったこの作品は、まさに吉由二の大きな気宇にぴったりの曲である。ふつう「質量」といえばこれは物理学の専門語でいわば存在の充実度のことをいうのだが、吉由二の舞台はこの喚起力に満ちた言葉をあえて転用したくなる量感と密度を見せる。舞踊にも質量があることを彼女ほど表現する者はほかにない。その存在感をこの日も十分に発揮した。
 そして吉金吾は、一門の吉幸吾(きちこうご)を伴って清元の「お祭り」。江戸・山王祭のハレと気概を鳶のカシラと粋な芸者の組み合わせで堪能させるという趣向。吉金吾の魅力はなんといってもその切れ味と品位だが、それは夾雑なものを徹底的に削ぎ落とした究極の結晶から耀き出す。つまり動の核心と静の核心をまっすぐに貫いて、曖昧な回り道は決して通らないということだ。このうえなく澄明な舞台が現れた。
 ところで京都、大阪、神戸と三都の舞踊家が会すると、三都それぞれの特性が出てくるのも興味深いことである。むろん舞踊はもとの地層が途方もなく深いから三都の特性といってもあくまでも表層部でのことなのだが、たとえば京都で活躍する人たちの舞台を見ていておしなべて感じるのは、伝統を尊ぶ心の表れなのだろう、「芸能」の大きな流れを支えながらそこに自己を消し去っても悔いはしないという覚悟のようなものである。一方大阪には、この日「女」(常磐津)を踊った花柳與(あとう)のように、もとより芸能の大きな流れを背景にしてではあるが、時として個性の強い達者な「芸」がぎょっとするほどの存在感で現れる。他方神戸では、舞踊の展開そのものが西欧文化が入った近代以降だったからでもあるだろう、芸能の中に「芸術性」を求める意志が働くように見てとれる。多様化と相互交流を深めながら新しい地平を開いていく、そこに関西舞踊の大きな魅力があるようだ。
2007.6.10  三都物語  Tadakatsu Yamamoto
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「閨の扇」の大和松蒔 (撮影:中野洋征)


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  MIWA    Search for Voice
 顔は内部を鋭敏に映す鏡である。
 同時に外部を敏捷に映す鏡である。
 顔は内部をしっかりと密閉するブラインドだ。
 同時に外部を頑強に拒むブラインドだ。
 顔は近づけ、遠ざける。
 打ち解けさせ、孤独にする。
 とりわけ今日ではほほ笑みを浮かべながらとてもしなやかに拒むのだ。親しみを込めてエレガントに遠ざける。優しい目で孤独にする。
 それは寂しいことだ、とたぶん画家のMIWAは考える。
 もっとこまやかに見詰め合おうではないか。
 神戸のクラウンプラザ(旧新神戸オリエンタルホテル)に設けられた画廊、THE GALLERYで個展を開いた(2007年5月16日〜28日)。タイトルは「VOICE」。アクリルと水彩でたくさんの顔が並んだ。
 そう、理解を深め合うためには、近づき、のぞき込むことが大切だ。その心で何がゆらめいているか、感覚を研ぎ澄まして相手の顔をのぞくこと。
 だが、たぶん、MIWAは人間を描きながらもっと重要なことがあることに気がついた。
 聴くこと。
 顔をのぞき込むだけではなく、顔を聴くこと。
 顔とはそもそもそ声(VOICE)の塊ではないのだろうか。
 赤ん坊は顔をくしゃくしゃにして大声で叫びながらこの世界と出会うのだ。
 老人が世界との別れに吐く最後の息もあれは小さな叫びではないのだろうか。
 むしろ人は全身が声ではないか。
 命は聴くものではないか。
 ずらっと顔の絵が並ぶなかに超高層ビルの絵が一枚ある。
 ニューヨークの今はないツインタワーだ。
 あの日テレビに釘付けになっていたわたしたちはしかし巨大都市の一角から二筋の煙が快晴の空へ昇っていくそのあまりの静けさとあまりの不動に驚きはしなかったか。
 あのときわたしたちは見るよりももっと聴き取ろうとしたのではなかったか。
 むしろ2700人の最後の叫びを完璧に密閉した静謐な映像に現代の深い非情を見なかったか。
 もっと聴かねばならなかった、ほんとうは…。
 八年前にこの画家の作品を神戸で見たとき、彼女は「美和」と称していた。制作にはしばらくブランクがあったようだが、大きく変わったのは、外部を描きながらその線が画家自身の内部をえぐっていることだ。彼女の絵も聴かれるものに深化した。
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2007.5.24  声を探せ  Tadakatsu Yamamoto


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  須永克彦    Myth of City
 ええとこ、ええとこ、シュウラッカン(聚楽館)、そう言いましてナ…。
 一人芝居の舞台で六十何歳かの熟年男を演じる、というよりむしろリアルタイムで「自分自身」を演じる須永克彦が、幕開きまもなく昔の新開地の風景をそんな語り口でゆったりとたどっていくのを聞きながら、いま彼はこのせりふをほんとうはどういう聞き手に向かって話しているのだろうか、とふと思った。
 演劇の舞台だからその場につどった観客に向かって語っているのは、これはいまさらいうまでもないことだ。ただそのときの須永の声の調子には、役者の口から観客の耳へという一本の伝達経路だけには収まらない、いわば第三の耳へ向かっての話しかけ、見えない聞き手へ向かっての訴えかける、そのような微妙な表情も含まれているようにみえたのだ。
 では、その第三の聞き手とは? それはむろん見ず知らずの他者ではない。むしろ須永にも観客にもともにとても親しいもの、おそらくほとんど須永自身であり観客自身でありながら、それでいて自己からはほんの少しずれるもの、そういうものではなかったろうか。
 新神戸オリエンタル劇場で行われた須永克彦の演劇生活50年記念公演「戦災・震災 逃れて生きて」(2007年1月24日、25日)でのことである。
 神戸に生まれ、神戸に育ち、神戸で演劇に打ち込んできた須永が、その半生を振り返る一人芝居なのである。二つの大きな出来事があった。6歳の年に遭遇した大空襲。それから55歳の年の大震災。あっというまに街が壊れた。おおぜいの人が死んだ。うちひしがれた。が、それでも再生へ向かって力を尽くした。生き延びてきたという実感がある。
 須永が語ったのは、彼のその生き延びてきたという実感とそして彼の生を支えてくれたこの街のことである。新開地の名物食堂「赤ちゃん」で大きなビフテキに心躍った子供のころのこと。焼夷弾が街を地獄のように焼き尽くしたときのこと。野外の映画大会で丹下左膳に心を奪われたときのこと。手塩にかけた道化座の稽古場が灰燼に帰したときのこと…。
 だが「赤ちゃん」の真っ赤なのれんを少年がワクワクしながらくぐっていくと、わたしたちもそこを一緒にくぐるのだ。聚楽館の深紅のシートに彼が座ると、わたしたちもその隣に座るのだ。彼が稽古場の瓦礫の前に立ち尽くすと、そこにわたしたちも立ち尽くす。彼が語る場所でわたしたちはその都度わたしたちの思い出と遭遇する。なんとこの街のいたるところにわたしたちの分身がちりばめられていることか。それを彼が紡いでいく。
 そう、彼はわたしたちに語りかけるとともに、これら無数の分身にも訴えかけていたのである。街のあちこちで彼らを目覚めさせるのだ。わたしたちはあそこにもいたし、ここにもいた。あそこで泣き、ここで笑った。彼が語ったのは、わたしたちのことである。
 ところで、なつかしい一つの言葉で共通の記憶がこんなにも目覚めてくるということ、これはまさしく神話の働きではなかろうか。二つの歴史的悲劇を一緒に乗り越えることでいつしか市民の中に育っていた神戸の新しい都市神話。須永の一人芝居はそれをわたしたちに気づかせたのではなかろうか。
都市の神話  Tadakatsu Yamamoto
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震災で焼け落ちた道化座


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  鴨下葉子    Abstraction and Life
 大地の果ては地平線だ。輝くような一本の線が空の下を伸びている。完璧な抽象の線である。あんなにもくっきりと見えるのに、しかし実際にあそこに行けばあのようなものはなにもない。空(くう)に浮かび上がってくる純粋に抽象の線なのだ。鴨下葉子が描くのは、まぎれもない、空(くう)に刻み出されるその気高い線の、まぶしい分身、まぶしい延長、まぶしい切片なのである(個展 2007年4月28日〜5月9日、神戸・ギャラリー島田)。
 絵を描き続けるということはたぶん一つの旅である。鴨下葉子もおそらくはまだ少女と呼ばれていたある日、そっと旅に立ったのだ。どこへ行こうとしているのか、むろん周りにはわからなかった。画家が目指す微妙な場所はいつも言葉を超えている。わかると言うほうがむしろ不遜なことなのだ。だが今、彼女のひたむきな、揺るぎのない、半生に及ぶ歩みのおかげで、画家が目指してきた方向だけは、いくらかの確度で見当がつけられそうな気配である。たぶん、そう、彼女はあの気高い地平線に向かっていた。向かっている。向かってきた。最も純度の高いあの抽象の線の場所へ。
 さてそこで一つの仮説を立てることはできないだろうか。わたしたちの精神もわたしたちから最も遠いあの場所に最も純粋に現れる、と。西方浄土の兆しが立ち現れたのはあの場所だ。マレビトが最初に姿を現したのもあの場所だ。あの場所の向こうにあるというフダラクに向かって、この場合は水平線の向こうのことだが、実際に舟を漕ぎ出した僧たちもいたのである。むろん生きては帰れない旅だった。彼らは自分の心に現れた最も純粋な方位に向かって消え去った。あそこはわたしたちの精神が高い純度で立ち上がる場所…。
 と、この仮説が成り立つなら、鴨下葉子の引く線の輝かしさがいっそう理解できることになる。第一に、彼女の線はあの地平線の親族だ。そして第二に、彼女の線は人間の精神の最も純粋な発現だ。それは売り上げの推移を表すグラフの線から最も遠い線である。不動産の境界を区画する台帳の線から最も遠い線である。国境のありかを示す地図の線から最も遠い線である。精神が描き込む線は、世俗から離れるのに比例してぐんぐん輝きを増すのである。それはやがて光そのもの、自由そのものに熟していく。
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 だがさらに重要なこと、それは彼女が地平線に限りなく近づきながらしかし決して向こうへ超えようとは企てないできたことだ。むしろこちらを歩き続ける幸福を彼女は深くかみしめる。なぜなら彼女はこの大地を渡る風の快さを愛している。花の香の豊かさを愛している。鳥たちの囀りを愛している。子供たちのきれいな笑顔を愛している。それにたぶんショーウインドーに飾られた洒落た装いも愛している。つまり命の営みを愛している。
 「脱俗的なある種信仰の境地を私の絵から感じ取ってくださるかたがいらっしゃるのはまったく身にあまることです。でも正直に申しますと私は自分をそういう所へ行く画家ではないと思っています。私はここでともに生きていることの喜びをもっと描きたいんです」
 生涯をかけて地平線へ向かう旅。それは実は抽象への旅であるとともに、そしてこれこそもっと大切なことだったと今になってわかるのだが、命をくぐっていく旅なのだ。
Tadakatsu Yamamoto


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 ロダン展    Alchemy
 創造はいつも錬金術である。天才的な調香師は新しい香水の香りをまず脳の中で醸成する。脳神経の上で不意に開花したこの世のものでない幻花の香りを、忍耐強い探究心でバラやジャスミンの微妙な配合に転化する。そしてついに一滴の豪奢な結晶を生むのである。むろん青銅(ブロンズ)に幻影を結晶させる彫刻家も同じである。オーギュスト・ロダンは彼の肋骨の奥から立ち上がってくる影たちをすばやい手ぎわで粘土に移し、石膏に固め、鋳造へ送り出す。真の創造はすべからく無からの練成なのである。比喩ではない。疑うなら、神戸のロダン展を見るがいい(2007年4月3日〜5月13日、兵庫県立美術館)。
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 大小二つのバスティアン=ルパージュ像が並んでいる。バスティアン=ルパージュは36歳で世を去った自然主義の画家である。ミレーやクールベの系譜に連なる写実派の作家である。1885年、ロダンはこの夭折の芸術家の記念像を頼まれた。大きな等身大の像のほうはその最終的な完成像(1889年)で、そして小さいほうは制作段階の最初のマケット(試作雛形、1886年)なのである。
 さてこの二つのブロンズ像のたたずまいを言葉で説明しようとすればおおよそこのようになるだろう。画家バスティアン=ルパージュは左手にパレットを抱え持ち、脚を踏ん張るようにして大地にがっしりと立っている。農民の質朴な生活をキャンバスに忠実に移し続けた骨太な画家の面目躍如たる姿である。頭を少しかしげている、と…。
 つまり中間作品と最終作品のこの対の彫像は、同じ叙述で語られて、それでじゅうぶん自然だということだ。作品の概略を述べるなら、同じ一つの文脈で一つのものとして語られてなんの不都合も起こらない。文法的な間違いはなにもない。だが実際にこの一対のブロンズ像の前に立つと、このような言い方が、表面の整合性にもかかわらず、根源的な誤りを含んでいるのにすぐ気づく。この二つのもの実は同じものでは全然ない。二つの台座の間には奈落のような裂け目があり、あまつさえ無限の距離が開いている。
 ロダンはマケットから完成作へごく微妙な変更を行った。それはまったくごく微妙な変更で、決して全体の構成を変えるようなものではない。頭をこころもち下方へかしげた。両腕を少し脇に引き付けた。体の傾きを控えめに抑制した。要するに少量の微分的修正を施しただけである。だが驚くことに、その小さな変更で彫像の意味が正反対に転換した。
 いまや外を眺めていた眼差しが反転して内部を見つめているのである。外に向かって評価を問うていた耳が内部の基準を聴いている。外をつかもうとしていた手が内部を深く探っている。外に立っていた脚が、内部から立っている。つまり、外側にあった宇宙がいま内側に発見されたのだ。そしてこれらは決してモデルの方からやってきた転回ではないのである。モデルはすでに故人である。ロダンそのひとの神経の上で行われた変換だ。
 現代はまさしく新たな発見の時代である。こんなにも多くのことが無から生まれていることを、はっきり見いだすべきである。今も錬金術が生き生きと営まれている、そのことにしっかり気づくべきである。ロダンから改めて教えられることである。
Tadakatsu Yamamoto


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 太田正人    The Tower of Babel
 神がバベルの塔に警戒心を抱いたのは、「パワー(権力)」の問題だったのだろうか、それとも「トポス(位相)」の問題だったのだろうか。パワーの問題だとすれば、言語を分散させて人間をちりじりに分裂させたわけだから、人間の肥大と増長と権力欲に対する罰だったということになる。トポスの問題だとすれば、言語の多様化によって人間を世界に広げたわけだから、人間を繁栄へと差し向ける深遠なプランだったということになる。太田正人が一枚のキャンバスに八基ものバベルの塔を描き込んでその作品に「それぞれの世界」という標題を付けたのは、神の意志にトポロジックなプランを読み込もうとしてのことのように受け取れるし、たとえ権力の問題だとしても、神の警戒心や疑念をなだめてこの世界に調和と平和を招くための美しいメッセージのように読み取れる(2007年4月20日〜30日、神戸・ギャラリーほりかわ)。
 長崎県の炭坑の島に生まれた太田は、石炭産業の衰退とともに荒廃していく町の風景をつぶさに見た。そこで廃墟への特異な感性を養ったようである。廃墟では多くのものが失われる。だがそれ以上に深いものが現れる。バベルの塔を描くようになったのも、滅びていくものへの画家の鋭い嗅覚が、この古代の巨塔に同じ深さを嗅ぎとったからに違いない。
 だが神戸での震災体験が劇的な転回をもたらすことになる。太田は若くして鴨居玲に憧れて神戸に移ってくるのだが、この街で十六年目を迎えた冬、絵の中でではなく現実の都市空間で未曾有の破壊と廃墟に遭遇することになったのだった。一個の都市が目の前で瞬時にして壊滅した。6000人を超える人が亡くなった。
 「廃墟のなかで廃墟を描く…? 人間の心はそういうふうには(そこまで無慈悲には)つくられてないですね」
 そして2001年の同時多発テロも衝撃的な追い討ちだった。世界の耳目がテレビを通して集中しているそのさなかにまさに都市の中心に出現した大廃墟は、安易なアナロジーは慎まねばならないが、現代を象徴する巨塔の崩壊だったことには間違いない。だが21世紀のバベルの崩落はあまりにも血なまぐさく、残酷だった。3000人近くが犠牲になった。
 今日の破壊にはひとかけらの救いすらないことをそこでわたしたちは見たのであった。
 太田は家庭の事情もあって震災のあと大分県の宇佐市に帰り、今はそこで制作を続けている。去年ひさびさの個展を神戸で開いて、今春はそれに続いての発表だが、見るものの心を打ったのはバベルの塔の大いなる変容だ。天に届こうと傲岸に構えていた古代の塔の姿は消えて、代わってむしろ植物のように控えめで繊細な塔が並んで立ち上がってきたのである。ある塔の頂にはボタンの花が咲いていた。別の塔の頂には綺麗な巻貝が載っていた。神と権力を競うというより、神にほほえみかける塔である。世界を睥睨(へいげい)する唯一絶対の脅すような塔ではなく、人びとが互いの存在をうべない合い、互いの住む場所を尊重し合い、多様さをむしろ豊かさと考え合う共存の塔である。
 太田は個展の全体のテーマに「再生」という言葉を選んだ。いま救いへの旅路にある。
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KOBECAT 0036
2007.3.6〜3.18 京都・ギャラリーすずき
小林陸一郎作品展

     
――涯(はて)に立つもの――
■山本 忠勝


こにありありと立っていながら、しかし半ば無いものとしてそこに立つもの。あるいはむしろほとんど無いものとしてそこに立つもの。それどころかむしろはじめから無いものとしてそこに立ったもの…。彫刻家・小林陸一郎の作品にはぐんぐんと無が浸食してくるようである。2005年秋の大阪・信濃橋画廊での個展では、空中神殿のような不思議な家が粗朶(そだ)といってもいいような四本の細木でかろうじて支えられ、ふっと消えそうな危うさで目の高さに浮かんでいた。彫刻作品というよりは空気の中に差し入れられた刹那の裂け目のようだった。そしてこの春の京都・ギャラリーすずきでの個展では、作品は無へさらに大きく開かれて、ついに向こうが透ける格子(こうし)の形で現れた。圧倒的な無の窓がそこに並んだというわけだ。
 格子で出来たその京都の作品は、全体が家の形をかたどっていて、人の背丈をゆうに越える高さだから、かなりのボリュームで空間を占有していたといえるだろう。だがきれいに並んだ十文字の窓を通して向こうがすっかり見渡せた。大阪の地下の画廊に浮かんでいた樹上の小さな神殿も、細い梁と四隅の柱がようやく家の形をほのめかしていただけで、屋根板もなければ四方を囲む壁もなく、ほとんど空洞のように向こう側が空(す)けていた。空気が自在に行き来した。肖像であれ神像であれオブジェであれ、あるいはインスタレーション、あるいはレディーメードであれ、彫刻の歴史がいつも量感を追い求め、懸命に存在感を探究し、いわば空間を遮るもの、すなわち眼差しを跳ね返すものとして編まれてきたことを考えると、この彫刻家の営みはなんとも逆説に満ちた挑戦だ。量感に対しての、浮遊感。存在感に対しての、非在感。遮るものに対しての、開くもの。跳ね返すものに対しての、通すもの。
 そこに無いこと、への情熱…?

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 しかし、そこに無いものとしてそこに在るというこの奇妙な在り方は、その場所でいったい何を目指しているのだろう。そこに存在しないように存在する、そのことにいったいどんな意味があるのだろう。そもそもなにか意味のあるもので、現実にそういう在り方をするものがあるのだろうか。たんに観念のたわむれではないのだろうか。
 旅人…。抽象的な観念のたわむれに過ぎないのでは、と仮にこの作品に疑問がさしはさまれるなら、まず語らないといけないのは旅人のことである。
 なぜなら町を横切っていく旅人、地平のかなたから不意に現れたこの彼は今ここにいるものの、決してここにはいなかったし、それどころかすでにもう半ばここにはいないのだ。とつぜん遠方から現れて、ほとんど無いものとして目の前を歩んでいき、こつぜんとまた遠方へ消えていく。無が現れ、無が進み、無が消える。しかもこれは人びとの目を盗んでこっそりと行われる真夜中の秘事ではない。無は真昼の町にだれはばかることなく現れて、大通りを悠々と歩くのだ。無はありありと現前する。
 するとここで同時に問題の核心も現れる。しかし結局のところ彼はここに来なかったも同然なのではなかろうか。彼がここに来た今日と彼がここに来なかった今日。その既存の今日と仮定の今日はまったく同じ今日なのではなかろうか。無がたとえそこにありありと現れたにせよ、事実として無とはやはり何も無いことで、したがって何も起こらないことで、したがって何も変わらないことではなかろうか。小林陸一郎の作品は大阪の街にそして京都の街に運び込まれ、運び去られ、裂け目は閉じて、街々にはまたもとどおりに無傷の時間が始まることになったのではなかろうか。
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 ところでこのように旅人のことを引き合いに出すにあたって、ここでは少しばかり偶然を装うことになったのだが、実をいうとこれはこの場の便宜的な思いつきなどでは決してない。この彫刻家の作品をずっと見てきている人ならば、この作家が執拗に追い続けてきたシリーズの標題をいままでの文脈ですでに思い浮かべているはずだ。「旅人の碑」―。旅人は間違いなくこの作家がライフワークとして忍耐強く掘り下げている重要なモチーフのひとつである。話を進める段取りにちょっと仕掛けをしたわけだ。
 さて、であるならば、どのような旅人がこの彫刻家の作品を横切っていくのだろう。あるいは芭蕉のような行脚の俳人がそうなのか。あるいはむしろ西行のような遊行の歌人がそうなのか。むろん芭蕉のことでもあるだろうし西行のことでもあるだろう。だがむしろ、もっと切実な危機と破局をわたしたちにもたらすというよしみにおいて、よりいっそう山頭火のような漂泊者のことではなかろうか。
 詩人としての偉大さに触れることはこのさいあえて保留しよう。問題は死に方だ。つまり芭蕉や西行は漂泊者は漂泊者でも、最期はくっきりと死んだように見えないだろうか。彼らは旅においてついに自己の世界を完成させ、この世を完璧に生き終えて、いわば端正な決定稿をまとめてから、けじめをもって去ったように見えないだろうか。一方、山頭火はすべてを未完のまま投げ出して、進行形のままとつぜん消えた。すくなくともわたしたちの目にはそのような残像がのこっている。また一枚ぬぎすてる旅から旅。うしろすがたのしぐれてゆくか…。なるほど、おちついて死ねさうな草枯るる、と大詰めになって詠むには詠んだが、とはいいながら、彼は十中八九みずからのだしぬけの死には気づかないまま、向こうへ越えて行ったのだ。
   すなわち山頭火という旅人が現代のわたしたちに依然として切実で、ひとつの破局でありつづけるのは、いまもまだ先を歩いているように思えてしまう、その苛烈さのためである。この地上の道ではないにせよ、確かにどこかを歩いている。おそらくわたしたちはわたしたちのそれぞれの死に至るまで、托鉢僧の姿で去る彼の後ろ姿を見つづけることになる。彼は永遠に閉じることのない裂け目である。旅はまだ続くのだ。
 では、どこへ?
 むろん、涯(はて)へ。
 涯。
 この世界とこの世界から果てしなく遠いどこかとの、その中間あたりのどこかにあって、しかも絶え間なく先へ更新されつづける境界のことである。
 つまり、小林陸一郎の彫刻が立つ場所もそこに重なりはしないだろうか、ということだ。
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 「旅人の碑」にはしばしば赤が使われる。その赤は祝祭の日のように晴れやかで、それどころか狂気の幻視のように鮮烈だ。しかしその赤はどうも完全にはそこに定着しないまま、言い換えればそこからわずかにずれたものとしてそこにある。そこに立つオブジェとは微妙に不調和なものとしてそこにある。馴れ合えないものとしてそこにある。樹上の小さな神殿もまぎれもなく鮮明な形で中空に浮いている。しかし目に明らかなその形だけがそこにあるすべてだというわけではどうもない。見えないもうひとつの形態へいわば黙示録のようにさしかけられているのである。神殿に寄り添ってすぐわきにもうひとつの神殿が不安定に隠れている。
 鮮烈でありながらこのように不調和であるということ。鮮明でありながらこのように不安定であるということ。それはそこで作品が振動しているということだ。蜃気楼のように震えている。こちらの世界と向こうの世界、見える領域と見えない領域、そのふたつがそこで対峙し、そこでせめぎあっているのである。まさしく山頭火の句がそうである。
 そうなのだ。ひとつの彫刻作品がそこにまるで存在しないように存在するとは、作品がまさしく地平の涯で無窮の運動を発現しているということだ。いうなれば此岸と彼岸の間の振り子運動。永劫回帰。無とはなにも起こらないことどころか、永遠に起こりつづけることなのだ。この危うい彫刻は、地上に置かれたオブジェというより、宇宙に刻まれた亀裂である。そこからわたしたちを無限へ誘い出すのである。
 家の形をした大きな格子の作品には、その格子の目のところどころに指でつまめるほどの小さな家が載っていた。大きな家の中に嵌め込まれた小さな家。もちろんそれでわたしたちの想像力は十分にはじかれる。小さな家の中にはさらにもうひとつの小さな家が隠されているのではなかろうか。そしてその小さな家にはさらにまた微小な家が…。無限の入れ子構造が立ち現れてくるのである。無限への二重のインデックス!
 この彫刻家の作品を評して「遊び心」という言葉があたかも定型句のように語られる。彫刻家じしんもそれを穏やかにうべなっているようすだから、おそらく間違いではないのだろう。だが率直に言わせてもらうと、すなおにはうなずけない見方である。「遊び心」というなら、おそらくその前提にひとつの条件が必要だ。その遊び心とは、漂泊の詩人がぎりぎりのところを破滅的に遊びぬいたという意味での、遊び心なのである。有限と無限のあわい。現世と彼岸の接点。こちらから向かうものと向こうから来るものとが出遭う場所。そこを漂いぬいたという意味での遊び心なのである。
 もういちど言おう。
 小林陸一郎の彫刻はわたしたちを無限へと誘い出す裂け目である。
 そしてわたしたちの内部に開いた裂け目はもう消えることがない。
 危険な彫刻家なのである。
 小林陸一郎作品展は2007年3月6日から18日まで京都市東山区三条通蹴上のGALLERY SUZUKIで開かれた。また文中で触れた2005年の展覧会は3月6日から18日まで大阪市西区西本町1の信濃橋画廊で開かれた。小林氏は「旅人の碑」のシリーズを軸にある種“極限の場所”を追求して孤独な闘いを進めているように見えるが、1968年から1988年にかけては同じ彫刻家の山口牧生、増田正和と組んで公共彫刻(モニュメント)の創造集団「環境造形Q」を結成、ここでは作家それぞれの個(主体)を乗り超えた超主体的作品を数多く発表した。最近はパブリックアートの先駆として「環境造形Q」の再評価も進められ、2005年夏には伊丹市立美術館で大掛かりな「小林陸一郎と環境造形Q」展が、2007年1月にはアートホール神戸で小規模ながら「環境造形Qがやったこと」展が開かれた。
 

CatNote

 Rikuichiro Kobayashi is a famous engraver in Japan. The series of “Monuments of strangers” is his most important masterpiece. From March6 to 18 this year, he held his one man show at GALLERY SUZUKI in Kyoto. His symbolic sculptures looked with much mysterious standing on a delicate boundary between this our world and that other world.

2007.4.17
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Cahier

 金月?子    Liberty ?
 完璧な逃走というのはあるのだろうか。たとえば若い女が生まれたばかりの赤ん坊を絞め殺してゴミ袋で遺棄するようなことがある。彼女はそうして赤ん坊から逃げようとはかるのだ。だがそれで彼女は逃げおおすことができるのだろうか。赤ん坊からそれで自由になれるのだろうか。現代美術家・金月?子の立体作品「女は自由を持てたのだろうか」は、暗に「ノー」と答えているように思われる。
 「女は自由を持てたのだろうか」は金月が神戸のギャラリー島田で発表したボックス・シリーズの一つである(金月?子展、2007年3月10日〜21日)。ボックス・シリーズというのは、家庭で使われる道具入れや魚を運ぶトロ箱などレディーメードの箱類を活かした作品群で、金月はそこに棒切れや石ころやガラス片などを詰め込んで、暗示に満ちた独特の意味空間を創成する。彼女の制作では常にコラージュが重要な手法になるが、ボックスもそのコラージュの立体的な展開とみていいだろう。彼女の平面作品ではモダン・ダンサーのシリーズに見られるように人間の生や魂への探求が顕著だが、これら立体の作品になると社会問題への関心が明確に押し出されて、それも彼女のきわだった特徴の一つになる。今回は環境問題への発言を思わせる「とべない生きものたち」シリーズなども並べられた。
 さて「女は自由を持てたのだろうか」はいささか不気味な作品である。トロ箱が二つ、三つ、と重ねてあって、中を覗くとかわいい衣類がどれも磔(はりつけ)の形に広げられてそこにある。みんな産着のような薄い肌着で、すぐに連想されてくるのは生まれたばかりの嬰児の群れだ。おさなごたちはこの世に出たとたんになぜかそのように囲われて、しかも囲い(トロ箱)には鉄で作られた細い帯までかけられた。嬰児は封じられたのだ。
 実をいうとこの作品は金月の旧作で、1990年から91年にかけて制作されたものである。だがこの作品の構造は、むしろ今日いっそうリアリティーをもってわたしたちに迫ってくる。嬰児があまりにもしばしば殺されてしまうので、それを救うために「赤ちゃんポスト」の設置が病院レベルでいま真剣に考えられているのだが、そこにあるのはまさしく緊急避難的に嬰児を箱(ポスト)に閉じ込めて、さしあたり命だけは助けようという発想にほかならない。そうすることによって母親(もしくは父親)には、我が子を殺すまでもなくとにかく箱へ封じることで育児から逃亡できる、そういう道が開かれる。だが問題は母親(父親)がそれでほんとうに自由になれるか、ということだ。金月の作品はむろん多義的に読めるのだが、その暗い構造はその問いに否定のメッセージを投げ返してくるように思われる。
 そもそも人が他者を封じるということは、それがたとえ我が子であっても、同時に自分を封じるということなのではなかろうか。心の中に格子を立てるということは、他者を向こうの檻(おり)に、自分をこちらの檻に分けることではなかろうか。ならば母親(父親)は嬰児を箱に送ることで、同時に自分を箱に入れるのではなかろうか。子供を死へと送ることで、自分を死の国の永遠の囚われ人にするように。金月が赤ちゃんたちにかける鉄の帯。あれも実は母親たちが自分の魂に巻きつける呪縛の帯ではないのだろうか。
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Cahier

 名流舞踊の会 Clearness and Detachment
 兵庫県の主だった日本舞踊家たちが一堂に会して踊りと舞いの真髄を見せようという「名流舞踊の会」が神戸国際会館のこくさいホールで開かれた(2007年3月4日)。今年は56回目で、17のプログラムに25人が出演。都市の舞踊人口の規模からいって神戸市からの参加が多くなるのは当然のことなのだが、そんななかで今回は姫路市の二人の舞踊家がとりわけ舞台の空気をきりっと屹立させて心を打った。坂東大蔵と小寺一登代(かずとよ)の二人である。デコラティフ(装飾的)な要素はできるだけ抑えて舞踊の芯をすっきりと通し、いかにも立ち姿の美しい舞台になった。
 番組の順序にならって語るとすれば、まずは小寺一登代。曲は長唄の「あやめ浴衣」だ。江戸後期の作品で、もとは浴衣の売り出しのために作られた曲だったらしいから、江戸時代のコマーシャルソングというわけだが、時代の美意識を上澄みのところでサッと掬ってみせるのは、今日の優れたテレビCMとも一脈通じるところがある。五月の節句、季節の衣装、水遊び…、と初夏の風情がシャープな切り口で歌い込まれて、それを一登代は切り立つようなシルエットでくっきりと踊り進んだ。さながら薫風の空を満たす光のまぶしさ。凛とした品位が快い。情に落ちずに、しかしすがすがしい情感が流れていく。カラッとした哀しさがときおり透明な微風のように渡っていくのは、粋の極致かもしれない。
 そして坂東大蔵は「四季の山姥」。長唄の、これはとりわけ日本文化の分厚い共同幻想に深く根差した名曲だが、ベテラン舞踊家がこれを踊ると、山姥が心をめぐらす季節季節の回想に舞踊家じしんの半生の四季も重なって、いっそう味わいのある舞台になった。巨大な神通力を持ちながらなにかしら暗いものとしてわたしたちの心に宿っている山姥が、大蔵の洒脱な踊りでむしろ明るく、むしろ軽やかに甦ると、あの焦熱のような底暗い執着が乗り超えられ、代わってスピリチュアル(精神的)な澄んだ空気が漂った。宿命の呪縛も、人の世のしがらみもするりと抜けて、いまは大きな自然の中で悠々と遊ぶようだ。舞踊を重ね、年齢を重ねるということは実にいい。新しい境地がぐんぐんと開けてくる。
 さて、今年のこの会のハイライトにはやはり触れておかねばならないだろう。花柳流の代表格の芳五三郎と若柳流の代表格の吉金吾の共演による「角田川」(常磐津)。有数の舞踊都市・神戸でいま最高の組み合わせだが、しかもそれぞれひたむきに自己の美学を貫きながら、いま究極の地点で対照的な気風に達しているふたりである。わが子を捜して京から隅田川までやってきた狂乱の母の「動」、その母を見守る船頭の「静」。その対極の精神がまさしく激しさの吉金吾と静けさの芳五三郎の上にあざやかに具現されて、舞台の色艶はいうまでもなく、すこぶる心の深い景色になった。
 深い魂と高い技量の舞踊家が演じると、踊りも豊かな宇宙観を放射する。デモーニッシュな吉金吾の狂乱は、荒ぶる火の神が体中で燃え盛るようだった。包容力のある芳五三郎の応対は、その火焔を鎮める水の神のようだった。やがてふたりが舟に乗って漕ぎ出すとき、そこには大きな調和と平安が訪れて、わたしたちに救いの予感が来るのであった。
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KOBECAT 0035
2007.1.23〜3.21 兵庫県立美術館
ビル・ヴィオラ(Bill Viola)展

     
――無限へ寄り添う映像…強力な再生のビジョン――
■山本 忠勝


宙の営みに比べると人の一生は泡のようにはかない出来事に過ぎない、とそういうふうによく言われる。だが、ほんとうにそうだろうか。
 ニューヨークの映像作家ビル・ヴィオラは、29歳でおこなった日本への旅でたまたまひとりの禅僧と親しくなって(1980年)、それが精神の上でも芸術の上でもめざましい転機になった、と言われている。だから、ヴィオラが「すべては一瞬であり、意識の一片に過ぎない」と語っているのを読んだりすると、彼がアメリカの作家には珍しくわたしたち日本人のいわゆる「無常観」や「諦念」に親しんでいて、それが彼の映像の驚くべき深さのもとになっているのかもしれないと考えてみたりする。だがそもそも人間の見方に一撃を加えるような重大な芸術家の創造物で、通り一遍のひとことで説明がつくような、そんな単純な作品があったためしはないのである。あるいはこう言ったほうが言いたいことが伝わるだろうか。現代日本のこの浅薄な精神の波間を漂流するわたしたちのうちのいったい何人が、ヴィオラの作品を語るうえで禅の心を、あるいは無常観の精神を、その深さにふさわしい語り口で引き合いに出せるだろうか、と。彼のビデオ作品はむしろ今日のわたしたちがよく考えもしないで口にする「無常観」や「諦念」を内部から突き崩すように見えないだろうか。突き崩すばかりでなく一気にその対極へ、すなわち生の無限と充溢へわたしたちを突き出すように見えないだろうか。紋切り型のひとことで言い尽くされるような、そんな泡のような存在では人間が決してないことを、わたしたちに強固に指し示しはしないだろうか。

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 神戸の兵庫県立美術館でビル・ヴィオラの作品が紹介されるのは二度目である。2002年に開かれた開館記念展で大がかりな映像のインスタレーション「ミレニアムの5天使」一セット(五つのスクリーンで構成)が上映され、そして今回は一挙に九つもの大作・力作が集められて、作家の全体像を展望するスケールの大きな企画となった(ビル・ヴィオラ展―はつゆめ、2007年1月23日〜3月21日)。なにも表立った熱狂が神戸に起こっているわけではない。だが重厚な映像が確実に人びとの心の底を揺すっている。5年前にはまだ振幅の大きさが十分に知られていなかった地震波が新しい作品群で今度ははっきりと知覚され、人びとの深層で間違いなく人間観ないしは宇宙観が揺すられているのである。
 時間という巨大な魔王。ビル・ヴィオラが格闘している相手は、一貫してこれである。いやむしろこいつは魔王と呼ぶより魔女と呼んだほうがいいだろう。作家が死にもの狂いで抱擁し合い、まさぐり合い、わずかな息も聞きのがすまいと神経を屹立させている相手だからだ。宇宙の隅々にまで権力をふるう永遠の大魔女との、これは奇怪な愛である。
 時間。はるか彼方の星雲の運行に浸透しながら、すぐそこの街角の風景にも浸潤してくる魔女の衣擦れ。全宇宙にあまねく行き渡っている壮大な沈黙の運動が、街で行き交う女たちのつかのまの出会いにも現れる。ビル・ヴィオラはその奇跡を凝視する。三人の女たちが路上で交わす一分足らずの挨拶。なんでもないその日常の断面を作家がビデオ・カメラで見つめるとき、彼がその舐めるような映像で掘り起こすのは、まさしくこの一隅とかしこの星座を貫いて流れている強靭な、途方もない運動の正体だ。
 題名も「グリーティング/挨拶」(1995年)と名づけられたその作品は、わずか四十五秒の路上の出会いと立ち話をなんと十数倍に引き伸ばして、十分間ものスローモーションで再現する。もちろん街角の出来事を即興的にただ映して引き伸ばしただけではない。十分に計算された堅牢な構図。そして赤と青が鮮やかに映え合う衣装の色合い。その骨格はマニエリスムの画家ヤーコポ・ポントルモ(1494―1557、イタリア)の「聖母のエリサベツ訪問」からの引用で、そのポントルモの「訪問」もルネサンスの巨匠アルブレヒト・デューラー(1471―1528、ドイツ)の「四人の魔女」を下敷きにしていたといわれるから、おそらくこの分厚いビジョンにはそれ自体にすでに深層心理と呼応する濃密な精神的エネルギーが蓄積されているのである。芸術の営為には共同体の歴史的記憶からの引用も重要な作法である。だがなにより驚かされるのは、現代美術家の未曾有のインスピレーションと映像の先端技術の結合によってそこにありありと表現される人間存在の重量感、もう少し平たく言えば、人間が持っている膨大な質量と汲み尽くせない密度である。
 真っ赤なストールがゆっくりとゆらめいて、わずかに風が通っていくのが推測できる。いましもふたりの女が立ち話をしているところなのである。そこへおなかに子をはらんでいると見える三人目の女がやってくる(ポントルモの絵ではこの女性がイエスを懐妊したマリアである)。新参の彼女はふたりのうちのひとり(すなわちエリサベツ)とすでに知り合いという設定で、にわかに交わされる挨拶とそして初対面同士の交互の紹介…。するとそこできわめて単純だが、目を見張らずにはおれない事件が起こってくる。事件が起こってくる、というより事件が見いだされると言ったほうがいいかもしれない。それは、ほかでもない、そこで出会った三人の女の身体の上に起こる事件である。というのは、一秒の間に進行する肉体各部の複雑で、繊細で、力強い動き、その動きが十数秒に引き伸ばされても、三人の身体がそのために稀薄になることは決してないということだ。よしんば時間の密度が薄まっても、体の密度はいささかも拡散しないということだ。そのために顔の表情が薄くなることは決してない。それぞれの心の動きが弱くなることも決してない。引き伸ばされれば引き伸ばされるだけ、たちまちそこに新たな強度と充溢がやってくる。とぎれることなく実在が湧き出してくるのである。
 ひとつの啓示が電撃のように現われはしないだろうか。この十分間がさらに十倍に引き伸ばされても、さらに百倍に引き伸ばされても、そしてついに無限に引き伸ばされても、三人の肉体と表情はそこを完璧な強度と充溢で満たしつづけることだろう、と。機械の精度に限界があるのはもちろんだし、ずっと先では光学上の限界にも阻まれることになるだろう。しかしわたしたちのイメージは作家のインスピレーションに誘われていちはやく堰を切って出たのである。人間存在は無限をさえ充溢で満たすのだ。それを単なるイメージと笑うのなら、イメージの力を知らないからだ。20世紀の知の一体系を切り開いた相対性理論も若い独学者アインシュタインのイメージから生まれ出た。
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  「クロッシング」(1996年)という、これもまた稀有な、おそらくは今回の展覧会でもっとも強くひとびとを打った作品。そこでは暗い地平線を背景にひとりの男がこちらへ向かってひたすらに歩いてくる。目を正面に据えて、まっすぐに、規則的に歩いてくる。ただそれだけの映像だが、わたしたちはここで今度は精神の充溢に遭遇することになるのである。この歩く男の頭の中で今どんな思考が起こっているか、それはむろんわからない。だが男がぐんぐんと近づいてくるのをわたしたちはほとんど見上げるようにながめながら、彼がみずからの大脳で刻々と感知している彼自身の思考の量より、わたしたちがいま彼の上に見いだしている精神の総量のほうが幾層倍も大きいことをまざまざと悟るのだ。この引き伸ばされた時間の中では、彼の思考(意識された思考)は時間を覆い尽くす持続ではもはやなく、ところどころに裂け目のある非連続のつながりとして、スペクトルのように現われる。しかも思考(意識)がもっとも明晰に炸裂するのはたぶんパルスのような鋭く短い一瞬で、その閃光の前後には薄明から闇へとつながるむしろ眠り(無意識)のグラデーションが広がることになるだろう。短い意識、長い眠り、ふたたび短い意識、長い眠り…。そしてついには無限に引き伸ばされた時間の中では、圧倒的な眠り(無意識)の領野がそこを占めるはずである。わたしたちはいまや彼の眠りを見るのである。だが眠りは、人がそこで消えることではまったくない。むしろ思考(意識)を超えて、精神のいっそう広大な領域がおびただしい表情の襞とともに浮き上がってくるということだ。むしろ豊饒な空(くう)の顕現。無意識の、この、とほうもない氾濫! なんとひとは眠りのなかで深いことか。
 時間は現存在(人間存在)である―。いきなりだが、これは時間についてとりわけ熱心に語りつづけた哲学者ハイデガーのことばである。人はだれもいずれは死ぬ。自分の死を将来のどこかに明確に意識したとき、そのあらかじめ迎える死の時からいわば逆算する形で人間の時間が生まれてくる、とそれがハイデガーの主張である。だがこの偉大な死の哲学者は拙速を犯したのではなかろうか。真相の半分しか語らなかったのではなかろうか。ハイデガーにとっては、死を忘れることになる眠りの時間は、人間が本来の在り方(実存)から頽落して、空虚な存在に堕してしまうネガティブな状態ということになるほかない。だが、わたしたちがヴィオラの映像の中に見いだすのは、むしろ眠りの時間の豊かさだ。空(くう)の豊かさなのである。
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 さて作品「クロッシング」にはもうひとつ仕掛けがある。スクリーンの裏側に回るとここでも男がスクリーンの表と同じ調子で歩いていて、ちょうど表の映像が透けてくるように見えるのだが、しかし実際はこれは表と「対称的」であるとともに「対照的」な個別の映像で、表の男はやがて猛火に包まれていき、一方、裏の男はすさまじい水に打たれることになる。最後はそれぞれ火と水の中に消えるのだ。では、結局のところ、彼は終末の業火に向かって歩いていたのか。終末の洪水に向かって歩いていたのか。ひっきょう死を前方に見据えての、死に向かっての歩みだったか。だったら、しょせんは彼もハイデガーの死の哲学に倣っていたということか。だが決定的な場できわめて微妙かつ精妙なニュアンスを醸し出すのが、芸術の神秘である。ヴィオラの映像は論理的には一見ハイデガーの死と親和力を持つように見えるのだが、感性の上ではまったく別のメッセージをわたしたちに届けてくる。それはむしろ仏教的な暗喩というほうが近いだろう。仏教の暗喩では、火は煩悩の垢や塵を焼き尽くす浄火である。水は悟りを覚醒させる浄水だ。いずれも真の生に向かう再生への契機である。
 ハイデガーは個別の、一回きりの死によって、人それぞれの一回きりの生を際立たせ、しかしそうすることでひとびとの連繋を断ち切った。連繋はしばしばひとびとを群集の流れに巻き込み、空疎な日常へおとしめる危険な契機でさえあった。他方、ヴィオラは強力に再生を暗示して、ひとびとを連繋へと誘うのだ。ここでの連繋は、ひとびとが覚醒のなかで互いを見いだし、互いの存在を無限へ開いていく連繋だ。ハイデガーの時間はかぎりなく現在の一瞬に収斂して、死とともに消滅する。だが、ヴィオラの時間はたえまなく無限へ広がり、無限へ深まっていくのである。
 だとすると、彼が「すべては一瞬である」というときの「一瞬」とは、すでに無限のことだったはずである。「意識の一片」というときの「一片」は、実は全宇宙のことだった。
 わたしたちの先達にして、最大の宗教者であり、最大の哲学者である空海。彼は人間の在り方をつとに「六大法界体性所成の身」と述べている。広大な宇宙をひとそれぞれがおのおのの身体に現しているというのである。なじみのないものには奇怪にさえ聞こえる彼の即身成仏も、今日のことばで言えば、人間が宇宙に向かって心身のすべてを開き、対応して宇宙が人間にすべてを開くことである。
 人間に無限の宇宙を見つめ、宇宙に無限の人間を見つめるあの巨大なビジョンはもう滅びたのかと思っていた。だが、ここにある。
 展覧会「ビル・ヴィオラ―はつゆめ」は2007年1月23日から3月21日まで神戸市中央区脇浜海岸通1の兵庫県立美術館で開催。ビル・ヴィオラのこれまでの仕事を振り返るこのようなまとまった展覧会は日本ではこれが初めてで、ここ12年間に制作された作品として「グリーティング/あいさつ」(1995)「クロッシング」(1996)「驚く者の五重奏」(2000)「キャサリンの部屋」(2001)「四人の手」(2001)「サレンダー/沈潜」(2001)「オブザーヴァンス/見つめる」(2002)「ラフト/漂流」(2004)の8本が、そしてこれらに加えて展覧会の副題にも採られた若い時期の作品「はつゆめ」(1981)の計9本が、それぞれ独立した展示室で上映された。「はつゆめ」は日本で撮影され、いまだ発展途上的な要素が強いが、ヴィオラの仕事を展望するうえでメモリアルな作品になっている。主催は兵庫県立美術館と朝日新聞社。

CatNote

A substantial exhibition of Bill Viola’s video art works has been held at Hyogo Prefectural Museum from January23 to March21. This is Viola’s first full scale one-man show in this country. The spiritual image of his work suggests us Japanese a deep thought about life and death, especially Buddhistic Kou(空 Nil).

2007.3.9
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Cahier

 上村靖子  Rendez-vous avec Paris
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 出会いの喜び。それは出会ったもの同士がそこでお互いを照らし合い、お互いに輝き合う喜びだ。画家・上村靖子は年に一回はパリを訪れ、街と照らし合い、そのたびに心が輝く。そしてパリの街もまた彼女の踊るような絵筆によってそのつど新しい輝きを放つことになるのである。パリとのランデヴーあるいはデュオあるいはパ・ド・ドゥといってもいい年に一度の展覧会を神戸・北野坂のダイヤモンドギャラリーで開いた(2007年2月20日―25日)。
 従属ではない。画家がパリに仕えるのでもなければ、パリが画家に従うのでもない。呼び掛け合い、喚起し合い、発見し合い、霊感を与え合う。画家も高揚し、パリも高揚するのである。その相互のダイナミズムが生き生きと現われるのが彼女の絵だ。いわゆる写実の静けさとはまったく異なる動的な風景がそこに立ち現れてくるのである。
 セーヌにはとうとうと青と緑の水が流れる。パレ・ロワイヤルの頭上にはひろびろと黄土色の空が広がる。バンドーム広場のナポレオンの記念柱は鮮やかな緑の光を放っている。そして街の遠景には大聖堂の壮麗なクーポラがこれもまた森のように緑に映えてそびえている…。大きな魔法がパリにかけられたようである。色彩の魔法である。
 魔法? 色彩の魔法? そう。思い出してほしいのは、色彩の魔法と音楽の魔法とはまるでふたごの姉妹のように、みなもとが同じだということだ。音楽は空気を染めていく色彩だ。色彩はキャンバスに広がっていく音楽だ。
 そう。この画家はまさしく歌うように描くのである。和音を紡ぎ出すように色を選んでいくのである。セーヌ川を晴朗なアリアが流れる。パレ・ロワイヤルには生気あふれる交響詩が満ちている。バンドームは英雄交響楽の世界である。そしてあらゆる街角から立ち昇るシャンソンのあのおびただしい愛の旋律。彼女の絵はみんなパリがうたう歌なのだ。
 そして、自由。あるいは自由こそが、この作家がパリとのランデヴーで切り開いた最も重要な局面ではなかろうか。彼女が描く街角のカフェテラスは、エプロンがけで飲み物を運ぶ律儀そうなノッポの男も、くつろぎながら談笑を楽しんでいる客たちも、立ち去る女たちのきゅっと引き締まった後ろ姿も、そしてもちろん光も風も街の音も、みな流動のさなかにある。凝固したり凝結したり凍結したりしているものは何もない。時間が解き放たれ、揺れ動き、波打っているのである。過去にも未来にも開かれているということだ。
 そして最後に、ふたたび、出会いの喜び。それはそこでお互いを深め合い、いっそう開き合うということだ。ここで出会って、新しい可能性を見いだし合い、明日への選択肢が双方に広がることになる。しかり。彼女の珠玉のような室内楽を見るとよい。そこは祭礼のような街の大通りからは想像するのも難しい、平凡で狭くて古くてひっそりとした空間だ。たぶんありふれたアパルトマンの居間に続く台所。だが抑制された色彩と堅固な構成そして充実した生命と自由な精神の充溢がそこにある。最も平凡な空間の最も非凡なコンポジション! 彼女が到達したこの一隅は、都市パリの全鳥瞰より深くて広い。


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 神戸二紀8人展  Each palette, each color
 美術に「進化」や「発展」の物差しを当てて見る習慣も、前世紀の知的流行の一つに過ぎなかったということだ。さまざまなスタイルを示す今日の作品を一本の進歩のラインの上に整然と配置するなど、もはや子供じみた郷愁と偏執というほかない。いま美術のシーンで採用できる基準というのは、実のところこんな基準は基準がないのと同じことだが、かろうじて「多様化」と「深化」である。ボクシングでいえばヘビー級ないしミドル級の重量級作家の作品を並べて開かれた神戸二紀8人展。会場で多彩な創造と出遭いながら、あらためて考えさせられたことである(1月18日〜23日、アートホール神戸)。
 作品をどのような物差しで測るかは現在ではもうまったく恣意的な(どれを選択しようとまったく自由な)ことがらというほかないが、かりに「距離」という目安でこれら8作家を眺めてみようと考えてみただけでも、もうこんなに色とりどりの特徴が見えてくる。
 岩島雅彦の「家族の肖像」。家族という親密な関係の中に忍び込んでくる微妙な距離。一体でありながら他者であり、他者でありながら一体であるという、この奇妙な振り子運動。
 片山光波の「Sくんの風景」。自己の記憶の中心部すなわち距離ゼロの地点を占める他者。人は自分を他人のように感じる一方、自分の奥にありありと他者を見いだすことがある。
 北山義明の「楽園の花2006A」。この美しい女性群像はこの世のどこかの島にいるようだが、彼女らはたぶん神話上の女神である。そこは無限の距離の彼方にある不可侵の楽園だ。
 瀧本周造の「Cielo」。リアルな風景の中に描き込まれる蜃気楼のような巨大な門。門が雲をも衝くスケールであればあるほど、それでも届かない天空への神聖な距離が現われる。
 知念正文の「与那国の風」。ここに描き出されているのは人と大地との距離である。それは近接し、ほとんど至近距離で互いの胸襟を開き合う。底深くて親密な人と自然の抱擁。
 津田仁子の「刻」。人とモノとの超え難い距離。人形はいくらでも人間の形に近づき、器械の力で人のように動きさえするのだが、しかし近づくほど実は遠ざかっていくのである。
 藤原護の「Otonomie(春よ)」。音楽の不思議。それは外部で響きながら、たちまち内部に入ってきて、内部と一体になることだ。溶融と調和。音楽は世界から距離を消去する。
 八木茉莉子の「ある日」。超遠近法の絵画。遠くにいる人の方が近くにいる人よりしばしば大きく描かれる。物理学的な虚の距離が破壊されて、心理学的な実の距離が構成される。
   「距離」という一見共通な目安を採ってみても、それは共通どころか、8作家それぞれの8つの距離があるということだ。しかも依然これで網羅されたというわけではなく、なお多様な距離があり、新しい作家はまた彼独自の距離を見いだすことになるだろう。現代の作家たちは他の創造者が開拓した距離を先へ伸ばすなどもうだれもしないのだ。独自の距離へ踏み出して、それを深めていくのである。それこそ切実なことなのだ。
 「進化」と「発展」に代わって「多様化」と「深化」。静かな革命が進行している。もちろんすでに暴力ではない。もはやなにひとつ破壊されることはない。増殖に増殖が重ねられ、しかしそれと並行して忘却に忘却が重ねられていくのである。
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 風呂本佳苗  Contemporaneousness
 あまり耳にしたことのない作曲家のピアノ曲がずらっとプログラムに並べられた。バーバーの「遠足」、バークリーの「6つの前奏曲」、そしてバラキエフの「ピアノソナタ 変ロ短調」。だが、未知の空間に隠れていた音楽がいったんピアニストのしなやかで強い指からほとばしりはじめると、まるでじぶんの血管の血流みたいに親しくこの体の中で沸き立った。遠方の扉が一気に開かれ、開かれたと思ったら、もう奥の間に誘い込まれていたのである。風呂本佳苗のリサイタル「Bの饗宴」でのことである(2007年1月6日、兵庫県立芸術文化センター小ホール)。
 「Bの饗宴」とは、頭文字に「B」がつく作曲家の作品を選んでコンサートを組み立てたという含みである。バーバーはアメリカの、バークリーはイギリスの、バラキエフはロシア生まれの音楽家。いずれも現代ないし現代にきわめて近い音楽家で、米英のふたりは20世紀のどまんなかで、そして最後のひとりは19世紀半ばから20世紀初めにかけて活躍した。時代的にいえばわたしたちに近いこれらの音楽家が却ってバッハやブラームスやショパンより「遠い」というのは、歴史によくある逆立ち現象の一つだが、しかし風呂本はその逆立ちの遠近法をたちまちのうちに修正して、現代の響きの震央にわたしたちを立たせた(座らせた)というわけだ。
 ガーシュウインの出現によってわたしたちはジャズの魂がクラシックに新しい命を吹き込むのをまざまざと目撃したが、そこでとりわけ鮮やかだったのは、わたしたちの全身とガーシュウイン音楽の全身が「ともに・いま・ここに・ある」という感覚に浸された、その共時的な感動ではなかったろうか。モーツァルトは時代を超越してすばらしいが、それでもわたしたちはモーツァルトと「ともに・いま・ここに・ある」ことはできない。彼とは半身で踊るほかないのである。バーバーのいかにも都市的な響きの中から立ち上がってくる濃密なブルース、バークリーの繊細なパッセージの中を遊弋する、より洗練されたヨーロッパ風ジャズの匂い、そしてバラキレフのダイナミックなシンコペーション…。それらはわたしたちの神経の回路とじかに交わり、そしてなによりも心を浮き浮きさせるのは、それを風呂本が楽しげに、すっかりじぶんのリズムになりきって弾くことだ。
 じっさい現代の音楽を演奏するときの風呂本は、自信に満ち、きらびやかで、鋭く、躍動的である。現代という時代を深いところで動かしているその同じ巨大なエネルギーが、おそらく彼女の体を底から動かしているのである。今日の創造は、天空の軌道に依るでもなく、地底の重心に立つでもなく、むしろ変幻きわまりない中空で多様性を拡げているが、風呂本はその不安定で危険な時空を却って生き生きと、揺るぎなく、しかもすばらしい速力で飛ぶのである。人びとがたじろぐところを、彼女は決然と進むのだ。並外れて「ともに・いま・ここに・ある」稀有なピアニストなのである。
(このリサイタルでは他にバッハの「イタリア協奏曲」とブラームスの「三つの間奏曲」も弾かれたが、説得力と生気の点で20世紀のプログラムががぜん衝撃的だった)


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 大和松蒔  Nirvana
 もともと自由でなければならない芸術家たちに政府や自治体が賞を与えるというのは、奔放な怪物の尻尾に小さなリボンを結びつけて果てしない原野でランク付けを試みるようなものだから、考えればなんとも姑息なシステムではあるのだが、しかし受賞者がそれで自分のスタイルに自信を持っていっそう輝きを増していくのをまざまざと目撃すると、これもまた人間につきまとう神性と俗性の両義的な顕われなのかと不思議に納得する気もちになる。舞踊家の大和松蒔(やまと・しょうまき)は2005年度文化庁芸術祭の優秀賞を獲得して確かに輝きを増し、輝きばかりか高さと深さと広さを増した。勢いに乗ってこの秋は一中節の新曲で「山姥」(やまんば。一中はる作曲)に取り組んだが、山姥のあのおどろおどろしい山めぐりがそこでは一転、月下に昇る一陣の秋風みたいに高貴で清冽な魂の宇宙的飛翔にまでなったのだった(2006年10月21日、大阪・国立文楽劇場)。
 青色の勝った銀鼠の緞子。そこに花野さながら彩り豊かな秋草を絢爛と染め出した衣装であった。野が動いた。森が動いた。山が動いた。いや空も動いた。松蒔が舞台の中央に立った、ただそれだけで彼女を中心に星辰がたしかに何秒か西に向かって回転した。そこに立つ…。いかにも立つとは、舞踊の始まりであり究極でもある。始まっていきなり駆け上がらねばならない頂点だ。そこで即、宇宙の中心に立てたか、どうか。彼女は立った。
 曲の歌詞をあるがままに追えば、これは遊女が男と営む一夜の愛の旅路である。だが舞台で繰り広げられたその夜の旅は、肉体を金に替えるためだけの通り一遍の旅ではなかった。山姥がひととき遊女に化身して苦界の里に下りてきたようでもあった。男のまなざしが遊女の後ろ姿に追いすがって刹那、そこで山姥を幻視したかのようでもあった。あるいは遊女が自らを俗世を超える山姥に見立てて遠い自由へ自己を解き放ったようでもあった。いずれにしろこの夜の松蒔が観客の心を動かしたのは、遊女を慾界の型通りのイメージから奪い出し、その二重三重の幻視的構造の中にすっくと立たせた、そのことが最も大きな理由である。超俗的なものと世俗的なものとの間に架け渡されたこの幾重もの構造が、微妙な矛盾と微妙な調和に絶え間なく揺れながら、舞台に出現したのである。
 なかんずく重要なことは、肉体を売る四畳半の間で、肉体がそんなにも間近に近づきながら同時にそんなにも遠くへ逃走していった、そのことだ。いま肉体はこんなに近くにありながらなんと遠いことだろう。こんなに地上的でありながらしかしはるか宇宙へ飛び去っていくようだ。むしろどうしても追いすがれないものがいっそうありありと現れる。そもそも男が抱こうとしたのは、本当にひとりの女だったのか。実は全宇宙ではなかったか。
 山姥が超越的な能力で山から山へ駆けるとすれば、遊女もまたあの儀礼めいた道中の奇妙な一歩で此岸と彼岸を往還しはしないのか。
 聖壇に向かって祈る姿は美しい。それはきれいな心が高貴な心に向かってかたちづくる気品に満ちた身構えだ。だが露骨な真紅の夜具の中で組み合う男と女も、そのままの姿で祈りの形になることはないのだろうか。近くにあるものがそんなに遠いと知ったときには。
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  神戸洋画会展   Hallucination
 神戸を拠点に活動する美術家22人の作品を並べて「神戸洋画会展」が三宮の中心街にあるセンタープラザ2階のギャラリーあじさいで開かれた(2006年11月28日〜12月3日)。すでに自己の世界を確立したベテランや中堅たちの展覧会だが、こうして多彩な作品を見渡してみてなかでも興味深いのは、「神戸幻想派」と呼ぶのがふさわしいような一群の画家たちの系譜がくっきりと浮かび上がってくることだ。作家相互にとりたてて深い交流があるわけでもなく、画壇の会派などとも関わりのないところでの現象だから、これら“幻視的画家”たちの出現は、むしろ世代を超え時代を超えて一定の確率で神戸の文化層に顕れる美術的特徴と見るのがいいのかもしれない。もちろん幻想派といってもそこは神戸、絵はどれもおどろおどろしい湿っぽさなどとはまったく無縁で、白昼の幻覚のような明るさとそこから切り立ってくる鋭さで隅々まで満たされているのだが…。
 まず一貫して「女のいる風景」を描き続けている石阪春生。出展作品「石造りの家」にも、美徳と悪徳がともに匂うあの魔性の女がいつものように現れているのだが、考えればこの美悪兼備の両義性こそ都市が生み出す幻想の極致といっていいかもしれない。都市の美徳。それは人工の極にまで練り上げられた精緻なエレガンスにほかならない。都市の悪徳。これもまた人工の極へと突き詰められた巧緻なエロティシズムである。その意味で石阪の魔性の女は、都市幻想の洗練された結晶ともいえるだろう。
 いっぽう南和好のそのタイトルも「都市幻想(ゲント)」。ここに登場する乳房のきりっとしまった裸婦は、背景に並ぶ中世ベルギーの落ち着いた街並みを微妙に震動させるのだ。古都と裸婦がお互いに同じ時空で出会いながら、いやむしろ同じ時空で出会うことで、互いの日常性をおだやかに壊し合う。侵蝕する。侵し合う。真昼の光の中へゆっくりと夢魔が忍び込んでくるようだ。街の底から無意識が誘い出されて、隠されていた深い履歴が道路や窓や壁の表面に浸潤する。じつに街は夢のなかでこそ真に目を醒ますようである。
 だとすると、あの悲劇的なバベルの巨塔を現代に再び築こうと企んでいる花房完昇の「包まれる街」は、都市みずからが夢想する都市の幻影のようである。花房の都市は水平に拡がるよりも垂直に上昇する。見たところおそらく1万数千人規模の街だろう、それが中空に浮かぶ大神殿さながらに原野に突き立っているのである。高貴な都市! 都市が遠い昔に失った都市の夢を今に取り戻そうとするかのような。
 あるいはまた津田仁子が描く精密な機械仕掛けの人形「刻」も、機械にうずめ尽くされた現代都市の中心部でこそ生まれる幻想ではなかろうか。かつてゼンマイ仕掛けの懐中時計が時間の神殿のような神秘さと明晰さを持ち合わせていたように、金色の歯車を蔵した津田仁子の人形は、神(神秘)と理性(明晰)が交差する祭壇のようである。ならば、これはディジタル都市の、過ぎ去った昨日の夢への郷愁か。
 都市神戸をこんなにも脈々と流れる幻視癖。遡ればそれは怪異な短編を数多く残した稲垣足穂(1900―77)ら文学の世界にも支流を持つ。海流はかなり深い?
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KOBECAT 0034
2006.10.28〜11.8 神戸・ギャラリー島田
上前智祐の世界展

   
――耕作…原野と希望が出遭う場所――
■山本 忠勝


前智祐(ちゆう)という画家は、こんな、眼球がデングリ返るような作家、だったのか。個展の会場に入ってのそれが第一の印象だった。眼球がデングリ返るとは、それまでそこにあった風景がたちまち崩れてすかさずそこへ新しい風景が立ち上がってくることだ。 見えていたものが見えなくなり、代わって見えていなかったものが見えてくることである。ひとつの概念が破壊され、そこに新たな概念が出現することにほかならない。神戸・ハンター坂のギャラリー島田でのことだった。

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 このうえなくシンプルに、いやむしろシンプルというよりそっけなく「油彩」と命名された大きな作品が入り口にかかっていた。「油彩」というからには、むろんそれは「絵」であるはずなのであって、「絵」であるからには当然のこと「平面」であるはずだ、とこれは心のなかで一瞬のうちにかたちづくられた概念の回路だが、実際にこの作家の「油彩」の前へ近づくや、この回路はあっけなく壊されることになったのだ。
 平面の前でたちまち「平面」の概念が砕かれた。粘土を分厚く盛ったようなでこぼこの、まるでこれは褶曲運動のさなかにある台地そのもののようである。一片といえ平らな面など見当たらない。これを平面らしい「平面」に戻すには、絵の具の最後の層がかろうじて残るくらいまでこの分厚い堆積を削っていくか、あるいは画面全体に何トンものプレスをかけてそこそこの薄さにまで圧縮するほかないだろう。
 そして、絵の前で「絵」の概念が砕かれた。色彩はふつうそこに描き出される対象のいくつかの性質の一つとして(雲→白、花→赤、髪→黒、心→混合色…)、そして形はそこになにかを実在させる徴表として(雲→雲の形、花→花の形、顔→顔の形、心→心の形…)、カンヴァスの上に逐次置かれていくものだ。そうしてその色彩と形とで一定のイリュージョン(幻視的光景)を合成して「絵」が現れてくるのである(白い雲、赤い花、黒髪の顔、激した心…)。だがここにあるのはあくまでむきだしの油絵の具そのものであって、絵の具だけで出来ている隆起と亀裂だけなのだ。仮にこれを台地と呼ぶなら、ここにあるのは台地の「絵」では決してなく、まさしく台地「そのもの」なのである。
 さらに、油彩の前で「油彩」の概念が砕かれた。というのは、そもそもこの作品が絵の具そのものの堆積だと悟れたのは、まあ、鶏と卵の循環みたいな話だが、じつは「油彩」というラベルが作品の横に貼られていたからで、その自己言及的なタイトルをきっちりと読むまでは、あるいはこれは粘土じゃないか、プラスチックじゃないか、穀物粉じゃないか…、と素材の見当をまったくつけられないでいたのである。「油彩」という説明を見いだすまでは油彩は存在しなかった。
 むろんカンヴァスに絵の具をたっぷりと盛り上げる手法自体は今日ではそう珍しいものではない。いろんな画家が微妙な差異を見せながらバリエーションを広げている。上前が大胆に開拓したこの新機軸の美の地平へそれだけ多くの創造者が進出して、それぞれに多様なビジョンを展開しているともいえるのだが、しかしこのパイオニアの巨大な「破壊力」(目のデングリ返り度)に匹敵する破壊力をもつものはおそらくいまだ出ていない。破壊のその群を抜いた強度の点で上前は86歳の今も依然としてみずみずしく、いまなお革命的なのだ。
 では、その大破壊と引き換えに上前智祐の作品に立ち上がってくる新しい風景とは? 新しい現れとは? 新しい概念とは?
 「平面」の概念が壊されたあとにいっそう堅牢に出てきたもの。「絵」の概念が砕かれたあとにいっそう鮮やかに出てきたもの。「油彩」の概念が滅ぼされたあとにいっそうみずみずしく出てきたもの。そこは実をいうと言葉では正確にとらえられない領域だが、それをおして語るとすれば、つまりは冷厳このうえない「原野」である。いわばシェークスピアのあのリア王がさまよい出たむきだしの原野である。
 そこはつい先ごろまでリア自身の王国の一部であった。彼はそこを自在に馬で駆け抜けた。あたりにはなんの危険もなかったし、むしろ荒涼とした風景が彼の威厳と彼の豪奢を際立たせていたのである。強固な王国のイリュージョンがそこをくまなく覆っていて、王はそのイリュージョンを媒介に、大地に圧倒的な支配権をふるっていたというわけだ。だが王権を失い、城を失い、家臣を失い、正気さえ失った彼の前で原野の風景は一変する。猛烈な嵐のなかで、いまや彼の一歩は死を賭した一歩となる。かつて駿馬のわき腹で軽快なリズムを楽しんでいた王の足。そこにいま砂や小石や枯れ草や木切れが食い込んでくるのである。原野が原野そのものとして立ち現れてきたのである。さしものリアも今はもう自暴自棄の叫びを上げないではいられない。「お前ら自然を情け知らずと恨みはせぬ、お前らに国を与えた事も無し、吾が子と呼んだ覚えも無い、お前らには俺の指図を受けねばならぬ謂われはないのだ。幾らでも恐ろしい悪戯をしたらよい」(福田恒存訳)。すなわち上前智祐の原野もまた、そのような掛け値なしの、危険きわまりない原野そのものだということだ。あらゆる幻影(イリュージョン)を剥がしていって、最後に至る赤裸な地形。生の極限の平面だ。
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 だが、リアはそこでこのうえない苦悩に陥り、上前はそこでこのうえない歓喜を養う。なぜか。
 おそらくそれは支配する者と開墾するものの違いである。画廊がまとめた資料に拠ってのことなのだが、生活者としての上前の生き方はなかなか波乱に富んでいる。十三歳で京染めの洗い張り店へ奉公に入ったが四年ほどでそこを辞め、横浜港で沖仲士(港湾労働者)をやりながら賭博にのめり込んでいったという。神戸に来てからは三菱重工で造船所の巨大クレーンを操縦することが仕事になったが、つまりこの創造者の半生を振り返ってそこに一貫して見られるのは、言葉の最も厳密な意味における労働だ。多くの画家にとって精神の奔放な飛翔はこのうえない幸福だが、造船所のクレーンを操る男にとって精神の快い暴走は仲間の命を脅かす事故になる。王は幻影に生きるのだが、労働する者は事実に忠実に生きるのだ。大前は自分の家すらみずからの手で開墾して建てたというが、労働とはいかにも開墾にほかならない。大地の開墾。海洋の開墾。そしてみずからの肉体の開墾。幻影をたのみに生きてきた王は原野では追放者となるほかないが、開墾で生きてきた者は原野でむしろ創造者となるのである。彼は絵を開墾し、耕作する。リアは原野で絶望し、画家は希望をそこで開くのだ。
 辞典(広辞苑)で「作品」という言葉を引くと、「芸術上の制作物」という定義が出る。「芸術創作活動の成果」という説明も並んでいる。だとすると、上前の重厚このうえないこの仕事は、もはや「作品」の範疇におさまりきらないことになる。彼は単に作品を制作したのではない。彼はそこを開墾し、生きたのだ。
 画廊での個展にしては目立って非売品が多かったという点でいささか不思議な展覧会でもあった。作家がどうしても手放す気もちになれないでいるのである。それは無論そうだろう。そこは彼が生きてきた、そして今を生きている、そしてこれからも生きていく、耕地そのものなのだから。希望と原野がそうして出会い、これからも出会うのだ。
 だが、それにしても、この作家の広大な開墾地を前にして、わたしたちは一つの自問に追い詰められはしなかったか。
 わたしたちは無論だれひとり上前ではない、では、わたしたちはリアではないか? やがて幸福のイリュージョンを剥ぎ取られるリアではないか? と。
 
 「上前智祐の世界展」は2006年10月28日から11月8日まで神戸・ハンター坂のギャラリー島田で開かれた。上前は1920年生まれ。神戸市在住。1950年代中期から1970年代にかけて吉原治良を首領に現代美術の前衛を疾駆した具体美術協会(1954−72)のメンバーだった。美術以外の労働・仕事で生計を立てながら、現代美術に大きな自己の世界を築いてきたという点で、同じく神戸在住作家の榎忠や堀尾貞治とも一脈通じるところがある(これはギャラリー島田の島田誠社長が特に強調する点でもある)。上前の作品が系統立って紹介されたのは、神戸ではこのギャラリー島田の個展が初めて。作家の深い世界を浮き彫りにしたギャラリーの功績は大きい。
 

CatNote

The art exhibition of Chiyu Uemae’s was held at Gallery Shimada in Kobe from October 28 to November 8. Uemae was a member of the Gutai Art Society which was a most powerful avant-garde in an art scene of 1960‘s. His works are massive and heavy like the earth itself by a volume of coloring materials he uses.

2006.11.24
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  竜虎の涙  Beauty of the defeated
 クローズアップされたテレビの画面で赤く充血した目にありありと涙を浮かべて落合博満が泣いていた。10月10日の夜。ドラゴンズがジャイアンツに勝ってついに2006年のペナントレースの優勝を決めた東京ドームでのことである。大観衆のるつぼの中であの鉄血の監督が声を詰まらせて泣くなどとは…。しかも彼はそこで驚くべきことを言ったのだ。「タイガースにあそこまで追い込まれるとは思わなかった」。
 あと5勝すればいいんだろう。あと4勝すればいいんだろう。あと3勝すればいいんだろう。2位タイガースの猛追にも落合は顔色ひとつ変えることなく、いつも木で鼻をくくったようなコメントを語っていた。冷静な彼の頭脳はいっさいの感情を凌駕して、コンピューターのようにもう既定の事実となっている優勝へ無機的に作動しているようだった。それがいわゆるオレ流の沈着さだとだれもが信じていたのである。だが本当はそうではなかった。彼はおびえていたのである。ひとり闇を覗いていた。
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 少し遡って8月27日夜の甲子園。4万8000人もの観衆のまっただ中でヒーローインタビューのマイクを向けられた藤川球児がハタと言葉を失って、球場は時ならぬ静寂に陥った。なにごとが起こったのか、はじめはだれにもわからなかった。だがよく見ると、藤川が泣いていた。5連敗で首位ドラゴンズに9ゲームもの差をつけられてしまった後の、かろうじて踏みとどまった勝利であった。ファンはもうほとんどあきらめていたのである。連敗中は選手たちに怒声が飛んだ。藤川はよほどそれがつらかったに違いない。泣きながら、ようやくのことでこう言った。「わかってください。どうか、みなさん、わかってください。ぼくたちはまだあきらめていません」。闇をくぐってきた男の訴えだった。そこからタイガースの猛追が始まった。6連勝、5連勝、9連勝、3連勝。ドラゴンズが優勝を決める前夜まで、23勝5敗1分けという驚異的な勝率でとうとう落合を涙にまで追い詰めた。
 10月12日。今シーズンの甲子園での最終戦。相手はくしくも2日前に優勝を決めていたドラゴンズ。片岡篤史がマウンドに立てられたマイクの前で泣いていた。37歳の片岡のこれが引退試合だったのだ。彼は率直にこう言った。「打てなくて、球場から泣きながら帰ったこともありました。もう限界です」。だれもが認める大器でありながら、能力を十分に発揮できないまま去っていくものの、心にしみる挨拶だった。闇を凝視したものの告白だった。そしてさらに観衆の胸を打ったのは、敵のドラゴンズの立浪和義がダッグアウトの前へ出て、ほとんど直立不動で片岡の別れの言葉を聞きながら、だれはばからず涙を流していたことだ。片岡が勝利のタイムリーを打った五回にはわざわざ左翼から走ってきて、祝福の手を伸べていた。ふたりは出身校PL学園の仲間であった。そして片岡はむしろ最大の勝者のようにタイガースとドラゴンズの両チームの選手たちが作った輪で高々と夜空へ胴上げされたのだ。
 勝利は生の輝きだ。一転、敗北は死の闇だ。だが闇をかかえた勝者は輝かしく、さらに深い。落合の深さ。藤川の深さ。片岡の深さ。2006年のペナントレースはこうして終わった。


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  芸術祭大賞  Congratulations, S.H.B !
 2005年度の文化庁芸術祭大賞を受賞した貞松・浜田バレエ団の受賞記念祝賀会が10月14日の夜、神戸市中央区のラッセホール(兵庫県教育会館)2階の大広間ローズサルーンで開かれた。まだ若かった舞踊家夫婦が、神戸のこの自由な空気の中で自分たちの理想の踊りを思うぞんぶん追求したいとバレエ団を結成してちょうど40年目にあたる去年、まるでその努力の積み重ねのうずたかさを印す高度標ででもあるかのように、文化庁から芸術祭の大賞が贈られた。受賞作「DANCE」(オハッド・ナハリン振付)は、エネルギッシュなパフォーマンスと地の底まで下るような深い思考で、既成のダンス概念に大きな揺さぶりをかける舞台となったが、そこでダンサーたちが表現した「人間」への鋭い理解は、このバレエ団が40年間に培ってきた精神の蓄積をみごとに物語るものだった。その精神とは第一に、地域社会に根を張って、市民の緊密なネットワークの中で、人間の問題をリアルに(観念的に、ではなく)受け止め、見据え、ともに歩み、認識を深めていく心のことだ。そして第二に、にもかかわらず自分たちを地域に閉じ込めるのではなく、人間の課題を人類の問題としてとらえ、世界人の視界で芸術創造へ向かっていく広い心のことである。
 内へ深める心と外へ広げる心。一見、相矛盾する方向のように見えるのだが、このバレエ団はそれを芸術創造という現実的な行動のなかで確かに統合したのである。内へ深める心。それはモダンバレエとモダンダンスを主体にした秋の「創作リサイタル」そしてクラシック中のクラシックであるクリスマス・シ−ズンの「くるみ割り人形」の、この対照的な二つのステージのいずれもがすでに神戸市民の圧倒的な支持を受けていることからも窺える。外へ広げる心。それはほかならぬ受賞作「DANCE」が、一地域の課題、一民族の課題を超えて、人間の普遍的な問題に情熱的に関わっていたまさしくそのことで一気に語り尽くされよう。では、なにがこの統合を可能にしたのか。
 理想。なにをおいても、理想。そして理想への献身。
 今の充実したレッスン場に比べるとほとんどバラックのようだった(ごめんなさい!)旧稽古場で、団員たちが汗を噴き出しながら猛烈な稽古に取り組んでいた一昔前のあの夏の日の熱気が忘れられない。そこに響き渡っていた貞松融団長の叱咤と激励の声が忘れられない。いつも優しく静かな物腰だが、しかし自己の芸術的信念はがんとして曲げない蓉子夫人の澄んだ目が忘れられない。より美しく! より高く! より深く! あそこは、まさしく技術と精神の戦場だった。そしてそこからバレエ界の宝、貞松正一郎が誕生した。彼の誕生は、融・蓉子夫妻の理想への献身に対する、ミューズからの祝福のようだった。
 理想。なにをおいても、理想。そして理想への献身。
 しかもそれは、前身のバレエ研究所の設立から数えて51年後の今もぜんぜん変わらないのである。なにがそんなに、熱っぽく、執拗に、果てしなく、バレエ団を駆り立てるのか。
 人間の美しさ、高さ、深さを、このここで証したいためなのか。どこまで行けるか、それをここで証したいためなのか。彼らは足元を掘り進んで、地球の核に近づいている。
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祝賀会の貞松融・浜田蓉子夫妻



KOBECAT 0033
2006.9.23 尼崎・アルカイックホール
貞松・浜田バレエ団「ドン・キホーテ」

     
――みずみずしいダンスのことば――
■山本 忠勝


が胸にナイフを突き立てるというたいそうな狂言でとうとう結婚の許しをかすめ取った貞松正一郎のバジル。その床屋の若者が、してやったり、ガバとばかり跳ね起きて、正木志保ふんする恋人のキトリと手を取り合うあの前半のヤマ場まで来て、ヤッ、今日の「ドン・キホーテ」はオッソロシクにぎやかだ、と不意に思った。なんとも会話がにぎやかだ、とそう気づいたわけである。キトリの父親のロレンツォ(松原博司)はどうも短気で、しょっちゅうがなりたてている。バジルの恋敵のガマーシュ(岩本正治)は、漱石の赤シャツみたいなネチネチことばでねっとりとくどくのだ。サンチョ・パンサ(井勝)は、かなりのしゃがれ声なのに、この男のお喋りは頭のてっぺんからキーキー飛び出してくるようだ。つまり、みんながワイワイ、喉をからして、自分の思いを盛んに訴えていたのである。むろん、いうまでもなく、バレエの「ドン・キホーテ」の舞台である。ほんとうにことばが飛び交っていたわけではまったくない。だが、一言一句、彼らのお喋りをはっきりと聞いたのだ。知らず知らず、まるで演劇のせりふを追うように人物それぞれの力に満ちた話しっぷりを聞いていた。ダンスがなんと、いつしかダイナミックな言語空間になっていた。演出にロシアからニコライ・フョードロフを招いての貞松・浜田バレエ団の公演である。にぎやかで、ダイナミックで、お喋りに満ちて、観客もいつのまにかバルセロナの広場そしてセビリヤの居酒屋の喧騒に取り込まれてしまっていた、そんなお祭りのような公演だった。

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写真いずれも岡村昌夫
 バレエが言語になったというのは、へたをすると誤解を生んでしまいかねない、危うい言い方ではあった。せりふのことばを一語一語なぞるように、逐一ストーリーをなぞっていく、いわばアテブリ優先、説明優先の舞台になったら、これはバレエの衰弱にほかならない。ダンスの本来の力を見くびって、ことばという危険な暴君に隷従してしまうことになるからだ。天才言語学者のソシュール(1857−1913)が深い憂鬱にとりつかれたのは、ことばの底に悪魔のような陰険な力が隠れているのを見たからで、その陰険な力というのは、どんなに生き生きとした出来事でもそれを型どおりの既成のことばに嵌め込んでしまおうとたくらみつづける、文化的な暴力のことだった。ことばというものは、大体において超保守的なのである。創意や進歩を嫌うのだ。アテブリ(説明)への誘惑につかまってしまったら、すなわちことばのシモベになりさがってしまったら、バレエは死ぬ。ダンス独自の創造性が涸れてしまうからである。だが、貞松正一郎と正木志保のこの日の「ドン・キホーテ」はぜんぜん違った。ほんとう言うと、彼らが用いたことばというのは、唇や舌や喉でつくられるいつものことばとは完全に生まれが異なっていたのである。正木志保の堅実な脚が描くあの明快で力強いポワント・ワーク。敏捷な爪先が、地面を離れ、水平に走り、天空を指すごとに、わたしたちは、おおらかで、情熱的で、ときには挑発的とさえいえそうな、彼女の愛のことばをそこにしっかりと聞いたのだ。貞松正一郎の優雅このうえない空中飛越。そこにはまた優しく繊細な彼の愛と高らかな喜びの声を聞いたのだ。脚が、手が、胴が、口の力を借りないで、直接ことばになったのだった。ことばがじかに体からあふれ出た。じかに命から流れ出た。
 だとすると、これはむしろ、ダンスのことばが既成のことばを内側から爆破したと言ったほうが、正確な言い回しになるだろう。型にはまった愛のことば、型にはまったやきもちのことば、型にはまった誓いのことば、型にはまったサヤ当てのことば…、それらカサブタのように固まってしまった普段のことばをことごとく破壊して、まるでサナギの体を切り裂いて鮮やかな蝶が飛び立ってくるように、みずみずしい愛のことばを、みずみずしいやきもちのことばを、みずみずしい誓いのことばを、そしてみずみずしい決闘の宣言を、そこで生き生きと、エネルギッシュに語り、歌い上げたのだ。チャキチャキ娘が塔の頂上へ駆け上がって全世界へ向かって歓喜の歌を歌うような、あの見上げるばかりの高いリフト! 彼らはダンスを突き詰めたその果てで、もはやラングのことばではなく、めざましいダンスのことばで、新しい言語空間を創造した。
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 「ドン・キホーテ」のステージが「ジゼル」や「白鳥の湖」や「ラ・バヤデール」と違うのは、登場人物のだれもがわたしたちの隣人みたいに親しく思える点である。旅館の娘のキトリも床屋の若者のバジルも、時代を超え、風土を超えて、わたしたちと感情を共有する。いっしょに庶民の喜怒哀楽を生きるのだ。あそこで起こっていることはここでも起こりそうである。だから舞台と客席は近づけば近づくほど、つまりダンサーたちと客との間で対話が深まれば深まるほど、心の振幅も大きくなっていくのである。ジゼルやオデットやニキアといった理想化されたヒロインとの間では、このような共感は生まれない。だいいち彼女たちの恋人のアルブレヒトは貴族だし、ジークフリートは王子だし、ソロルは勇敢な戦士である。客席からはとても遠い愛の物語なのである。そこでは反対に疎遠さが美しさを増すのである。むしろわたしたちを寄せ付けない沈黙の異界でこそ美しさが完成する。ジゼルが悲劇的な死ののちに彼女もその仲間に加わるウィリ(精霊、死霊)の群れ。彼女たちの踊りが凄絶なまでに美しいのは、まさしくそれが沈黙の森の中で、音もなく行われるからである。白鳥たちの白い羽ばたきが美しいのも、そしてバヤデールの幻影の行列が美しいのもそこを沈黙が完璧に支配しているからである。上村未香のキューピッドがまるでダイヤのようにきらきらときらめいたあの「ドン・キホーテの夢」の場面の美しさ。あの特別な美しさも、全編を通してにぎやかな基調のこの“夢想の道化騎士”の世俗的なステージに、ここ一か所だけはくっきりとそこへ古典的な沈黙の「夢」の時間が差し入れられていたからだ。饒舌が歓びを高める世界と沈黙が歓びを深める世界のこの際立ったコントラスト。ロシアから神戸に招聘された演出家ニコライ・フョードロフのすばらしさも、つきつめると、数あるバレエの名作のまっただなかで「ドン・キホーテ」の並外れたコントラスト、すなわち対話性、民衆性、市民性、世俗性を完璧に浮き上がらせたことである。「ドン・キホーテ」の大きな活力。そこをみずみずしい舞踊の言語で切り開いたことである。それを徹底できるのは、彼が強靭な魂を持った芸術家だからである。もちろん、貞松・浜田バレエ団のダンサーたちがそれに応えて持てる力をじゅうぶん発揮したことも書き加えておかねばならないが。
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 言語学者のソシュールは超保守的な言語のくびきから人間の精神を解き放つにはどうすればよいか、真剣に考えた。精神に大挙して創造性を呼び込むためになにか方法がないものか、悩みに悩みぬいたのだ。詩の中にその可能性を追いかけたが、詩の研究は彼の目論見どおりには進まなかった。後世に巨大な影響を及ぼす大天才だったにもかかわらず、彼じしんは憂鬱のうちに死を迎え、一冊の書物も残せないままで逝ったのだ。しかしヨーロッパの名家の出であったソシュールが、なみはずれて鋭敏な知性と洗練された感性の持ち主だったことは確かだが、それだけに彼はドン・キホーテのような「まがいもの」の魂には縁が薄かったかもしれない。「まがいもの」がその道化的な行動の周縁に喚起するとほうもない創造性。「ドン・キホーテ」に永遠の音楽を残したミンクスも、躍動的な振り付けを残したマリウス・プティパもゴルスキーも、そして現代のフョードロフも、セルバンテスが練り上げたこのまがいもの騎士から活力に満ちた、豊かな霊感を汲んだのだ。しかもこの霊感はこの21世紀のダンサーたちの魂を変わらぬ力で触発し、開放的なキトリの踊りは次代を担うバレリーナの卵たちの憧れの的にすらなっている。真の芸術というものはこのようにいつも言語の暴政に挑戦して、根源の命の流れに広い流路を開くのだ。
 ソシュールはそんなに絶望的にならなくてもよかったのではなかろうか。
 貞松・浜田バレエ団の特別公演「ドン・キホーテ」は2006年9月23日に尼崎市のアルカイックホールで行われた。演奏は堤俊作指揮の関西フィルハーモニー管弦楽団。オーケストラに独特の鋭い陰影を彫りこむ堤俊作のこの日の指揮は、オケピットの中にさえ音楽言語による舞踊空間を逐一生み出していくようで、まったく天にも地にもダンスが満ちるような演奏になった。ルソーは18世紀フランスの上流階級の表層的な言語表現を「話に抑揚をつける代わりに、節をつけている」と非難したが、その語調を借りて言えば、堤の指揮は音楽の表面の柔和さを突き破って音楽の底から力を引き上げ、ダンサーたちの命との深い共鳴に導いた。STAFF=芸術監督 貞松融・浜田蓉子/指導 植木千枝子・松良緑・堀部富子・長尾良子・小西康子・松良朋子/衣装 リザヴェータ・ドゥヴォールキナ 中江三従子・原田すみ子・石田コスチューム/照明 柳原常夫 ライティング・セブン/舞台装置 日本ステージ/舞台監督 坪崎和司/アナウンス 中江美穂/写真 岡村昌夫・古都栄二(テス大阪)。主催は貞松・浜田バレエ団と尼崎市総合文化センター。

CatNote

The Sadamatsu-Hamada Ballet Company gave a performance of “Don Quixote” at Arcaic Hall in Amagasaki city on September23. The energetic stage was filled with clear and strong idiom of dance art, which was produced by Nikolai Fyodorov from Russia.

2006.10.10
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Cahier

   初田寿    Black and White
 20世紀の後半を生きてきた人間にとって、黒の画家といえば画面を黒一色に塗り潰したアド・ラインハートのことである。白の画家といえば白の上に白を重ねたロバート・ライマンのことである。いずれもニューヨークで制作を続けたミニマル・アートの作家である。1950年代後半から60年代にかけ、アメリカ的潔癖さでもって絵画から幻視性や抒情性や意味性を排斥して、ひたすら形式の純粋さを追求したグループだ。だがむろん極端な潔癖さはいつも袋小路で行き詰まる。神戸で制作に打ち込んできた初田寿が、ミニマル・アーティストたちと同じ時代に黒の表現で出発しながら、おそらくは仏教的な語法も底にあってのことだろう、その後ゆっくりと白へのシフトを開始して、ついには大きな精神的自由に至っているのとはじつに対照的である。その初田が神戸・元町のトアロード画廊で個展を開いた(2006年9月29日―10月8日)。
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 白の下地の上にさらに何重もの白を塗り重ねた、豊麗な白の画面。奥ゆきの深い白。その白い平面の一角で、あたかも大洋に浮かぶ平べったい珊瑚礁の島のように、なだらかな白い丘がわずかな隆起を見せている。この控えめの隆起こそが、最初期から数十年変わらない初田寿の、音楽でいえば第一楽章の第一主題なのである。大理石の粉末を材料にしてそれを樹脂で練ったモデリング・ペーストがこの丘の素材という。黒光りするような完璧な黒で画面がすっかり覆われていた初めのころ、黒の中の黒の隆起は強烈な存在感を持っていた。闇夜の海を、海面を盛り上げながらこちらへぐんぐんと接近してくる、海中の魔性のもののようだった。それが、圧倒的な黒にやがて白がゆっくりと浸潤しはじめ、逆に画面いっぱいに白の世界が現れるようになるにしたがい、新しい白の丘は魔から離れてこのハードな空間に生命の息吹を広げる穏やかな萼(うてな)となった。脅すものからほほ笑むものへと変わってきた。
 「黒の絵は結局15年ほど続けましたが、あるとき、炭焼きをしながら探究を続けているという40代くらいの哲学者がフラッと個展にみえましてね。あなたの絵はおもしろい、おもしろいが、しかしそれと同時におしつけがましい、とこういうふうに言われたんです。はっとしましたね。ぼくの絵が今のように変わってきたのは、それからです」
 かつての強烈な黒の痕跡は今、淡いグレーに踏みとどまってごく一部にかろうじて残っているだけなのだが、それがおりふし「一」の字のように現れる。そこに「梵我一如」の「一」のイメージが重なるのは、しらずしらずにも仏教的語法の上で暮らしてきたわたしたちにはごく自然なことである。絵が一つの世界観に到達した。
 「でも、やっと、ここ一年のことですね。私という主体の意識がいつの間にか私から消え去って、自然に絵がそこに生まれている、そういう瞬間に気づくようになったのは」
 絵が絵を描く瞬間…。
 肉体の底にあった精神が年月を重ねるうちにやがて表面へ滲み出てきて、ついにはくっきりと表に立ち上がってきたのである。



KOBECAT 0032
2005.10.14 神戸文化ホール
貞松・浜田バレエ団「創作リサイタル」のO.ナハリン振付「DANCE」

  
――呼びかけのDANCE、最後の人々の祝祭――
■山本 貴士
が何度目にか下りかけて、しかしこれが最後のカーテンコールだという共通の予感――それはほとんど危機感めいたものだったが――が客席に走ったとき、ちょっと信じがたい光景を目にした。客席の真ん中よりすこし前に僕は座っていたのだけど、僕の前に座る観客のほとんどが、たまらずそのとき舞台に向かって手を振りだした。それは別れを惜しむというのでも、感謝の表現というのでもなくて、ただもうそうしたくて、それしかしようがなくて、最後の予感にはじかれた、感情の奔出。
 いや、もう幕も下りたことだし、作品に度肝を抜かれた論者がいつも思いつづけてきたことだろうが、どちらかというと、ここでやめるべきなのかもしれない。ダンスは言葉ではない(この単純な命題を知らない振付家がどれほどいることか)。もっともダンスらしいダンスは、もっとも言葉ではない。僕らが出会ったのは、そういう作品だった。
 つまるところひとつの奇跡が起こった。完璧に計算しつくされた奇跡。逆説的なもの言いに聞こえるだろうか。けれど、これこそもっとも高い水準の奇跡じゃないだろうか。すなわち理想の完全なる実現。計算しつくした人はオハッド・ナハリン。振付家で、イスラエルのバットシェバ・ダンス・カンパニーの芸術監督。振付指導に同カンパニーの稲尾芳文があたり、上村未香をはじめとする貞松・浜田バレエ団の15人の女性ダンサーが踊った。作品のタイトルは「DANCE」。
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 「DANCE」のはじまりを誰も知らなかった。いや、僕は本当に知らなかった。だって、ロビーにいた。10分の休憩だというのを正直に信じて。すると会場内から歓声と拍手が聞こえた。幕間の余興でもやっているのかと思い会場に入ると、やっぱりそうだった。幕の前で、黒のスーツ姿の女性ダンサーがひとり踊っている。瀬島五月。それがいかにも即興、いかにもコミカルな仕種と踊りで、正直、こういうの、やだな。
 まあ、「貞松・浜田」の本編がこの水準じゃないのは充分心得ていることだし、あと数分、次のプログラムを楽しみに待っていればいい。どうやら他の観客も同じ心づもりのようで、そのサービスを存分に楽しみ、リラックスして、歓声や拍手で自由にはやし立てている。この雰囲気は、パブのショーやなんかと変わらない。
 その瀬島のダンスが、ところが終わらない。おまけにそのまま幕まで上がってしまう。いけない、よくある手じゃないか。いや、それはいいとして、今日は「本編」も、この亜流宝塚の水準なのかしら…。
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 広くなった舞台で動き回っていた瀬島だが、やがて一点にとどまって、奇妙な踊りをはじめる。踊りというのか、痙攣というのか、両のこぶしを握りしめて、何て言ったらいい、カクカクした動き。するとそこへもう1人、同じ黒のスーツ姿のダンサーがスタスタ現われて、定位置につくと、やっぱりカクカクしはじめる。それがもう1人、また1人。結局15人の女性ダンサーが舞台の上でカクカクカクカク。それはひどく奇妙な光景で、気持ち悪く踊る人形のおもちゃがあるが、あれがズラリと並んでいるような。
 いや、大体あなたの想像している通り。想像できない光景ではない。実際、先ほどの幕間からの導入といい、黒スーツのダンサーたちといい、ナハリンは未地の素材でこの作品を構成していたのではない。むしろそれは僕らに馴染みの素材群だった。だが、たとえば学問や思想であっても、そこに重大な展開をもたらした人々は、むしろ伝統的な概念を用いつつ、その構造を組み換えるような仕方で思考をしてきたもの。
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 「DANCE」なんてタイトルはそうそうつけられるものじゃない。これはつまりダンスへのひとつの挑戦の表明であり、展開されているのは舞踊の伝統的方法への批判=吟味。とりわけ、ほとんど制度化し、形骸化した前衛の伝統(そう、前衛の伝統)への批判。あるいは、いまだその方法論をありがたがって毒にも薬にもならない作品を再生産しつづける舞踊家たちへのいらだち。とにかくナハリンが既成の舞踊的素材を扱う手つきは、陳腐どころか見事と言うほかなく、ああいうのはどこかで見たことがあるとか何とか、そんなことを言う気をいっさい起こさせはしない。それはつまり、それら既成の素材の関係にこれ以上ないという厳密な必然性がもたらされているからで、そうしてすべてが狂いなく所を得るとき、出自というものは意味を失い、むしろそこで新たに誕生するものとなる。僕らはといえば、記憶なんてすっかりなくしてしまったみたいに、次々おとずれる誕生のきらめきに目をみはっているばかり。
 配置とバランスの妙。瀬島のいかにも精神的緩慢さを装った長時間のソロのあと、いま同じ衣装の15人が舞台を埋めて、まるでひきつけを起したみたいに踊っている、というのか震えている。このコントラストは劇的で、この光景はあまりに不自然で、顔が歪むくらい、ユーモラスで、不安だ。
 と、そのとき爆発的に(どうして評論は今日まで「爆発的」という言葉をとっておかなかったのか)はじまるユニゾンのダンス。この瞬間だ。注意してほしい。この瞬間、たまらず観客は一斉に手を叩いた。この拍手に「意味」はなく、とにかく僕らはたまらなかった。そして、この「たまらず」という瞬間が、この作品では観客を何度も繰り返し襲う。そんな作品って、ちょっとない。
 ひとしきりの群舞のあと、一旦幕は閉まる。最後に一人残ろうとするが、それも何かわめきながら幕の内へ引きずり込まれて。
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 再び幕が上がると半円状に並べられた15脚のスタックチェア。野性的なリズムに男たちのシュプレヒコールのような歌(ヘブライ語の数え歌らしい)。それをバックに椅子の上で飛び跳ねる激しい踊り。腰を下ろしたかと思いきや、端から花が開くように、もしくは連鎖的に性の絶頂に見舞われるように、椅子の上で身を開き投げ出す。その反復。
 ところが、右端のダンサー(福田咲希)だけが、その連鎖の最後でどうしても地に突っ伏してしまう。反復の数だけ、何度も、何度も。他のダンサーたちはスックと立ち上がるが、その1人だけは床を這いつくばり、コミック的に表現すれば「ううう…」という感じで、遅れてようやく立ち上がる。
 その一人は上着を脱ぐタイミングすら外し、上着だけじゃない、クツも、白シャツも、何もかも。舞台の中央には皆が脱いで放り投げた衣装がますます降り積もっていく。なのに最後の1人は結局何ひとつ脱げず、その都度、頭を抱え、また床に倒れる。そして注意して見るなら、この作品には常にこの「最後の者」がいるのだけれど、それにしても彼女、最後の者の嘆きが、どうして僕らにこうも懐かしいのだろう。
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 その後、一転して静的でシステマティックなダンスの場をはさみ、次のシーン。スーツの女たちが舞台を降り、客席を物色しはじめる。それぞれに観客の中からパートナーを選び、1人、2人と舞台に連れ去られる。さて、そうして舞台に上がった観客たち、自分をそこへ連れてきたダンサーが踊りだすのを見るや、堰を切ったように激しく踊りはじめる。これも、観客にはたまらない。それに、わかりすぎるぐらいわかっていたというもので、誰も準備はできていたのだ。言ってみれば、ただきっかけを待っていただけ。
 ふと、先ほどの椅子の場で流れたナレーションが頭をよぎる。「狂気と正気とを分ける細い線。」見よ、彼らは踊り狂っている。彼らは舞台に上がり、境界線を正気から狂気の側に跳び越えたのだろうか。いや、ちがう。起こっているのはもっと構造的な変化だ。いま2つの世界を分ける、その境界線がかき消されたのだ。あれはナハリンの予言だった。「細い線」など、たちまちに消えてしまうということ。だがナハリン以外の誰が、それを「細い」と言ってのけることができたろう。ナハリンこそは驚愕すべき確信犯。すべては彼の大きな枠の中で生じている。尽きぬ豊かさを生む、それは無限の枠。
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 そして、ここにまた最後の者が現われる。他の人々が帰されて、なお舞台に残される1人の観客。この婦人を中心に踊っていたダンサーたちが、不意にパッタリ倒れてしまう。立ったまま取り残される彼女。あわてて自分も横たわるがもう遅い。
 だが、取り残されたのは誰かということだ。あのもっともドラマチックな椅子のシーンにおいても、僕らは誰より、あの最後の1人に自分を重ねていなかったか。どうしてもうまくやれない最後の者。他と歩調を合わせられず、合わせる気もないまま取り残される最後の者。圧倒的な多数の力の前で、なすすべもなく地に伏す最後の者。
 だが、だが、希望の光が輝きを放つ。救済という言葉が、いまひとたび意味をもつ。そのとき僕らは誰も客席に取り残されはしなかった。ここにきてわかった。長い間取り違えていた。さっき言った舞踊批判云々も、その梯子を上ってここへ来たあとでは、もうそれを捨ててしまうのがいい。「DANCE」とは「ダンスというもの」の意ではない。これは舞踊論ではない。<Dance>とはひとつの動詞、「踊れ」という呼びかけだ。呼びかけに応えたのは舞台に上がったあの観客たちだけではない。「たまらず」起こった幾度もの拍手が証し立てていること。居合わせたすべての心が躍った。いまここは、最後の者のための、大いなる祝祭の場となった。
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 祝祭の終わりは不意におとずれる。音楽は静かなピアノの調べとなり、バーレッスンのような風景。何よりも正確さを心がけて、プリエ――。
 ダンスのはじまりを、誰も知らない。いや、いま知った。この喜び。この昂揚感。躍る心。システムはそのあとに来る。足は1番で。グラン・プリエ――。もちろん、それは凋落というよりは、あの喜びを何とか取り戻し、とどめようとする努力なのだろう。
 としても、「DANCE」が描きたかったのはシステム以前のダンスである。あるいはダンスの根源。起源ではない、いま、ここでダンスを生みだしつづける、ダンスの根源。だから、「DANCE」はシステムで終わる。
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 「DANCE」のはじまりを誰も知らなかった。「幕間の余興」にはじまったこの舞台、そのはじまりの時点で観客は「不真面目」である。躍れ踊れとダンサーをはやし立てていた。ではその後、僕らはまれに見る偉大な作品を前に「真面目に」なったか。ちがう、まるきりちがう。作品は、それら真面目さと不真面目さの境界線を取り払った。
 わきおこるカーテンコールの拍手と歓声。舞台に手を振る観客たち。残り滓のように頭の片隅にひっかかっていた、あの舞台で踊った観客たちは即興の踊り手であったろうか、それともきわめて巧妙に準備された「仕込み」であったろうかという疑問、それもこの瞬間に完全に意味を失った。「仕込み」なんて、何て卑しい言葉。境界線は消えた。虚構と現実、予定と出会いが溶け合って、事実などではない、スリルに充ちた現実が、あるいは現実に潜在するスリルが、いまめくるめく圧倒的な光を放ちつつ顕わになっている。
 やめるべきだったろうか、やはり。だって、ダンスとはどこで起こるものか。<その場>で起こるものである。こんな人伝え口伝えの現場では、決して起こらない。そのことをこれほど強く思ったこともない。もしあの場に居合わせなかったとしたら―何て恐ろしい仮定。もしそうなら、いったいどれほどの幸福を犠牲にしていたことか。
 貞松・浜田バレエ団「創作リサイタル17」のオハッド・ナハリン振付「DANCE」は平成17年度文化庁芸術祭の大賞を受賞した。この作品は来たる10月14日午後3時から神戸文化中ホールで開かれる同バレエ団の特別公演「創作リサイタル18」で再演される。バレエ団078-861-2609
 写真撮影は岡村昌夫・古都栄二(テス大阪)。
2006.9.30
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Cahier

    上村亮太  The sea of tear
 最近の現代美術で目立つのは、女の作家がよりいっそうパワフルに、男の作家がよりいっそう繊細になっていく、その逆転現象の進行だ。上村亮太の展覧会では、訪れる客が「この画家は名前を見れば男のかたのようですが、ほんとうは女性ですか」と質問する。ギャラリー島田での個展でもそうだった(2006年9月16日〜27日)。
 黄色いワンピースが中空にかかっていて、裾からポタポタと大きなしずくが落ちている。「Sunday’s Rain」(日曜の雨)と題されたシンプルな作品だ。ショッピングに出て、途中で雨に遇ったのだろうか。デートの帰りに驟雨に襲われ、浮き立つ心で駆け通してきたのだろうか。あるいはもっと幸運なこと、たとえば舞台のオーディションに合格して、踊りながら雨を突っ切ってきたのだろうか。いずれにしろ黄色いワンピースはびっしょり濡れて、なおさら鮮やかにそこにある。あたりにデリケートな明るい空気を広げている。
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 心理学の理論によると、男の心の深層には純粋といっていいほどの「女性」性が隠れていて、反対に女の心の深層にはこれまた純粋なばかりの「男性」性が埋め込まれているという。実存哲学者サルトルの生涯の恋人だったボーヴォワールは以前、とりわけ今日の女の「性」は生まれた後に社会によってつくられた“第二の性”だと鋭い批判を繰り広げたが、もしかしたら「性」への社会的圧力が弱まるにつれ、深層から“逆の性”が表へ昇ってきたのだろうか。この点で芸術家がひとより早くそれに勘づく種族なのは確かである。
 男が女の心を描き、女が男の心を描く。それで奥へ封じられたエネルギーが解かれるなら、それはそれで豊かなことだし、たぶんしあわせなことである。
 だが、「Toy Train」(おもちゃの汽車)という絵の前に立ったとき、この作家はそうは一筋縄ではいかないな、とあらためて考えた。箱庭の光景みたいに華奢なレールがきれいな円を描いていて、ちゃんとコードも電源から引かれている。この上を精巧なミニチュアの汽車が走るという仕掛けだが、さてその汽車はというと…。汽車は、しかし、黒い幌にすっぽりと覆われて、柩のような、なにか得体のしれない塊として描かれていた。むしろ運命のような暗いものが、その永劫回帰の円環を走り出そうとしていたのだ。
 だとすると、黄色いワンピースのあの娘は、恋の破滅か、血か、脅迫か、ほんとうは街で胸が裂けるような恐ろしい目に遭遇して、泣きながら部屋にたどりついていたのだろうか。床にできた水溜りは、彼女の涙だったのか。明るい空気は内に憂いを隠していたか。
 男の底にある女の層のもっと下。女の底にある男の層のもっと下。じつはそこに男にも女にも共通の、つまり人間に共通の涙の海があるのだろうか。外見はいまはやりの“癒しの絵”のように見えるのだが、そうと見せかけながらこの画家は、その深い海からそっとこのアンビバレントなワンピースを引き上げてきたのだろうか。
 かつて重厚な抽象画を制作していた上村はいま、「これならわたしにも描けるのではないか、とだれもがそんなふうに思うような作品を描きたい」と語っているということだが、芯はなかなか…。
 



KOBECAT 0031
2006.8.8〜10.1 兵庫県立美術館
アルベルト・ジャコメッティ展
     
――無の結晶――
■山本 忠勝


木がときとして根に岩をかかえて立つように、哲学と芸術がともに根に眼球をかかえて繁茂した時代があった。見つめること、徹底的に見つめること、それがすべてのもとだった。その眼球の時代の哲学とは、エドムント・フッサールから始まってマルティン・ハイデガー、ジャン=ポール・サルトル、モーリス・メルロ=ポンティへと受け継がれていった「現象学」のことである。目の前に見えるものをまずあらゆる先入見を取り払って見えるがままに「見つめる」こと。鼻先へ間断なく迫ってくる自己の死を決して目をそらさないで「見つめる」こと。自分を見つめているもうひとりの自分の目を細心の注意力で「見つめる」こと。見つめている目そのものを「見つめる」こと…。そして、眼球の哲学とともに現れたその時代の芸術とは、まるで針金のような細い人物像を発表して周りにめまいを起こさせたアルベルト・ジャコメッティの創造のことである。「もっとよく見るためにぼくは彫刻を制作する」。知性と精神がまだ地上でいささかの影響力を持っていた20世紀の前半のほぼ50年間のことである。だがジャーナリズムのスターでさえあったあれら哲学の巨匠たちは21世紀の今日、もはや影も形もない。五月革命(1968年)で学生と隊列を組んだサルトルの果敢な姿もいまは遠い幻のようである。ただジャコメッティの彫刻だけは、むしろいっそう生き生きと私たちの前に立ち上がる。哲学は仮死に落ちて、しかし芸術はみずみずしく生き延びた。この落差は何なのか。神戸で33年ぶりに開かれたジャコメッティの回顧展でどうしても考えざるを得なかったことである。

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 眼球の哲学者の系譜の中で、1901年生まれのジャコメッティに世代が最も近いのは、1905年生まれのサルトルだ。気質も近いが、同じように深刻な“眼球の危機”を体験しているという点でも、美と知の分野で並行的な生き方をしたふたりである。サルトルの危機は、目と言語の間で出来した。彼は思索的な小説「嘔吐」(1938年)の中で、マロニエの根元を「見つめる」主人公の突然の動揺をこんなふうに書いている。「それが根であるということが、私にはもう思いだせなかった。ことばは消え失せ、ことばとともに事物の意味もその使用法も、また事物の上に人間が記した弱い符号もみな消え去った。…たったひとりで私は、その黒い節くれだった、生地そのままの塊と向いあって動かなかった。その塊は私に恐怖を与えた。それから、私はあの啓示を得たのである」(白井浩司訳)。根の〈存在〉が目の前でむきだしになったとき、彼はそれを言い当てる言葉を失った。哲学者が言葉を失うということは、彼の知的な営みが根底から壊れてしまうことである。一方ジャコメッティの危機は、目と粘土の間で出来した。すでにキュビスムの彫刻家あるいはシュルレアリスムの彫刻家として安定した評価を得ていたにもかかわらず、1935年になって彼は一つの衝撃に見舞われる。これは、違う! ほんとうにわたしに見えているこの人物は、わたしがいまこの手で捏(こ)ねているこのようなものではない。しかもモデルに接近しようとすればするほど、どういうわけか作品が小さくなっていくのである。「小さくなければ似ていなかったのです。…大きな全身像はわたしにとってはいつわりでした。しかしかといって、小さいものは我慢できませんでした。…像はとても小さくなってゆき、あまり小さいので最後にナイフでふれると埃の中に消えてゆくこともしばしばでした」(ジャック・デュパン著、吉田加南子訳「ジャコメッティ」)。手の中でかぼそく消えていく粘土塊。人物の〈存在〉に迫ろうとすればするほど、彼もそれを言い当てる粘土を失っていったのだ。彫刻家が粘土を失うということは、彼の創造的な営みが根底から壊れてしまうことである。哲学者と芸術家はともに自己の解体に直面する。
 さて、その危機を乗り超えてサルトルが逢着した哲学は、なんと、空中高くをブランコからブランコへと渡っていくサーカスのような論理であった。ここにこのようにいるあるがままの自分(即自、肉体と重なる自己)というのは、マロニエの根のように意味を持たない〈存在〉だが、それを見つめるもうひとりの自分(対自、意識)が次のブランコへ向かって「飛べ! そら!」と決断を迫るのだ。するとその冒険的な、ときには命がけの飛翔から、この世界に人間としてある意味が生まれ出てくるのである。今を間断なく超えること、今を間断なく否定してさらに前へ進むこと、すなわち今に間断なく無を導き入れること。人間は無を絶え間なく重ねることで、人間の本質を現していくというのである。そしてジャコメッティが逢着した芸術も、空中ブランコのパフォーマーのような表現だった。ここにこのように捏ね現れた人物像は、このように形が固まってしまったことでもうモデルから遠く離れてしまったが、そこからまだ休むことなく捏ねることで、真の人物像への可能性がなお保たれていくのである。今を間断なく超えること。今を間断なく否定してさらに前へ進むこと。すなわち今に間断なく無を導き入れること。人物像は無を絶え間なく重ねることで、人物像の本質へ近づいていくことになるのである。サルトルの人間像もジャコメッティの人物像もともに無の上に無を集積した無の結晶だったのだ。
 おそらく哲学と芸術におけるこの二つの無の結晶は、「主体の時代」のピーク(頂点)でもあり、同時にカタストロフィー(破局)でもあった。現象学がまず見えるがままに見ることから出発したということは、とりもなおさず、もはや神の目あるいは超越的な者の目(絶対的な歴史法則etc.)を借りることなく、純然たる人間の眼球でこの世界をとらえ直そうともくろんだ、その決意の表れにほかならない。サルトルの「即自―対自」の構造も、これまで神(絶対法則etc.)と照らし合うことで自分の場所を定めてきた人間の存在を、人間と人間の照らし合いの中で自分の場所を決意する、まさしく主体の絶対化の構造と読むことができるのだ。ジャコメッティも、他の多くの彫刻家がむしろ嬉々としてそうしたように、人間の奥に神あるいは神性を探り当ててあの高貴な造形に至ったわけでは決してない。なによりも目の前にいる人間主体のその〈存在〉の根源に迫りたいという衝動にかきたてられて、あのような果てしのない闘いへ踏み出していったのだ。だがその人間主体なるものは、これで完璧に自立の構造に至ったと思ったその最後の瞬間に、無の集積、無の結晶になっていた。造形のなかにしっかりつかまえようと企てれば企てるほど、かえって無の領域が巨大に膨らんでいったのだ。土壇場における圧倒的な無の顕現。皮肉なことにそれは結局、人間主体の消滅にほかならない。サルトルの哲学はやがて構造主義の文化人類学者レヴィ=ストロースの「野性の思考」(1962年)で批判されたのをエポックに、思想の表舞台から徐々に追われていくのだが、彼の哲学はその出発点ですでに宿命的な破局を抱え込んでいたのである。
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アルベルト・ジャコメッティ展カタログ
 しかしそれにしても、なぜ哲学は仮死に陥り、彫刻は今もなおこんなに生き生きと生きるのか。多くの複雑で微妙な理由があることだろうが、たぶん哲学と芸術の方法の差も大きな要因となっている。哲学の命は論理である。明晰な言葉を連ねて矛盾なく核心に迫っていくことが必須である。サルトルの「即自―対自」の関係も、人間の在り方から二次的な要素を注意深く払っていって、最後に抽出したぎりぎりの構造にほかならない。だが、無の結晶へと至るこの厳しい論理のプロセスで、確かに人間のありようは明快に浮かび上がってきたのだが、その明快さと引き換えに、なんということ、世界の豊かさがそぎ取られていくことになったのだ。侠雑なものを無数に含んで、むしろ刻々と混沌を増幅していくこの宇宙という空間の豊饒さが抜け落ちた。意識は異様に研ぎ澄まされたが、その土台の生命が衰弱した。では、芸術は? 確かにジャコメッティもサルトルと同じように、ひたすらそぎ落としていったことに変わりはない。ついには人物が針金みたいに、それどころか空間の一筋の裂け目のように細っていった。しかし芸術には奇跡が起こる。そぎ落とされるにしたがってどんどん拡大していった無の空間は、ただ無に向かって力なく開かれただけではなく、外からそこへどっと世界がなだれ込んできたのである。裂け目へ向かって猛烈な勢いですかさず宇宙が侵入した。むしろ細くなればなるほどに、作品の空間は豊かになっていったのだ。
 サルトルは仮死に落ちた。だがいうまでもなくそれは完全な死ではない。思想はいずれ再評価されるときが来る。もう主体だけで人間を語れないのは明らかだが、主体なしで歴史の明日を語れないことも確かである。しかしジャコメッティにはひとときの仮死すらも来ないだろう。彼は主体へきりきりと迫りながら、おそらくみずからはそうとはっきり気づかないまま、すでに主体を超える大きな宇宙をその芸術にはらませていたのである。ブロンズの無数の襞に宇宙が浸み込み、宇宙とともに生命が浸潤した。確かに人間は裂け目だが、それは宇宙に刻まれた、宇宙とともにある裂け目であった。
 どうやら芸術に奇跡が起こったといったのは、正確な言い方ではなかったようだ。芸術じたいが奇跡そのものなのである。
 「20世紀美術の探求者 アルベルト・ジャコメッティ展―矢内原伊作とともに」は2006年8月8日から10月1日まで神戸市の兵庫県立美術館で開催。彫刻、絵画、デッサンなど140点の展観となった。矢内原伊作はジャコメッティと親交を深め、制作の上でとりわけ重要なモデルとなった日本人哲学者で、今回の展覧会では二人の交流の追跡に大きなエネルギーが注がれた。主催は同美術館、産経新聞社、神戸新聞社、アルベルト&アネット・ジャコメッティ財団(パリ)。

CatNote

After the lapse of 33 years, the exhibition of Alberto Giacometti’s was held at Hyogo Prefectural Museum in Kobe (from August 8 to October 1). The exhibition especially took the focus to the relation between Giacomettei and Japanese philosopher Isaku Yanaihara who was an important model for Giacomettei’s sculpture.

2006.9.20
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Cahier

    樋上公実子  A descendant of the Moon
 神戸は向日的な街である。竹中郁の詩句は光の言葉のようにまぶしい。東山魁夷の日本画は森の奥にすら澄明な光が満ちる。小磯良平の油絵は光が聖性にまで達している。街そのものも南に向いた斜面にあって、太陽と合わせ鏡のようである。隅々まで明るいので、この街に月の子孫がいることはちょっと忘れられがちだ。隠者のように生きながら、アポロンよりむしろセレネーを祖と仰ぐ芸術家たちがいるのである。山本六三は死神と手をたずさえて死のダンスを優雅に踊る美しい女を描いた。アルフォンス井上は夜の象徴のような少女を描く。そしてここで採り上げる樋上公実子は、まさしくエンデュミオンの夢の中に侵入して夜ごとの愛を契りつづけた月の女神の嫡流だ。ハンター坂のギャラリー島田で個展を開いた(2006 年9月9日〜14日)。
 樋上が描く大きなオオカミは高貴である。立派な体躯、そしてふさふさと波立っている豊かな毛と光を放つ鋭い目。そこには神の血統がしのばれる。その気品に満ちた二頭のオオカミに両脇から守られて、ひとりの少女が眠っている。いや、眠っていない。目覚めて、じっと仰臥の姿勢で見つめている。なにかを待っているのである。二頭のオオカミもよく見るとただ護衛しているだけではない。オオカミたちはたぶん少女を愛している。健康な獣の体を少女の白い肌にほとんど愛撫せんばかりに寄せている。「洞窟」と名づけられたミステリアスな作品だ。
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 では少女が待っているのはオオカミたちの欲望か。図像学的にはそうである。オオカミたちは守るように、いつくしむように、隷従さえするように、両側からじりっじりっと白い体ににじり寄る。だがこの絵の神秘は、ここに描き出されたこの明快な構造に微妙な「NON(ノン)」を忍び込ませていることだ。待っているのはオオカミか? 答えは30%の「OUI(ウイ)」と70%の「NON」である。樋上の、それが魔術である。少女は実はまだここには十分に現れきっていないものを待っている。それはこの二頭の霊獣を突き抜けてまもなく彼女の上に現れる。それ、とはこの獣の正体、すなわち神のことである。神が姿を見せるのだ。つまり、宇宙がそこに現れる。彼女の鋭敏な官能はまもなく星座と感応を始めるのだ。この全天空との契りこそ樋上のたぐいまれなエロティシズムの形である。
 「受胎告知」の豊麗な暗示。ひとりの裸婦が横たわって、あたかも解剖学の図像のように豊かな子宮が体内に透けている。子宮がはらんでいるのは人ではない。黒鳥が美しい翼にうずくまってそこにいる。黒鳥オディール。なんという精神の飛翔! イコンの奇跡! だとするとこのういういしい肉体は、ロットバルトの娘を宿しているのである。あんなにも高雅な白鳥の群れを造形した偉大な悪魔ロットバルト。神がなしえなかった凄絶な美を創造した大悪魔…。そうか、樋上のエロスは地上の男たちの欲望をふりほどく。彼女のエロスは天上の神と悪魔にこそ開かれる。両義的な月の末裔なのである。
 展覧会の作品の大半は作家・小川洋子の霊感に満ちた文章を添えられてポエジックなメルヘン「おとぎ話の忘れ物」としてホーム社から刊行された(発売・集英社、1700円)。
 



KOBECAT 0030
2006.6.9〜21 神戸・ギャラリー島田
栃原敏子展

――それでも、天空は回る――
■山本 忠勝


21世紀もこうして5年目に入ると、前世紀の精神の風景がかなりはっきりと見えてくる。なかでも思いがけないのは、表面では思想の自由をかつてないほどに押し広げたポジティブな100年間だったと振り返られるにもかかわらず、その陰に実は大きなタブーが横たわっていたことに今さらながら気づかされることである。そのタブーとは、「心」とか「魂」とか、そのような形のくっきりと見えないものには、公の場ではできるだけ触れないで済ましたいと身構える、広範な意識のこだわりのことである。心だって? その話題はプライベートなお喋りのなかだけにしておこう。いずれ脳神経の全メカニズムが解明されればすっきりとモデル化(数値化、定量化)されるかもしれないが、それが人間の不変の本質だなんて考えるのは一つの思い込みかもしれないし…。「魂」などという言葉は、レトリックとしてなら少々大目に見られもしたが、真面目にそんなことを語ろうものなら、感傷的なアナクロニズムと見下される恐れさえあったのだ。だが真に存在するものは、触れないでおこうとすれば却って語り手の物腰をぎこちなくするのである。たとえば栃原敏子の色彩豊かな絵画世界。あのパワフルな発色について何かを語ろうとするならば、「心」の力を引き合いに出さないでは、結局のところ肝心なことはなにも伝えられないで終わるだろう。彼女の絵はまさしく、正真正銘の心の力なのである。きわめてリアルな心の力なのである。
 「地球という駅」そして「太陽をゲットせよ」。作品につけられたこれら詩的なタイトルは、画家がどんな空間に身を置いてあたりの光景を眺めてきたか、その視界の広がりをすでに明快に語っている。太陽があそこで輝いていることの、この大きな喜び、大地がここに横たわっていることの、この豊かな喜び、生命がこのここで躍動していることの、この深い喜び…。彼女の眼差しが差し向けられている果てというのは、星々があまたの軌道を描いて渡る天空であり、その天空が大地と接する広大な地平線の円弧であり、それら夜の星々と昼の積乱雲が悠然と上ってくる高貴な水平線なのである。無限へと休みなく広がっていく窮窿だ。一方、彼女がまさにその彼女の体で絶えず感じているものは、日の光、森の匂い、風のそよぎ、気温、湿度、土の感触、水のせせらぎ、動物たちや人々の歌。ほとんど皮膚の上、むしろ皮膚のすぐ裏で揺らいでいる無数の感覚の波立ちにほかならない。内部へ際限なく滲み込んでくる多様な波動なのである。そしてここでとりわけ重要なのは、これら無限の外部と無限の内部でかたどられたその広大な空間を、彼女がみずからの感受性のすべてを開いて一気に受け止めているということだ。世界が彼女のもとへ一挙に押し寄せてくるのである。
 四方からどっとなだれかかってくる空間の洪水。そこに生まれるのは、むしろ、あっ、という大きな一音の叫びである。あらゆる感動を畳み込んだ熱い、あっ。あらゆる言説を畳み込んだ深い、あっ。あらゆる音楽を畳み込んだ分厚い、あっ。そこでは個々のモノの形は解体する。すべてが溶融し合って、果てしない広がりと果てしない奥行きとしてあらわれる。全体が全体としてこんなに美しいなかで、森と空をどうして分けることができるだろう。蕊(しべ)と蜂をどうして分けることができるだろう。微風と花粉をどうして分けることができるだろう。この空気とわたしの鼻腔を、この清水とわたしの喉を、この蜜とわたしの舌を、どうして分けることができるだろう。この全体の豊かさこそが彼女の絵の最大のテーマである。これをこそ描かなければならないのだ。だから、キャンバスの上はこういう光景になるのである。燃えるような赤の乱舞だ。深い深い赤の乱舞だ。覚めるような緑の破裂だ。深い深い緑の破裂だ。裂くような黄色の疾駆だ。深い深い黄色の疾駆だ。
 仮に彼女の絵を現代美術の分類表にあてはめようとするならば、いうまでもなくそれは無謀な試みではあるのだが、彼女の絵の烈しいタッチはまずは抽象表現主義の系譜の中に親族が捜されることになるだろう。じっさい、だれもがひとまずは彼女の絵を「抽象画」の範疇で見るのである。
 だがここでも外見で判断するのは慎重でなければならない。彼女はじぶんの作品を「抽象画」といわれると、間違いなく怪訝な顔になるだろう。
 「抽象? そうかなあ。わたしは、わたしの絵はとても具体的だと思っている」
 日常の些事にはいたって鷹揚なこの作家は、自己に差し向けられた誤解にもむろんたいして拘泥するようすはない。だからこの一瞬の彼女の翳りに出遭っても、わたしたちはつい素通りしてしまいそうである。しかし彼女の創造の源泉を理解するには、じつはこの微妙なギャップを埋めることがなにをおいてもまず重要なことなのだ。作品にそくして見てみよう。

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「広い世界へ」
 たとえば「広い世界へ」という大きな作品。ほぼ中央で右と左へ大きく分割されている画面は、右半分を勢いのいい赤が占め、左半分ではいわゆる肌色に近いやわらかな明色が躍っている。そして中央部分は上から下へ滝のように白の帯が落下する。つまりどこも圧倒的な色彩の舞踏だということだ。なにかただならないものがその画面のどこかで爆発を起こしたようである。その衝撃波がオーロラのように発色しながらいま画面の隅々にまで到達したばかりのようである。さらにその衝撃波は画面の外へも広がり出ようとしているような気配である。
 この、色彩の、色彩による、色彩のための絵、のようにさえ見える栃原の作品は、その色彩のパワーがあまりにも前面に出てくるので、背後に隠された制作のプロセスもいきなり色彩から始まって色彩で完結しているように思われても、それはむりのないことだ。だが、ほんとうはそうではない。制作の動機を訊けばそのことはすぐわかる。彼女は簡潔に言うのである。
 「神戸から軽井沢へアトリエを移して、もう何年になるのかなあ。とにかく、あっちは自然のまっただなかで。その自然に包まれると、わあ、すごい、わあ、描きたい、って衝動的に思うんです。この絵も、新幹線で軽井沢へ戻ってきて、駅に降りて、大自然と対面して、さあ、また描けるぞ、ってわけもなく昂ぶってきた、そのときの気もちを、そのままに描いたんです」
 ここには、ある一日の具体的な物語がしっかりと横たわっているのである。むしろこれは彼女の行動の全体をスパッと言い切った日記である。虚構などはそれこそひとかけらも混じっていない、正味の日記なのである。見るものは色彩の迫力に呑み込まれて、じっさいのところ、絵の前で作家じしんから細かく説明を聞かなければ、そこにそんな線が沈んでいたなんてほとんど気がつかないのだが、栃原はまるでピクニックでの出来事のように楽しげな目でこんなふうに続けるのだ。
 「ほら、ここの、この、前がちょっとふくらんでいる、この線。ほら、これ、新幹線でしょう」
 なるほど色彩の旋風のまっただなかを突進していく、新幹線の流線型の車両の形がそこにある。
 「ほら、ここの、この、頂上が盛り上がったブルーの線。これ、浅間山」
 ああ、なるほど、そのすっきりとした稜線は、浅間山!
 なんとひそやかな、むしろ、そこにはまるで無いような、だがそこで確かに心が閃光を放っている、この線。
 しかし、これはなんと根源的な発明だろう。
 絵画は長い間、形態をしっかりと捉えることに精力を傾けて、色彩は形態をもっと堅固に見せるための補完的な手段であった。やがて色彩は自立を始め、ついには形態と決別して、色彩ばかりで画面が覆い尽くされる時代が来た。しかしいま栃原は彼女なりの方法で色彩と形態を第二の婚礼へと差し向けているのである。両者がここではかつてなく親密に溶け合うのだ。新幹線が画家もろとも自然の息吹の中へ突入して、彼女はじぶんの世界へ帰ってきた幸福で飽和する。この満たされたいまの一瞬に、この鉄の列車とこの森とあの山とあの空とあの太陽を分けることなど、ほとんどなんの意味もない。列車の形態、森の形態、山の形態、それら個別の形態をあの潔癖症的な認識の刃で切り出すことなど、むしろこのよろこびの感情にはまったくそぐわないものだ。この世界では形態と色彩は補完などしないのだ。形態と色彩は全体のなかで融解する。
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「見方変えれば」
   といったところで、さて、まとめへ進むころあいだ。それにしても栃原の強烈な色のパワー、あれはどこから来るのだろう。パワフルな色が生み出されてくるその背景(環境、条件)については、ここまでの文脈でそこそこ述べたつもりである。残るのは力学の問題だ。同じ赤を使っても、栃原の赤はなぜあそこまで強いのか。おなじ青を使っても、彼女の青はなぜあそこまで際立って強いのか。これは、おそらく、けっきょくのところ、魔法である。この強度は、彼女がこの世に生まれ出るとともに、彼女がこの世界に持ち込んだものなのだ。テーブルに穴を穿ってそこからビールをふんだんに噴き出させるのが魔法なのでは決してない。それは奇術だ。ほんとうの魔法というのは、むしろひっそりとこの世に生まれて、だれもが用いるあたりまえの手段を踏襲しながら、しかしかってなかった深いものを不意に生み出す、心の働きのことである。魔法は心とともに生まれ出る。
 心の強度! 20世紀は心にとっては圧政の時代であった。栃原敏子もその20世紀に生まれた画家のひとりだが、圧政の時代をぬけて、この21世紀に「心」を持ち出したという点で特筆すべき芸術家なのである。彼女は「魂」を抱きかかえて、前世紀からこの21世紀に亡命した。そしてこの彼女の行動そのものが、なににもまして「心」の実在をあかすのだ。彼女の闘いが、心の在り処を示すのだ。
 彼女の描く太陽は、彼女の心と等価である。それは心と照らし合いながら、心の双生児のように、心の間近を移っていく。銀河系の中心を少しずれたところで燃えている“比較的ありふれた恒星”の一つなんかでは全然ない。それはまさしくわたしたちの心そのもの、体そのもの、生そのものなのである。むろん現代の学校で学んだ彼女は、地球も宇宙ではゴミのようなカケラであって、決して特権的な星ではなく、太陽の周りで細々と楕円軌道を描いている貧相な存在にしか過ぎないことを知っている。地動説。唯一絶対的真理の地動説。すべてを一律に、水平化する地動説。だがこの有無を言わせない、傲岸な、冷たい科学的“信仰”のまっただなかで、それにしては豊饒に過ぎ、それにしては繊細に過ぎ、それにしては優しさに満ち過ぎるこの時空に、画家は毎日のように驚くのだ。驚きながら、そしてたぶん、彼女は軽井沢の大地と森と山と太陽と星々とをその全身にまといながら、こうそっとつぶやくのではなかろうか。
 それでも、そら、天空は回っている。
 「栃原敏子展2006」は2006年6月9日から21日まで神戸・ハンター坂のギャラリー島田で開かれた。9月には岡崎市のブルーBOXでも展覧会が開かれる予定。近々、作品集も刊行される。

CatNote

Toshiko Tochihara, a modern artist, gave a personal show at Gallery Shimada in Kobe from June 9 to 21 this year. The color which she paints is so strong and so spiritual that her works seem to be born directly from her deep powerful heart.
 

2006.8.8
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KOBECAT 0029
2006.6.17〜7.2 新長田アートギャラリー
鉄人28号特別展

――モダニズムの光と影――
■山本 忠勝


年雑誌が全盛期を迎えていた1950年代、その名も「少年」という月刊誌(光文社)の誌上でのことだったが、それこそ子供たちの心を沸騰させることになるロボット漫画の二つのシリーズが相次いで始まった。一つはいうまでもなく手塚治虫の「鉄腕アトム」(1952年)の連載で、そしてもう一つは、これもつとに有名だが、横山光輝の「鉄人28号」(1956年)の連載だった。これらロボット漫画のパイオニアのうち手塚をたたえる記念館はすでに宝塚市にできているが、ならば横山の記念館もつくろうではないかという新しい運動がこの夏(2006年)に神戸でスタート。運動の皮切りにそのスーパーロボットを中心に置く「鉄人28号特別展」が新長田・大正筋商店街の新長田アートギャラリーで開かれた。

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 特別展は、横山光輝の経歴や鉄人28号の由来の紹介、そして漫画のパネルやロボットのフィギアなどを陳列して、まあ、ことの性格上、思ったより地味な内容ではあったのだが、しかし眠っているような静水にも石を落とせば確実に波紋が広がるものである、意外に多くのことを考えさせる展示となった。とりわけ強い印象を受けたのは、横山が終生抱いていたらしい生地・神戸への思いの深さだ。長田の海で泳いだ少年時代の記憶など、神戸憧憬の熱い情は後年のエッセーにもあふれんばかりに出てくるが、それがこの展覧会でそれほど興趣をそそることになったのは、実は先輩の手塚もまた同じように神戸への強い思いを何度か語っていたからだ。二人とも都市をある種の未来感覚でとらえた作家で、物語の背景にしばしば無国籍的な都市風景が描かれたりするのだが、ここであらためて振り返れば、どうやらその原型に共通して神戸があったようなのだ。しかもそれは単に背景の装置にとどまらず、物語の骨格ないしは思想にもかかわっていく重要な動因だったようである。じっさい手塚の「アドルフに告ぐ」にいたっては第二次大戦下の都市神戸そのものが主要舞台となって前面に浮かび上がりもするのである。
 もちろん「鉄腕アトム」も「鉄人28号」も本格的に書かれ出したのは、彼らが東京に出てからのことである。だが手塚は5歳(1933年)から24歳(1952年)までの多感な時代を歌劇の町の宝塚で送っていて、神戸は彼の行動圏の中にきわめて身近な場所として入っていたし、横山は戦争中の鳥取疎開の時期を除けば21歳(1955年)で東京に移るまでずっと神戸暮らしである。ロボットたちの英雄劇は50年代の日本社会の現実からはとても想像できないような超時代的なシチュエーションで進められ、科学技術が暮らしの隅々にまで浸透している今日の状況をすでに先取りしていたとも評されるのだが、若い作家たちのその並外れた着想も、このようにふたりの相似た経歴をいささかでも振り返ってみるならば、おそらく突発的な思いつきなんかではなかったろうと、にわかに当たりがつけられることにもなるわけだ。
 漫画家のまさしく二つの金の卵が将来に向かって盛んに精神的蓄積を積み上げていた戦前の神戸ないし宝塚は、大なり小なり神戸・阪神間に広くまたがるいわゆる「モダニズム文化圏」の枢要な街(町)だった。神戸や芦屋といった阪神の代表都市では、英語が敵性言語として禁じられることになった太平洋戦争のさなかでも、中学校(旧制、私立)はどこも知らん顔で英語の授業を続けていたし、なかでも神戸ではドイツ人やその敵ともいえるエジプト人(親イギリス)たち、あるいは朝鮮人や中国人らが、むろん日本人を巻き込みながらごった煮のような戦前からの交流を保っていて、いうなれば根無し草的・コスモポリタン的な精神状況を呈していた。破天荒なロボット漫画の両パイオニアはそのような奇妙な空気を吸いながら自己を形成したのである。むしろ一時は圧倒的な力で近代日本を主導したモダニズムの潮流が、日本軍の軍国主義とアメリカ軍の空爆という内外からの挟撃によって全面的に崩壊したのち、それでも崩壊を潜り抜けた神戸・阪神間の根強いモダン水脈がこれらの作家の感性と才知を通して強力に甦り、湧出したといった方がいいかもしれない。
 青年手塚は勤労動員に狩り出されて大阪で大空襲に遭遇した。夜空から焼夷弾が束になって降ってくる火の海を、まさしく死をそこに感じながら懸命に逃げ延びた。少年横山は疎開のおかげで神戸空襲の直接の危険からはのがれたが、国鉄(現JR)の高架駅から海がストンと見張らせるほどに焼き尽くされた神戸の街に自分の目を疑った。ふたりにはそれぞれの戦争体験がリアルにある。原体験として体に食い込んでいたということだ。だがそこからつかみとったものの内容には、それぞれの環境と個性に応じて、まさしくこれこそが作家であることの根源的な証しだろうが、微妙かつ決定的な差異がある。
 鉄腕アトムと鉄人28号は、巨大なパワーを持つことでは共通するが、行動のスタイルには見るからに本質的な違いがある。アトムは行為の善悪を自分で判断する能力を備えていて、その判断の上に立って「悪人」に立ち向かっていくのである。底に倫理性があるわけだ。一方、鉄人28号は手動の小さな操縦機が送ってくる電波の命令に従って行動する。金田正太郎少年がそのハンディな操縦機を操って「悪人」を懲らしめるというのがストーリーの背骨だが、だからギャングに操縦機を取られてしまうと、鉄人もたちまち「悪人」の強力な武器に変わるのだ。どこまでも没倫理なのである。
 アトムと鉄人の間に横たわるこの倫理上の差異の問題。これこそは二つの作品をめぐる最も奥行きの深いテーマである。それはふたりの作家の空襲体験の差によるかもしれない。当時の航空工学の粋であったB29爆撃機の大編隊に現実に焼き殺される思いをした手塚にとっては、科学の強大な力で武装しながらしかし善意と優しさでそれを主体的に制御するソフトなかわいいロボットが火急の理想だったかもしれない。「鉄腕アトム」は広島と長崎に落とされた現実の「アトムの爆弾」(原爆)のまさしく対極として造形されているのである。他方、B29によって完膚なきまでに破壊された故郷の街を、敗戦がもう決まった後になってから少し冷めた目で見渡すことになった横山には、人間一個の希望や絶望にはおかまいなく何もかも十把ひとからげに葬ってしまう機械(科学)の力が、なによりもまず圧倒的に、純粋な驚きだったかもしれない。人間のスケールをはるかに超えたこの破壊機械に善意をインストールするなど論外中の論外だ。機械の行動はそれを用いる人間の意思次第でごくシンプルに決められる。機械が主体性を発揮しているように見えるのは、むしろ制御回路の不調で起こる危険な暴走のときである。鉄人につけられた「28号」という数詞は「B29」から採ったものだと、これは横山自身があかしていることである。鉄人は基本的には米軍爆撃機と同じ軌道上に展開されたハードウエアなのである。だとすれば、これは科学技術へのふたりの作家の態度の差異にもつながっていくだろう。さらに理性全般への態度の差異にも広がっていくだろう。
 あるいは手塚の中にはまだモダニズムへの大きな信頼があったかもしれない。曲折はあるにせよ進歩は究極的に人間を幸福にするはずだという信頼だ。仮にそうだとすると、その手塚との対比において横山にはここでも微妙に違った局面があぶりだされることになる。進歩への疑念が浮かび上がってくるのである。列車が神戸に近づくと車窓まで明るくなったと、そのようにたたえられたハイカラ都市を一夜にして壊滅させることになった20世紀の科学技術。それをまざまざと目撃した少年は、心の目ですでにモダニズムの光と影を感じ取っていたのではなかったか。進歩は破滅に向かっているかもしれない、と。鉄腕アトムは最期も地球を救うために宇宙のかなたへ飛び立って、かくして彼の別れの姿はわたしたちの心の中で永遠化されることになったのだが、鉄人28号は沸騰する鉄の中で溶かされて、そこでだしぬけに彼の履歴は断絶した。
 あるいはまた同じモダニズム文化圏とはいえ、宝塚育ちと神戸育ちの間の位相的差異もあるかもしれない。宝塚は歌劇という、いかにも日本型モダニズムが生み出した理想主義的・幻視的文化をその中核に持っている。海運と工業を基礎にして世界経済の中で生きてきた神戸の街は、実業支援のために創学された神戸大学の応用学重視がその一端を語るように、現実直視型の都市なのだ。現実直視とは常に光と影に向かって同じ感性を働かせることである。
 さて、「鉄人28号」の数ある名シーンの中で、とりわけ50年代の子供たちをアッと驚かせた場面の一つは、海上の船と並走して巨大な鉄人が海中を進んでいくときのダイナミックな描写であった。まだ何も起こっていない静かな海を、正太郎の乗った船が航行を続けていて、おや、今回は鉄人は出てこないのかなと思っていたら、なんと船の下を船の何倍も大きなアヤツがひっそりと魔のように従っていたのであった。横山の少年時代には空爆で沈没した貨物船がまだ長田の沖に放置されたままになっていて、海底に透けて見えるその危険で神秘な城砦がこどもたちの格好の遊び場になっていた。彼も夏が来るたびにそこでぞくぞくするような冒険をしたのである。半世紀も前に焼きついていまだに鮮やかな感動を甦らせる漫画の一コマ。それが作家なりの戦争体験から生まれていたと知ったのは、やはりそうだったのか、と感懐に誘われることだった。戦後のきわめて貧しい文化の中で心の侘しさに沈んでいた少年たちに、ときめきを届けてくれたその永遠の創造力にいま、遅ればせに感謝しながら。
 「鉄人28号特別展」は、「KOBE鉄人PROJECT」の一環として2006年6月17日から7月2日まで神戸・大正筋商店街の新長田アートギャラリーで開かれた。KOBE鉄人PROJECTは、JR新長田駅前に募金で鉄人28号のモニュメントを造ることを当面の目標にして、将来的には横山光輝記念館の建設を目指すという。
 同PROJECTはhttp://www.kobe-tetsujin.com

CatNote

 The exhibition of comic hero “TETSUJIN 28” (Iron Monster 28) was held at Shinnagata Art Gallery in Kobe city from June 17 to July 2. That famous comic was written by Mitsuteru Yokoyama in the 1950’s. Yokoyama was born in Kobe in 1934 and died at Tokyo in 2004.

2006.7.13
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Cahier

    小林欣子      An invisible deep channel
 作家とりわけ画家にとっての大きな幸福。その一つは人の心の神秘にまざまざと出遭うことだ。画家が絵の奥に託した微妙な世界。それが絵の前に立つ人の心に伝わっていくというこの魔法。まるで作品とそれを見る人の間に見えない水路が開かれるようである。そしてこの水路に確信を持った作家は、その手ごたえの深さに応じて、むろん用心深く、ゆっくりとではあるが、じぶんの作品を変えていく。進化させていくのである。多くの場合はよりシンプルな方向へ。むしろ寡黙な方向へ。そして自在な方向へ。小林欣子の今年の個展はいちだんと簡潔で、明るい光に満たされていた。晴れやかで、自由な空気に…(2006年6月14日―20日、大丸神戸店美術画廊)。
 「ひととき」という作品は、大きな白い襟が印象的な緑のドレスを身につけて、どちらかというとクラシカルな雰囲気で椅子にかけている若い女性の肖像である。背景の空間は比較的単純な構成で、垂直に交わる二本の直線で大胆に分割され、そこには暗色から明色までの幾種類かの色彩がゆるやかなグラデーションで(しかし鋭いタッチで)配置されているだけだ。彼女の作風に出合うのがこれが初めての人だったら、なによりもまずこの絵の明快さとすがすがしさに目を奪われ、それとともにそこで心も十分に満ち足りて、おそらく画家が経てきた複雑な道筋にまで意識の矢を伸ばすことはないだろう。だが彼女の制作を近くで見守ってきた人びとには、間違いなく、絵にくっきりと現れたこの飛躍的な簡明さこそ深い驚きだったはずである。
 肖像の周囲をさまざまな暗喩で埋め尽くすのが、これまでの彼女のやり方だったのだ。操り人形を操る糸。それが運命を運ぶ意志のように画面に張りめぐらされていた。鸚鵡貝や巻貝や二枚貝などいろんな形の貝の殻。それが悠久の時間を凍結した化石のようにそこに散りばめられていた。そして時にはスカーフや衣装の裾をはためかせて走る風。遠くからの呼び掛けのようだった。しかしそれらが今、忽然と消えたのだ。いや、消えたというのは正しくない。それらは背後の色彩の中に埋められた。貝殻が砂に埋もれていくように。
 すると、どうだ。雲が一掃された空のように絵がこんなにも光で満ち溢れることになったのだ。暗喩の雲が払われた後の全き快晴! しかもそれで画面が薄くなったわけではない。それどころか暗喩が背後の色彩へ深く沈められていっただけ、絵の堆積層が厚くなったというべきだ。数々の暗喩が操り糸や貝殻の具象的な形を抜けて、微妙なグラデーションの色彩の中に溶け込んだ。
 そしてまさしく神秘なのは、彼女の作風とここで初めて出遭った人にもおのずからその厚さが伝わっていくということだ。はっきりと言葉で理解されるわけではない。それはたぶん直観でたちどころに了解される筋合いのものである。ほとんど無意識に受け止められるとってもいい。裏を返せば、そういう厚い背景があってこそ、絵がだれの目にもこんなにも高い明度で輝き渡ることになったのだ。ここへ歓びが押し寄せることになったのだ。
 なんと精神は一気に投げ渡されることだろう。
 
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「ひととき」






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Cahier

 Art Party      The moon above the rain
 神戸市の行政組織は都市経営での大きな実績にもかかわらず、芸術活動に対しては月並みな感受性しか示せないできた。だがその精神の平凡さを補うように、市民の中に自発的な芸術支援組織が生まれている。若くして病死した一女性の思いをもとに15年前に発足した「亀井純子文化基金」と震災後に文化復興を目指して誕生した「アート・サポート・センター神戸」はそのシンボリックな存在である。長年にわたってこれらの活動を支えてきた市民サポーターたちに対する感謝の集い「Art Party」が神戸・ハンター坂のギャラリー島田で開かれた(2006年6月15日)。
 集いのメーンイベントは、日本ツァーのためにプラハ(チェコ)から神戸に着いたばかりのバイオリニスト、フランティシェック・ノボトニーと神戸を拠点に日欧で活躍を続けているピアニスト、伊藤ルミのデュオ。生誕250年を迎えたモーツァルトのバイオリン・ソナタを中心に演奏した。
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 精神的な集いとは実にこの夜のような空気のことをいうのだろう。おりしも会場は心の喜びを躍動的な色彩に描く画家、栃原敏子の個展中で、演奏もその豊麗な色彩の乱舞の中で行われたが、ノボトニーの堅牢で思慮に満ちたバイオリンそして伊藤の奥深く思いやりに富んだピアノ、その崇高といってもいい奏鳴はまさしくモーツァルトの心の奥へと下っていって、ふだんはむしろ光の陰に隠されている神童の深層の機微にまで届くものとなったのだった。彼の未完に終わった最高峰、ニ短調のレクイエムと呼応する重厚な響きさえその底を流れ渡っていったのだ。感動のために今にも泣き出しそうになっていた栃原敏子の横顔がその集いのスピリットを象徴するように目の奥に焼きついた。
 そして、アンコールはバッハの「G線上のアリア」。夜更けの雨が遠方の出来事のようにかすかに聞こえてくる中をその透明な音楽はゆっくりと魂が浮揚するように昇っていったが、それは厚い雨雲の層を超えてついには皓々と輝く月のもとへ舞い上がっていくように思われた。
 精神の輝きは、その連鎖のプロセスは逐一表立っては見えないにせよ、確実に新しい精神の輝きにつながっていくのである。それこそが都市の最も深い魅力である。



KOBECAT 0028
2006.6.10 神戸文化ホール
東仲マヤの「ソレア・ポル・ブレリア」

――舞踊の核で輝く「女性」性――
■山本 忠勝


王ロットバルトは実はオデットを哀しいほどに愛していて、それで彼女をあんなにきれいな白鳥に変えたのではなかったろうか。黒鳥オディールと白鳥オデットは実は別々に育てられた双子の姉妹で、ともにロットバルトの娘ではなかったろうか。不意にそんな夢想にとらわれたのは、まさしく魔王のようなフラメンキスト東仲一矩が鋭い手拍子を打つその面前で、スピリチュアルなオデットさながら娘の東仲マヤがソレア・ポル・ブレリアを踊り始めたときだった。彼女はじっさい魔王の翼の中から舞い立った白鳥のように舞台を渡っていったのだ。白鳥といっては雅に過ぎて彼女の閃光のようなステップと旋回が伝わらないなら、真珠といおう。輝かしい水晶といってもいい。東仲一矩フラメンコ舞踊研究所の第16回発表会でのことである(2006年6月10日、神戸文化ホール)。

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  東仲一矩が魔王のように踊るのは、神戸の舞踊ファンならもうだれもが知っている。ロルカの詩に託しては、牡牛の角に引き裂かれて夕刻の光の中で悶死した闘牛士の闇を踊った。紫式部に託しては、嫉妬のために御息所の心の奥からさまよい出てくる生霊の奈落を踊った。このフラメンコダンサーを魅了してやまないのは、そこが破滅の地点と知りながらなおそこへ吸い寄せられていく男や女のデモーニシュな宿命だ。まさしく夜の舞踊家なのである。だが夜は、闇が極まったときに、なるほど、暁の光を生むのである。ひとり娘の東仲マヤ。彼女はそこに清明な光となって現れた。
 一時期、父親から離れたことがあった。舞踊から身を引き剥がすように勤めに出た。彼女はそうとは言わないが、反抗があったかもしれない。だが舞踊の魂を授けられてこの世に送られてきたものに、舞踊以外のことは結局ただむなしく終わるだけである。まもなく父のもとに回帰する。だが魔王は愛娘をすぐにはその巨大な翼に包まなかった。スペインへ彼女を放り出したのだ。全霊で学んでこい。いまなお彼女が神戸でさえそれほど知られていないのは、ここ数年間のこの追放のせいである。だが急ぐことなど全然ない。光にはいずれだれもが気づくのだ。マヤはゆっくりと登場した。いや、まだ、いままさに徐々にデビューしつつある。
 ソレア・ポル・ブレリアという曲は、フラメンコの深い闇を最高度に宿すソレアを核心に置きながら、それを光のように明るく歌い上げるところに表現の妙味と極致があるという。偶然の選曲だったのか、必然の選曲だったのか、彼女は魔王の前でまさしく黒鳥オディールであり白鳥オデットだったのだ。闇をはらんだ光のダンス。そしてそれが光の勝利となって終わるのは、彼女の本質がすでに曙光だからである。
 まっすぐに核心へ迫っていく精神は、いかにも父親譲りである。時間と空間に肢体がしっかりと食い込むこと、これも父親譲りである。苛烈さと繊細さを併せ持つ、これもそうだし、一片の過剰もなく一片の不足もない、これもそうだ。彼女の肉体は魔王からの高貴なプレゼントで満ち溢れているのである。だが、ただ一つ、父親のはるかな対極にあるもの。父親よりもっと大いなるものの仕業によってマヤに与えられたもの、それは、ほかでもない、彼女が女であるということだ。女としてこの世に現れたことである。
 東仲一矩がそこに届こうと凶器(狂気)のような動きを繰り広げてきた、そこのそれ。むしろ自己の最も深い深部で、自らでさえさわれないタブーのように、純粋に輝きつづけている、そこのそれ。地層のはるかな底にうずもれながら、しかし永遠に消えることのない一点のきらめき。それ、すなわち「女性」性…。彼の最深部にありながら、同時にわれわれの最深部にあるもの。ついに未到のきらめきとして終わるほかないにせよ、生を意味あるものとして間断なく支え続けてくれる無上の輝き、「女性」性…。マヤはむろんすでに卓抜な美しい女ではあるけれども、この舞踊の核に潜む「女性」性へはまだ距離のある位置にいる。だが彼女は父には決して届けないダイレクトさですでにそこへの可能性に満ち満ちているのである。彼女はあの水晶のような輝きでまっすぐに、しっかりと、そこへ到達するに違いない。
 やがてくるマヤの正午。
 そして早晩、彼女がそこに駆け上がるとき、父なる魔王は狂喜するのか、絶望するのか。
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 東仲マヤは、2006年6月10日に神戸文化ホールで開かれた第16回東仲一矩フラメンコ舞踊研究所生徒発表会「アンダルシアの夜」で、17のプログラムのうちの一つ「ソレア・ポル・ブレリア」をソロでおどった。総勢83人が出演したこの発表会は技量の点ではかなりの幅が見られたが、強く驚かされたのはだれの踊りにも舞踊に対する謙虚な精神が輝いていたことだ。踊りに現れる「心の線」がたったひとりの例外もなく実に美しかったことである。東仲一矩は自らが天才肌であるだけにかえって教師役は不得手ではなかろうかと周囲からは見られてきたが、なかなかどうして、最も重要なこと、最も微妙なこと、最も伝わりにくいことを完璧に教え伝えているのである。
 MUSIC=カンテ 瀧本正信、高岸弘樹、川島桂子/ギター 國光秀郎、松井高嗣/カホン 中村岳。STAFF=振付・構成 東仲一矩/振付補佐 東仲マヤ/舞台監督 佐名手実/照明 新田三郎/音響 ARK 坂本稔。

CATnote

 Flamenco dancer Maya Higashinaka, a daughter of famous dancer Kazunori Higashinaka, made a brilliant performance in “LA NOCHE DE ANDALUCIA” at Kobe Bunka Hall on June 10 in 2006. Her dance is so clear and sharp just like her father’s.

2006.6.20
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Cahier

    丹下幸男      A pearl in deserted house
 場所と深く出会うこと、場所と強く出会うこと、場所と鮮明に出会うこと、それが風景画家の至福であり、苦悩である。今という一瞬の時と出会いながら、過去のぜんぶと未来のぜんぶをそこに一気に見いだそうとするのである。丹下幸男はひたすら水彩を愛しながら、山や水や空や町をそのように描いてきた。今年の個展「想い 遥かに 蒼い空」を神戸・南京町のギャラリー蝶屋で開いた(2006年6月1日―6日)。
 「引き潮」という作品は、海岸に二階建てで建っている鉄筋コンクリートの小さな廃屋を描いたものだ。こんなに老朽化した建物が今の神戸港に残っているとは夢にも思わなかったから、どこかさびれた港の景色だろうと考えながら見ていたら、案に相違してハーバーランドの一角に現存しているビルだという。“KOBE WATER”(コウベ・ウォーター)が世界の船乗りたちを魅了していた時代の古い給水所らしいのだ。
 「ぼくも、あれ、こんなところに、こんなものが、と思ったんです。でも、そう思ったとたんに、30年前の記憶がパッと甦ってきましてね。そうそう、中学生のときにここへ写生に来たことがある。まだ沖仲仕のおじさんたちがいっぱいいて、そんなおじさんの中のひとりが汗臭いにおいをぷんぷん放ちながら、ほおっ、おまえは絵を描くんか、絵はええなあ、絵は人の心を慰めてくれる、そう言うてくれたんです。あんまり清潔とはいえない手でおじさんがくれたオニギリの味も思い出した。口に入れるのにちょっとだけたじろいだけど、かぶりついたら、ほんま、あれは、おいしかった」
 廃屋の窓はガラスも破れて、とめどなく暗い。だがこの暗さは、単に物理的な翳りではない。まさしく時間の深さそのものだ。船が入ってくるのをその窓から眺めながら、おそらくは給水量を暗に見積もり、“KOBE WATER”にひそかな誇りを抱きながら給水の準備にかかった人たち。そして出港する船を見送りながら、神戸の水が世界の海へ出て行くのをなにかしら温かい心で思った人たち。あるいは何万隻にものぼったのではなかろうか、それらの船…。その誇りは、神戸の水道が淀川下流の水ですっかり占領されてしまった今も、なお市民の胸に伝説的に生きている。
 画家はたぶん真珠を抱いた廃屋を見いだした。  
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「引き潮」
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KOBECAT 0027
2006.5.14〜28 神戸・門屋ビル
ARTイマジネーション in KOBE磯上・2006

――都心の蜃気楼――
■山本 忠勝


る日とつぜん草原の各地から集まり始めたと思ったらみるみるうちに大帝国を立ち上げる、そんな遊牧の民のような機動性が現代美術家にはあるようだ。ベテランから若手まで30人もの作家たちがワッと神戸に集合して、解体直前の大きな倉庫でアート・フェスティバルを催した。この突発的祭典のタイトルは「ARTイマジネーション in KOBE磯上・2006」(2006年5月14日―28日)。磯上とは、ほかでもない、その古い倉庫が建っているありふれた通りの名だ。奔放なイメージの騎馬隊がピンポイントから一気に全方位へ駆け広がっていくかのような、この幻視の侵略王国。都心のセンセーショナルな蜃気楼、An urban mirage !
 その倉庫は戦争直後に建てられた大きな木造ビルだと聞いていたから、もはや無用の長物となっている巨大廃屋を思い浮かべていたのだが、実際はぜんぜん想像と違っていた。倉庫とはいっても、それはこのビルの半世紀を越える履歴の最終段階でたまたまそういう利用のされ方に至ったというだけで、建物の一角にはひっそりとながら今も現役のオフィスが入っているし、すでにがらんどうになっている薄暗い空間にも、アメリカンスタイルの大きくて長いカウンターがいまだ往時の夢をむさぼる黒豹のように眠っていたり、ブティックとおぼしき洒落た小さな中二階が中空に挿入されたまま色香を残してバラのように仮死していたりで、いたるところで歴史の痕跡と出遭うのだった。おびただしい雑踏、おびただしい人いきれ、おびただしい酒、ジョーク、ジャズ、ダンス、それら消えていったものたちが行く先ざきで亡霊のように立ち上がってくるのである。倉庫というなら、ここに収納してあるのはむしろ過ぎ去っていった膨大な時間の化石群である。そしてまさしくこの時間の迷宮で、あまたの亡霊たちを最後の舞踏に誘うように現代美術が炸裂した。
 床一面にぶちまけられたようにいろんな形の立体がある。壁を勢いよく這い回る色とりどりの“落書き”がある。天井からポタポタと間断なくしたたり落ちる水がある。明滅を続ける光もあるし、白昼夢のような青白い映像の投射もある。かと思うと、文明の残骸みたいな事物の破片がベルトコンベアに乗って目の前をゴトゴトと過ぎていく。それどころか、水の中にはシュッシュッと泳ぐメダカもいる。解体の決まったビルはすでに一つの墳墓だが、そこに深々と横たわっている静寂が、じつは聴こえない喧騒で満ち満ちていたのである。葬送と到来が入り混じる濃厚な祭礼だ。
 なかでも地元神戸を拠点に制作している宮崎みよしと京都からやってきた國府理がそれぞれにここに構築した大作は、このアーバン・ミラージュすなわち都心の蜃気楼の「思想」もしくは「構造」を最も端的に表現する仕事として印象深いものだった。戦後の荒廃期から黙々と時を刻んできた沈黙の建物に、彼らは白鳥の最後の歌をうたわせた。亡びに臨んで地上で最も美しい歌をうたうという白鳥の、そのえもいえない別離の歌を。
 宮崎みよしは、じっさい、この倉庫ビルの表向きはすでに言葉を失っている空間に今いちど追憶の詩を語らせようとしたのである。空間の奥にさらに内なる空間を見いだそうと試みた。つまり建物の内奥からこの建物自身の無意識をあぶりだそうとしたわけだ。なによりもまずエントランスの大きな壁面に吊るされていた、長さ10メートルにも及ぶあの紙の仕事。微妙に揺らぐ流線が無数の束になって黒い川のように浮き出ていたその抽象の絵模様は、ほかならぬその場所の床面のフロッタージュだったのだ。そうとは気づかれないまま足元に蓄積されていた分厚い「時」が、最期に至って高々と頭上に掲げられたのだ。空間の下部と上部の劇的な反転。すなわち無意識の湧出。そしてさらに書きとどめておくべきは、おそらく改築されるたびにあるいは仕切られあるいは付け足され、そのつど複雑さを増してきたこの迷宮建築への作家の強い情愛だ。宮崎は穴倉のような小部屋や半端に残った出っ張りに、たぶんこれまでにここに来ただれよりも熱っぽい視線とデリケートな意識を注いで、そのいびつな小空間にオマージュのような写真やドローイングや立体を置いたのだった。幾重もの入れ子構造さながらに、空間の中により小さな空間が、さらにその小さな空間にまたもっと小さな空間が、と挿入が繰り返されていく、空間の永久循環。内部の外部への間断ない反転と表出。踏み入る先ざきで迫ってきたのは、空間そのもののやわらかな膚であり、ひそやかな吐息であり、そっとつぶやいているひとりごとのような詩であった。奥からゆっくりとひびいてくる深い歌。
 さて、この匿名的な仕掛けによって(作家は作品にあえて名前をつけなかった。しかり、無意識はいつも匿名なのである)宮崎みよしが建物の内面への潜入をはかったとするならば、一方の國府理は建物からの建物自身の脱出、流出、逃走、いうなれば昆虫が自らを自由へ押し出すために敢行するあの脱皮、つまり建築的脱皮に取り組んだ。國府は一対の大きな帆をヘリコプターの回転翼のように組み立てて、その大掛かりなハネをなんと倉庫の屋根に取り付けた。港の方から風が吹きつけてくるたびにハネは悠然と回転して、建物全体が飛ぶ構えになるのである。墳墓と見えた空間が、それどころかいま羽化へ向かって身構える。しかも翼の回転に伴ってくるくると回る頑強な心棒(回転軸)が、倉庫の床越しに地中に突き立てられていて、下端に装着された大きな鏃(やじり)が掘削機のようにぐいぐいと地層を掘り進んでいくのである。この飛翔する大倉庫は空中へも流出し、地中へも逃走する。自らの構造の桎梏からのこの意想外の、華麗な脱出。そら! 自由に手が届く。

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國府 理 Wind Power Driller
 精神分析家のように建物の内奥へ旅すること、そして飛行家のように建物の離陸に手を貸すこと、それはすなわちともに空間の命を生き、ともに空間の夢想を遊ぶことにほかならない。そして、命と夢想とはこの世界に在るものが、さらに在り続けるための不可欠の条件だ。命とはもちろんこの世界に現れてくるそのことだし、夢想とはこの世界の焼け爛れるような無意味(ニヒリズム)から身を守り切るための鎧である。磯上通に世間から外れるように建ってきたこの奇妙な迷宮建築は、間近に現れた死の相貌を受け止めながら、いま、最も熱く生きたのだ。
 ところで、現在は密集するビルの中の変哲もないストリートの一つでしかない神戸・磯上通。しかし焼け野原となった戦後神戸の惨憺たる風景を記憶にとどめている者には、この界隈はいまなお微妙なにおいが甦ってくる町である。60年前に発したそのにおいは本当いうともうだれもが忘れ去っていたのだが、思いがけなくも時間の化石が古い倉庫から出てきたことで、なんとも、びっくりするほど強く漂い出してきたというわけだ。この一角のすぐ近くに、そうなのだ、かつてカマボコ型兵舎を並べた占領軍のキャンプがあった(神戸はアメリカ軍の占領を市民ひとりひとりがその実生活の上で極めてリアルに実感した都市である)。すぐそこに巨体の歩哨がずっしりとした銃を構えて、しかし日本兵の過度にしゃっちょこばった歩哨スタイルから見ればいささかルースに、立っていた。兵士の運転する頑健なジープが、こちらはいつも緊急連絡を携えているかのように猛スピードで走っていた。兵士たちはとりたてて横柄だったわけではないし、押し付けがましかったわけでもない。だが、彼らが自らの習慣に沿ってそこで自然にふるまっているだけで、この町の空気を絶えず異化していたのである。一つのコードでぎゅうぎゅうに体を縛って生きてきたことのばかばかしさ…。敗戦後の狂騒のなかに突如として出現したあのバロックな感覚、この街では何でも起こりそうだったあのアナーキーなまでの開放感。あの崩壊的創造の感覚がこの現代美術の祭典に回帰しているように感じたのは錯覚だろうか。古い倉庫で起こった夢想が、一個の建物にとどまらず、都市の夢想を掘り起こしたか。
 もしアスファルトで固められた街区にも地の霊がいるとすれば、ここに住み着いているそのやからはこのうえなく奔放な神に違いない。イマジネーションの絢爛たる洪水に耽溺するのを野放図に喜ぶ、なかなか粋な地の神だ。ちなみにこの展覧会の総合表題は「地力」であった。
 「ARTイマジネーションin KOBE磯上・2006<地力>」は2006年5月14日から28日まで、神戸・磯上通の門屋ビルと同小野柄通のIPSX MAGNETの2会場で開かれた。主催はリ・フォープとIPSX MAGNET。出展者は次の通り。
 〔門屋ビル会場〕麻谷宏、池田慎、遠藤有沙、小野サボコ、金勉植、國府理、笹埜能史、朱宰浩、田中大輔、椿崎和生、中川知美、水垣尚、宮崎みよし、森泉秀苑、米田定蔵、ワーダダ・コウドーほか。
 〔IPSX MAGNET会場〕朴一南、林栄実、金誠民、趙剛来、金陽愛、権基英、裴淳玉、嚴珠壽、朱宰浩、尹晴樹、金成美、金洸秀、成俊男。

CATnote

The modern art festival “ART IMAGINTION in KOBE ISOGAMI・2006” was held at old big warehouse in Kobe city from May 14 to 28. Over thirteen artists assembled from various district of this country. That old warehouse is scheduled to be dismantled this summer.

2006.5.31
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Cahier

    中井博子      A happiness of flower
 西欧の近代絵画が写実を完成させることで絵を神の喜びから人間の喜びに奪還したのはたぶん本当のことである。だが対象をしっかりと言い当てることの喜びは洋の東西を問わずずっと昔から表現の底にあっただろう。“花の画家”中井博子の写実描写はまさしく花の美しさをあまさず言い当てる喜びだ。個展「花の贈りもの」を神戸・ハンター坂のギャラリー島田で開いた(2006年4月29日―5月10日)。
 バラがある。ケシがある。チューリップがある。ヒマワリがある。画廊が花盛りの中にある。だが今年は花の美しさを言い当てるだけではなく、もう一つ、ある微妙なものが言い当ての対象になって絵の中に潜んでいた。潜んでいたとあえて言うのは、その微妙なものはバラやチューリップのように形になって表に出てこないからである。それはいわば花の陰にそっと寄り添うように潜んでいた。
 つまり、私、この場合は、画家自身のことである。花を言い当てたいと願う芸術意志の裏側に私を言い当てたいというすなおな欲求が寄り添っていた、とそのように言ってもいい。花の放つ美しさと、その花を見つめる私の大きな幸福の、その二つの極が絵で響き合っていたと言ってもいい。花が二倍にも豊かになった。絵が二倍にも幸福になっていた。
 「窓辺」は陽光の中の花々を描いた絵だ。光がテーマだった、と画家も言う。
 「はじめは輝きわたるような光のことを考えて、(大輪のバラとかランとか?)ちょっと贅沢な花をそろえようか、と考えたの。けれどいろいろ練っているうちに、結局は路傍で雑草と一緒に咲いている、ほら、このちっちゃなケシとか、ごくありふれたマーガレットとか、麦の穂とか…。おかしいわね、こういうの」
 こうしてそこに現れたのは、澄明な、まぶしいくらい澄明な、そしてこのうえなく豊かで純粋な光であった。  
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「窓辺」
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KOBECAT 0026
2005秋〜2006春 兵庫県立美術館 神戸市立小磯記念美術館
二つの鴨居玲展

――死後20年目の抱擁――
■山本 忠勝


居玲の展覧会が去年の秋から今年の春にかけて神戸を代表する二つの公立美術館で開かれた。まず兵庫県立美術館の鴨居玲展(2005年11月19日―2006年3月5日)で、これは館蔵品から19点をピックアップしての展観。画家の57年の生きざまを急ぎ足で通覧するいわばデッサンふうのプログラムとなっていた。そして次は神戸市立小磯記念美術館の鴨居玲展(2006年1月28日―3月26日)。こちらは重要作110点を公私のコレクションから借り受けての巡回展(金沢→神戸→広島→長崎)で、“CAMOY宇宙”をこってりと見せる本格的な回顧展となったのだった。展覧会の副題に「没後20年」をうたったのは、両方の美術館に共通している。

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 都市神戸は鴨居が壮年期からの最も実り豊かな時代を自分の母港として過ごした街で、ついにはあの謎めいた死もここで迎えて、この街が文字通り終の棲家となったのだが、神戸の公の美術館は彼の生と死に対してこれまでそれほど温かく反応してきたとはいえなかった。死後2年目の最初の大規模な回顧展が開かれたのは神戸ではなく姫路市立美術館で、このことは当初感じられていた以上に大きな精神的負荷(文化的な負い目)をその後の神戸にもたらすことにもなったのだ。その意味で今回の二つの展覧会は、没後20年目にして神戸がようやく鴨居玲に向き合った、とそういう印象を強くもたらす企画となった。
 鴨居の死後、神戸がこの死者に意外に冷たかったというのは、しかし、まったく理由のないことではない。なにより鴨居自身がこの都市が秘めている独特の冷たさに依って生き、それを土壌に制作のインスピレーションを導き出して、そして最後はむしろその冷たさを砦として死んでいったという事情がある。冷ややかさを愛したとまでは言えないが、少なくとも彼が自己の生を生き抜く上でこの冷ややかさを必要としたのである。
 鴨居の出世作となった安井賞受賞作品の「静止した刻」(1968年)。肉厚の大きな手をした四人の屈強な男たちが見守るなかで、いましも賭けのサイコロが中空を落下していくところである。期待、熱情、不安、恐怖。四人の体にはおびただしい想念が圧縮され、さながら世界の全重量がここにかかっているようだ。男たちの緊張感のすさまじさは、すでに多くの評者が語っている高い評価をただ繰り返すほかないが、その緊張感に濃厚な悲劇性を与えているのは、実は男たちの後ろに横たわる茫漠とした無の空間なのである。本来なら家具か壁あるいはドアか窓で仕切られているはずの背景が、この絵では異様に荒々しい白の絵の具で塗りつぶされ、そこには頼むもののない虚無が広がっているばかりである。四人の男たちはいま輪になって熱っぽく自分たちの運命を囲んでいる。だが、男たちのその背中は…。背中は果てしない地平線へ無防備に開かれて、おそろしく寒いのだ。つまり、そういうことである。神戸は背中が冷える街なのだ。浮き島のように近代に忽然と現れたこの都市は、いぜんとして後ろに虚無が忍び寄ってくる街なのだ。古都京都みたいに深い歴史で人びとを背後から抱きかかえるようなそんなぬくもりのある町ではない。
 運命に見入る男たちの熱した目とそれとは逆になにも支えてくれるもののない寒々とした背中。すなわち狂おしいばかりの熱情と底なしの虚無のはざまにあるということ。つまり宙吊りに吊られているということ。都市神戸の状況とパラレルなこの鴨居玲の両義性は、そして彼の全作品を貫く基調音になるのである。
 70年代に多く描かれる「教会」シリーズのあの怪建築の深い暗喩。あれら角張った構造体は頂上に針のような繊細な十字架を載せているので教会とわかるのだが、扉にせよ窓にせよ開口部らしいものはどこにもなく、むしろぶっきらぼうな石の塊なのである。だれひとり寄せつけない沈黙の量塊がそこにある。まさしくこれは両義的な暗示、それも二重の意味で両義的な暗示である。まず聖性についての両義性。この教会が放つ聖性、それは外から求められれば求められるほどいっそう黙り込むほかない、そのような逆説の聖性にほかならない。誠実に応えようとすればするほど、言葉はますます的からずれていってしまうのだ。語ろうとした途端に、聖性と言葉の間で脱臼が起きてしまうというわけだ。次に救済についての両義性。この封じられた教会は明らかにもはや救済は断念せよと語っている。すると今になって救済を熱望する情熱がわれわれの心に立ち上がってくるのである。閉じられてしまってから、裸形の心が扉を懸命に叩くのだ。遅い。救済への情熱がいま切実に生まれたが、ここでもまたすかさず脱臼が起きるのだ。
 だが脱臼こそ真実の閃きが見える瞬間ではなかろうか。いつもならなんでもなく通り過ぎていく運動がそこでとつぜん崩落する。ダンサーは脚の機能が欠損した瞬間に、ダンサーとは何であったかを一気に、全体的に、すなわち精神の最も高い地点から理解する。跳躍力を失って、むしろ真に跳躍する。
 そしてまさしく都市。都市とはなんと精神の跳躍であることか。神戸は、まったく、脱臼を繰り返してきた都市なのだ。幕末の開港は徳川封建体制の最後の大きな脱臼だった。居留地文化が育んだ遠心的精神は中央集権を目指す明治絶対王政の脱臼だった。戦争下のいささかキッチュなリベラル都市は軍国日本の脱臼だった。核兵器を一貫して拒否している今日の神戸港は日米戦略同盟ひいてはアメリカの世界戦略の脱臼にほかならない。すなわちこの都市は、この国家の根底をクールに、ドライに暴くのだ。この街はいつも裂け目なのである。
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 さて生前の鴨居が最も恐れたのは、群集の微温的なぬくもりの中に埋没して自分が均質になってしまうことだった。穏やかな日常の中に頽落してもし彼自身が幸福で円満な画家におさまるようなそんな平和な生活が来たとしたら、彼は自分のすべての作品を空洞にしてしまうことになる。過重な運命を背負わされて登場したあれら画中の者どもの足を払うことになる。寂しさをもはや月に叫ぶほかなかったあの赤ら顔の酔いどれ男。私のことを聞いてくれと心でわめいていたあの腰の曲がった小さな老女。体に貼った宝くじを売りながらその日その日を独り言のなかで生きつないでいたあの盲目の戦傷兵。ついに首をくくって中空に下がっていたまるで画家自身のようなあの大きな男…。自らの絵を裏切って敵に回さないために画家は背中に張りついた冷ややかさを、やむことのない脱臼を、底なしの不安な裂け目を、それらを最後まで生き通さねばならなかった。ワイルドの例のミステリアスな肖像画は、ドリアン・グレイに永遠の若さを与えるために絵みずからが老いたのだが、鴨居は絵の生命を永遠とするためにみずからの命を生け贄としたのである。そして神戸は、画家のその合わせ鏡のような暗闘になんの救いも差し伸べなかったという点で、もっと端的に言うならば彼を見殺しにしたという点で、彼が気を許せる唯一の都市となったのだ。鴨居はこの背中の寒い脱臼都市に碇泊してこそ最も熾烈に自己の闘いを闘いぬくことができたのだ。
 鴨居の創造力が最盛期にあった1960年代から70年代にかけて、神戸は日本の諸都市のなかで最も実存的な都市だった。実存的な都市だったというのは、そこに住む人間の精神にほとんど無制限の自由を保証する街だったということだ。もはやいっさいの超越的なもの(例えば、神。例えば、理念。例えば、神話。例えば、タヴー)を推戴することをやめた都市。鴨居が“沈黙の教会”と取り組むのと相前後して、神戸市はちょうど新しい形の都市祭礼として「神戸まつり」を発足させる(1971年)が、これは象徴的にも祭神を置かない未曾有の「神のない祭り」であった。宗教的基盤のない祭りが果たして根を伸ばすことができるのか。この街はいまもその不安定な実験の途上にある。だが、無限に自由な精神を生きるとは、じつは無限の孤独を生きることにほかならない。人間は自由であるべく呪われていると語ったのは、実存主義のスピーカーでもあった哲学者サルトルだが、しかり、鴨居はまさしく呪われた自由を全力で生き、その自由を完遂するかのように孤独のなかで死んだのだ。自殺だったのか事故死だったのか病死だったのか自然死だったのか、この世のだれも判定することのできない突然で、異様な死。たぶん死でさえなかった死。むしろ完璧な自由への消滅。実存の時代の神戸を最も実存的に生き抜いた画家だったわけである。彼には、だから、ことさらな同情より、ほとんど無視し合っているようなクールな共感が似合っていたともいえるのだ。
 お互いに見て見ぬふりを押し通した? ひとりの画家とひとつの都市。
 とするならば、鴨居は鴨居のスタイルで神戸を愛し、神戸は神戸のスタイルで鴨居を愛してきたというべきか。似たもの同士の奇妙な愛! そして死後20年目のようやくの抱擁。
 鴨居玲は1985年9月7日の朝、神戸・布引の滝への登山道路沿いの自宅のガレージで、愛車の運転席に座ったままの姿で死んでいるのが発見された。エンジンをかけたままの状態で、直接の死因は排ガスによる中毒死と推定された(鴨居は心臓も悪くしていた)が、それが事故死なのか自殺なのかは、ついに決定的な材料は見つからなかった。「限りなく自殺に近い事故死」というのが、そのときの大方の受け止め方だった。享年57歳。兵庫県立美術館の鴨居玲展は同館のコレクションによる自主プログラム。神戸市立小磯記念美術館の鴨居玲展は同美術館と神戸新聞社の主催。

CATnote

Two exhibitions of Rey Camoy’s were held at Hyogo Prefectural Museum and Koiso Memorial Museum in Kobe from last autumn to this spring. Kamoi died in this city just twenty years ago. He was unique existential artist in Japan.

2006.5.14
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Cahier

    ラ・プリマヴェラ      Spring has come.
 貞松・浜田バレエ団が隔年で上演を続けている春の祭典「ラ・プリマヴェラ〔春〕」が神戸文化ホールに満員の観客を迎えて開かれた(2006年3月25日)。「ジゼル」や「エスメラルダ」など古典的名曲のグラン・パ・ド・ドゥをア・ラ・カルトふうに並べた名作コンサートと、それから貞松正一郎の振り付けによる大型の創作舞踊「アイ・ガット・リズム」(ガーシュウィン曲)の二本立て。そこにいわば特別プログラムとして20世紀のイギリス人舞踊家アントニー・チューダーの「コンティヌオ」(パッヘルベル曲)が、チューダーの弟子のドナルド・マーラーを直接指導に招聘して加えられた。
 まさしく脂がのってきた舞踊団ならではのいやがうえにも心が浮き立ってくるステージだった。団員ひとりひとりの個性がまぶしいほどに際立って見えるのに、その一方で完璧な統一と均衡の美が繰り広げられていくのである。ニキヤを踊った山口益加の豊麗さ、ペリを踊った安原梨乃の精緻さと繊細さ、エスメラルダを踊った佐々木優希の深い陰影、フリギアの吉田朱里の圧倒的な妖艶さ、そしてジゼルの瀬島五月の精神性と深い風格…、それぞれのステージではそれら個々のダンサーの特性がその人独自の魂の輝きとなって燃え立つのだが、一転、作品が群舞主体の創作に変わると、むしろ絶対的な個性を備えたその彼女たちが完全なユニゾンの中に美しく溶け込んでいくのである。個性と統一とが油と水のように対立するという、安易に信じられてきたこれまでの一般図式を、このバレエ団は実に見事に乗り越えた。ここでは、各人が個性を窮めれば窮めるほど、いっそう統一も深まるのだ。舞踊の真の主体性がはぐくまれてきたといえるだろう。
 貞松正一郎振り付けの創作「アイ・ガット・リズム」はジョージ・ガーシュウィンの曲をメドレーふうに組み合わせて12場で構成。都会の中での人と人の出会いを軸に、思いの揺れ、情感の濃淡、断念と希望、それら心のアヤをきめ細かに織り出した。神戸生まれの神戸育ちで、ロンドンでバレエのスピリットを吸収し、東京(松山バレエ団)でプロへの本格的スタートを切った、この根っからの都会っ子アーティストの本領発揮というべきだろう、重過ぎるということもなく軽過ぎるということもなく、街角の哀歓をスマートな切り口で歌い上げ、会場に豊かな共感を広げていた。一方、アントニー・チューダーの「コンティヌオ」は、バロックの珠玉パッヘルベルのカノンを用いて、スタイルの美しさを究極にまで追求した作品。上村未香、竹中優花、吉田朱里がこれはもうとにかくエレガントに、優美に、深い抒情を表現した。
 さて貞松・浜田バレエ団の目を見張るばかりの近年の進化を支えている要素の一つに男性ダンサーの充実がある。川村康二、芦内雄二郎、A・エルフィンストン、武藤天華らが日々研鑽を積み重ね、要所を支えている点は、十分賞賛に値する。ただ一つ欲を言うなら、貞松正一郎が舞台で示すゆるぎない品格を彼らにも早く会得してほしいということだ。これは技術を超えて、内面(心、精神)の充実にかかわることかもしれないが、正一郎の高い品位をバレエ団の伝統とするためにも明日に向かって心がけてほしいことである。
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「ラ・プリ」を踊る貞松正一郎と安原梨乃
 (写真は古都栄二=テス大阪)
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    能勢伸子      Liver of life
   帯のように何メートルもある紙を駆使して思いがけないインスタレーションを発表している現代美術家の能勢伸子さんが、この春も神戸のGALLERY北野坂で開いた個展で人びとの想像力をかきたてる刺激的なビジョンを見せた(2006年3月21日―26日)。
 GALLERY北野坂は当初から美術画廊を目的に建てられたビルではなく、もとは多目的の商業施設として誕生したファッション性の高い建築(設計・安藤忠雄)で、それだけにガラスも大胆に用いられ、とりわけ最上階(4階)の展示室は天井が並外れて高いうえに採光も豊富で、こうした開放的な雰囲気や自然光の明るさを表現に持ち込みたい美術家には狙いどころとなっている。能勢伸子さんの作品もこの特異な空間を最大限に生かしたものだが、今回は紙の帯をちょうど中空にかかった河のようにギャラリーいっぱいにうねらせて、いわば紙による“水の変容”を繰り広げた。紙の流れがまさしく流水となって壁面をなだれ落ち、床を這い、空中へ駆け上がり、頭上を天の川のように渡るのだ。古寺の簡潔な石庭に山水の無限の精神性を幻視してきたわたしたちの魂の形に則っていうならば、能勢さんのこの空間は現代美術が生んだ「紙山水」と呼べるだろう。
 さて禅寺の石庭(枯山水)が宗教的な瞑想へ誘う装置なら、能勢さんの「紙山水」は連続と変容、なかんずくいのちの連続と変容を暗示するビジョンである。「ヘソカラヘソヘ」というこの個展の風変わりなタイトルは、母から胎児へ、そしてまたその胎児が母となって新たな胎児へと引き継いでいく生の流れを指し示しているのである。ときとして母性の衰退あるいは崩壊が見られる現代社会での、母性を力づける歌かもしれない。
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    創作実験劇場      An aerial dance
 藤田佳代舞踊研究所の「創作実験劇場」が西宮市に建設されたばかりの兵庫県立芸術文化センターの小ホールで開かれた(2006年3月5日)。研究所のメンバーがそれぞれに振り付けた現代舞踊(モダンダンス)の新作を次々に披露していくという企画で、今回が11回目。兵庫芸文センターの小ホールは小編成の音楽演奏を想定して設計された擂鉢型の構造で、決してダンス向きとはいえないのだが、いわばその不利な条件を逆手にとって舞踊表現の幅を広げてみようという実験的な試みになった。
 象徴的だったのは、研究所の主宰・藤田佳代がバッハの曲で作舞した「追いかける」。チェリストの黒田育世がソロを弾き、これは黒田の力量にホールの音響効果も重なってさすがにいい響きの演奏になったが、そのすばらしい音楽で20人のダンサーがさまざまなフォーメーションをつづっていくという展開。藤田はここで擂鉢の最上階を囲む円形通路や何本かの階段などステージの外部も存分に使って立体的にダンスを構成、まさしくホール全体の“舞踊化”を試みた。つまり平面移動が常識のダンス芸術の表現に大胆な高低移動を導入したというわけだ。彼女はこれから始まる長い芸文センターの歴史の中で、小ホールに「空中庭園」ならぬ「空中舞踊」を繰り広げた最初の舞踊家として記憶されることになるだろう。
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    アメリカの素顔      Challenge
 神戸は現代美術家の活動がとりわけ盛んな都市だが、20世紀を通じてその現代美術のシンボルゾーンの役割を果たしてきたニューヨークのホイットニー美術館から代表的な絵画と彫刻のコレクション46点を借りて、“アメリカの素顔”展がHAT神戸の兵庫県立美術館で開かれる。期間は4月4日から5月14日まで。
 ホイットニー美術館は鉄道王コーネリアス・ホイットニーの孫娘で彫刻家のガートルード・ヴァンダービルト・ホイットニーのコレクションをもとに1931年に設立されたが、建設に至った裏には、ガートルードがみずから収集したアメリカ作家たちの作品をメトロポリタン美術館に提供しようとしたところ、敷居の高いメトロポリタンはそれを歯牙にもかけない冷ややかさで拒否、そこで一大奮起して彼女自身が美術館の建設に立ち上がったという痛快なエピソードが隠れている。第二次大戦後のアメリカ美術の爆発的な輝きに圧倒されてきたわたしたちにはもう想像もできないが、20世紀初期のアメリカの感覚ではまだ芸術の“本場”はヨーロッパだという思いが強く、自国の作品をさげすむ傾向にあったのだ。そんな鈍感で閉塞的な美術状況に果敢に挑戦したホイットニーの意気やよし、とこの機にあらためてたたえたい思いもする。
 アメリカ産業文明の拡大と伝播とともに各国で深まる都市の孤独をクリアな写実主義でいちはやくキャンバスにとらえたエドワード・ホッパー。資本主義の未曾有の発展を背景にコカ・コーラなど消費のシンボルを大胆に作品のモチーフに採り込んで同時に作品そのものも消費の流れに流し込んでいったポップ・アートのアンディ・ウォーホル。そしてだれよりもやはり、美術の中心が大戦後はパリからニューヨークに移ったと世界に決定的に印象づけることになった抽象表現主義のジャクソン・ポロック。20世紀の100年間は歴史全体が絶え間ない脱皮を重ねたように見えるのだが、まさにめまぐるしいばかりの創造的脱皮の先陣を切り続けたのがアメリカの美術であった。今回の展覧会ではその流れを「移民」「都市」「消費」「記憶」の四つのコードで展望する。神戸の現代美術家と現代美術ファンにとってはいわば第二の精神的故郷との再会ともなるだろう。
 この「アメリカ―ホイットニー美術館コレクションに見るアメリカの素顔」展は兵庫県立美術館と毎日新聞社の主催。同美術館は078.262.0901 http://www.artm.pref.hyogo.jp
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KOBECAT 0025
湯川書房刊行予定
金田弘詩集「旅人は待てよ」

――豊饒の「時」「空」――
■山本 忠勝


だ空襲の焼け跡が残っていた街の広場にある日、花のような移動遊園地がやってきて、そこでミラーハウスという小屋に入れてもらったときの驚きは忘れられない。その鏡の小屋は敗戦の街々の猥雑で卑俗な空気とまったく違って、むしろスピリチュアルな輝きで満ちていたし、いきなり虚無へ転落するかもしれないと思われたまぶしくも不安な迷路は、ふだんの変哲もない焼け野原を途方もなく深くて神秘な空間に変えたのだった。むろん記憶の中ではいつも新鮮なこの少年時代の迷宮もやがて世の流れとともにじっさいは陳腐な仕掛けになってしまって、たまにさびれた遊園地で見つけても、結局はわずかな郷愁と大きな喪失感を味わうことにしかならないのがわかっているから、もう通り過ぎるばかりであった。ところが思いがけなくもここにきてその鏡の家の思い出が再び光彩を放つことになったのだ。金田弘氏の詩世界に遭遇してからのことである。幾つかの作品を読み進んでいくうちにこの幻視的な感覚はなにかに似ているな、と思い始めて、そして、ああ、あのミラーハウスの感覚だ、とふいに気づくことになったのだ。むろん昔の移動遊園地の限られた迷宮ではあまりに規模が小さくて、この詩人の巨大なスケールには届かない。だがあのガラスの空間をこの都市域の全体へ、いやむしろ宇宙全体にまで広げることは、それほど難しい想像ではないのである。宇宙の全方位へ広がっていく、まさしく果てしのない鏡の迷宮! そこで交錯する実在と幻影、豊饒と虚無、展望と絶望、つまりは間断ない空間と時間の戯れ。さらに踏み込んで言うならば、無限の空間と永遠の時間が織り出す底知れない交響曲。なんと壮大な、そしてなんと豊麗な。そんな宇宙的語法で構築されるこの詩人の新しい詩集「旅人は待てよ」が夏の刊行へ向けていま編集が進んでいる。

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 超越的なもの(神)の隠れた意思が刻々と具体的な形になって現れるその媒体のように思われていた「時間」と「空間」。いささか重たく心にのしかかっていたその時間と空間を、どんな隠れた意思ともかかわりのない単に純粋な「形式」にしか過ぎないと言い切ったのはカントであった。この革命的な提唱がわたしたちの頭の中を晴れ上がらせたのは確かである。のちの自然科学の発展も人文科学の蓄積もどこまでも一律に見晴らせる澄明な時間と空間のイメージが基礎にあってのことだったし、わたしたちの日々の暮らしもこの見晴らしの利く時空によって神学や輪廻や呪術から解放され、社会もまた神々の託宣の支配を離れて人と人との明快な契約を中核に曇りのない構造に再編されてきたのである。時間と空間が底意のない空虚な「形式」となることで、世界全体が、そして宇宙全体が、鏡張りの巨大な明るい一室に変えられたともいえるだろう。
 だが不変の真理と信じられてきた考え方にもやはり誕生から隆盛へ、隆盛から衰退へと向かう生のカーブがあるのではなかろうか。カントの革命からすでに二百二十年(「純粋理性批判」刊行は1781年)の今、おずおずとながらのことではあるが、時間と空間に対するこの形式的な考えがすでに老朽化しているのではないかという思いが強い。むしろ空間は空虚どころか存在に隅々まで満たされた充溢ではないのか。時間は空洞ではなくてむしろ存在の血の流れ、あるいは呼吸ではないのか。わたしたち人間は時空を浮遊するつかのまの影などでは決してなく、むしろ新たに空間を生み出す創造者で、自ら時間を織り出す生産者ではないのか。するとこの世界はもはや鏡張りの空虚な一つの大広間ではなく、続々と生まれる光の部屋が無数に集積し交錯するいっそう大きな、いっそう複雑な無限迷宮となるだろう。まさしく金田弘氏の詩世界がすでにそうであるように。そうなのだ。入念に選択された詩人の言葉には、わたしたちを新しい時空のビジョンへと解き放つ予言的な響きがある。
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 新詩集「旅人は待てよ」は時間と空間がまたいちだんと緊密に重層し合い浸透し合う巨大迷宮となってわたしたちの前に現れることになるはずだ。そこに登場するひとりの老女(頭上で蝶が)は、これから踏み込んでいく死のことを考えながら、しかし今のこの瞬間、一匹の蝶が頭の上で光のようにきらめいているのに生き生きと「魅せられ」ているのである。そればかりではない。彼女は「逝く夏を惜し」んで晩夏の空気に心を深々と浸しながら、同時に「すでに過ぎ去っていった」秋がまたあらためて前方から近づいてくるのを感懐を込めて眺めるのだ。じっさい、人間の精神はこのように幾つもの時間と空間を鋭い感受性でそれも同時に通過しながら、間断なく宇宙の全重量を生きるのではなかろうか。しかもその全重量をただ受動的に感受していくだけではない。宇宙空間の中心から辺縁までを、そして誕生から終末までを一瞬のうちに見晴らしながら生きるのだ。「地球よりはるかに遠い」おそらくは宇宙の中心あたりで何者かが「存在について飽くまで考え続けている」その姿を遠望しながら、一方ではなんと「いろだけに生きている」お梅さんが「蕗のとうを採りに出かけ」ていくのを見送っているのである(蕗のとう)。それも地球がまもなく「消滅する時間」を迎えることを承知の上でのことなのだが、滅亡を待ち伏せしながらすでにその先までも現在に生きているわたしたちのこの生のなんという無限。そして、そこから先は密度の大きな詩のことばとその諧調に実際にあたってもらうほかないのだが、とにもかくにもこの哲学的な迷宮の艶冶なこと。思想に満ちた語の間からふいに濃厚な花の香が漂いだす(一声)。ふいに鮮やかな女の色が流れ出す(最後に松と語る)。ふいに諦観した男の艶が溢れ出る(月下美人)。
 そしてなによりも、無の豊かさ。山の上に山があり、岩の下に岩があり、ふもとでは池が満々と水をたたえて、あたりにシュンランが咲き乱れる詩「曲った池」の風景は、ことのほかがっしりとした構造でわたしたちに迫ってくる。だがその山や岩よりもっと強力に存在するものがあたかも時空に沈んだ巨大な暗礁のようにこの作品には隠れている。それは第一に本当は無いかもしれないその山の「寺」によって暗示され、第二に山門あたりに現れる「居ない坊主」によって指示される。ここにある寺は「何という寺だ」と問うても坊主はただ「山頂までには雲もなくなるでしょう」とはぐらかす気配だが、すると何としたことか、その圧倒的な沈黙のまっただなかに却って言葉では届かないほとんど無限大といってもいい途方もない回答が沸きあがってくるのである。その回答は、無こそを存在の母体とする現代物理学(なかんずく量子力学)の無窮のビジョンとも重なりながら、宇宙を無限の充溢とみた華厳教学の底知れない風光を現代に甦らせさえするものだ。ここでは「ない」とは無限の豊饒のことである。無化とは無限化の謂いなのだ。
 実は精緻なカント的知性への詩人の敬意は「純粋理性批判」への言及もあって(ひいらぎ)、ありあまるほど読み取れる。だがおそらく尊崇の意識の下で、詩人としての本能が根源的な生へ向かって哲学の論理を超えるのだ。生の衝動がいやおうなく思想を追い抜いていくのである。なぜなら「心は光りより速く動いている」(みやこわすれ記)のだから。
 金田弘詩集「旅人は待てよ」が2006年6月に湯川書房から刊行される。収録作品は「救世観音」「阿修羅」「蕗のとう」「頭上で蝶が」「曲った池」など30編になる予定。湯川書房は〒604-8005京都市中京区河原町三条上ル恵比須町534ノ40(電話075.213.3410)。定価3000円。なお金田弘氏は〒671-1621龍野市揖保川町正條3ノ5(FAX 0791.72.4346)

CATnote

Poet Hiroshi Kanada, residing at Tatsuno City in western Japan, will publish the poetry works “Stay here a moment, you, a traveler” on June this year. His impressive words intimate strongly the infinite depth of time and space.

2006.2.25
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Cahier

    岡和美      A crystal forest
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 ショーウィンドーを絵のテーマに選ぶというのは、おそらくお洒落を空気のように吸ってきた神戸の画家ならではの発想だろう。あざやかに時の流行が生い茂る街角のこの“ガラスの森”に魅せられて岡和美さんはもう30年になるという。都市神戸の成長とともにまさしくモードの先端を担ってきた坂の道トアロードのTOR GALLERYで個展を開いた(2006年2月4日―9日)。
 「ショーウィンドーって、それぞれのお店が全知全能を傾けてこしらえた作品だって、そうわたくし思うんです。かつての神戸は街全体がそういう刺激的なショーウィンドーで満ちていた。で、わたくしもぜひ『わたくしのショーウィンドー』を描きたいと…」
 目を見張るようなデザインの、といっても決してうわついたものではなく、どこかにシックなセンスを漂わせる装いのマヌカンたち。用の美の極致アールデコの輝きをしのばせるシャープな直線や曲線の器やテーブル。ときに真っ赤なバラ一輪。そしてそこに映り込む通りの光、影、人の波。岡さんの“ガラスの森”は、見果てぬ夢の、しかし奇妙にありありとそこにある不思議な世界だ。しかも今年はいっそう大胆な構成で強いリズムが絵に出てきた。
 「リズム…? ええ、じつは帽子をいろんな表情で描きたくて。だって、ギャラリーの前をご覧なさい。ほら、あそこ。帽子の老舗のマキシンさん。わたくしのあこがれなんですから。かきたてられて」
 マキシン(maxim)はトアロードの空気をつくってきた重要な店の一つである。街と照らし合う創造力。
 だが正直言うと30年がたつうちに神戸のショーウィンドーもほとんどが心斎橋や銀座と同じになってしまった。それが寂しい画家である。

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KOBECAT 0024
2005.10.29 神戸新聞松方ホール
P・オヴセピアン作曲 名倉誠人&W・スミス演奏「そして、柱の影…」

――豊饒の沈黙――
■山本 忠勝


の末端と中枢を結ぶ神経は長い一本の糸のように見えるけれど、もちろん見かけほど単純なものではない。じつは微小な神経細胞がずらっと連なって出来ている。しかも神経細胞と神経細胞の間にはごくわずかだがシナプスと呼ばれる隙間があって、だからその連なりも正しくいうと連続しているわけではない。末端からの信号はおびただしい数の隙間を跳び越え、跳び越え、中枢へ伝播する。とりわけ想像力を刺激するのは、この隙間がたとえ一万分の二ミリメートル程度の微細な切れ目であったとしても、生命に欠かせない重要な信号が刹那、無の空間を飛越していくことである。この無の空間も突き詰めれば宇宙にまで開かれているほとんど無限大の空間の一部である。その瞬間、生命は底なしの宇宙へと投げ出され、宇宙とじかに触れ合って、むしろ宇宙と一体になるのである。宇宙の深淵と共振する。名倉誠人のマリンバとウィルヘルミーナ・スミスのチェロが演奏するペトロス・オヴセピアンの特異な新曲「そして、柱の影…(第四部)マリンバとチェロのための」を聴きながら、そこに裂け目のように現れる音の隙間(沈黙)の鋭さと深さに驚き、そうして驚きとともに連想したのは、神経線維のその神秘なシナプスのことだった。曲のまっただなかに登場する沈黙の衝撃力。まさしく「そして、柱の影…」は沈黙のために作られた音楽だ。鍵盤と弦の響きがここではなによりも威厳に満ちた無の瞬間を切り立たせるために高揚する。わたしたちは奏者とともにその鋭利な裂け目を高だかと飛び越えながら、宇宙の深淵にめまいする。
 明晰なパッセージは、むしろ数学的といえるだろう。この作曲家のスコアは堆積層の厚い大地のようにおそらく何層もの感情を下に隠して書かれているが、その表層(最上部)に設計されるアンサンブルの仕上げの地図は、幾何学的な明快さと端正さなのである。ユークリッドの図形ではどの頂点も厳格な座標に正確に書き写せる確かな位置を持つのだが、その曇りのない図形に似て、オヴセピアンの繰り出す音響には曖昧な影がひとつもない。連立方程式の美しい解のように、音楽の進行が作曲家の理性によって完璧にコントロールされている。ひとまずはこんなふうに受け止められるが、これは作曲家の意図とはぜんぜん別なことかもしれない、と聴衆を懐疑に追い詰めるような、そんな冗長な感傷的波動は針の先ほどもないのである。耳をたちどころに然るべき場所に導き出す。音が澄明に切り立ってくるということだ。自立しているといってもいい。それを名倉のマリンバとスミスのチェロがこれもまた理性的構成にふさわしく激情を抑制した明快さと端正さで奏していく。

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 だがオヴセピアンの卓抜さ、そしてこの作曲家の比類ない才能と申し分なく響き合う二人の奏者の卓抜さ、それは決して理性同士の硬く冷徹な共振だけに限られるものではない。この三人の音楽家のほんとうの大きさと豊かさは、音の位置はあくまで理知的に配列しながら、しかしその数学的なパッセージでむしろ非数学的な感情の神秘の扉を次つぎ開いていくことだ。一音一音を狙った場所へすばやく的確に打ち込みながら、地下深くを流れている感情の水脈を地上へ滔々と湧き出させるといった方が近いだろうか。表面に見えないものを表面に浮き上がらせようとする強力な意志。表面に響かないものを表面で響かせようとする果敢な情熱。この不可能な欲望を可能へと転化するために作曲家と演奏者はついに驚くべき奇跡をさえ生み出すことになったのだ。マリンバのおびただしい鍵盤が、これは聴覚の錯誤ではないのだろうか、まるで弦楽器の震えのような繊細で伸びやかな旋律を紡ぎだす。チェロのむしろ寡黙な弦が、まるでパーカッションの心拍のような強靭で鋭い律動を弾きだす。二人の奏者が楽器もろとも相手の音の中に反転して、反転の極で均衡する。これはまさに、いささかの飛躍をここで許してもらえるなら、あの一日のうちの最も特権的な時間帯、たそがれの時刻に現れる光と闇、音響と沈黙、そして飽和と喪失の比類ない均衡だ。光が昼から夜へと反転しながら、しかし地上のあらゆる色彩とあらゆるざわめきが濃密に溶け合う刻限。昼の最後の残照に夜のあまたの感情が堰を切って染み出してくる逢魔が時。
 オヴセピアンがこの作曲の背景についてみずから語っているノートによると、落日の森に迷い込んでしまったときに体験した凄絶な斜陽への感動そして近づいてくる闇への恐怖が、この曲の動機になっているという。それが「テオドール・ルソーの一枚の絵『冬の夕暮れの森』のような音楽を書いてほしい」と依頼した名倉への、このうえなく誠実な答えであった。バルビゾン派の七人の画家の中でも森の木々そして森の上に広がる空をとりわけ重厚なタッチで描いたT・ルソー(1812〜1867)。思えば“落選王”と揶揄されたこの一途な画家の絵にみなぎる重厚さは、コローやミレーやトロワイヨンら他の画家のだれよりも森の太い骨格をほとんどワシづかみに把捉した、その激越な構想力によってではなかったか。ここで激越な構想力とは、森を森たらしめている森のデモーニッシュな構造と画家を画家たらしめている画家の苛烈な神経の構造とが、お互いを照らし合い、お互いを引き付けあい、お互いに同化し合う、そういう相互の生の接触のことである。テオドール・ルソーは森を描いたのでは、たぶん、ない。彼は森になったのだ。自然の繊細な歌に聴き入るように森に対したコロー、むしろ自然の中に人間の気高さを見つめたミレー、これら二人の巨匠の慈愛に満ちた風景に比べると、ルソーの森は少し怖い。できれば見なくて過ごしたいものが微妙にもぐりこんでいる。生の高音に和しながらしかし自己の響きも傲然と維持している死の低音…。まさしく構造とは、生と死、光と闇の双方を同じ深さで認識する力学にほかならない。だからオヴセピアン氏もこの曲でただ落日の森を記憶にたどっただけではない。感動の源でもあり恐怖の源でもある森そのものになったのだ。シッ! そら、息を殺して聴いてごらん。心臓の響きが聴こえてくる。ぼくの体から響くように聴こえるかい。むろん、そうだ。でも、もっと耳をそばだてて聴いてみて。ねっ、そうだろう。これは森の命の拍動だ。
 まことに沈黙ほど深い音はないのである。森を横切った沈黙は、その刹那、宇宙へと一気に開かれた裂け目となる。だがもちろん、沈黙を語る以上は少しなりとジョン・ケージに触れておかねばならないだろう。現代音楽だけではない、現代芸術のほとんど全領域で今も殷々と鳴り響いているケージの沈黙。彼が書いた三楽章構成のピアノ曲「4分33秒」の歴史的演奏(1952年8月29日)は、ピアノの蓋をコトリと閉めることを合図にひっそりと始められ、いうまでもなくその間ピアニストはただの一回も鍵盤には手を触れず、音といえばただ会場のわずかなざわめきが続いただけで、そうしてきっかり4分33秒後に蓋をもとの形に開けることで終了した。西洋の音楽史上、沈黙がそれ自体で初めて曲となった日であった。だが20世紀中葉のウッドストック(ニューヨーク州)でのその劇的な沈黙とそれから半世紀後の神戸でのオヴセピアンのこの入念に省察を究めたうえでの沈黙とでは、同じ音楽上の沈黙でもその底に計り知れない海溝が潜んでいる。劇的に深まっているというべきか。もはや質的な相違にまで至っている。端的に言って、J・ケージとあのときのピアニストのチュートアは、無限に広がる沈黙からいささか手荒く、直接的に4分33秒の沈黙を切り取った、あたかも氷海から塊を切り出して氷の彫像を彫るように。いっぽうオヴセピアンと名倉そしてスミスのコンビネーションは、音の森を丁寧に組み立ててそこに鋭い裂け目を入れ、そこからわたしたちをめまいのする無限の沈黙へ誘導した。
 ピアノの蓋の開閉を合図にして始まりと終わりを画然と仕切った沈黙、そして、精巧緻密な演奏の中間をだしぬけに切開してその裂け目に奈落さながらに穿った沈黙。この二つの沈黙にはまさしく形式以上に深い質的な違いがある。ケージはマーベリック・ホールのステージに時間決めの(いかにも4分33秒だ)有限な沈黙を造形した。わたしたちはそこにロダンの「考える人」を見るような沈黙の彫刻を凝視する。オヴセピアンは松方ホールの時間をいきなりそこで無限の沈黙へと切り裂いた。わたしたちは気づくと星座の中を渡っていた。
 わたしたちがケージの神話的実験にどうしてもこなれない器械的な(恣意的な)仕掛けをいまだ感じ続けていて、しかしオヴセピアンのこの神戸初演の作品にはたちまちにしてこのうえなく親しい精神と完成度を感じたのは、あるいはこの21世紀の作曲家にわたしたちの能楽の世界に通じる深い時空感覚を嗅ぎ取ったからかもしれない。舞台の中央にしばしば沈黙が屹立する能芸術。それはいつもいずこからとも知れないものがそこに現れ、そして再びいずこへともなく去っていく。始まりも終わりもほとんど過去の彼方、未来の彼方に隠れていて、最も重要なことは時間の流れのまっただなかで、つまり中間で起こるのだ。中間に不意に現れ、不意に消える。しかもその精巧精緻な様式の中央に立ち上がるのが、無限の沈黙なのである。
 なんと遠いところに、なんと近いものがあることだろう。「そして、柱の影…」。
「そして、柱の影…(第四部)マリンバとチェロのための」の作曲は、名倉誠人と彼の後援会(ISGM)によってペトロス・オヴセピアンに委嘱され、その初演は2005年10月29日に神戸ハーバーランドの神戸新聞松方ホールで開かれた「名倉誠人マリンバ・リサイタル2005 森と木の音楽」で名倉のマリンバとウィルヘルミーナ・スミスのチェロによって行われた。P・オヴセピアンはバクー(アゼルバイジャン)生まれのアメリカ人作曲家。現在はベルリン在住。名倉はニューヨークと神戸を拠点に演奏活動を続けている。同リサイタルではほかに「青柳ものがたり」(構成・名倉、曲・内藤明美)「After the Forest Fire―マリンバ・フルート・チェロのための」(マイケル・トーキー作曲)「森の肖像」(一柳慧作曲)「Kembang Suling―マリンバとフルートのための」(ギャレス・ファー作曲)「Winik/Te」(カルロス・サンチェス―グティエレス作曲)が演奏された。フルートはマリア・マーティン。主催は神戸新聞社、神戸新聞文化財団、名倉誠人。
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P.Ovsepyan

CATnote

Makoto Nakura held his annual marimba recital “The music of a forest and trees” at Kobe Shinbun Matsukata Hall in Kobe city on October 29 in 2005. Through his concert, the most impressive work was “Now the shadow of the pillar…part4 for marimba and cello” which was composed by Petros Ovsepyan. The great silence that appears in Ovsepyan’s music is so deep and so spiritual that we can not help recollecting a Noh play of our country.

2006.2.7
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    北村美和子    Glorious contradiction
 自分の体の奥に芽生えた「矛盾」をこの世界でどこまで押し貫くか、それが人生の勝負のように見える創造者がときにいる。困難な道ではあるが、そのプロセスで生まれる作品には確かにそこへ注がれた大きなエネルギーが読み取れる。それが抽象絵画だとエネルギーは構成の深さ、そして色彩の密度となって現れる。北村美和子さんはそのような画家である。神戸・三宮のギャラリーほりかわで個展「Plants」を開いた(2005年12月1日〜12日)。
photo-kitamura1.jpg <horizon ―Eplogue> photo-kitamura2.jpg <plants ―mirrored>
 北村美和子さんが胚胎した矛盾。それは第一に、形態をより強くとらえるために形態をいっそう強く壊していく、その果てしない抗争のことである。そして第二に、色彩をより深くとらえるために色彩をいっそう深く壊していく、これまた果てしない抗争のことである。「Plants」には、名詞で受け止めれば何種類かの植物の豊かな群生、動詞で受け止めれば草木のダイナミックな生育のイメージが重なるが、画家が自分の絵筆でキャンバスの上に屹立させたいと願うのは、樹木や草花をおのおのの成就へ向かって突き動かす内部の力、最も広い意味での生命力のビジョンである。形態に宿りながら、しかし間断なく形態を超えるもの。色彩に宿りながら、しかし間断なく色彩を超えるもの。そのダイナミズムに目を据えれば、この世界に現れた明確な形態と明確な色彩はすでに一つの仮死なのだ。生は凝固した形と色にはとどまらない。生は非在として持続する。つまり自由なものとして持続する。(ここであえて最も広い意味での生命力といったのは、内部で生まれた力はすでに外部と呼応していて、生命とはそれじたい宇宙的な出来事だからである)  固定するよりも、指し示すこと。形あるものをそのように形あらしめている、じつはそれ自体は形を超える自由なあるもの、そのものの在り処を全力で指し示すこと。厳しい創造の闘いだが、意味の深い闘いだ。

KOBECAT 0023
2005.10.15 湊川神社神能殿
大和松蒔の舞い 「隅田川」&「名護屋帯」

     
――形式美に透ける生の躍動――
■山本 忠勝


語の中に登場してくるその人物になりきることが名演だとよくいわれる。演劇だとハムレットになりきること、あるいは紀伊国屋の小春になりきること。舞踊ならオデットになりきること、あるいは道成寺の白拍子になりきること。それはそれとしてなるほど十分うなずけることである。北斗七星が煌々と輝いているその下でハムレットそのひとが父王の青白い亡霊に語りかけ、怨念のかたまりになった白拍子そのひとが鐘に向かって花の中を舞い進むのを眼前に眺めることができるなら、それはすさまじいことである。だがそれにもかかわらず、たぶん舞台の究極の頂上はそこではない。悩める王子を演じる俳優がその王子さえ乗り超えて、また白拍子を舞う舞踊家がその白拍子さえ乗り超えて、自身が演劇そのものに、そして舞踊そのものに転身を遂げてしまうような一瞬がときにある。演劇そのものに転身を遂げるとは、そこで演劇を演じているそのこと自体の美しさが純粋に、圧倒的に現れることである。舞踊そのものに転身を遂げるとは、舞踊を舞っているそのこと自体の美しさが掛け値なしにそこで輝きだすことだ。何を演じているかと問い直すまでもなく、舞台の上に立った形(姿)が目に見える形のままですでに大きな感動のもとになる、そういう刹那のことである。舞っている形(姿)がまさにそこにある形のまま心を激しく打つもととなる、そういう一瞬のことなのだ。神戸・湊川神社の能舞台(神能殿)で大和松蒔が披露した二つの舞い、すなわち「隅田川」(一中節)と「名護屋帯」(地唄)はそのような稀有な舞踊になったのだった。わが子を捜して乱心の旅を続ける母親の、その狂乱の体を抜け、思う男を烈しく恋慕する遊女の、その惑い乱れる心を抜け、それどころか舞踊家・大和松蒔じしんの心身をも抜けて、ある不可思議な幻影のようなもの、もはや人とも見えないものが、重力からも自由になって軽やかに、清冽に舞ったのだ。むしろ舞いの精が舞踊家の姿をとってそこに現れたというべきか。

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 「隅田川」は、人買いに連れ去られたわが子を追って、半狂乱になりながら京都からついに関東の隅田川のほとりにまで漂泊の旅を続けてきた哀れな母親の話である。最愛の者を奪われた喪失の悲しみがモチーフになっている。だから舞踊家も、どのように舞えば母親の底知れない悲嘆を表現できるか、稽古に取り組むにあたってはその一点に心を集注させたはずである。母性が宿している深い愛はこの舞踊家が長年にわたって追求してきた主題の一つで、これまでにも「珠取海士」や「十三鐘」などこのジャンルの大曲に積極的に取り組んできたのだが、そこでそのつど彼女が腐心してきたのも第一にそのことだった。舞台の上にどう立てば母となれるか。松蒔という舞踊家が個人としてどのような気質の女性なのか、それは知る由もないのだが、舞台での姿を見るかぎり母親としての温かさや優しさより女としての魔性的魅力や鋭さが表立ちがちな人である。「葵の上」や「鉄輪」など怨念で燃えたぎる苛烈な女を演じるとそこでは余人の届かない凛としたビジョンを見事に展開するのだが、その美質ゆえに母性というこの微妙な領域は彼女にとって却って厄介な課題でもあったのだ。その機微に至ろうと必死の稽古を重ねる姿をじっさいに垣間見て、胸を打たれたこともある。心をいったいこの体のどこに置けば、子を失った母を舞い切ることができるのか…?
 だが舞いを完成へと追い詰めるその苦心のどこかで、このたびはおそらく大きな転回があったのだ。舞踊家がみずからの体に母親の悲しみを叩き込もうとした、その格闘の真剣さは疑えない。それがなければ何も始まらないのである。しかし重要なのはそれだけで終わらなかったということだ。おそらく舞踊家の体は二重の構造を持っていて、表に見える日常の身体のその裏に舞踊の身体というもう一つの肉体が形成されているのである。そして今回の舞台では察するにその舞踊の身体が或る決定的な境界をかつてなくクリアに嗅ぎ分けることになったのだ。その決定的な境界とは、そこの一線で日常の感覚や判断や想像力がことごとく尽きてしまう、そういう破局域のことである。言い換えればそこから舞踊の独自の感覚・判断・想像力が働き始める、そのような極限域のことなのだ。侠雑な日常の空間から純粋な舞踊の空間への転換点。もう少し具体的に言うならば、松蒔というひとりの女性舞踊家はあくまでも子を失った絶望の母親を演じようとあらゆる経験や想像力を動員して稽古を重ねていくのだが、その結果ついに母親の断腸の悲しみにここで届いたと、そう確信できる瞬間が来たとしても、実のところそこはまだ目的の達成地点ではなくて、それどころか真の舞踊はそこから始まる、そのような転位点のことなのだ。逆説的な言い方になるのだが、現実の母親の涙が最後の一滴まで涸れ果てて、とうとうこの世での悲しみが消尽して無に至る、そういうふうに世俗の母性がついに無化へと転じていく特異な瞬間のことである。つまり現実の母性が死んだ地点で舞踊の母性が最初の動作を起こすのだ。世俗に生きる母親が非在へと失われ、そこで初めて舞いの上の純粋な母親が実在となって立ち現れてくるのである。
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 不思議な光景の出現だった。むろん舞われているのは「隅田川」にほかならず、曲はいましも業平中将の歌が引き合いに出されたばかりで、これからいよいよ展開部に向かおうかというところなのである。舞台の想定はこれもいうまでもなく川の渡しで、乱心の母親はここからくだんの船頭へつっと寄って、そうして一年前にこの地で無残な死を遂げたわが子の話を聞かされることになるのである。だがこの痛切なシーンに至って松蒔という舞踊家は、いささかこの場には不似合いな言い回しかもしれないが、すうっと母親のカラから脱けた。悲劇を宿命づけられた重い殻から奇跡のように脱け出した。透き通った青い羽がまるでウソのように現れるセミの神秘な脱皮のように…。こうなったら、理不尽なまでに清冽な一瞬だったと言い切っておいた方がいいだろう。なぜなら、母親が絶望に落ちていくその渦中の姿をこんなに美しく描き出し、そしてそれをこれほどの感動を持って観客が見るというのは、常識的にはまったく残酷なことなのだ。罪深いことだとさえいっていい。わが子が埋められている小さな塚で号泣する母親を舞いながら、あるいはむしろ無慈悲にもそこからエネルギーを吸い取りながら、舞踊家は無上の透明度へと駆け上っていくのである。
 もはや人とは見えない、といってももう過剰な表現でもなければ、比喩でもない。ここで舞っているこのものは、「隅田川」の主題に沿って母親と見ようとすればむろんそのように見えるのだし、そしてじっさいわたしたちはちょうどバロックの通奏低音を聴くようにこのものを絶望に沈んでいく母親の姿だと曲の最後まで了解し続けていくのだが、しかしいまやこのものをおびただしい子供たちを溺愛する何百歳かの山姥の現世の姿ではないかと考えればもうたちどころに凄絶な山姥の舞いにも見え、逆に慈母の愛に恵まれたまだ三歳にもなるかならないかのあどけない幼女の姿かもしれないと考えれば即座に可憐このうえない幼女の舞いにも見えるのだ(この熟達の舞踊家がわたしたちの目の前でみるみるかわいい幼な子に還っていくこの神秘!)。幻想的な秘儀に立ち会っているような微妙なめまいさえ上ってくる。おそらく母親の殻を脱け出たとき、舞踊家は同時に人間の世俗的な条件も脱け出ることになったのだ。生活も年齢も経歴も、性すらも消えていき、代わって物の怪めいたあるものがそこに出現したのである。この物の怪は時間と空間を超越して、母親にも山姥にも娘にも幼女にも、何であれその最も切り立った瞬間の姿へと自在に転身するのである。いまや「隅田川」という個別の作品を突き抜けて、舞踊の根底にある変幻自在な普遍の美が表にあふれ出してきたのである。「隅田川」で始まって、「隅田川」を進みながら、しかし「隅田川」を超えるのだ。
 この舞台上の劇的奇跡を舞踊論的に言い換えれば、舞踊家の内部にいましも完全な自由(創造的自由)が満ちて、この完全な自由を外側から支えるのにふさわしい完璧な形(形式、姿)が舞踊家の身体の上に築かれたと、そのように言っていいのではなかろうか。喚起力に富んだイマジネーションがそこから無限にあふれ出してくるこの創造的自由の豪華さ。その自由に対応するこのうえなく澄明で純粋な形式が舞踊家の生身の体に現れてきたのである。すなわち舞踊の身体が今ここに完全な形で顕現した。舞いを舞い貫き、ついには舞い超えることによって逢着する、これが舞踊の究極の形だともいえるだろう。「珠取海士」も「十三鐘」も突き詰めていけば結局はここへ出てくる、そのようなこれは舞いの頂上の形式にほかならない。
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 あるいはむしろ思い切って仏教の用語を借りて、これは「空」の現れだと、そうスッパリと言った方がこの究極の状況はもっと納得されるだろうか。日本の伝統芸術(芸能)の多くのジャンルが何百年にもわたってそこを目指してきたように、おそらくは舞踊もまた最後は「空」の地平へ踏み出すことで自己の表現世界を完結する、そのような構造をいまだ残していると直観されもするからだ。
 般若心経の教えによると、人間の日常生活を形作る五つの要素、すなわち五蘊(ごうん)をすべて空だと知ることが、真の生き方を会得するうえで極めて重要な指標となる。その五つの要素とは、色(肉体・物質)と受(感覚的経験)と想(イマージュ・想像力)と行(行為・生成)と識(理性的認識)の五文字に集約される成分だが、これらはいずれも生きるということの現実的な内容を示しているといえるだろう。日々を暮らすうえで人びとがどうしても担わないとやっていけない五つの鎧でもあり殻でもある。だからそれを空と見る(そこへの執着を消し去る)という超人的な企ては、わたしたちにはほとんど到達不可能というほかはないのだがそれでも論理的に考えられる範囲で解釈を進めれば、つまるところ瘡蓋のようなそれら世俗の殻をきっぱりと脱ぎ去って、純粋で明澄な生の最初の形式へ還るということになるはずだ。こんにち形式を語るとなると、それはしばしば保守的な桎梏と混同されてネガティブな評価を受けがちだが、これは進歩の神話に占領された現代社会の間違いなく野蛮な誤解で、自由というものはもともと純粋な形式の中にこそ甦ってくるはずのものなのだ。未熟な形式が視界を曇らせ、創造を硬直させてしまうのは明らかだが、しかし形式の粗暴な廃棄はわたしたちを宇宙的な途方もないカオスの前で立ちすくませるばかりである。さてそこでこの五蘊だが、これを舞踊に当てはめれば、色とは舞いを舞う肉体のこと、受とは舞いの土台になっている実生活の体験のこと、想とは舞いが繰り広げる物語・テーマのこと、行は舞いの技術ないしは振り付けのこと、識は舞いの出来ばえへの客観的な自省のこと、とそのように重ねてもまず大きな錯誤はないだろう。すると舞いを舞い超えて純粋な形式に至る舞台上のこの劇的な道筋は、世俗の殻を脱け出して自由で生き生きとした生の形式に還ろうとする現世の修行の行程とまさしくパラレル(等価)な構図だとわかってくる。双方とも生を囚われのない自在の相へと押し開く果てしのない旅なのだ。伸びやかに無限へひろがる生のビジョンをわたしたちはその旅を通して見るのである。
 とすれば、遊女の恋をモチーフにした「名護屋帯」が、物語の中身からすると「隅田川」との間にまさに天と地ほどの隔たりがあるとはいえ、そこに美の純粋な形式が現れれば、同じように高い感動が生まれるのもしごく自然なことである。わたしたちが舞台に見たのは単に男を恋い焦がれる艶麗な女の媚態の舞いではない。恋い焦がれる舞いの形を透かしながらその奥に清冽な生の躍動を見たのである。現代を生きる女性としてだれにもまして自立の精神を重んじるこの舞踊家は、実をいうと遊女という役柄になかなか解決しがたい撞着を感じてきた。じっさい、花柳界に題材を採った舞踊がもし江戸・吉原や京・島原へのノスタルジーを舞うだけのものだとしたら、遊里の文化がかつてどれほど洗練の域にあったにしろ、現代のこの世紀に明日へつながるような意味を見いだすことはむずかしい。懐古的な幻想(それも強力に男主導のバイアスがかかった幻想)にひととき浸るだけである。だが松蒔というこの鋭い感覚の舞踊家は、たぶん試行錯誤にかなりの年月を費やしての後のことだが、賢明にも遊女の身体に「なる」ことを断念した。遊女になるという空想的で曖昧な目標からはっきりと決別して、厳密に遊女の洗練された形式だけを「借りる」ことに決めたのだ。遊女の生きざまの模倣ではなく、遊女の外形だけの会得を目指し、しかもそれに徹すること。もうすこし掘り下げて言うならば、苦界に生きた女たちの血肉に浸るような舞踊はやめて、彼女たちが命を代償に築き残したその繊細な文化の形(なんと悲しく切実な遺産)に丁寧に、そして真っ直ぐに迫ること。結局はそのことが舞踊に普遍的な美を甦らせる王道となったのだが、これは同時に舞踊家が内に抱え込んでいた深刻な分裂を明快に超克する唯一の方法でもあったのだ。
 それにしても、わが子を失う悲しみであれ、愛を失う悲しみであれ、いずれも尋常の悲しみではないだろう。この世の最もつらい不幸に数えられるはずである。その不幸を土台にしてこのように美しい舞いが成立する、そこの大きなイロニーはどう考えればいいのだろう。あるいは美の純粋な形式というものは、悲痛なものが呼び起こす鋭い閃光によってこそ浮かび出る、そのような悪魔の錬金術なのか。だがその美によって生が甦るとしたら、それはやはり神の錬金術なのか。
「隅田川」と「名護屋帯」は2005年10月15日に神戸市中央区の湊川神社・神能殿で催された第47回大和松蒔舞の会で演じられた。とりわけ「墨田川」は宇治はる(一中節)がこの舞台のために自ら編曲に取り組み、伝統的な曲調に現代的な感性を注入して新鮮で端正な曲想を創出し、これも舞台の成功の大きな動因になった。演奏は浄瑠璃が宇治はる、宇治しほ、三味線が宇治をと、宇治りつ、鳴物が望月太明蔵。一方「名護屋帯」の演奏は、唄と三弦が菊原光治、胡弓が菊央雄司。
STAFF 構成 岡田美代/照明 赤峯史/舞台監督 泉春介/司会 松島武雄/衣装 小林衣装店/着付 高森高夫/鬘師 河合康夫/顔師 山本雅義/小道具 人形新。
なおこの舞台は平成17年度文化庁芸術祭参加公演に指定され、舞踊部門の優秀賞を受賞した。

CATnote

Shomaki Yamato, a traditional performer of Nihon Buyoh(Japanese dance culture ), presented “Sumidagawa” and “Nagoyaobi”, which had been originated in the time of the Tokugawa shogunate, at Minatogawa shrine in Kobe on October 15 in 2005. On the stage especially she impressed the beauty of pure form that had been built up through a long history in this country.

2006.1.8.
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Cahier

    瀬島五月    A mystery of aurora
 瀬島五月のオーロラ姫とアンドリュー・エルフィンストンのデジレ王子で貞松・浜田バレエ団の「眠れる森の美女」公演が尼崎市のアルカイックホールで行われた(2005年9月17日)。不気味な森に分け入ったひとりの王子がその奥でとげとげしいイバラの群れに包まれた不思議な城に遭遇して、そこで100年の眠りを眠り続けてきた美しい王女に出会うというこの神秘で幻想的な物語。それは森(自然)への回帰願望を強めている現代の都市人の心に響いて、また新たな喚起力をもたらしたようである。この物語が呼び起こす神秘の感情は、少年少女時代の夢想の単なる燃え残りでは決してなく、都市砂漠でともすれば憔悴に沈みがちなわたしたちの魂を思いがけない生気で満たす、あるいはこれは今に甦る命のダンスではなかろうかと、たぶんそのような直観が人びとの心を横切っていったのだ。オーロラ姫を捜しての危険な旅が愛への冒険であるのはいうまでもないことだが、併せてこれはみずみずしい生命への冒険なのではなかったか。だとすると、瀬島五月のオーロラ姫はその命の躍動をだれにもまして生き生きと踊ったという点で、いかにもプリマの輝きと風格だったといえるだろう。
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 瀬島五月のダンスは、まるで婚礼の式場へいそいそとやってくる花嫁のようである。それも、舞台に登場するたびに、いつも変わりなくそうなのだ。踊りたくて、踊りたくて、もうひとときも待てなくて、幕の陰のずっと奥からすでに踊りはじめていて、みなの前に出たときにはすでにピークに達している、そんな勢いで舞台に飛び出してくるのである。見て、私のダンスを! 喜びにあふれたこのダンスを! 生きるっていうことは、こんなにもすばらしい。100年の仮死にひっそりとまどろんできたオーロラ姫は、100年の生を一気に炸裂させたようである、わたしたちの目の前できらきらと。
 貞松・浜田バレエ団の付属バレエ学園で7歳から踊りに打ち込んできた瀬島五月は、早くも少女時代からエピソードの光芒に彩られて育っている。周囲をぱっと明るませるこの少女は、母の胎内にいるときにすでに特別な星から祝福を贈られてこの世に出てきたようにさえ見えるのだ。星の少女。彼女はまるで自分の星の運行に戻らないではおれないように、教わったレッスンを微妙に改竄するのである(そう、いつだって五月流)。やがて周りの先生たちはこう言いながら少女の成長を見守ることになったのだった。「ほらほら、五月ちゃんがまた、サツキしてる」。かくして、ついに生命力に満ち溢れたこの五月流のオーロラ姫。そういえば王子のアンドリュー・エルフィンストンもこのはつらつとした彗星に感応してか、いつしかサン・テクジュペリのあのプチ・プランスを髣髴させる、少し大きめの活気に満ちた星の王子様の雰囲気になっていた。
 そして、おそらくは天空の星々もまたサツキを祝福したのではなかったろうか。偶然といえばあまりにも偶然だが、彼女がアルカイックホールでオーロラを踊ったちょうどその日に、NASA(米航空宇宙局)が1枚のとてもきれいな衛星写真を全世界に発表した。そこには南極上に発生した、これは正真正銘の大オーロラが完全な姿で映っていた。緑色に発光するその極上の大舞踏は、人類が宇宙の目で初めて撮った記念すべき一大シーンだったのだ。幸運な星のもとに生まれたバレリーナは、これからも星々に見守られながら自分の世界を開いていくに違いない。

KOBECAT 0022
05.11.8〜13 GALLERY北野坂
松本伸子展「STADT」

     
――都市、光の器――
■山本 忠勝


がくれば思い出す、と尾瀬の奥深い自然を歌ったあの「夏の思い出」は今年(2005年)の春に91歳で亡くなった詩人・江間章子の作詞である。その詩人のもう一つの有名な愛唱歌に「花の街」がある。日本のほとんどの都市が空襲の焼け跡をまだそのままにさらしていた1947年(昭和22年)に、團伊玖磨が女声合唱にうってつけの美しいメロディーに作曲して、ラジオで全国に流された。輪になって、輪になって、踊っていたよ、春よ春よと、踊っていたよ、と歌われる花ざかりの街のビジョンは、焦土に暮らす人びとにとっては残酷なくらいまだ遠い遠い夢だったが、しかしゆっくりと確実に明日へのよりどころとなったのだった。その「花の街」を江間章子じしんが回想してこんなふうに語っているのを、ほんの数年前のことなのだが偶然にラジオで聞いた。「あの詩はね、わたくし、じつは神戸の街をイメージして作りましたのよ」。アナウンサーはなぜかそそくさとその話題から離れたのだが、たったひとことのことだったとはいえ、それをまだ震災の記憶がなまなましいこの神戸で耳にしたのは鮮烈だった。とにかく、胸が高鳴った。戦災で無残に破壊されながら、それでも人びとの希望となった神戸。心の都市、神戸…。そしてその江間章子が亡くなってほぼ半年のこの秋になって、まさしくその「花の街」を思い出す展覧会が神戸の北野坂で開かれた。松本伸子の個展「STADT(街)」。街への願いいっぱいの作品の前に立つと、あの歌の澄んだ響きが聞こえてくるように思われた。都市への希望がひっそりとながらなおも力強く生き続け、心から心へと共鳴を広げているのを確信した。

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   松本伸子の街の絵は、青が基調だ。夕暮れよりはだいぶん刻限が進んでいるが、ミッドナイトへはまだすこし余裕がある静かでゆったりとした時間、そういう時間がみずから発光しているような色である。銅版画のようにほとんど硬質の線だけで描かれる家々は、実生活の場というよりは心が安心してくつろいでいる繭のような、どれもがそんな穏やかな構えである。それぞれの窓に家族の団欒が読み取れる。少年や少女の夢想が伸び伸びと羽ばたいているのが読み取れる。恋人たちの抱擁が読み取れる。とはいえこの街でいま孤独である者はかぎりなく孤独であるに違いない。それも読める。そしておそらく画家は、絵全体を圧倒的な幸福のビジョンに浸しながら、じつはその少数の孤独者をいちばん気にかけているのである。端正な絵のなかに、もちろん端正な線を用いてのことなのだが、そっと一つの心配りを描き入れる。あたかも見えない汽車がこの街をくまなく走っているように、デリケートな鉄道線路(もしくは線路の形をした幾何学的なある形象)が画面の中をうねうねと伸びていて、それが家々を結びつけているのである。ほとんどいたずら描きのような軌道だが、見かけ上の童話的な愉快さにもかかわらず、この執拗なこだわりは間違いなく静かな創造的狂気である。その見えない汽車はおそらく人の体や物を乗せるのではないのである。見えない魂を運ぶのだ。ひとの心が結ばれ合うことなど不可能だとあきらめている者たちの寂しい部屋へそうではないかもしれないよと魂を送るのだ。
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 そして光。それもまたここにはっきりと見てとれる彼女の果てしないこだわりだ。それも相当に入り組んだこだわりだ。窓々を電気の光で明るませるわけではない。通りに沿って街灯をいっぱい並べるわけでもない。そういう直接的な道具立てで表せる光線を追っているわけではないのである。画家はじつは絵筆では描けない、いわば第三の光で画面を満たしたいのである。影をいっさいつくらずに全方位へなごやかに浸潤していく光である。そういう円満で完璧な光でないと結局ひとは救われないのだという直観が彼女の思いの中にある。それでわたしたちは一見そうとは見えない間接的なシンボル(象徴)から、彼女のその神秘の光へ入っていくことになるのである。一つの建物から塔がさりげなく伸びている。塔は古くからの太陽の親族だ。街角で道化師が踊っている。道化師は月の光の友である。界隈の一角になぜか鳥のいる大きな鳥かごが見て取れる。これも古い伝承を探っていくと、鳥かごとはなんと光のように輝く女神が神の子を宿しているこのうえなくまぶしい姿の暗喩である。そしてなによりも、あらゆる建造物を構成するこの画家独特のきれいな線。物理的に言うなれば線は画面に刻まれた傷なのだが、これこそ芸術の最高の魔法である、その極微の領分にひとりの作家の全肉体と全精神と全経歴が込められる。芸術家はけっきょく線の中に棲むのである。彼女がどんなに懸命に光を求めて生きてきたか、それがそこに現れる。建物をかたどる線のことごとくが内部からの光芒を放つのだ。彼女の都市は大きな光の器である。
 だとすると、まるで水族館の光に満ちた水槽みたいな小さなガラス張りの立体都市(箱庭ならぬ箱町)を絵の陳列のすぐ横に並べることがどれほど唐突に見えるとしても、それはそれまでに伏線が十分あってのことなのだ。彼女はいまやカンヴァスや板や板ガラスの上にではなく、光の中に直接描きたくなったのだ。情熱が、ごくありふれた家具の中に格好の素材を発見した。アクリル製の透明な小型引き出し。まさしく光でできた箱。彼女はすこぶる器用な指先でその中に木片や紙や樹脂で精緻な街を組み立てた。なんと小さな、なんと明るい箱の街。だが、なんと大きな、なんと純粋な心の街。
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 むろん現実の神戸はまだこれほど美しくはないし、まだまだこんなに高貴に輝く街ではない。それどころか安っぽい設計のビル建築がはびこって、都市の品格はむしろ落ちるばかりである。ターミナルをどぎつい広告が取り囲み、車体そのものが広告と化したバスで市民はみながサンドイッチマンになって街を走るという有り様だ。心が自然との親和を取り戻したいとこんなに強く願う時代に、大地にべったりと張り詰められたアスファルトはもう醜怪というほかない。せっかくの海も海岸線が産業用地に独占されて、この街は久しく海の輝きからも海の匂いからも疎外されたままである。だが希望が滅びてしまったわけではない。1995年の震災は1945年のアメリカ軍の空襲以来の破壊となったが、大きな犠牲とともに甦ったものがある。自然の大きさへのいっそうの畏敬と人間の温かさへのいっそうの信頼だ。すなわち都市の中で精神を働かせることを思い出したということだ。58年前に歌われて、まだ達成されていない「花の街」へ再び歩みだすエネルギーが確かめられたということだ。疑いなく、松本伸子の展覧会もそのあらわれの一つである。
 ちなみに「花の街」の2番の歌詞を江間章子はこのように書いている。
 美しい海を 見たよ あふれていた 花の街よ 輪になって 輪になって…
 松本伸子の個展「STADT」は2005年11月8日から13日まで神戸市中央区山本通1のGALLERY北野坂で開かれた。アクリル絵の具による平面作品のほか、初めてアクリル製の小型引き出しを利用した立体作品(作家はこれを「立体ガラス絵」と呼んでいる)を発表した。2006年にも11月に同じ画廊で個展を開く計画である。松本は芦屋市在住。GALLERY北野坂は078.222.5517

CATnote

Shinko Matsumoto held her personal art exhibition at GALLERY KITANOSAKA in Kobe from November8to 13. The theme of her exhibition was “Cities”. She showed an impressive view of the town filled with peaceful blue glimmer.  

2005.11.30
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Cahier

    佐藤泉    Adventure to Bach
   バロック・バイオリンの奏者でバッハ研究家の佐藤泉さんは、その繊細な精神と華奢な体で知性と感性の壮大な冒険を続けている音楽家である。西洋音楽の最高峰、ヨハン・セバスチアン・バッハの巨大な芸術世界を心ゆくまで究めようと10年がかりの連続コンサート「バッハからのメッセージ」を彼女の地元の加古川を拠点に進めている。今年(2005年)はその6回目が11月13日にカトリック加古川教会で開かれた。
 前々回(2003年)はバッハが出る前のドイツ音楽にさかのぼって、わたしたちの耳をヨーロッパ文化の厚い地層へと誘い、前回(2004年)は同時代のヘンデルやテレマンを掘り下げて、これはもう聴衆を熱い興奮で包むほどの名演奏になったのだが、今回のテーマは教会音楽の「カンタータ」。いずれ世界は一つの歴史で語られることになるのだろうが、精神文化の面でまだ微妙な差異が西洋と東洋の間に残っている現在では、わたしたちにとってとりわけ接近に骨の折れるジャンルである。その壁を乗り越えるとまではいかないにせよ、壁をずいぶんと低くして生き生きと音楽の息吹を通わせたのは、バッハへの感動をともに分かち合いたいと願ってきた佐藤さんの情熱だ。硬派の音楽理論をコントに仕立ててほぐしてみせる心配りには頭が下がった。出演はほかにソプラノの鈴木美登里さんとオルガンの大塚直哉さん。演奏曲はバッハのカンタータ82番、同147番ほか、G.H.シュトルツェル、H.シュッツ、H.I.F.フォン・ビーバーの作品など。
 なお連続コンサートの来年からのプログラムは次の通り。
 2006年「バッハの教育法 対位法への招待」/2007年「次男エマニエルの音楽 疾風怒濤、ロココの様式」/2008年「末っ子クリスチャン モーツアルト・クラシックへの道」/2009年「フーガの技法」/2010年「音楽の捧げ物(全曲)」
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佐藤泉さん

KOBECAT 0021
2005.10.21 兵庫県立芸術文化センター
兵庫芸術文化センター管弦楽団「モルダウ」

――佐渡裕の宇宙…太古の響きと共鳴――
■山本 忠勝


会いの不思議。それはお互いが初めて見つめ合ったその一瞬の印象のなかに、のちに経験し合うことになるありとあらゆる印象がすでにことごとく凝縮され収納されているように思えることだ。好ましい面も或いはそうでない面も実はわずかであれ初対面の瞬間にもう心のどこかで感じていたのを、わたしたちは時に複雑な思いにとらわれながら振り返る。出会いはそのこと自体がもう予言なのである。だとすると、佐渡裕率いる新生の兵庫芸術文化センター管弦楽団が公の聴衆を前に初めて演奏した「モルダウ」は、このオーケストラの最初の一歩を印した歴史的な曲であったというばかりか、彼らが未来へ向かって営々と切り開いていくであろう音の大河の長フがもう予言なのである。だとすると、佐渡裕率いる新生の兵庫芸術文化センター管弦楽団が公の聴衆を前に初めて演奏した「モルダウ」は、このオーケストラの最初の一歩を印した歴史的な曲であったというばかりか、彼らが未来へ向かって営々と切り開いていくであろう音の大河の長大かつ豊かな流れの全行程を前もって垣間見せた意味深い作品だったともいえるだろう。それはまさしくモルダウ(ブルタヴァ)の悠久の流れに似て豊麗な演奏だった。音楽監督・佐渡裕の大きな宇宙観をはやくも反映してなのか、底の深い音だった。
 兵庫芸術文化センター管弦楽団は西宮市に建設された兵庫県立芸術文化センターの開館(2005年10月22日)とともにデビューした専属オーケストラである。「モルダウ」は正式の開館を翌日に控えた10月21日の祝賀式典で演奏された。

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 大河モルダウ。チェコでこんにちブルタヴァ(Vltava)と呼ばれているこの流れは首都プラハを横切って、やがてドイツ領に入ると川の名もあのエルベに変わり、ドレスデン、ハンブルクを抜けて、ついには北海へと注がれる。流れが進むその先々でそれぞれの民族に愛されてきた雄大な川なのだ。とりわけ巨大帝国の圧政のもとに国を奪われた民族は、この永遠の川がもたらす森や野や町々の美しい風景に、失われた祖国の忘れがたい面影を重ね続けてきたのであった。いつかまたこの流れに沿って誇りある自由の国を…。民族文化の再興へ情熱を傾けていた作曲家ベドルジハ・スメタナがこの「モルダウ」を発表したのは祖国チェコがいまだオーストリア帝国の支配下にあった1882年。六つの管弦楽曲からなる連作交響詩、その名も「我が祖国」と名づけられたシリーズの二つ目の曲として作られた。魂へ呼びかけるようなオーボエの響きとともに弦楽器の分厚く壮麗な鳴動が、哀しみと歓び、絶望と希望、郷愁と冒険、哀悼と讃歌、あたかも感情という感情の壮大な混淆と共鳴みたいに、胸つまる主題を繰り広げる曲である。
 雪解けの澄んだ水に繊細な春の日差しがきらめくようなフルートの奏鳴に始まって、徐々に新しい管や弦を加えながら、ついにはフルオーケストラの巨大な響きへと広がっていくこの曲のダイナミズムは、極大域と極小域の両方向にともに深い奥行きを持つ佐渡裕氏の音楽的本能と申し分なく照らし合って、いかにも山の奥でひっそりと発した小さな流れが刻々と水量を増しながらついに悠然たる流れへと発展し、滔々とヨーロッパ大陸を横切っていく、ブルタヴァのその大いなる遠征をまさしくそこにありありと「見る」ような思いであった。あふれるばかりに光をはらんだ佐渡氏の指揮はわたしたちの神経を聴覚に集中させたというよりも、むしろ全身をことごとく目に変えた。四季の陽光に輝きながらゆったりと森を抜け、牧場を横切り、村に沿い、そうして古都プラハへ向かう大河を、じっさい、わたしたちは四十八人の奏者の上にまざまざと見たのである。だがこの生まれたばかりのオーケストラのもう一段深い魅力は、この豊潤な音の流れと雄渾な水の流れを広大な地理的眺望のなかで俯瞰させたばかりでなく、音と水がともに生来の性質として持っている「強大な力」と「微妙な力」のえもいえぬ緊密な運動をいわば地質学的な重層構造の形に示して心を揺すったことである。佐渡裕氏のブルタヴァは、川浪を変幻自在に波立たせる表層の微妙な流れと、大地をえぐるように動いていく低層の強大な流れの、二重の流れで進んでいった。より精緻に、もっと精緻に、無数の波紋と波紋に反射する光の彫琢へと差し向けられるフルート、クラリネット、そしてハープ。一方、ほとんど洪水のような勢いでときには大悪魔の跳梁さながらに突進していくバイオリン、チェロ、コントラバス。しかもここで最大限に強調すべきは、あらゆる音の進行が、澄明な表層へ向かって低層に隠れていた偉大な力が絶え間なく湧出してくる、言い換えれば間断ない「出現」としてわたしたちの前に開かれたことである。刻々と新しい扉があけられ、奥に隠されていたものが次々と現れてくるのである。思いがけないヴィジョンが開かれ、しかもそのヴィジョンは前の扉よりいつもいっそう深いのだ。
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 そしてブルタヴァの流れが、というよりも今やむしろ佐渡裕氏の精神の流れそのものが、小さな村に寄り添ってそこで晴れやかな婚礼の風景に出遭ったときのあの炸裂するような大きな喜び。村人たちがお祝いのダンスにこぞって打ち興じているそのにぎわいをそのまま写し取ったような四分の二拍子の軽快なリズムでその風景は始まるのだ。これはおそらく佐渡氏の体質から来ることではなかろうか、まるで祝祭の合図へ向かう司祭のように指揮台上のその大きな体躯が歓びの形へと踏み出すとき、その高密度・高濃度の音の流れはこのうえないおおらかさを獲得して、いつしか太古の響きとさえ共鳴しているように感じられてくるのである。これはひとえにこのマエストロなればこその音の錬金術である。音楽が源流へと回帰する。個々の民族の伝統音楽、伝統舞踊が、太古の人類の原初の音響、原初の舞踏へと一気につながっていくのである。若いカップルへの素朴な讃歌が、人間全般の讃歌へ、そして人類全般の大讃歌へと広がっていくのである。
 つまり、音楽家の内部で深められてきた無限の宇宙と宇宙への無限の愛がオーケストラの響きの上にあふれだし、世界へ流れ出すということだ。
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 さて深い精神に満たされた演奏はときに思考の秩序と制約を突き破って、思ってもみなかった方向へ心の眼差しを差し向ける。わたしたちこの細長い列島に住み続けてきた民族にとってのモルダウとは、では一体なになのか。佐渡氏の指揮がちょうど曲途中の激流の響きへと差しかかったとき、だしぬけにそんな問いが胸の底で動いたのだが、しかし問いが形になったときにはもう答えもはっきりとした形になってその同じ場所に生れていた。この悠然たる流れに匹敵するわたしたちの流れとは? …日本列島を横切っていく大河。それはほかでもない、はるか赤道上に発して太平洋の西岸沿いを延々と北上してくる巨大な海流の流れである。豊かな自然、豊かな命を運び続けてきた大海流。わたしたちの文明、文化、精神の源。わたしたちがいつからか忘れてしまっている民族の骨格。
 チェコは宗教改革の先駆となって火刑に処せられたフス(1369-1415、プラハ大学総長)を生んだ国である。20世紀に入っては人間の顔をした社会主義への遠大な実験(プラハの春)に乗り出して、旧ソ連軍の戦車隊に踏み潰されるという悲劇を味わった国である。理想を追い、忍耐強い努力を重ねてきた民族の歴史、それをブルタヴァはずっと見つめてきたのである。だとすれば、西太平洋のこのわたしたちの海流も列島を貫いてきた数々の思いや願いを見守ってきているはずなのだ。それをわたしたちはあまりに永く忘却したままでいないだろうか。
 思いがけなくも広角的な視野へと心を喚起する佐渡裕氏の音楽世界。わたしたちはついに宇宙的規模の時空と響き合うオーケストラを得たようだ。
 兵庫芸術文化センター管弦楽団は世界13カ所で行われたオーディションで1000人の応募者から選抜された48人の団員によって結成された。10月21日午後3時から開かれた開館記念式典ではスメタナの交響詩「モルダウ」のほかにベートーヴェンの「交響曲第9番」第4楽章が演奏された。

2005.11.14

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    第15回ロドニー賞    Thanks to Mr.陳舜臣 from Kobe
   都市神戸の文化を面白くしてくれた市民に市民から贈るというロドニー賞に、15回目の今年(2005年)は作家の陳舜臣さんが決まり、授賞式が11月2日に神戸・元町通の神戸?月堂本店・?月堂ホールで行われた。陳舜臣さんはロドニー賞が1988年に創設されてからずっと選考委員長を引き受けて、このユニークな賞の象徴的存在になってきたが、15回目を節目に委員長を退くことになり、長期にわたる力添えへの感謝を込めてこのたびの授賞となった。ロドニー賞の正賞は神戸の六甲山で採掘された御影石(花崗岩)を素材にして小林陸一郎さんが制作する彫刻作品。ほぼ球体に近い美しい抽象的な作品だが、受賞者のイメージやフィーリングが加味されて、年ごとに微妙に色合いや形を変えるのが話題である。なお陳舜臣さんは委員会からのたっての願いで引き続き名誉委員長を引き受けることになり、新委員長には委員会の要請で神戸?月堂会長の下村俊子さんが就任した。



KOBECAT 0020
阪神甲子園球場
阪神タイガースの逆説〜球団株の上場問題

――村上ファンドの“金の論理”と猛虎ファンの“心の論理”――
■山本 忠勝


だん阪神電車の甲子園駅に下車することはめったにない。下車するのはほぼ甲子園球場でタイガースのカードがある夜に限られる。それも近年はこの球団の爆発的な人気のせいでチケットが昔みたいに思い通りには買えないから、シーズンにせいぜい二、三回がいいとこだ。しかし駅に降りるまでもなく、電車がホームに停まっただけでここは沿線のほかの駅とはまったく違う特別な空間だと、もうたちどころに体の芯でわかるのだ。試合のない夜はない夜で、マンモスと呼ばれる暗くて巨大な球場が深い眠りに落ちているその魔のような静けさが心に圧倒的に迫ってくるし、試合のある夜はこれはもういまさらいうまでもなく、まさに宝石のきらめきそのもののあの夜間照明の輝きがなにかしらひっそりと空に広がっているのが見上げられ、その静寂が却っていまグラウンドで繰り広げられているに違いないファインプレーの華々しさ、そしてスタンドで起こっているはずの地鳴りのようなどよめきへ夢想を誘っていくのである。なぜか荘厳な気持ちにさえなってくる。ここはむしろ張り詰めたゲームの形をとりながら神聖な祭礼が進んでいく厳かな神域のようなのだ。

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降臨

 そういうわけで2005年9月29日にこの球場で行われた読売ジャイアンツとの最終戦(第22回戦)は、もちろんペナントレースの優勝を決定したという点でこれがシーズンの頂点に位置する格別な試合になったのはもう先刻承知の通りだが、とにかくイニングごとに展開された緊張のプレーの一つ一つが、そしてその結果として生まれた見事な勝利(スコア5対1)が、そこで人びとが目撃した表向きの形以上に何倍も内へ向かって深いものを心に刻むことになったのだった。夜空に上がった最後の白球をまさしく激闘のシーズンを締めくくるにふさわしいヒーロー、左翼手の金本が例のあの寸分の無駄もない豹のような美しい姿で捕り、岡田監督のいささか重たげな体が四度、五度と宙に舞って、セントラルリーグのペナント授与そして場内一周と、晴れやかな優勝セレモニーがひととおり終わってからも、じっさい四万九千人の観客のほとんどがまだ何か見えないものを見ているようにその場を立ち去ろうとしなかった。むしろ長い旅の果てにとうとうアルカディア(理想郷、楽園)を見いだした苦行の求道者のように、思いのありったけを込めながら離れることを拒否していたといった方がいいだろう。ひとりひとりが喜びではちきれそうな胸の内をそこに投影していたともいえようが、それよりも青々と輝く深夜の芝生に降臨した或る神聖なものの姿をみなで眺めていたといった方がこの場合は当たっている。
 球団創立から70年の歴史のなかで、人びとが阪神タイガースの上にかくあってほしいと願ってきた不可視のあるもの。純粋な一つの精神の降臨。

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祝祭

 それにしても、もとは興行(見せ物)としていくらかは蔑みの目にさえ曝されながらスタートした職業的な球団に一体いつのころからこのような不可思議な精神性が目覚めることになったのだろう。とにかくその広がりはいまや尋常なものではない。もはや球場には入れないとわかっていながら、それでもマンモスが放つ激闘のどよめきと精神の熱量のすぐ傍らに身を置きたくて、あの夜はさらにおびただしい人びとが鬱蒼とツタの絡む外壁に沿ってこの神域を取り囲んでいたのである。見方によってはこのツタの壁に群がった情熱的な人びとこそいっそう敬虔でいっそう純粋な求道者だったともいえるだろう。そして優勝決定とともに始まった想像を絶するビッグ・バン! 球場からようやく家路に向かい始めた人びとの流れに沿ってまるで聖歌隊が進むように延々と「六甲おろし」(阪神タイガース応援歌)の歌が続いた。電車に乗ってからも大勢の人びとがしぜんと声を合わせてそれを歌い、大阪・梅田の地下街ではさらに大きな合唱に膨らんで、地下鉄伝いにまずは難波へ、そこから天王寺にまで南下した。騒ぎは大阪へ向かう電車ほどではなかったにせよ、興奮の事情は三宮あるいは神戸へ向かう反対方向の車中でもまったく同じだったのだ。
 新聞各社は深夜なのに号外を競ってばらまき、そこにも人びとは群がった。テレビもNHKを含めて全局が特別番組を放映し、ほとんど未明までタイガース一色になったのだった。なにしろ家庭の中でさえこの夜ばかりは多くの夫婦、多くの親子が祖父母ともども「おめでとう」を言い合ってひさびさに心を一つにしたのである。酒場でどれほどの祝杯が重ねられたかわからない。にわかに祭りの広場と化した道頓堀界隈では若者を中心に何万人もが集まって、相手かまわず手を握り合い、肩を叩き合い、抱き合った。都市あげての“タイガース化”現象が巻き起こっていたのである。
 大阪、神戸、京都の三都を貫き世界でもまれな大祝祭空間が夜通し出現していたというわけだ。これほどの規模の都市祭礼は正月の初詣の慣行を除いては現代日本のどこにもない。

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光輝

 そしてさらに特筆しておかねばならないのは、たしかに外見だけではまだ突発的な大騒ぎにしか見えないこの祝祭空間ではあったのだが、その大騒ぎの奥に潜んでいる微妙な精神の構造(心のかたち)がおりもおり、六日後の対横浜ベイスターズ最終戦(10月5日)でふたたび、それもいっそうくっきりと浮かび出てきたことである。ペナントの行方が定まったあとの残りのゲームは、まだ上位への希望が消えていない一、二のチームは別にして、ほとんどがただ試合数の辻褄合わせに、まあ、力半ばで流すのがふつうである。いくらかは揶揄を込めて消化試合と称される。だからタイガースがそれらのゲームにたとえ手加減をして臨んでももはや文句を言う者はなかったろう。ところが今シーズンの最後の日程となった、いわば負けてもどうってことのない146試合目のそのゲームにとにかく規格外れのこのチームはある意味ではむしろ優勝決定のジャイアンツ戦より“生真面目”に取り組むことになったのだ。
 むろんそこにはナインをそのように駆り立てた一つの動因が隠れていた。プロ野球の投手としてはほとんど限界ともいえる三十七歳の肉体を鞭打ちながら最多勝のタイトルを狙っていた下柳。このベテランピッチャーに最後の決定的な一勝(15勝目)を挙げさせたいがためだった。今シーズンはエースと目される井川がここぞという勝負どころでモロさをさらし、若手投手陣もよく働いたとはいうもののいまひとつ不安定ななかにあって、寡黙で無骨ではにかみ屋のこの鬚面のサウスポーはローテーションを黙々と守り抜き、あまつさえ首位転落への危機が迫ると(勝負どころの9月になって2回も、である)決まって彼が救うのだった。球速の衰えを精緻なコントロールで克服した強靭な意志と努力と忍耐にチームメートは大きな尊敬を抱いていたし、中心バッターの金本とともにたった一度の例外もなく彼が全身で示してきた勝負への真摯な姿勢は、野球の奥には確かになにか信じるに足る崇高な精神が隠れていると周りに確信させたのだ。小さな硬い白球をただ、投げ、打ち、拾うだけのことなのだが、しかしここには人生のすべてを懸けても惜しくない無限の深さと無限の高さと無限の輝きがあるのだ、と。
 かくしてこのベテランの大きな背中を見つめながらともに一年の長丁場を戦ってきた選手たちが、だれが言い出したわけでもなく、暗黙裡にこのファイナルゲームで彼への感謝の気持ちを表現しようとしたのである。

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奇跡

 しかもAクラス(3位)への浮上がかかっていたこの夜のベイスターズは手強かった。前夜の戦いをエースの三浦で逆転して(6対4)、この試合も好投手の門倉を先発に必勝の構えを見せていた。試合は消化ゲームにはふさわしからぬタイトな投手戦となり、2対2のままとうとう延長戦に突入する。ふだんの下柳なら100球未満をめどに六回あたりで後をリリーフ陣に任すのだが、さすがにこの夜は最後まで投げ抜く決意でみずから続投を志願。十回の表を終わったときには球数が148球にもなっていた。限界を超えていたのは明らかだ。シャープな采配でベイスターズを闘う集団に変身させた新監督・牛島はチャンスが膨らむのを確信していたに違いない、手堅く門倉から加藤へつないで、その下柳を容赦なく攻め立てた。事実、八回以降は毎回のピンチであった。
 だがタイガースの面々もこの夜は一戦必勝のトーナメントさながらに熱い気迫を最後まで崩さなかった。プロ野球の「プロ」という言葉は、それを職業(収入源)にしているという意味だが、いまやナインはその職業性を超越して、みながみな何か純粋なものに突き動かされている顔だった。おそらく監督・首脳陣の指揮さえ離れて、おのおのがみずからの自由意志で劣勢の打開へ食い下がっていたのである。そしてついに十回の裏、入団二年目の若い鳥谷(遊撃手)が左翼へこの日二本目となる奇跡的なサヨナラ・ホームランを打ち込むのだ。ベンチから飛び出してくる歓喜の選手たちの群れの中に、汗みどろのアンダーシャツをちょうど脱いだところだったらしい下柳がおぼつかない手でズボンのベルトを締めながら満面の笑みで走り出てくる姿があった。
 「どうしてあんなホームランがこのぼくに打てたのか、わからない」。鳥谷は自分の上に起こったことがまったく信じられないかのように、怪訝そうな顔でそう試合後につぶやいた。それはまぎれもなく、そのときチーム全体にみなぎっていた或る一途なエネルギーがついに土壇場でこの若者を通して流出した(それとまったく同じエネルギーがあのときはファンの心にもみなぎっていたのである)、いわばこのうえなく純粋な精神の顕現だったに違いない。ジャイアンツ戦ではタイガースの無類の強さに打ち震えたファンだが、その余韻の消えぬ間に、このベイスターズとの戦いでは今度はタイガースの無類の美しさに酔うことになったのだ。
 誇らしくも、逞しく、且つ秀麗なタイガース!

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侮辱

 ところが、である。今年はじつにいまいましいことにこの晴れやかなフィナーレに水を差す無粋な事件が並んで進んでいたのである。投資会社の村上ファンド(M&Aコンサルティング、村上世彰社長、本社・東京)がタイガースの親会社である阪神電鉄の株をひそかに買い増し続けていて、この大量の株の力を背景にいきなりタイガースの球団株を株式市場に上場せよと詰め寄ってきたのである。阪神タイガースは阪神電鉄が1935年に設立した球団で、したがって球団の株は電鉄本社が100%握っているが、これを市場に公開すれば今のタイガースの人気からして会社に膨大な利益が転がり込む(むろん村上ファンドもそれに伴って巨利を得る)というのがファンド側の言い分だった。優勝戦線にしのぎを削るタイガースにだしぬけに金儲けのたくらみが覆いかぶさってきたわけだ。
 ゴールを目指して選手とファンが心を一つにしているときに、時をわきまえないこの村上ファンドのあまり上品といえない行動は多くの人びとの胸の内にとうぜん鬱陶しい棘を刺し込んだ。村上ファンドの立場では、優勝決定を目の前に人びとの耳目がこぞってタイガースに集まっているこの時期こそ、みずからの行動を最も価値あるものに演出する最高のチャンスと見えたに違いない。しかし時流に乗じた若い経営者の感覚からはタイムリーな選択だったかもしれないが、それはあくまで利潤追求を第一とする経済合理性からの発想のうえでのことである。どう巧みに論理づけをしようとも所詮は儲け仕事であることに変わりはない。逆にこの時期、タイガース・ナインとそのファンの心は経済的・世俗的な欲望からはむしろぐんぐんと離れる形で、勝利がもたらすあの不思議に純粋な喜びへ日々、加速的に高揚感を増していた。じっさい、チームが優勝したからといってファンのふところがあたたかくなるわけでは全然ない。それどころか勢いに乗じて散財することにもなるだろう。むしろ儲ける・儲かるのこの世俗の次元から飛び出して、はるかな気圏を飛翔しながらともに喜びを分かち合うこと、それこそが心にとっての至高の合理性なのである。財布の厚みより魂の厚みというべきか。カネの軽重をココロの軽重で超えること。つまり経済の論理を精神の論理で超えること。村上ファンドのむきだしの欲望ははからずもファンのこの飛翔への一途な意志に理不尽な横槍を突き刺すことになったのだ。むしろ侮辱することになったのだ。

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聖地

 もちろんタイガースのファンにしても、選手たちを金銭欲からまったく離れた清廉な修道僧の集団のように見ているわけでは決してない。シリーズが終わればふつうの市民には夢でしかない巨額の報酬をめぐって球団と選手の間で例のごとく虚々実々の駆け引きが始まることは百も承知のうえである。だがこの甲子園球場ではその欲望をひととき傍らに押しやって、ただただ勝利の喜びを目指してともに出会い、ひたむきに戦うのが昔からのマナーでありルールである。おそらくこの球場が高校野球の球児たちが究極のあこがれとする「聖地」であるということも大きく与っているのだろう、民衆が長い時間をかけて培ってきたこのむしろ不合理とさえ見える伝統的な不文律は、しかし経済エリートが頭だけで考えてその心の深淵がわかるような、そんな根の浅いものではないのである。
 かつて南海ホークスに黄金時代を築いた鶴岡監督は、ゼニはグラウンドに落ちている、ここで好きなだけつかめと露骨に言って選手たちを鼓舞したが、あれは商都のど真ん中にあった旧大阪球場(ナンバ球場)なればこそ名言となりえた言葉である。そこからわずか小一時間の距離とはいえ、甲子園球場ではさすがの鶴岡監督もそうストレートに言えなかったはずなのだ。金銭と表裏一体にありながら、しかし甲子園というこの場所では心の論理が金の論理を上回る微妙で神秘な構造が強固にはぐくまれてきたのである。その一瞬の輝きにタイガースのファンはことのほか鋭敏に反応する。マンモスと呼ばれるこの巨大なレトルトではたとえ束の間の光芒であるにせよ経済と精神が劇的に逆転する(甲子園球場に掲げられているあのおびただしい広告類もファンは本来はあってほしくないものと感じながら寂しい心を抑え抑えしぶしぶ是認しているだけである)。星野前監督がめざましくも偉大な成功をこの甲子園で収めたのも、タイガースへの彼の偽りのない愛と勝負への彼の濁りのない情熱をファンが鋭く嗅ぎとって、それを全面的に信じたことがまず出発点にあったのだ。

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天才

 親会社の阪神電鉄の喉元をつかんでおいてその上で子会社であるタイガースへ支配力を伸ばそうとする村上ファンドの戦略は、あるいはこれが読売ジャイアンツや中日ドラゴンズのように親会社の力が絶対的なチームであればまだしも有効だったかもしれない。しかし阪神電鉄本社にはおそらく千数百万人はいる膨大なファン層を無視したまま勝手に球団の運命を決めるような、そんな暴力的な権力ははじめからないのである。そもそも阪神タイガースの巨大な人気というものが、ある大きなパラドックスの上に成り立っていることを、いやしくもこの球団に支配力を揮いたいと志す者ならまず認識しておく必要があるだろう。なぜならこのチームの異様な人気は、他球団の事情とはおよそ違って、なによりもまず電鉄本社の脆弱性によるからだ。
 タイガース・ファンは長い間、おそらく半世紀近くにわたって、タイガースの本当の値打ちに電鉄本社がどうしてこんなにも無理解なのかと嘆き続けてきたのである。超人的な名プレーヤーを次々と輩出していたにもかかわらず、電鉄の経営首脳はこの甲子園球場を同じように子会社だった隣接の遊園地・阪神パークとほとんど同等にしか評価していないように見えたのだ。かつての経営首脳たちが小山や村山や田宮や吉田そして江夏といった天才たちの才能とプライドにどれほど無知な態度を示してきたか、ファンの胸には苦い記憶がいっぱいある。ファンは宿敵・読売ジャイアンツを憎むのと同じ程度に、この頭上の鈍感な敵を憎んできた。こと球団経営に関しては、阪神電鉄は大手とは名ばかりの中小私鉄のイメージをごく近年まで超えられずにきたのである。それどころか体面上ひとまずは優勝を狙うふりをしながらも、実際に優勝が手の届くところへ近づくと選手の報酬が膨らむのを懸念してときのエースをひそかに役員室へ呼び、天王山の試合にあえて負けるように密命した、そのような今では信じられないような不道徳な首脳が幅をきかせていた時代さえあったのだ。タイガース・ファンの仕事は、スタンドにあっては選手とともに敵のチームを攻撃し、球場を離れてはマスコミを巻き込んでタイガース・スピリット(トラ魂)に鈍感な親会社を厳しく攻め立てることだった。とにかく驚くべきことなのだが、選手たちの力に比して報酬が低すぎるとまず批判の声をあげたのは、選手当人ではなくてファンとファンの声を代弁した関西の野球ジャーナリズムだったのだ。

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鉾先

 だからチームあるいはフロントがひとまず今日のまともな姿になったのには、われわれの力も大きく貢献したはずだという強い思いがファンの心の中にある。阪神タイガースをここまで育てたという自負がファンの胸の底にある。2005年9月8日の対中日ドラゴンズ19回戦(ナゴヤドーム)は審判団の誤審に次ぐ誤審によって試合が乱れ、けっきょくこの“狂ったゲーム”を阪神が辛うじて延長戦で取ったことで優勝をぐっと手繰り寄せたのだが、混乱が最高潮に達した九回裏、岡田監督が放棄試合さえ覚悟した渦中にあってタイガース球団の牧田社長が間髪入れずベンチに下りて双方の顔を立てる形で事態を収拾したあの手際、あれには昔かたぎのへそ曲がりのファンでさえ「タイガースのフロントもえらい変わったものやなあ」とさすがに時の流れへの感懐をポツリもらしたものである。中村豊の劇的ホームラン(十回表の決勝打)のように目に鮮やかに焼きついた派手なプレーではないけれど、牧田社長のしぶい陰のファインプレーも優勝の大きな力になっている、とそうタイガースの目利きたちは言うのである。言いながら、とうとうそういう球団になってくれたと喜びを噛み締めているのである。それなのに、喜びも束の間、だしぬけに村上ファンドが乗り込んできてこの手塩にかけた球団を金の力で意のままに動かそうというのだから、ファンの心が煮えたぎるのも無理はない。70年の蓄積を一夜にして横取りされる思いになるのもごく当然なことである。
 いつまでも町工場の経営感覚にとどまっていた電鉄本社を叱咤しながらファンが先頭に立って育ててきた阪神球団。だから率直にいってファンにとっての阪神電鉄本社というのはタイガースを率いる親会社というよりもいまだタイガースをバックアップする事務局のような存在でしかないのである。まず阪神タイガースありき。そして次に電鉄本社、なのである。だから阪神タイガースの「阪神」の響きにしても阪神電車という企業体固有のイメージより、大阪、神戸、そしてばくぜんと京都あたりまで含む人文地理的なイメージの方が圧倒的に強いのだ。関西文化圏と濃厚に重なり合うほとんど一般名詞なのである。広範且つ複雑な概念の海なのだ。この点は読売ジャイアンツや中日ドラゴンズ、あるいはヤクルトスワローズとまったく異なる点である。これらのチームは親会社の読売新聞、中日新聞、そしてヤクルト乳業と強固に結びついている(創立時の広島カープはさらに純粋な形で一般名詞的だったのだが…)。しかしこの企業色の希薄さこそがかえってタイガース・ファンを今日のように全国規模にしたのだから、結果として電鉄本社は大成功を収めたことになるわけだ。ただ、電鉄本社がこれまでのいきさつをまったく無視して、独断でタイガースの将来を誤るような挙に出れば、いま村上ファンドに向かっている激しい怒りのその同じ鉾先が電鉄本社に向かうこと、これもまた火を見るよりも明らかなことである。

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秘境

 パシフィックリーグの覇者・千葉ロッテマリーンズとの2005年日本シリーズにタイガースは惨敗した(0勝4敗)。最終章の敗北をこのうえなく無念に思うのは、ファンであればとうぜんのことである。だがロッテの意想外な戦略の骨格が少しずつ明らかになるにしたがって、タイガースの敗退を「名誉の敗北」とみる見方も次第に芽を吹き始めている。精密なデータに則って試合ごとに打順を変え、守備陣形を再編し、投手の配球を構築するバレンタイン監督の未曾有の采配は、マリーンズという荒削りのチームをたちまちスペースシャトルさながらの精密機械に変えたのだが、それはほかでもない、コンピューター時代の究極的な管理野球の姿である。むろんそれはそれとして、先見の明にも富んだ実に見事な戦略であることに変わりはない。しかし、ただ勝つことだけを目的としたこのロッテのような超合理的なチームには、おそらくあの高貴な輝きを放つ金本や、あの一途な輝きを放つ今岡や、あの情愛の輝きを放つ矢野や、あの柔和な輝きを放つ桧山や、あの無骨な輝きを放つ下柳や、あのように人間として際立った輝きを放つプレーヤーが出てくる余地はないだろう。マリーンズは若い選手たちを互換可能な優秀なパーツに仕立てて(いかにもバレンタイン・チルドレン)、機工隊のように勝利へ駆り立てていったのである。
 思えば、かつて読売ジャイアンツが川上監督の徹底した管理野球で九連覇を果たした時期、いわば一匹狼の集まりだったタイガースは卓抜な個人技でこの覇者を窮地にまで追い詰めながら、最後のところでいつも後塵を拝することになったのだった。個々の選手の技量ではジャイアンツを凌駕しながら、長いペナントレースの期間を通してそれを統一できなかったからである。だが今になって振り返ると、正規軍にまるでゲリラが挑むようにナインひとりひとりがそれぞれの高いワザを駆使しながら獰猛にかかっていった、あの激烈な個性の時代があったからこそ今日のタイガースの隆盛もあるのではなかろうか。毎夜五万人近い観客で埋まる現在の甲子園。あの人波は現代日本というこの怪物のような大管理社会から一夜のがれて、個性が解放されるこの“最後の秘境”へやってくるいわば自由への脱出者ではなかろうか。

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苦悩

 タイガースにも管理野球に向かった時期が一度だけあるにはある。野村監督の時代である。だが象徴的にも野村監督はタイガース魂の真の継承者である今岡をついに理解できずに去ったのだ。あの大監督にもう一つこの天才を生かす直感があったならチームが3年間も最下位に低迷することはなかったろうが、いかんせん、天才は野村式管理野球の対極にあったのだ。そのつまずきは表面的には小さな波紋に見えたのだが、実はタイガースの根幹にかかわる根源的な問題をはらんでいた。強いタイガースの時代というのは伝統的に強烈な個性の選手が顔をそろえたときだったし、ファンもまた熱烈に選手ひとりひとりの個性を愛し、個性のダイナミズムに感動を味わってきたのである。個々の選手が自分を殺してチームを輝かせる、それは美しいことである。だがナインひとりひとりがくっきりと輝きながらその上でチームも輝く、その方がもっと美しいことではなかろうか。
 しかり、猛虎ファンにとっての四番打者とは、日本シリーズのロッテのように単に交換可能な四番目のバッターでは絶対にないのである。惨敗の責任を一身に背負って苦悩しながらなおそこで決然と耐え抜いた金本みたいに、彼でなければ務まらない四番バッターなのである。あの苦境のなかで彼はなんと輝いたことだろう。
 タイガースのファンはこのシリーズでじつは勝利にも増して深いものを見たのであった。精密機械に変身したロッテ・ナインのコンピューターゲームのような冷徹な進撃に直面しながら、最後まで人間の強さと弱さ、すなわち人間のハートを抱えて散っていったあれら麗しい戦士たち…。そしてタイガースのファンというのは、このチームのこの形とこの心でいつか日本一になりたいのだ。
 それにしても村上ファンドのたくらみが実現すれば、タイガースはその本性に反してかつてない巨大な管理のもとに置かれることになるだろう。監督一個の管理体制などどれほど徹底しようとも実はたかがしれている。欲望が無限に飛び交う経済市場で神経を研ぎ澄ませながら株価の動向を見つめている株主たちのあの巨大な支配力に比べれば。

2005.11.6

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Cahier

    浜田公子    Bright window
 神戸でマンションを選ぶひとにとっては、南にむかって窓あるいはベランダがあるかどうかが、かなり大切な要素となる。白い町並みと青い海とその向こうに半島が見渡せる眺望は、確かに日々の生活にある種演劇的な喜びを加えるのだ。ここはことのほか窓がモノをいう街である。ならば光が充溢する大きな窓を描き続けてきた浜田公子さんは、まさに神戸の画家といっていいだろう。三宮のギャラリーほりかわで12回目の個展を開いた(05年11月3日〜8日)。
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 「林の見える朝の窓」そして「霞草のある朝」…。窓際にはシンプルな意匠のテーブルと椅子が寄り添い、これから朝食が始まるか、あるいは朝食が終わったばかりかの空気である。無造作に置かれている新聞が、すぐ近くにこの家の主人(たぶん女性の独り住まいだ)のいることを暗示するが、しかしコトリとも物音のしない静寂だ。そしてなによりもこの光の澄明さ。前夜の闇の中であらゆる汚濁が洗われて、朝の最初の日差しとともにすがすがしくも無垢な時間が現れたようである。ブドウの房も洋ナシもまぶしさで存在感が希薄になっているほどだ。
 そして面白いのは、その窓辺の希薄な静物たちが時刻とともにまるで意味を纏うように実在感を密にしていくことである。「夕暮れの窓辺」のリンゴの実はすでにたっぷりと熟れたようだし、「夜更けの窓」のユリ科の花はむろん清楚ではあるのだがひそかに誘惑の毒を放っている。このひとは時間の画家でもあるようだ。
 



KOBECAT 0019
2005.9.9〜20 神戸 ギャラリー島田
武内ヒロクニの部屋「ダホメイ・ダンス」

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――神々の高らかな哄笑――
■山本 忠勝


の異様な画家は前もって頭の中で準備した設計図に従ってこの作品をこのように描いたのだろうか。それとも溢れてくるイメージに身を任せて行方も定めず描き加えていくうちに結果としてこういう作品になったのだろうか。むろん想像するこちらとしては、奔放な夢想に没頭している少年みたいに画家が霊感の赴くまま海図のない大洋に乗り出してそうしてこんな気ままな航海日誌を書き上げたと、そのように信じる方が楽しいし、なにかしら晴れやかな気持ちもする。神の手のような正確なデッサンや隙のない構成が絵画に信用と気品を加えるのは確かだが、そうしてコントロールされた謂うところの真面目で完璧な作品にはどうしてもある陰鬱な雰囲気がつきまとう。自信たっぷりに自分の価値を押し付けてくることもないではないし、ときにはいささか事大主義に過ぎるようで、ときには中央集権的である。そういうのはいまどきどうも無粋な感じがするのである。その点、武内ヒロクニのこの奔放かつ夢想的な作品は、いやあ、完璧でそのうえ個性的じゃあないですか、などと矛盾に満ちた鈍重なおべっかを遣いながら自己嫌悪に陥っていく心配なんかまったくないし、原色が飛び交う絵の本性からして心が暗鬱になってしまう危険などもさらさらない。へええ、なんとまあ、これはまあ、と二言三言驚きの叫びを発しておいて(これは異端の芸術家への最小限の礼儀である)、そのあとは見るものそれぞれがおのおのの流儀に沿って勝手な夢想へ飛び立っていけばいいのである。されば、あどけないといっていいほどあっけなく少年性夢遊シンドロームに感染していく客人たちの横顔を盗み見しながら、画家自身もニンマリするというわけだ。武内ヒロクニの作品は決して美を閉じ込める厳正な座敷牢ではないのである。全方位へ開かれた、むしろ荒々しくさえある、無限への出口である。

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 ということはとりもなおさず、はなはだ困ったことなのだが、ここで今から取り掛かろうとしているような、言葉を前面に押し立てて作品を説明したり評したりすることがなかなか難しいということだ。言葉とはもともと相手を捕らえて幽閉しておく、いささか古びた牢である。それを存在の家などとスマートに言ってのけた哲学者もいるけれど、どうしてどうして、浮気を一度なりとやったことのある者なら(夫にせよ妻にせよ)家が蔵するあの排他的中央集権的偏執的な魔窟性をすぐに思い出せるはずである。後ろめたい心には、全宇宙より重たいドア! 武内の奔放かつ夢想的かつ開放的な空間とは生まれも育ちも違うのだ。だが、まあ、とにかく、ここには言葉しかないのだから、これでなんとかしなければ。
 男の顔のような鋭く角ばった形がある。女の顔のような卵型をした形がある。赤ん坊の顔のような真ん丸い形もある。城砦のような入り組んだ形もあるし、花をかたどったような一群の形もある。さらに、唇のようなもの。星のようなもの。なにか記号のようなもの…。顔だ、城だ、花だ、星だ、とはっきりとは言い切れないが、それに近い「のようなもの」で武内ヒロクニの絵画空間は満ちている。あざやかな赤の「のようなもの」。あざやかな青の「のようなもの」。あざやかな緑の「のようなもの」。あざやかな黄色の「のようなもの」…。ディズニーランドの登場で遊園地は現実とはまったく縁もゆかりもない架空の国になったのだが、遊園地がまだ現実に倣ったきれいな写し絵であったころの、どちらかというと半熟のあのやわらかなはなやぎ。本物の汽車のような形をした小さな美しい、しかしずいぶんと頼りなげにコトコト走る、つまりは本当の汽車ではない汽車のようなある綺麗なもの。本物の自動車のような形をした小さな美しい、しかしずいぶんと頼りなげにコキコキ動く、つまりは本当の自動車ではない自動車のようなある綺麗なもの。本物の飛行機のような形をした小さな美しい、しかしずいぶんと頼りなげにユラユラ飛ぶ、つまりは本当の飛行機ではない飛行機のようなある綺麗なもの。アニメの国の専属デザイナーによる精緻な設計図ないしはその忠実なコピーによって今やニセモノがホンモノと化してしまった定型的で凝固的な高度資本主義型の大遊園地(これはもう本物の嘘のお城だ)とはぜんぜん違って、どうかすると計算外の雑草が生えていたり、ミミズが這っていたりする流動的でいくぶん曖昧ないわば漸進資本主義タイプの発展途上型遊園地。平たくいえば遊園地自体がひとの目を盗んで勝手に新しい地図を増殖していく底抜け型遊園地。いろんな形といろんな色がカオス状に散乱するヒロクニ・ワールドは、まさしくこの底抜け型遊園地の流動性と曖昧性で満ちている。求心力より遠心力。秩序より無秩序。捕縛より脱出。あえて言い過ぎを犯すなら、永遠の愛の怠惰より瞬間的な不倫の熱情。
 だから十人のひとが見ればそこで十の物語が生まれるわけで、武内ヒロクニの作品を眺めることは、一枚の絵をみなで消費することでは決してなく、そのつど一枚の新たな絵をひとりひとりが生産することになるのだが、とはいってもどんな想像を生産しようがすべて勝手かというと、むろんそこにはオノズカラナル制約、すなわち基本法(憲法)のようなある方向性はあるのであって、それこそなにがあっても完璧な自由と完璧な平等を阻害してはならないという、絶対的倫理であり超論理的厳命である。厳密にいってどこからも中心を排した、つまり裏を返して言えば、周到に策略を潜めた彼のこの絵。すなわち首都のない国。そこからはこんりんざい独裁者は出てこない。彼の地図にあっては中央部も周辺部も等価である。どこもが中央部でありどこもが周辺部だといってもいい。徹底した多神教。相互になんの序列もないヤオヨロズノカミガミ(ガミガミではない、念のため)の混在、散乱、流動。
 画家がこの絵の比較的目立つ場所に、あざやかなピンクを用いて牡羊座の大きなシンボルマーク(のようなもの?)を描き込んだのは、ズバリ牡羊座の生態を念頭に置いての上でのことだったのか、それとも星座への思いなど頓着しないまま偶然にアルファベットの「T」ないしは「Y」のようなこの暗号が手先で閃いてのことだったのか。まあ、きっかけはどちらでもいいのだが、牡羊座(白羊宮)がここに現にあらわれたこの結果はじつに暗示的なのだ。春の訪れを告知する牡羊座はこの絵の豊かな生産性にふさわしく、まさしく天地創造を象徴する。しかもなんと愉快なことだろう、その天地創造なるものを教科書的なきれいごとだけで片付けることができないのは、この星座を思い浮かべるのとほとんど同時にこの星座のすこぶる複雑な性格が暗に立ち現れてくるからだ。この星座はこともあろうに万人に崇敬される金星(ビーナス)と乙女座がいたって嫌いなのである。美の矜持で輝く金星はことのほか調和にこだわり、端麗な乙女座は精確さにやかまし過ぎるからなのだ。いささか粗暴で乱雑で喧嘩早い白羊宮。だが動乱と創造、それは一つの絵の裏と表なのである。
 さて、この「T」型ないし「Y」型のエンブレムの左上方へ伸びるラインを仮に異人館の街・北野の方へ上る観光客たちの道に重ねて、反対に右上方へ伸びるラインを摩耶・青谷へのバス道(2系統)に重ねると、残る三本目の縦のラインは神戸の街を南北に走るメインストリートのフラワーロードということになる。これはシャレなどではないのである。ヒロクニ・ワールドには、どこか神戸の都市地図を思い起こさせるものがある。右から左へと画面を横断していく赤と黒の二本の線は、どう見ても阪急とJRの二本の高架鉄道だ。水色の縦の流れは生田川ではなかろうか。もちろん地理的な共通性ばかりが面白くて、こんなことを喋り始めたわけではない。この絵の非中心性と流動性、それは近現代史の中を浮遊してきた特異な街・神戸とどうも相似的に見えるのだ。日本の中の孤島である神戸。日本の中の孤島であるがゆえに世界をじかに漂流する島。無防備なほど外へ大きく開かれた街。絶え間なく流入と流出を重ねる街。絶え間なく流入と流出を重ねる絵。無限へと滑りぬける都市と絵画。
 武内ヒロクニの今回の一連の作品にはまとめて「ダホメイ・ダンス」というタイトルがつけられている。ジョン・コルトレーンの同名の曲からインスパイアーされたのが理由らしい。ダホメイとはアフリカ西部の国・ベナン共和国の旧名。不思議な豊かさを秘めている超民族的なあのブードゥー教のふるさとで、おびただしい精霊たちの住む土地だ。その精霊たちは日本の古代の神々と同じようにお互いの間に差別はなく共存共栄を愉しみながら大地に隈なく満ち満ちてこの世界に豊饒をもたらしてきたのである。
 とらわれのない神々の高らかな哄笑が聞こえてこないか。
 無限へと流れる大きな歌が延々と横切っていかないか。
個展「武内ヒロクニの部屋」は2005年9月9日から20日まで神戸市中央区山本通2のギャラリー島田で開かれた。武内ヒロクニ氏は草創期のグループ「位」(第1回展1965年)に属して、のちに独立。吉原治良をリーダーとする具体美術協会が作家の独自性を最大限に強調したのに対して、「位」は匿名性を重視して制作に取り組んだ。武内氏の今日の作品に見られる非中心性、流動性、無限性には、その匿名性の原則が発展的に継承されているように思われる。