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繭と星座

佐藤　聡 ---------------------------------------------------------------

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繭と星座　�@

停留所の標識がもう新しいのに替わっていた。 　円筒の形で立っているのはきのうまでのと同じだがこころもち胴が細くなっていて中が氷のように透けていた。 　青みがかった光である。 　薄青い光のなかに、これには少しおどろいた、青いバラが浮かんでいた。 　青い青いバラだった。 　海のようなバラだった。 　…海の奥のようなバラだった。 　むろん映像なのである。 　たぶん上から投影されているのである。 　下には四角な時刻表がこれも魔法みたいにまわりに触れることなく浮かんでいた。 　針のような繊細な字型である。 　運行ダイヤというよりはむしろ上のバラの解析表のようだった。 　電子の成分を数値にすればたぶんこのような端正な数列になるのである。 　バラはこの街の花だった。 　ひんぱんに見るのは赤バラだがほかに白バラと黄バラもある。 　場所によって花の色を変えている。 　青いのはたぶんこれがはじめてだ。 　後ろにははやくも長い列ができていた。 　もう三十人ほどが並んでいて最後尾は地下商店街の真昼のような開口部できれいな影絵になっていた。 　白い息が大量に噴き出てくる。 　噴き出ては中空で蜘蛛みたいなかたちになる。 　棘立った肢をくわっとひろげて襲うようなかたちになる。 　襲うかたちでかき消える。 　いのちのまぼろしのようである。 　予報の雪は来ないで終わった。 　それでも軽く三度は切っている。 　二月に入ったばかりである。 　寒気はまだまだおりてくる。 　前では七人が待っていた。 　これだけがさっきのバスを見送った。 　始発の停留所でも最終便が近づくときまってこのように混んでくる。 　今夜もあと六便ほどである。 　すぐ前は女であった。 　頭をきりっと塔のように立てていた。 　櫛の目のそろった髪が腰のあたりまで伸びている。 　黒びかりに光りながらまっすぐに落ちている。 　豪奢な黒…。 　コートの色も黒である。 　夜目にも切り立つ黒である。 　わかる、これは。 　シャネルである。 　すぐわかる。 　黒のなかの黒。 　…シャネルの黒。 　黒がこんなにまでシャネルなら、いうまでもない、肩から垂直におりていく直線もこれまた申し分なくシャネルである。 　水のように舗石へ向かって下っていく。 　むしろ天空から落ちてきた垂線がひとしきりコートのなかに潜入してあらためて大地に滑り入っていくようだ。 　滑り入ってまた先で滑り抜けていくのである。 　下でまた天空へ出るのである。 　天空から天空へ張られた弦。 　…黒い針葉樹のようである。 　それにしてもこんな稠密なカシミヤ織りのいったいどこからこのような微妙なにおいが透け出してくるのだろう。 　ふうっと体臭がのぼってくる。 　刹那のことだがそれでもはっきりそれとわかるにおいである。 　分泌物が膚へ滲み出しているのである。 　滲み出して体温であたたまる。 　あたたまって蒸散する。 　蒸散してコートの中で飽和する。 　飽和しては洩れてくる。 　結構まとまった量になって洩れてくる。 　澄んだ空気がすこし濁ることになる。 　異臭？ 　むろん芳香とはいえないがかといって異臭というほどのむごさはない。 　腐敗ではないのである。 　むしろ踏みとどまっている果実？ 　熟れ落ちる瀬戸際で。 　というより、臓器？ 　むろん臓器。 　すこしばかり熟れすぎた？ 　わるくない。 　葡萄も桃も崩れそうになってなおさらよくなるものがある。 　このまま嗅いでいたいほどである。 　でも、…濁り？ 　濁りは、濁り。 　あげつらうわけではない。 　さしあたってはそういうほかにうまい言いかたがないのである。 　ぴったりの形容がみつからない。 　ちょっと、失語。 　失語、…つまりは。 　いささか、どうも、…すこし面倒なものが前にいるというわけだ。 　厄介なものにくっついてしまったというわけだ。 　厄介な、…もの？ 　もの？ 　…物？ 　からだ？ 　肉体？ 　むろんそう呼んでさしつかえないのだがいきなりそんなふうに呼びかけるとこのものはたいがいそこからすりぬける。 　するりと向こうへぬけていく。 　間がひらく。 　といったとたんにもうここにこんな隙間ができている、これが早くもそれなのだ。 　すでに深い裂け目である。 　すばやく向こうへ遠のいた。 　と、いっても。 　むろん。 　消えてしまうわけではない。 　消えるどころか。 　…どころか、これは。 　どうも、これは。 　逆の目、だ。 　遠のいて前よりくっきりとそこにいる。 　もっとやわらかなものとなってそこに立っているのである。 　分泌が全体でおこなわれていることもこれだとずっとわかるのだ。 　むしろカタツムリなのである、これは、もう。 　そればかりか。 　微小な毛、微細な穴、それら毛という毛、穴という穴がこの間断ない湧出でしっとりと濡れていることももうわかる。 　…むしろマリモか、なら、これは。 　無数の皺と無数の襞と無数の毛と無数の穴に覆われた、このマリモ。 　…というよりは、ひとつの森。 　森。 　…濡れた森。 　森には大きな穴もある。 　森の奧の大きな穴。 　いうまでもない。 　生殖器、さしあたってはそのように呼ばれるもの。 　濡れている深い穴。 　そのあたりは、ただ、さらに敏捷にできている。 　もっとすばやくすりぬける。 　もっと遠くへすりぬける。 　追いつけない、そこは、もう。 　言葉では、もう、なかなか。 　…あんなもってまわった言いかたがやっとなんだから、イザナキでも。 　正真正銘の、ここは、失語。 　失語の穴…。 　待て、だが。 　そこからはもうしゃべるな。 　ここで今夜はおしまいだ。 　上で禁忌の竜がみはっている。 　早くも目の前へおりてきた。 　鱗の尻尾を天空へ垂直に突き立てて口から黒い炎を吐くのである。 　こういうやつだったのか。 　シャネルの。 　守護神。 　みおろすのだ、傲然と。 　この黒を辱める？ 　こんなに気品に満ちているこの黒を。 　無作法なことである。 　この垂直線を貶める？ 　こんなに聖性にかがやいているこの線を。 　みのほどしらずなことである。 　わきまえるべきなのだ。 　この黒とこの垂線、ふたつの記号のたぐいまれなこの力を。 　むしろ聖職者の記号である。 　大きな仕事をするのである。 　隠すのだ、世俗の肉を、ことごとく。 　埋める。 　覆う。 　埋葬する。 　底へ。 　…ほんとういうとシャネルは匂いも洩らしたくなかったのである、たぶん。 　この記号を着るものはわずかだが空中に浮き上がる。 　高いところからみおろすのだ。 　蔑む、あたりを、すこしだが。 　とはいえ、これが聖職者の記号なら…。 　背中のほうに悪魔の記号がはりついているはずだ。 　ふたつは同じ脊椎から生まれでる。 　ふたてにわかれて鏡のように仕事をする。 　双生児なのである。 　ふん。 　問題ない。 　ぴったりだ。 　シャネルが黒のコートを女たちに贈ったとき隣では総統がまさしく黒服と呼ばれる軍服を親衛隊の選りすぐりの若者たちに揃えていた。 　…金髪碧眼をずらりと並べた一隊に帝国きっての名誉の制服。 　国境をはさんで同じ直線、同じ黒。 　死神が陰でデザインに手を貸した。 　やつはなかでも制服が得意である。 　胸と背の前後の身ごろを空に聳える氷壁のように裁断する。 　垂直線が死の恐怖をくるっと死の願望へ向けるのだ。 　英雄を量産する垂直線。 　最大の意匠家なのである、死神は。 　幻視者にして創造者。 　この宇宙で最高の。 　そして美食家、この宇宙で最大の。 　大食漢。 　パリの軽やかな女たちを宇宙の針葉樹に化身させたのはシャネルである。 　同じころ総統は容姿神のごとき若者たちをベルリンで地上の死神に変えたのだ。 　隣り合わせに並んだ傑作。 　目がくらむ。 　鏡の部屋だ。 　みえない、奧が。 　ここでは国境などもうなにほどのものでもない。 　くらくらする。 　…大声で笑っているのは、これは幻聴？　それとも悪魔？　聖職者？ 　みえない、どこも。 　いや、みえる。 　じつは、みえる。 　こんなにみえる。 　目をつむればすぐわかる。 　鏡。 　こいつは、いうまでもない、みせかけだ。 　からくりが仕込まれているのである。 　肉という肉がどれもまるごと埋葬された、というわけではないのである、じつは。 　埋められたのは肉は肉でも機械のほう。 　はらむ機械が埋められた。 　出産する肉だけが隠された。 　とても巧妙なのである。 　機械から剥がれたものがある。 　影。 　影、…だ。 　肉の影。 　浮き出てきた。 　ずっしりと重い影。 　…鉄よりも重い影。 　ねっとりと匂う影。 　…薔薇よりも匂う影。 　ごうごうと燃える影。 　…鬼よりも燃える影。 　その影を、影のありかを、それはここだ、その影はここにある、とそうほのめかすのである、このシャネルの針葉樹は、…慎ましくも控えめに、つまりなおさら入念に、ゆっくりと。 　執拗に。 　濃厚に。 　そこだ、ほれ。 　指し示す。 　そうだ、そのあたりだ、そこにある。 　そこ…。 　ないわけがない、むろん。 　影こそ淫蕩なのである。 　ここだ、ほれ。 　ほれ、ここのところ、浮かんでる。 　覗き込めるところにある。 　崖っぷちの下にある。 　犬鷲の巣のように。 　岩の割れ目に。 　錯雑な巣。 　…近い。 　じつはこんなに近いのだ。 　あまりに近い。 　…近すぎる。 　塔のように立っている頭部の下、五十センチ。 　六十センチ？ 　わずか下。 　ほんの、そこ。 　ほとんど、もう、覗き込んでしまっている。 　ほとんど、…もう。 　みてしまっているのである。 　この頭がいま不意に振り返りでもしたら。 　あっ。 　ばつのわるい目になってしまうにちがいない。 　頬がこわばってくるだろう。 　口もひきつってくるだろう。 　逃げをうつのは今度はこちらのほうである。 　わあ。 　いますぐそうなるかもしれない。 　あぶないところにいるのである。 　猜疑でいっぱいのまなざしが放たれてくることになるのである、すぐそこから。 　なんなの、あなたは。 　照らされる。 　炙り出される。 　棒立ちになる。 　当然だ。 　みくびってはいけなかった。 　長い髪をしたこの小高い丘。 　砦なのである、…ほんとうは。 　固い城砦。 　なんだって？ 　シャネルだ？ 　総統だ？ 　近い？ 　遠い？ 　違う。 　ばかだよ。 　たわごとだ。 　みな、そっくり、たわごとだ。 　禁忌の砦なのである、この丘は。 　寄せつけないのだ、はじめから。 　…結界、黒い髪できっぱりと仕切られた。 　その証拠にこの丘では夜々秘密の儀式がおこなわれているのである、油断なく隠されて。 　熱いささやきが丘の奧へ吹き込まれる、むしろ裏へとうったえる祈りのように。 　…原初の隠れ神たちをすぐそこへ呼び寄せる作法にも似て。 　このうえなくやさしい指が丘の上を遊弋する、むしろ魔を誘い出す秘術のように。 　…降魔にいそしむ黒司祭のまさに熟達の手順にも似て。 　熟れていく時間。 　いや時間が熟れることはない。 　熟れるのは皮膚である。 　臓器である。 　血流だ。 　微熱が奧から満ちてくる。 　みちて、みちて。 　みちて、盈ちて。 　あふれて、溢れて。 　充ち足りる、溢れるほど。 　…充ち足りた。 　やがて眠りが月のように疲れた丘にのぼるだろう。 　丘が丘のなかへ翳るだろう。 　丘が丘のなかに閉じるだろう。 　…もうこんなに閉じている。 　拒絶する丘。 　みんなたわごとだったのだ。 　なにひとつわかっちゃいないのだ。 　どこから来たか。 　どこへ去るのか。 　不意にあらわれたのである、いまここに。 　それだけだ。 　漂う丘。 　流れる丘。 　…浮き丘。 　ここで生まれたものではない。 　ここの出来事ではないのである。 　知るものか。 　夢だ、夢。 　幻だ、つかのまの。 　…それでも。 　それでも、だ。 　それでも、…まだ。 　それでもまだこれは墓ではない、ないのである、まだ、たぶん。 　古墳の丘ではないのである。 　牡蠣みたいにきつく閉ざされてはいないのだ。 　気温三度。 　この寒気。 　…望みはある。 　いまここにひとひらの雪が舞えば事情はおそらく一変する。 　雪は夜空から光のように下ってきてするりとこの城砦に滑り込む。 　滑り込むところが透けみえる、ありありと。 　肉のなかを輝きながらおりていく。 　血に落ちてそこでしゃりっと溶けるのだ。 　溶けるまぎわにするどい結晶が浮かび出る、あの精緻な、六角形の結晶が。 　この世のものとはおもえない豪華な花、一瞬の。 　そしてそうなったからにはもうこころゆくまで愛することができるのだ、この丘を。 　愛してもいいのである、すでにこの世のものではないのだから。 　月でもいい。 　雪雲を引き裂いて冴えざえと出てくれば。 　月光は丘を覆ってなかんずく奧の骨を銀色の樹木のように輝かせることだろう。 　骨も血も肉も光になる。 　体がそっくり光になる。 　どんなに抱こうといまや責めるものはないのである、ただただ光なのだから、もうそれは。 　大きな幸福がおとずれる。 　だったら、待ってもいいじゃないか、すこしくらい、いまはもう。 　このときしかないと慌てることはないのである。 　急ぐのも手。 　待つのも手。 　しばらく待てば梅が咲くのである、眼球に。 　たちまち花に変わるのだ、体ごと。 　…そう、このにおい。 　砦をぬけてくるこの匂い。 　この匂いも、そうなのだ、すでに丘を横切り始めているもの最初の発熱なのである。 　いま皮下をゆっくりと渡るもの。 　春の先駆け？ 　そうか。 　いまちょうどふたつの季節がこの丘で出遇っている。 　ここを去ろうとしているものととここへ移ろうとしているもの。 　白姫？　佐保姫？ 　氷の帯を凛と締めて旅立っていくものと霞のかづきをなびかせながらあるじの座にすわるもの。 　いかにも二月。 　そうだった。 　この街では二月になるとこんなふうに決まって女が匂いだす。 　まさしくこのように匂うのだ。 　早いのだ、花よりも。 　黒い街路樹に見え隠れしながらバスが明るい窓を運んでくるのは深夜の舗道を徘徊する遊覧船のようである。 　乗り込んでからももちろんにおいのそばにいたかった。 　かの女はけれど足早に最前部の座席へ行ってしまってそれで先の客たちが周りを囲む柵のようになったのだ。 　間をつかみそこなった。 　ちえっ。 　肝心なところへくるといつも決まってこうなのだ。 　遅れをとる。 　また、とった。 　詰めの勝負に弱いなあ、おまえ。 　すると声、…声までする、声までした。 　はっきりと。 　がらがら声。 　あの声だ。 　こういうときにすかさずきこえてくる声である。 　なんでそんなに甘いんだ、おまえ、ここというときに。 　なにしろ面と向かってそう言われた。 　デスクに、だ。 　駆け出しのころだった。 　記憶の棘。 　こんなところへまたしても。 　むろんへまだった、たしかに、あれは。 　秋の真っ青な空だった。 　その空へ向かって大量の煙が貨物船からのぼっていた。 　魔のものが天へこぶしを突き上げて毒づいているようなそんな真っ黒な煙であった。 　幾本もの放水が海と岸から架かっていて細かなしぶきが霧のように降っていた。 　このような場面にぶつかったらなにをおいてもまず電話で一報を入れること。 　それにしても、このうわずった声、こころぼそそうなこの声は、いったいだれだ。 　ふるえが止まらないのがなさけなかった。 　とうにみすかされてしまっている。 　つっかえつっかえやっと二十行ほどを吹き込んだ。 　…やれやれ、終わった。 　ほっとした、ともかくも。 　その矢先のことだった。 　マストから男が落ちるのを見たのである。 　変にふわっと落ちてきた。 　ほんとういうとほとんど見てはいなかった。 　黒煙のまっただなかを同じように黒いしかしなにかぐにゃっとした塊りが落ちてきてそれがもう船舷の内側へ隠れそうになってから、それどころかもうほとんど隠れてしまってから、ようやく気がついたのである。 　甲板へ火が立ち上がってこようとするもうまぎわのことだった。 　ひとが？ 　まだ？ 　そんなところに？ 　あんな空のまんなかに？ 　あんな空のまんなか、から？ 　死んだのか。 　…ぞっとした。 　確かめる手立てがあたりにはもうなにひとつないのであった。 　いま起きたばかりのことなのに起きたことのかけらすらも見つからない。 　煙だけがいちだんと濃くなってのぼっていた。 　いちだんと高くのぼっていた。 　みんな閉じてしまっていた。 　あんたに見えた以上のものが見えるわけはなかろうが、われわれにも、と鑑識の小柄な係長が白髪を帽子の中へ押し上げながらそう言った。 　けっきょくのところ、とすこし笑いを含んだ顔でつけ足した、燃えてるさなかは何も見えん、このとおりだ、しかたがない、やっとこさ見えてくるのは、燃え尽きて、水かけごっこももう終わって、さて、なにもかもがみいんなあとの祭りになって、それからだ。 　炎の穂先が、ぱっ、ぱっ、と黒煙の襞に沿って昇っていくのがまるでひとだまのようだった。 　黒い塗料があちらこちらで沸騰した。 　潰瘍みたいに膨らんでは溶け落ちた。 　穀物の焼ける異臭がこれはたぶんもう埠頭全体をおおっていた。 　…で、眺めていた。 　眺めているほかないのであった。 　腕の時計もすっかりおとなしくなっていた。 　ついさっきまではクロームの秒針が、今はここだ、この位置にいる、この時刻の上にいる、と金切り声でさけびつづけていたのだが。 　もうあきらめてしまったようにただの水車になってくるりくるりと回っていた。 　いまやそれはすこしばかり手の込んだ水量計でしかないのであった。 　足もとの石畳がおそろしく遠くにみえた。 　崖っぷちに立ったみたいでいまにもめまいが来そうであった。 　ぐらっと揺れて前へのめってその遠い石畳へ頭から突っ込んでいきそうにおもわれた。 　頭がかぼちゃみたいに下で砕けることだろう。 　脳髄のかけらがそこらじゅうに散乱する。 　…それとも石畳のほうが先にひらいてそのまま吸い込まれることになるのだろうか。 　もうどうやらいつもの埠頭ではないのであった。 　黒煙の向こうに浮かんでいる海の塔、その銀色の塔もいまはじめてみるもののようにぎらぎらと光っていた。 　ふつうならあんなにぎらつくことはない。 　真っ青な空はもうまちがいなくはじめての空だった。 　成層圏がそこまで下りてきているようなじつにきれいな青なのだ。 　こんな濁りのない空が港の上にあったためしはないのである。 　知らない場所がぽっかりと口をあけて気がついたらもうそっちのほうへ押し出されてしまっていてそれでここにこんなふうに突っ立ったままでいる。 　そんなあんばいだったのだ。 　銀色の塔の向こうにぽっと浮き雲があらわれた。 　あらわれてすぐ消えた。 　時間だ、とそう警告する印しだったようでもある。 　時間、だ？ 　なんの？ 　締め切りの？ 　しめきり、ってか。 　もう遠いところでのことだった。 　すっかり外でのことだった。 　しかし、おまえ、とうんざりした顔でデスクが言った、見てたんだろう、そのふたつの目ん玉で、火のなかへ落ちるのを、…わかってるだろ、そこんところを書き落としたらうちにとっちゃあ致命傷だ、地元だからな、締め切りもむちゃを承知でよそより十分も延ばしている、勝負するときはやらんとな。 　刷り上がった夕刊にはちゃんと転落死の一項が入っていた。 　テレビの中継をモニターしながらサブデスクが書き足してくれたのだ。 　カメラマンたちがこぞって拝跪するあの新鋭機、メドゥーサの眼球がヘリコプターからズームでとらえていたらしい。 　男は甲板に仰向けになったまま赤く黒く燃えつづけた。 　体ぢゅうから火を噴き出す不動明王のようだった。 　くそったれ、これしきのことでまたあのときを思い出す。 　…棘。 　記憶の棘。 　それでけっきょく斜め後ろのそれも二列も隔たった席に座るのがやっとであった。 　黒い髪が車内灯でむしろ青く光っていた。 　匂いは来ない。 　六人もの柵。 　女は、…遠い。 　手前の男がひょいと中折れ帽を持ち上げた。 　完璧な禿げ頭があらわれた。 　ここにはこんな、蛸坊主まで出てくるのか。 　てっぺんを指先でこりこり掻いた。 　くるりと撫でてまたかぶった。 　女がもっと遠のいた。 　遠のいたばかりかすこしのあいだ消えさえした。 　脱ぐな、二度と。 　かの女の前はアクリルの仕切りをはさんでもうそこで運転士のとがった肩が動いていた。 　アクリルは二重がさねで中に美術展のポスターがはいっていた。 　ばかに大きな森の絵で分厚い樹海が地平線近くまでつづいている。 　夕闇が根もとのほうから立ちのぼりはじめていてすでに樹間は暗かった。 　なかに汽車が停まっていた。 　真っ黒な汽車だった。 　微光をとどめている木の肌もわずかに漂い出る葉の艶もほんもののようによく出ていた。 　ほんものよりきつく目の奥へ浸みてきた。 　鉄のざらっとした肌理も砂のようにもうてのひらに届いている。 　…オフセットの過剰な進化で細部ほど却って切り立ってくるのである。 　いまやそれはあらぬ場所に切り込まれたもうひとつの窓だった。 　真夜中のバスにこじあけられた落日の森だった。 　どうやらかの女もこれがめあてでその席へ急いだらしい。 　もう頭が動かない。 　針葉樹の森だった。 　…三角の樹形が槍衾のように並んでいるのはおそらく全部モミである。 　じつはとてもいびつに描かれた森だった。 　遠近法がこれはもう力づくでひっつめられているのである。 　手前の樹木は樹齢何百年かとおもえるほど太くてごつごつとした幹なのに少し先ではそれらがもういっきに縮んで微細な針の並びになるのである。 　極大から極小へ転げるように滑り降りていくのである。 　墜落するように奥へ突っ込んでいくのである。 　もうそこに地平線があらわれる。 　すぐそこがすでに遠方なのである。 　ゆがんだ森。 　ひずんだ窓。 　…もっともこういうことは、なにも、まあ、これがはじめてなわけではない。 　はやいはなしが、あのアリス、…あのおませなアリスちゃん。 　あの、ちゃん、ったら、ほら、白うさぎの穴の中であんなに伸びたり縮んだりしたのである。 　あの子ならこういう窓もきっと覗いていたはずだ。 　とてもすてきなことなのよ、こういうことって、わたし、いいわすれていたけれど。 　えっ、あの長い髪の後ろ頭が、そのアリス？ 　もう来ていた？ 　それはない。 　少女が美しい女になりおおせたのはたしかだがここまで切れのいい体に絞り切るのはこれはちょっとむずかしい。 　それにあの子だったらとうに百五十歳を超えている。 　首尾よくここへ来れたとしてもそれは骨と皮だけのミイラになってのことである。 　鬱蒼とした森は鉄道の幅のぶんだけすっぱり切り開かれていた。 　単線の線路がまっすぐに地平線へ伸びていてその先に細い月がのぼっている。 　汽車は石のプラットホームに停まっていた。 　大きな図体の展望車をつないでいた。 　展望車にはぎっしりとツタの浮き彫りがしてあった。 　オープンデッキの鉄の柵にも庇にも厚手の葉っぱがうねうねとまといついているのである。 　森のなかのもうひとつの森だった。 　庇の下がぱあっと黄色の光で鮮やかなのはそこにガラスの扉と大きな窓があるからだ。 　中はサロンふうのしつらえでテーブルにはひとかかえほどの白磁の花瓶がのっていた。 　花瓶にはザクロの枝が挿してある。 　青あおと繁っていていくつもの実がなっている。 　実の裂け目には真っ赤な粒が真珠みたいに光っている。 　森のなかの、その森のなかの、…さらに森、か。 　ところで、ひとは？ 　ひとの気配は？ 　ない、それが。 　デッキにもサロンにもひとの気配はまったくない。 　…寂しい。 　どこも寂しい。 　むろんそんな森もそんな列車もそんな夕暮れもあるわけない。 　あるわけはないのだがそれだけに却ってどうもこれが厄介なのである。 　あるはずのないものがそんなにありありとそこにあるこいつがどうも困るのだ。 　…さかのぼればすでに二週間ちかくもそれはそこにある勘定になるのだが今夜もはじめてあらわれたもののようにそこにあるのはまだそれほどありありとそれがそこにあるからだ。 　赤い二つの尾灯にはわずかにレンズのような膨らみがついている。 　そんな微妙な膨らみがこの後ろからでもはっきりと見てとれる。 　ひとすじの残光が線路の上を絹糸のように走っていく。 　それもほとんど森の出口まで追っていくことができるのだ。 　繋ぎ目に溜まった光は水銀の精緻なしずくのようである。 　転轍機には鉄錆が群島の群れのように浮かんでいる。 　砂利の頭にもいちいち微細な光がある。 　かの女がそこにいるのと同じほどみなありありとそこにある。 　ひょっとするとかの女以上にそこにある。 　ありあまるばかりにそこにある。 　ねじれが起こりそうなのだ。 　ごつっと堅いねじれ目が瘤のように体の底のほうに生まれ出る。 　海の底に湧いて出るウニのようにどうも棘だらけの瘤である。 　そいつが肉をぐいぐい押し分けて喉をめざしてのぼってくる。 　声帯のあたりにひっかかる。 　ひっかかってそこでとんでもないことを口走らせようとするのである。 　ばかな。 　…しかし。 　きょうここでこうしてこの森をこんなにありありとみたからにはまさしくいまこのようにみたことであしたにはもうこの森はずっと昔にみたことがある、すくなくとも十年かそこら前にみた、あるいは少年のころだったかもしれない、ともうあとさきもかんがえないで、おい、なにをとつぜん血迷った？　そう口走ってしまいそうなのだ。 　あしたでさえそうなのだからあさってにはまた輪をかけて悪くなる。 　この森のこの駅にはじっさい降りたことがある、あれも夕暮れのことだった、あのときもこれと同じ細い月がのぼっていた、とそのときにはもうそこまでいってしまいたくてうずうずしているにちがいない。 　それでもそんなふうに日を置きながら悪くなっていくのなら瘤はまだ良性のうちだろう。 　おそらくそんなものではないのである。 　そんな悠長なものではない。 　ここではすでにこの今、この今だ、じつは何百倍も何千倍も見た目より多くのことが起こっている。 　モミの大樹の根もとでは野ねずみが鼻をひくひくさせながらいましも穴から顔をのぞかせたところだし高い枝ではちょうど一羽のオオタカが翼に風をはらませながらふわりと舞い降りたところだし樹間ではふいにオオカミが立ち止まって奧へ聞き耳を立てたところである。 　とりわけ腐葉土のすぐ下では大小の昆虫とその幼虫さらには魔物の腸管から生まれたような多足類や鋏角類や環形類の生きものたちがごそごそと這い回っているはずでどこを掘ってもそれら異形のものたちの不気味な肢がゆらゆらとうごめいているのがみえるだろう。 　寂しげなこの列車にしてからがいまは展望車にたまたま人影がないだけで前の車輌を覗くならどれも旅の客たちでいっぱいでちょうど晩餐の献立に移ったところの食堂車ではたくさんの会話そして笑い声に遭遇してたぶん面食らうことになる。 　みるがいい、はるか向こう、夕空の一角では、いままさに渡り鳥の一団が地磁気と太陽の風を正しく手繰って遠い海へ急いでいる。 　森はにぎやかなのである。 　沸き立っているのである。 　覆いつくされているのである。 　すべてが出揃っているのである。 　こことおもうところをめくればいい。 　どの穴にも豊かな奥ゆきがあらわれる。 　それどころではない。 　すでになつかしささえ湧きあがってくるのである、それも灼けるような懐かしさが。 　石のプラットホームが、そら、あんなにもあかあかと燃えるのだ。 　そう、あそこでかの女と待ち合わせた。 　まだそんなに遠いことではない。 　ふたり並んで森を歩いた。 　月が枝々でちらついた。 　こつんと腰の骨をぶつけてきたので腕を深く組みなおした。 　道からそれた。 　池のほとりで抱き合った。 　木に押しつけて口づけした。 　腐葉土の上に転がった。 　下だけ脱いだ。 　別れたのもこのプラットホームでのことだった。 　汽車はゆるゆると出ていった。 　かの女はデッキに立ってずっとこちらをみつめていた。 　後ろの窓がまぶしくてふたつの眼球が影の奥から睨んでいた。 　すこしずつすこしずつ速度が上がってやがていっきに加速が始まった。 　急速に小さくなった。 　すでに一点の光であった。 　…出ていった。 　いま女は夕暮れの窓に寄り添ってあの夜の一部始終をおもいだしているのである、たぶん、後ろでおもいだしているのと同じように。 　だれもいない森の駅に置き去りにしたのであった。 　すぐさま闇のなかにみえなくなった。 　向こう側へ落ちてしまったようだった。 　いっしょにいたのがもう嘘としかおもえなかった。 　それがいまにわかにここで追いついて三列ばかり後ろの座席から睨んでいる、それにはまだ気づいていないのだ。 　ずいぶん遠回りをしてようやくここへきたのである。 　…木星の裏側を回ってきさえした、かもしれない。 　あたりもそのあいだに変わってしまった。 　気づいてくれるだろうか、いまでもまだ。 　ない、それは。 　ない、決して。 　詰めの勝負に弱いなあ、おまえ。 　また、か。 　いちどきこえるとなかなかやまない声なのだ。 　やんでくれない声である。 　消えたとおもったらまたこんなふうにあらわれる。 　また引き戻されることになる。 　ちっ。 　あんなもの、憶えているものなんかもうひとりもいないのに。 　三千トンばかりのそれも廃船まぎわの老朽船が火を出しただけのことである。 　港のなかでもとうに見捨てられてしまっている内航埠頭でのことなのだ。 　高速道路に荷を奪われて西はずれの岸壁はもののみごとにさびれてしまった。 　赤黒い煉瓦の倉庫ががらんどうになって並んでいるのが死者の口のようである。 　係留点ごとのボラードも古煉瓦みたいなざらざらの錆を浮かべていまは墓標の列である。 　重量級のタグボートが前を過ぎていくときだけ波のかたまりがずしんずしんと寄せてきて落魄の眠りを揺するのだ。 　ごくまれに近海航路のばら積み船があのように接岸しはするけれどああいうことがないかぎりそれも夢のように去っていく。 　死んだのもけっきょくあの男だけだった。 　せいぜい見習いでしかない若い甲板員がただ一人。 　発作の兆しはすでに入港前からあったのだ。 　内海への水道をのぼりはじめたときに事務室でぼやが出た。 　事務長を廃してからずっと空いていたのたがいまは語学の器材を入れて研修室に充てていた。 　報知機ががんがん鳴ってもうもうと立ちこめた煙の奥で屑入れが小さな炎を吐いていた。 　さいわい缶がアルミだったので中の紙屑が燃えただけでおさまった。 　いちおう聴き取りはしておかないとと一等航海士はこころづもりをしたようだが甲板長がその場でいきなりわたしのたばこだったかもしれないと申し出た。 　すると調べることはもうなかった。 　かたちばかりの始末書が船長室へ上げられてそれでけりがついたのだ。 　航海士の部屋を若い甲板員が叩いたのはその夜のことだった。 　常夜灯だけの暗い廊下に蒼黒い顔が浮かんでいた。 　中へ誘ったが入ってこようとはしなかった。 　まだ片言でしかない日本語を懸命につないで言った。 　火の神が船に来ている、マストにおりてきたところをぼくは見た、昼間の火事はあれのしわざだ、まちがいない、ぼくではない。 　航海士は面食らったがたぶんやさしい笑みをつくってこうこたえた。 　もちろんだ、だれも君のことを疑ったりはしていない、ボースンがじぶんの不始末だったといっている、いいからもう戻って寝ろ。 　切羽つまった目とその目を泥炭の沼のように窪ませていた紫の隈。 　航海士がそれを思い出したのは男が空から落ちてくるのを見上げたときのことだった。 　黒煙のなかをなお黒い蝙蝠のように落ちてきた。 　…そこのところを航海士はとくにそんな譬えで供述した。 　だったらむしろ穴が落ちてきたのであった、おそらくは。 　夕暮れの空からはらりと落下してくるコウモリみたいに。 　墜落してきたのであった、暗い穴が鳥のかたちで。 　するとあれも穴だったのだ、あのときすでに、航海士を夜中に訪ねてきたあの顔も、…顔だけではない、あの体ごと、細身の、華奢な、まだ少年のようなあの体ごと。 　気づけなかったのは顔はまず顔のなかへ落ち始めるからである。 　体が体のなかへ落ち始める。 　折り畳まれていくように。 　陥没していくのである、ひっそりと。 　井戸へ、内部の。 　晴れ渡った秋空に仕上げのようにありありと現われたのはその井戸だ。 　いま下にあるのは鋼鉄の甲板だった。 　ようやくここでかたがつく。 　はらりと裏返りながら墜落した。 　…砂時計の砂のように中心へ裏返りながら墜落した。 　もっと心を向けておくべきだった、あの夜のかれの目に。 　早ばやと追い返してしまったことを航海士は後悔した。 　むしろいたわったつもりだったが。 　目の奥を丁寧に覗いていれば燃えさかる小さな火をみたかもしれない。 　炎のなかで火の神が踊っているのをみたかもしれない。 　ただ神々のただならぬ策謀がその奧にあったとしても表で起きたことは単純だった。 　燃えた、落ちた、死んだ。 　新聞が欲しいのは、いうまでもない、いつも単純なほうである。 　ひと目でわかる筋書き。 　満員電車の吊り輪にすがって片手にたたんで読める行数。 　電子版なら指先をほんのちょっと動かすだけで足る範囲。 　疎ましいことなのだ、深入りは。 　美しい朝が窓の外を走っていく。 　せっかくの朝である。 　これを壊す？ 　素人のやることだ。 　上澄みだけを掬うこと。 　少量を、濁さずに。 　あしたの続報に書くこともじつはすでに決まっている。 　待たれている環をぴたりと寸法どおりに嵌めること。 　待たれている環はこの場合わずかにひとつなのである。 　放火の疑いもある。 　この八文字。 　筋書きなのである、これはもう。 　あとは捜査官からそれを引き出すだけである。 　ひとこと取れたらその先はもう要らない。 　島を出てきた若者の孤独な錯乱。 　南緯一三度に浮かんだ珊瑚礁の白い島、それがかれの故郷であった。 　まだやっと二航海目だったのだ。 　黒い海流に乗ったところで壊れはじめたようである。 　なにより不気味だったのは、海では錯乱がよくこのようなかたちをとる、体がずんずん膨らんでいったことである。 　仮借なく膨らんだ。 　急激に膨らんだ。 　船室からあふれ出た。 　海洋へとひろがった。 　水平線を超えて出た。 　とうとう惑星を覆ってしまった。 　それでも止まらないでさらに宇宙へと肥大した。 　怪物になっていったということだ。 　火の神に？ 　火の神どころか…。 　そんなところまで書くとなると短く見積もっても海難審判まで追っていかないといけなくなる。 　海難審判でも終わらない。 　まだ先、ずっと先、おそらくは精神科の診療室。 　ひょっとすると、まだその先。 　むしろ物理学の研究室。 　そこでは風景が変わるのだ。 　体の輪郭がぼやけていく。 　ぼやけて最後には消えていく。 　臓器のかたちも薄れていく。 　薄れてこれも消えていく。 　いまはもうそのあたりに粒子が浮かんでいるだけだ。 　…かれもつまりは微粒の集積だったのだ。 　そのあたりに波動が漲っているだけだ。 　…波のひろがりだったのだ。 　もういまは星とみわけるのもむずかしい。 　ひろがっていくのである、…いったのだ、はてしなく。 　ひらかれていくのである、…いったのだ、はてしなく。 　ひらいていった、宇宙へと。 　…花。 　花になっていったのだ。 　おかしいのはそういうときになってさえこの若者はいぜん匿名で扱われることである。 　みじめな墜落者にはそんなふうにきっちりと不在証明が切られることになっている。 　手厚くそこに隠される。 　こちら側のそれがきまりなのである。 　匿名というこの堅固な墓標。 　中へ押し込められるのだ。 　押し込められてそれで、かえって、…突き出てくる。 　つまり縛りつけられているというわけだ、まだそこに。 　消えきれないでいるのである。 　ひらききらないでいるのである。 　ふつうならもうほとんどみえない影となって銀河を渡っているはずなのに。 　もう星座とみわけがつかなくなっているはずなのに。 　幽霊となってまだそこにいるのである。 　たった三千トンの老朽船のことなのだ。 　幽霊とまではつきあえない。 　ほどほどだ、引きどきなのである、もういまは。 　あとひとつ続報を朝刊に送ったらそれでこれとはおさらばだ。 　なに？　孤独な死ほど大きな死だ？ 　それがどうした。 　みすごしてしまってはのろまだがみすぎてしまうのも気のきかないことである。 　あらいざらいを書かないでおれないあほうがときどきいる。 　書けば書くほど原価が落ちていくのがわからない。 　一行の値打ちが下がる。 　紙がそれだけ軽くなる。 　…上げ底はそのうちてきめんにみぬかれる。 　ゆくゆくは給料にもひびくのだ。 　むろん株主の配当にも。 　だらだらと書くんじゃないよ、紙面で哲学なんかしてもらっちゃあ困るんだ、研究紀要じゃないんだから、あったことをあったとおりにあっただけ書けばいい、あなたさまのご高説？　はいはい、なにも書かんよりなお悪い。 　新入りの記者たちにデスクが一度はそう怒鳴る。 　迂回するな。 　まっすぐだ。 　測地線を突っ走れ。 　焼けただれた船に残っているのはこのさき賠償と保険の問題くらいである。 　損益計算書と貸借対照表の上を数字が動くだけである。 　足し算と引き算の繰り返し。 　罫線上のロンド。 　そんなもの、だれが読む。 　…あとは内輪の海運紙が書けばいい。 　夕方には刑事課長がコピーの束を小脇に抱えて記者室へ降りてきた。 　放火か、と尋ねると、その疑いはある、とたやすく言質がとれたのでそれでもう訊くこともなくなった。 　もらったコピーを短く書き直して原稿は仕上がった。 　要するに序の口の仕事である。 　仕事？ 　いいや、仕事ですらない、あんなもの。 　あの程度ですむのなら警察回りは遊びである。 　あったことだけでいい？　なんのなんの、そのあったことだけ、そのだけというのがなかなか曲者なのである。 　だけはだけでも、なかには手に負えないだけもある。 　けっこうでかいやつが来る。 　重量級がやってくる。 　重、…量、級。 　まさしく量。 　量に圧倒されるのだ。 　どこからとりついていいのか見当もつかないやつ。 　どこで終わるのかかいもく見通しの立たないやつ。 　怪物みたいなやつがだしぬけに前に立つ。 　火だるまになった老朽船のゆうに五十倍はある方舟のようなコンテナ船、そいつがさらに図体の大きな自動車の専用船にがつん、岬の沖でどてっ腹にかまされた。 　霧が濃く出た春の明けがたのことである。 　船体がふたつに折れた。 　ふたつとも灰色の影となって島のように聳えていた。 　ランチを仕立ててのっぺりとした海を急いだ。 　切断面が断崖となってあらわれた。 　顔をむしりとられた頭蓋骨のようだった。 　パイプが血管みたいに垂れていた。 　がばりと鋼鉄がめくれていた。 　めくれた尖端がいきなりランチに寄ってきた。 　もんどりと足場が揺れて振り返ると艇長帽が鬼の形相で舵輪をはげしく回していた。 　突き刺されるところだったのだ。 　…あなどっているとふいに巻き込まれ連れ去られる、かっさらわれてしまうのだ、。 　くらげみたいな太陽が頭上に出てきてけれど霧はいまだ水面にとどまって水の中は黒かった。 　水死体が透けてきた。 　白かった。 　ゆらゆらと髪をひろげて伏せていた。 　ひとつがそのように見つかるとすこし向こうにもうひとつその向こうにまたひとつとあらわれた。 　このぶんではすでに遠くへひろがってしまっている。 　もうランチひとつでは追っつかない。 　超え出てしまっているのである。 　お手上げだ。 　弱い風が渡ってきてすると黒い海原がすっかり引き潮に変わっていた。 　鋼鉄の髑髏が目に見えて流され始めた。 　水死者たちも動いていた。 　みなが霧の向こうへ向かっていた。 　いっせいに黄泉へ急ぐようだった。 　…行ったが最後こちらへはもう回収できなくなる場所がある。 　制御を失った快速列車が百五十キロの暴走のまま都心へ向かう急な曲がり目に来てしまった。 　線路からほぼまっすぐに飛び出してしばらく空中を飛行した。 　爆弾が落ちたような音を立てて土手わきの高層住宅に突っ込んだ。 　十二輌の車輌には朝の通勤客がぎゅうぎゅうに詰まっていた。 　いちばんひどかったのは二輌目で前と後ろの両方から圧搾されて可笑しいくらい寸詰まりなっていた。 　アルミの車体がなかほどで割れてしまって前の半分に後ろの半分がざくっとめり込んだのである。 　ささくれだった裂け目から油のような黒い流れがすじとなって落ちていた。 　油でなかった。 　血であった。 　…血の池がむしろ車体の影のようにひろがった。 　ガラスが木端微塵に砕けた窓には死者たちが体をくの字に折って下がっていた。 　夏の朝の干し物が風に飛ばされてそこに掛かったようだった。 　ドアはびくとも動かなかったので切断機で破られた。 　死んだものたちがそこから魚のように流れ出た。 　生きているものたちも流れ出た。 　担架がすぐに足りなくなってそれで遺体は青いシートにくるまれて線路に置かれた。 　きっちりと串に並んだ魚の干物のようだった。 　…むしろ鉄路と枕木のコンベアに載せられた青い運搬袋の列だったか。 　犠牲者の数をきっかり十分ごとに入れてくれとそうデスクが言ってきた。 　夕刊は数が勝負になるからな、かずだ、かず、死人の数、おまえはそこにはりついて来たやつを片っ端から数えてくれ、本記は県警本部でキャップが書く、全体の状況はどうせそこではつかめんし、雑感には遊軍を三人送った、まだ要るのならまた増やす、とにかくおまえに頼みたいのは死人の数、字で勝っても数字で負けたらおじゃんだからな、整理部もぎりぎりまでたたき込むといっている、降版を五分延ばすし、三十分後には追っかけもとる。 　これがむずかしい注文だった。 　遺体は線路の前方と後方でどんどん増えた。 　目印を憶えておいたつもりでも二度目に行くとそれがほんとうにそうだったかもうあやふやになっている。 　しかたない、はじめからまた数えなおすことになる。 　延々と連なる運搬袋の端に立って、青に青に青に青…、ここからまた向こうの端へ、か、…いい加減うんざりだった。 　大きな肉の塊りがシートからのぞいていた。 　脂肪の厚い肉牛の脇腹がどうしてこんなところにあるのかとちょっと不審におもったがむろん家畜の死骸まで数に入れることはない。 　素通りした。 　それが形のつぶれた人の肉だと気づいたのはそこから十体ほど数えてからのことだった。 　遠いところでちょっと吐き気が起こったが、…ずっとずっと遠いところでのことだった、そんなのにひっかかってはいられなかった。 　数なのである、いまは。 　これでまだ半分も出てきてはいないのだ、中に折り畳まれている死者たちは。 　とぎれることなくなおも運ばれてくるのである。 　運ばれきてはそこへごろりと、…物のように並べられていくのである。 　…じつのところみんなすでに物だった、わるいけど。 　変わり果てた肉の塊りもさっきのひとつでは終わらなかった。 　三つ四つ数えるうちにだがこれもほかの物たちと同じようにありふれた搬出物のひとつになった。 　いまはだまって数のなかにおさまった。 　もう吐き気もしなかった。 　起きていることが起きているとおりにはみえてないなとまた遠いところでかんがえた。 　遠方にいるだれかの頭を束の間かすめたことのようだった。 　かんがえる？　このさなかに？　余計なことを。 　おまえは数字、数字だからな。 　太陽がすでに頭上に昇っていた。 　体ぢゅうが汗でずくずくになっていた。 　数えることにもますますいやけがさしてきた。 　ぎりぎりの気もちがいつまでももつわけはないのである。 　柵の向こうでは群衆が増えていた。 　色とりどりの夏の衣服が真昼の日差しに照らされて、赤や青や白や黄、お花畑のようだった。 　みんな幸福そうだった。 　柵を越えてそっちへいってしまいたかった。 　シジミくらいの小蝶になってあの花畑にまぎれることができたなら。 　向こうではこの災禍が途端にすばらしい見ものになる。 　こんな惨劇に居合わせるとは、すごいじゃないか、ついてる、きょうは。 　デスクの指示を守り続けるのはもうやめた。 　かんがえればここだけで死ぬのではないのである． 　搬送の途中でも死ぬのだし病院に着いてからでも死ぬのである。 　街じゅうを死が駆け回っているのである。 　とほうもない死の大祭なのである。 　ここはその一角を出ないのだ。 　ざっと全体を見渡しておおよその数がつかめたらそれでこのさきはいいことにした。 　端数をつけるとじゅうぶんもっともらしいかたちになる。 　水増し加減に送っておけば、こうなったら毒食らわばだ、まず負ける心配もないのであった。 　…犠牲者は夜になってもまだまだ増えていったから夕刊のずぼらな数字もけっきょくは非の打ちどころのない正確な報告になったのだった。 　午後になると大気がますます熱くなって血と肉のにおいが濃くなった。 　鼻と喉にねばっとはりつくものだからどうしてもあえぎ気味の息になる。 　といってもこれにもすぐになれてきた。 　もうなんてことはないのであった。 　…ここではこっちも怪物になるのである。 　血と肉のにおいはたえまない風におされて遠い街まで運ばれた。 　晩春の山で幼稚園の遠足バスが谷の底へ転落した。 　土を満載した大型車が角でぶつかってきたのである。 　バスは斜面を転がり落ちて一回転するごとにこどもたちを新緑のまっただなかへ投げ出した。 　赤や黄や青のリュックそして帽子や靴や水筒が薙ぎ倒された木々のあいだに散らばった。 　カメラマンと底へ降りていきながらいたるところでこどもたちと遭遇した。 　木の根元、幹のそば、枝の上、枝の下、草の中、岩の陰…。 　みな夢見顔で眠っていた。 　森の天使のようだった。 　ようだった？ 　そうではない。 　天使であった。 　あの子たちはまぎれもなく天使であった。 　天使としかいいたくない。 　天使だった。 　何人？ 　何十人？ 　なん？ 　にん？ 　数ではなかった。 　断じてなかった。 　ひとりがそれぞれにぜんぶであった。 　あそこで一人二人と数えていくのは罪だった。 　記事に人数を書き入れるのはさらに大きな罪だった。 　罪を犯した。 　一日じゅういつまでたってもまだ新しい日であった。 　太陽が落ちてしまってからでさえまだ暮れない日であった。 　夜中になってもまだ慣れない日であった。 　仕事。 　で。 　あった。 　数えながら谷を下っていくことがいまでもある、ときどき夢で。 　ひとりひとり指差しながら確かめていくのだが途中までくるとまたしても数がわからなくなるのである。 　またやりなおさないとけなくなる。 　上まで戻ってまた始めることになる。 　また降りていく。 　また登る。 　明けがたまで繰り返すことになる。 　…締め切り時間が爆撃機のように山の向こうから迫りつづけているのである。 　目が覚めると体をたいていエビみたいに折っている。 　頸の骨も肩の骨も胸の骨もこわばって鋼に変わったようである。 　動けない、しばらくは。 　どこも重い。 　どこも痛い。 　仕事。 　で。 　ある。 　ただ、鉄のエビにまで追い詰められることがあったにしてもこういうのが警察回りをとことん消耗させてしまう仕事かというとそれはまだそうではない。 　犠牲がどんなに膨らんでもそれらにはいずれどこかで終わりがくる。 　そのうち怪物は去るのである。 　…すこしのあいだは気も抜ける。 　ところが、だ。 　去らないやつがいるのである、どうも。 　去ってくれないやつがいる。 　こともあろうに人の死をよろこびとしているやつ。 　死に頬ずりしながら嬉しさのあまりからだぢゅうをぴくぴくふるわせるやつである。 　熟れ落ちてくるのを待つようなそんなわきまえははなからない。 　こんどはあれだ、あそこにいるあの男、まだふんぎれないでいる男、めめしくも。 　またしても狙いを定めてむろんこちらから仕掛けに出向いていくのである。 　そのようなやつがいるのである、どうも、裏をめくれば、この街に。 　どうもいるといえばいるのである。 　逆さまに立つものが。 　…刑事たちのかったるい冗談だと、ひとひねりすらもない子供のお化けばなしだと、前には聞き流していたのだが。 　いうなれば、死の司祭。 　魔の生まれ。 　むしろ怨霊、…強いて遣り口で分けるなら。 　それも都市の中心に棲みついているのである。 　巣穴を掘ってそのなかにこもっている。 　遠い昔に遠方からそこへ飛来した。 　神々と同じようにあとから来て先にそこに生まれ出た。 　なにより厄介なのはとびっきりみずみずしい死でないと気に召さないことである。 　とれとれの死でないと。 　むしろまだ生きている死でないと。 　死の、…活け造り？ 　そういう死が抱けるのならどんなところでもかまわず割り込んでいくのである。 　そういうのに溺れることができるのなら夜昼かまわず飛び立っていくのである。 　今夜このときにでもすぐに。 　…警察回りにはけっきょく気を抜けるときがない。 　空を飛行していく影。 　花のように舞い降りてくるのである。 　愛しいものに寄り添うようにそばに立つ。 　というより体のなかに立つ。 　音も立てない。 　形もみせない。 　すぐ仕事にかかるのだ。 　死を育てていくのである。 　薔薇を育てていくように。 　いまは庭師の巧みな手つきである。 　たぶん刑事たちがいうよりもっと細かく気を配る。 　なかなかの職人だ。 　豊麗な蕾があらわれる。 　完璧な花が咲く。 　完璧な死の花が。 　…純粋な死の結晶。 　ときには大量の血が流される。 　ときには少しの血で終わる。 　ざっくりと肉が裂かれることもある。 　小さな穴たったひとつのこともある。 　この部屋の、この乱れかた。 　格闘があったのだ。 　ひとりが床の上に倒れている。 　そばにもうひとりが立っている。 　まだ凶器を握ったままである。 　ついに成し遂げられたのだ、いま。 　いま影が部屋から出ていった。 　こんども申し分のない仕事になった。 　立派な美しい死であった。 　薔薇にも負けない死であった。 　満ち足りていまは巣穴に戻っている。 　影はどこまでも影である。 　なにひとつあとに残さない。 　風のように来て風のように立ち去った。 　もつれるだけもつれさせて出ていった。 　瘤になるまで固く縺れさせたのだ。 　ほどくにはもうどちらかが殺すしか手がなくなっていたのである。 　むろん殺された死体が美しかったためしはない。 　血が薔薇の色だったことなど一度もない。 　こんなどす黒いバラがどこにある？ 　…裏と表では風景にいくぶん違いが出るのである。 　それにしてもこの庭師はけなげなくらい技量のかぎりを尽くすのだ。 　ときには薔薇より深い迷宮が咲き出てくる。 　部屋部屋が薔薇よりもっと整然としかしもっと錯雑に配列されている迷宮が。 　ひとつの幻影がそして無数の幻影がもっと繁くあらわれてくる迷宮が。 　奥へいくほど奥へもっとひろびろとひらかれていく迷宮が。 　もう六十という彫刻家が若い妻の生首に石膏をびっしり塗ってそれを男に送りつけた。 　サンタクロースが大笑いに笑っている包装紙にくるんであった。 　赤いリボンがかかっていた。 　クリスマスイブのことである。 　配達人が男の部屋をたたいたのは午前零時のきっかり一分前だった。 　二階への踊り場で五分ちかくも待機して時間を守った。 　そのために料金が二倍も払われていたのである。 　叫び声が起ったのは配達人が玄関ホールへ戻ったときのことだった。 　イブの空へ向かって獣が吠えたようだった。 　咆哮は嘔吐になった。 　わたしは逃げました、と配達人は証言した、包みの中がどうも怪しい、そういう予感が積み込んだときからあったのです、かかわりになりたくない、その一心で一目散に逃げました。 　白うさぎのような小さな頭像となった妻、かの女は二十五歳も年下だった。 　彫刻家のゼミナールに通っていた学生だった。 　卒業を待って急いで結婚したのである。 　結婚を強く望んだのはかの女であった。 　男がいるとわかったのはわずか半月前のことだった。 　男は長年にわたって彫刻家に随ってきた助手だった。 　いまとなってはあれがわたしの最後の作品になりました、と彫刻家は結審の法廷でぼそぼそと述懐した、おこがましいことを申すようですが、わたしにもやっと傑作ができました、はい、六十年の生涯の最後の最後に、…だれだおまえは、とほんとうに声が出そうになりました、絨毯の上に知らない娘がいたのです、知らない娘がそこに倒れていたのです、たしかに妻を刺したのですが、倒れていたのはとても若い、ほとんどまだ少女のような娘でした、落ち着かねば、とおもいました、頭だけはちゃんと働かせていなければ、するとすこしずつどこかみおぼえのある顔だとわかってきました、ゆっくりとながら遠い記憶が戻ってきました、大学が新入生でまだざわついていた時期でした、ひとりの女学生が研究室を訪ねてきました、まだ高校の二年生くらいとしかおもえない、まったく、少女のような学生でした、きらきら光る大きな目で、寸詰まりの顔がとてもコケティッシュにみえました、ゼミナールはもう締め切っていましたが、かの女はとくべつに受け容れました、漠然とかんがえていた作品にかの女がもうその場でくっきりと形を与えてくれたのです、はい、秋の団体展に向けわたしはもうなんの躊躇もなくかの女の立像を彫りました、夏と題をつけました、夏とつけられた作品はほかにも二点出てましたが、かの女こそとびっきりの夏でした、かの女には青い海と青い空そして真っ白な雲の峰がありました、しかしどうしてあの少女がいまこんなところで血まみれに？　むろんあたりまえのことでした、妻だったのです、いうまでもなくそれは、わたしは罪の深さに愕然となりました、殺してしまったことよりももっと甚大な罪をそこに打ち消しがたく感じました、たった二十年ばかりのあいだにわたしは少女をあのような恐ろしい女に変えてしまっていたのです、むしろ少女をもうとうに殺してしまっていたのです、殺して妻の体に埋めてしまっていたのです、妻の底に埋葬してしまっていたのです、…拒むべきだったのです、わたしはもうはじめにきっぱりと、妻は迷い込んできたのです、わたしはもう何年も前からかれを頼みにしていました、かれもわたしを同じほどに頼っていました、わたしたちふたりはすでに充足していました、そこへ妻があとからやってきたのです、かの女は嗅ぎ回りだしました、いもしない女に向かって悪態をつきました、わたしを口ぎたなくののしりました、鬼でした、…けれどわたしは知ったのです、般若の顔のすぐ下には愛くるしかった昔の顔がまだ仮死のかたちで眠りに落ちていたのだと、妻は墓標だったのです、墓標となって朽ちながらやっと立っていたのです、いまわたしは優柔不断を悔いてます、はい、すべてはわたしの弱さから出たのです、弱さというのはこれはもうほとんど絶望です、途中で修正がききません、けっきょくはああしかできませんでした、…いずれはかれにもわかってほしいとおもいます、身勝手なことですが、かれには気の毒なことをしました、ほんとうに、イブのせっかくの密会をつぶしてしまって。 　最初の児を産んでまだ一か月と経たない若妻がひとまわりも上の中年女を撲殺した。 　茶を作法どおりにふるまってそれから夫が宝にしているアイアンで顔面を打ちすえた。 　顔面を割っただけでは足りないで両方の脚を根もとからのこぎりで切り取った。 　いえ、あのときはまじめにそう考えていたんです、と若い母はようやく整理がついたという顔で捜査官にうちあけた、脚をはずしておかないとあの女はきっと来る、まちがいなくわたしたちの赤ちゃんを盗みに来ると、なにしろ夫が家に帰るようになったのは、あの子が生まれてからなんです、おかしなことを考えているな、とたしかにそういう思いはありました、ありましたが、やっぱり赤ちゃんの命がかかっていることだから念には念を入れないと、と思いました、脚を切っておけばひとまず安心だったのです、のこぎりは電動のがなかったので買いに出ました、家を出るとカラスが空いっぱいに飛んでいました、こんなことあるわけないとこれもそういうふうに考えはするんですけど、見上げるとやっぱり上は真っ黒な群れなんです、何千羽、何万羽、いえたぶん、何百万羽、見ようとすれば一羽一羽がそれも羽の先までくっきりと見えました、やかましい鳴き声が空じゅうに響いていて街の音はなにも聞こえませんでした。 　大学院の学生が満員の地下鉄でやにわに前の男に凭れていった。 　全体重を一本のナイフに乗せて男の腹へ押し込んだ。 　七人を殺せとそういう指令を受けていました、とケインズを読み直しているというその学生は落ち着いた声で証言した、指令は電車に乗るたびに来たのです、トンネルの奥から、そうです、奥のさらに奥からです、わたしはもちろん神など信じてはおりません、あれは弱い人間の妄想だと思ってきました、そのわたしにです、そのわたしのこの耳に、それはもうはっきり聞こえてきたのです、もちろん考えました、幻聴ではないか、頭がおかしくなったのではないか、精神科も訪ねました、三つもです、でも医者は三人とも異状は見つからないといいました、論文で少し疲れているのかもしれませんね、書き上げてしまえばそのときにはもうたぶん消えてますよ、医者はすじをはずすんです、論文はいわば、その、職に就くための方便です、体の表層の問題です、しかし指令は、これは体の芯の問題でした、体の芯で起こるんです、神だと思ったことはありません、ありませんが、間違いなくわたしの運命を決めるものだとそれはすぐにわかりました、ただわたしには荷がかちすぎました、七人だなんてとても、一人がやっとだったんです、それに、仮りに目標の七人を遂げたとして、遂げればそこへまた次の指令がきそうでした、あと七人、そしてそれが終わるとまた七人、そんな力はわたしにはありません、このとおり凡庸な人間なんです、わたしがいまこんなにみじめに立っているのも、なによりもこの凡庸さへの罰なんだとおもいます、おまえは役立たずだ、もう生きている値打ちはない、覚悟はできてます、生きるに値しないんです、この無力なわたしは。 　そして、そう、あいつがいる。 　あいつも、いる。 　これはまだきのう始まったばかりだが、まちがいない、れっきとしたやまである。 　まったくそのようには見えないやつ。 　赤いスカーフ　青いシャツ、紺のジーンズ、白のスニーカ、…連行されてきたときはむしろ海の風のかおりがした。 　短距離のランナーでちょうどああいうやつがいた、…高校の同級生、一年生でもうインターハイに出場、いきなり百分の三秒も縮めて大会新。 　校庭でみんなに混じるとひとりだけ頭が空に突き出ていた。 　最高峰。 　足の先のほうに重心をかけながら頭をキリンのように倒し倒しゆっくりと廊下を歩いた。 　前ではだれもがたじろいだ。 　疾走は夕方のニュースになった。 　風を切り裂いて走るところがずいぶん永く映っていた。 　風は裂かれて金切り声をあげながらけれどかれの体を磨いていた。 　ぴかぴかに研いでいた。 　それほど風に愛されていたのである。 　顔もよかった。 　鼻すじが通っていた。 　彫りが深くてだからずっと奥に目があった。 　奧から外をながめていた。 　あんなに顔がいいのは、もうこれはどうにもならない、まったく手の届かないところでの出来事だ。 　生まれる前に決まってしまったことなのだ。 　…アフロディテの依怙贔屓。 　磨かれた種族。 　代々にわたって磨きぬかれてきた種族。 　そんな選ばれた一族の男が、なんとしたこと、真っ昼間に女の死体を運んでいた。 　ワゴンであった。 　寝袋に隠していた。 　ゆっくりと目抜き通りを下っていった。 　税関前に来たところでつかまった。 　これもつまりはそうだった。 　そんなところへそんな時刻に殺人者があらわれるなどだれも想像しなかった。 　ありふれた交通事故だったのだ、きっかけは。 　機動隊のオートバイが手はずどおりの待ち伏せでなんのむだもなくつかまえた。 　二十分も前から指令が届いていたのである。 　山麓道で轢き逃げがあった。 　少女を自転車もろともはねとばして立ち去った。 　黒塗りのワゴンである。 　いま洋館坂を下っている。 　都心へ入るつもりらしい。 　市電通りだ、いま、ちょうど。 　東へ折れた。 　さて次の花盈つ通りでどうするか。 　右だ、右、花盈つを右へ切った。 　南だ、…うまい。 　やっこさん、花盈つが混みだしているのを知らんのだ。 　そうそうそう、まっすぐだ、まっすぐ進め、まっすぐ進んで尻から突っ込め、ばっちり挟んでやるからな。 　…赤信号をほんの二秒、たったの二秒、二秒も延ばせばじゅうぶんなんだろう、管制室さん、そうだろう、ボタンひとつで全市の車を止めっちまう全能のあんたたち、あとはお茶を飲みながらゆっくり見おろしていればいい、オリュンポスの奸智の神。 　港のあたりで確保できるのではないか。 　四台のオートバイが税関前の交差点に集結した。 　検問が始まった。 　渋滞が濃くなった。 　濃くなって北へと伸びた。 　やがて黒のワゴンがゆるりゆるりと大きな亀のように入ってきた。 　…これだ、これこれ、この野郎。 　そのまま公園わきへ寄せられた。 　赤いスカーフに反抗の兆しが多少読めないではなかったが男はいわれるままに従った。 　手荒なことはなにひとつ起こらなかった。 　きわめてふつうの拘束だった。 　すべて道路交通法でこと足りた。 　だから何を積んでいるのかと質したのはこの場合ほとんど付け足しだったのだ。 　ところがそれが分岐点になったのだった。 　男がこたえなかったのだ。 　おい。 　身じろぎもしなかった。 　おい。 　ずっと海を見つめていた。 　おまえのことだ、おい。 　…十秒もの沈黙。 　裏返しの告白だった、これは、もう。 　そこからの警官の行動は速かった。 　後ろをあけて青色のシートをめくった。 　赤い寝袋があらわれた。 　膨らんで固かった。 　固かったが弾力のある固さであった。 　ジッパが解かれた。 　死体が出た。 　どろりと出た。 　街がめくれた。 　そこから先はもう道路交通法では間に合わなかった。 　一課の刑事が送られた。 　鑑識もやってきた。 　窓が覆いで隠された。 　殺人者のふるまいはさしあたって遺体の上にあらわれる。 　傷口が見つかればそこで血に濡れた手がうごく。 　赤く充血した目がにらむ。 　息がひゅうひゅうきこえてくる。 　とりわけ致命傷にはとどめの一撃が稲妻みたいに刻み込まれているのである。 　むしろ彫刻に近いのだ、ぱっくりと傷を開いた身体は。 　彫像、凶器で彫った。 　個性もある、いくらかは。 　殺人者の個性…。 　女の体にも毀損があった。 　ちょっと見には傷ともみえない傷だった。 　機動隊の隊員では傷があるとさえわからなかった。 　が、一課の刑事が傷痕を見つけるやいっきょに抜き差しならない毀損になった。 　ほかのどの部位でもない、そこの傷。 　そこの毀損。 　そこ…。 　肉が切り取られていたのである、わずかだが。 　昂ぶりに駆られて荒あらしくえぐったようなそんなぞんざいな傷ではなかった。 　まわりの皮膚とほとんど見分けがつかないくらいなめらかな痕だった。 　きっと最高に切れる刃があてられた。 　とてもやさしくあてられた。 　そのやさしさがこの殺しのさしあたっての個性であった。 　もとのかたちが壊れないよう細心の注意がはらわれた。 　そこが頂点だったのだ。 　…この頂点のところをそのまま書けばまちがいなく抗議の投書が山と来る。 　一課長も公式の会見ではそこはしまいまで伏せて通した。 　お客たちつまりフリーの記者とテレビ局のクルーたちが出ていくのを見届けてからそこでようやくあかしたことだ。 　おまえさんたちは身内だからな、という顔でこう言った。 　びらびらのところだけを切っている、それもずいぶん丁寧に、わかるだろう、そう、おめこの。 　証拠となった肉片はあっけないほど簡単に見つかった。 　きのうのうちにもう男の部屋で出たのである。 　冷蔵庫の最下段で凍っていた。 　小さなビニール袋に入っていた。 　すぐそばに牛肉と鶏肉の袋もあったがそれらとは色からして違っていた。 　黒かった。 　あえていえば鯨肉に近かった。 　なまこのようにとろっとしていた。 　おびただしい皺だった。 　まぎれもない。 　それだった。 　それ…。 　これですっかりつながった。 　見取り図がもう出来た。 　が、またすぐに正された。 　同じ型の袋がまだ下にあったのだ。 　重なって六つ。 　ひとつひとつにやはり肉塊。 　合計七個。 　七人分。 　見取り図が拡大された。 　七倍に？ 　掛け算ではない。 　線でよかったものが面にまでひろがった。 　面は立体に拡大した。 　すると細部もみえてきた、すこしにせよ。 　ひとつずつ大きさが違っていた。 　三個がめだって小さかった。 　一個は豆粒ほどだった。 　まちがいない。 　切り取られたあとにまた削られてそのようになったのだ。 　課長がつづけた。 　ひょっとしたら食ってるかもな、わしの勘では、ひと切れひと切れ、はは、キャビア並み、いや、キャビア以上か、…むろんオフレコ、これはまだ、わかってくれてるとはおもうけど、念のため。 　食う？ 　もちろんだれもがかんがえることである、心の隅では。 　視界のうんと端っこでは。 　それが真ん中に入ってきた。 　しかし、あの顔で食う、…か。 　アフロディテが頬をすりよせにくるあの顔で。 　あの口で、食う、…か。 　セレネが夜ごと唇をかさねにくるあの口で。 　…おもいのほか、暗い口。 　いまはぴったりと閉じた口。 　黙秘、…すでに三十時間。 　女が動いた。 　展望車の前で塔のような頭が動いた。 　森の上のほうをながめていた。 　たぶん月を見上げていた。 　…天空をわたる月をいま地上の月が仰いでいた。 　かの女はもちろん春を予祝する匂いであったがいまはすこし月でもあった。 　横顔をさっきドアのところで見たのである。 　これは見た。 　のがさず見た。 　精巧なつくりであった。 　そうあってほしいと願っていたその願いをほぼ満たしてくれる顔だった。 　鼻梁、頬、唇、額…、どこも勾配がいいのである。 　骨にも肉にもすばらしい因子が働いているのである。 　蛋白質とカルシウムが最適の量で最高の場所へ誘導されているのである。 　髪の奧から精緻な天守閣があらわれた。 　月と照らし合う建築だ。 　むしろ月と血を分かちあった家である。 　月の一族は星々のなかでも群をぬいて壮麗な系統樹を誇っている。 　カグヤがいる。 　セレネがいる。 　イシスがいる。 　宇宙にひろがる銀の枝々の一角をこの顔も占めている。 　ただすこしあてはずれだったのはもっと強くていいはずの白刃のような輝きがもうそれほどではなかったことだ。 　どちらかというとすでに暗い皮膚だった。 　もちろんがっかりするようなことではない。 　すこし遅れてここに着いたそれだけのことである。 　見た目よりちょっと先にいたのである。 　このくらいの誤差はなんでもない。 　顔だけではないのだし…。 　むしろ、足。 　かの女の場合はむしろ、足。 　気づいた、これは。 　足だと気づいた。 　黒のパンプスがバスの床をかつかつとたたいていった。 　砂時計のくびれ目みたいなむしろ危うげな足首だった。 　ばねのように弾んでいた。 　硬い光をはなっていた。 　おや、三日月が、ここにいた。 　白刃の顔がいまはくるぶしへ下りていた。 　…ただ、あんなにきれいなあの足で、あの歩きかた。 　靴の先を大きく外へ向けて歩くのだ。 　一歩一歩、扇を開くようにして歩くのだ。 　あんなに、外股。 　きものはだめだな、あの脚では。 　…しかし、あれは。 　きものには母のようにすこし内股のほうがいい。 　…しかし、なんだったろう、遠くにあらわれた、あの、あれは。 　やっぱりそうだな、シャネルだな、この脚には。 　…あのあれは、あれはなんだったろう、遠方で起こったあの兆し。 　もっともきものの前ではだれもがちょっと身構える、服とはちがって。 　…なんだったろう、雲のようにふいに遠方に湧いたあの兆し。 　巫女が千早を羽織るように身構える、いまではもう。 　…かなたで起こったあの兆し、パンプスがすばやく遠ざかっていったのとは反対に向こうからこちらへ顔を向けたもの、なんだったろう、あのあれは。 　歩幅も控えめになる、おのずから、しかしおのずからでは追いつかないな、あそこまでああなったあの脚は。 　バレエのダンサーにはよくああいう歩きかたをするのがいる。 　…バレエ？ 　そうか、バレエ。 　…バレエのダンサー。 　とたんに体のなかで海の泡がはじけるような音がした。 　細胞という細胞で無数の妖精たちがいっせいに翅をはばたかせたようだった。 　そう、何億何百億何千億ものティンカー・ベルが、微粒子ほどのティンカー・ベルが、石英の粉のようにきらきらひかるティンカー・ベルが。 　微細な翅のはばたきがざあっと醗酵の泡のように立ったのだ。 　酔った、すこし、体が、それで。 　光の泡にきらきら溺れた。 　…人魚姫もこんなふうにきらめきながら溶けていったにちがいない、真っ暗な海の底へ。 　すると頭が奧のほうが醒めてきた。 　向こうで扉があいたのだ。 　戸口に懐かしいものがあらわれた。 　そこでかたちを整えた。 　脚のかたち。 　…やっぱり脚だ。 　脚だった。 　夏の昼さがりのことだった。 　暗い廊下をとんとんと白い脚が渡っていった。 　いつもひんやりとしている廊下である。 　…ナラ材といったな、たしか、黒くひかるあの廊下は、父が、いつか。 　八畳の居間に寝そべってその脚を見たのである。 　すこし頭をあげる格好でそれを見た。 　庭は蝉しぐれで満ちていた。 　昼までは祖父がたいてい定家か卒塔婆小町か綾の鼓を離れの間でうなるのだがそっちはたぶんすでに午睡におちていた。 　寝そべって畳の上に夏休みの宿題帳を開いていた。 　風が木々と苔のにおいを運んできてページがめくれそうになるのであった。 　見ひらきに、そう、憶えている、立方体や直方体それに三角柱や円柱が並んでいた。 　ガラスの家みたいに並んでいた。 　…鉱山のこびとたちが白雪姫のためにそんなに家を建てたのだ。 　それぞれの体積を出しなさい。 　公式がきれいなので計算が気もちいい。 　風が体を奧まっで冷やしてぬけていく。 　とはいっても同じ計算ばかりだからやっぱり飽きてくるのである。 　いつのまにかうとうとしかけていたのである。 　格子戸のあく音で、やっ、来た、いましがた覚めたのだ。 　あの足。 　いつも遅れて来る足だ。 　大きく外股で歩く足。 　きょうもやっぱり遅れてきた。 　応接室では四人の編集委員がもうとうからさらりざらりと原稿をめくっていた。 　編集長が母だった。 　隔月で薄い本を出していた。 　遅れて来るのは稽古が長引くからである。 　駅前ビルの最上階に、といってもやっと八階に過ぎないのだが、バレエ団が町の支部を置いていて、あそこは窓からの眺めがいい、正面に真っ白な城が見えるのだ、そこにこども向けの稽古場をひらいていた。 　かの女は先生なのである。 　本部から週に三回通ってくる。 　日曜日は発表会のプログラムを頭から通すのでどうしても時間を超えることになる。 　足。 　白い足。 　透けるほどに白い足。 　白いのは、でもかんがえれば、それはあたりまえのことである。 　それもそのはず、雪の女王の足なんだから、あの足は。 　クリスマスの季節になると町のホールにも正団員の一行がやってくる。 　かの女もソリストに戻って踊るのだ。 　かならず母といっしょに見にいった。 　大きなクリスマスツリーが青あおと茂った広間、…司法官シュタールバウム伯爵のゴシックふうの屋敷である、少女クララの家なのだ、魔法都市ニュルンベルクでのことである、その立派な広間が暖炉のところで右と左にぱかっと割れて、…魔法の町だかそんなふうになんでも起こる、暖炉の裏から真っ白な雪の松林があらわれるとオーケストラも、さあ、いよいよ雪のワルツである。 　白い雪の精たちが走り込んでくるのである。 　ちらっちらっと光っていたものが吹雪になる。 　猛烈な吹雪になる。 　松林も軋みだす。 　いまたけなわ。 　そこへ雪の女王があらわれる。 　くるっくるっと旋回しながら舞台を対角に横切っていくときのあの輝き。 　編集会議に遅れてくる先生とはもうまったくの別人だ。 　別人ですらない。 　白い炎。 　まっすぐな白い炎、…灯心からまっすぐな。 　雪の精たちが全力で疾走していくそのわずかな隙間を白い炎がぬけていく。 　一瞬の隙間をぬけていく。 　冴えざえとぬけていく。 　そして、跳躍。 　アーチ橋のように弧のかたちにひらいた脚が空中で静止する。 　ぴたりと高いところで止まるのだ。 　ほんとうにそうみえる。 　むしろ、虹。 　天空に架かった白い虹。 　いうまでもない、夏の足は昼さがりの廊下からすぐ消えた。 　いまはもう壁がそこにあるだけだ。 　遅刻を詫びている声がずいぶん遠いところでする。 　蝉しぐれのずっと向こうで話している。 　集まりのある日には応接間がそのようにいつも遠くになるのである。 　地平線の向こうにさえなるのである。 　それでも脚は、…さっき通っていった脚だけは、まだ壁にいくらか残っている。 　残像のように消えきらないでそこにある。 　脚はそんなふうに顔や手より長く滞留するのである。 　…流れていく顔はじっさい水のように速いのだ。 　また遅れてしまったとせつなげに伏せた目が流れていった。 　詫びをすぐに入れたくてもう半ばひらいている唇が流れていった。 　伏せた目も半ばひらいた唇もここを渡るあいだの蜃気楼でしかないのである。 　応接室で詫びを言えばすぐにほどけて消えていく。 　まあ、たくさんの原稿ですね、今月は、またどうしてこんなに。 　もう笑うかたちに変わっている。 　…流れていく手も速い。 　水鳥の水かきみたいにてのひらがひらひらと流れていった。 　時間の急流をさかのぼる外輪船のようだった。 　これももういまは原稿をめくるかたちに変わっている。 　十句みんな拾えますよ、このかた、今回はなかなかの粒ぞろい、つかまれたみたい、とうとう、あんなに励んできたひとだから。 　流転するのだ、顔も手も。 　脚はしかし流れない。 　向こう脛に頑丈な脛骨が立っている。 　ふくらはぎが厚い肉で内部を深く包み込む。 　表にあらわれるのはいつも不動のものである。 　不器用なまでに不動のもの。 　脚はたぶん体の芯がそのまま出てきているのである。 　まっすぐに体幹を貫いてきた芯だ。 　芯の延長。 　芯、…まぎれもなく、あのひとの。 　あのひとの芯。 　あのひと、そのもの。 　…それであんなふうに思ったのだろうか、あの夏の少年は。 　そんな夢みたいなことがもしほんとうにできるなら、あの脚を、それも踊り終わったばかりのまだほてっているあの脚を、一本つけねから借りきって、ひとばん抱いて過ごしたい。 　抱いたままで寝たかった。 　そうか。 　わかった。 　今わかった。 　ほとんど瓜ふたつなのである。 　ここのこのくるぶしとあのくるぶしは。 　ここのこの足とあの足は。 　展望車のすぐ下へ斜めに差し出されているこの脚と夏の廊下をきゅっきゅっと渡っていったあの脚は。 　同じ鋳型から成形されたふたつの脚。 　ひょっとして、そうなのか？ 　ダンサーなのか、ひょっとして、この脚も。 　シャネルでなお引き締まってみえるこの体。 　たしかにこどものころからよく見てきた体である。 　ダンサーという特別な種族の体形。 　長く引き伸ばされている肢体。 　かの女もあの種族の一員か。 　バレリーナ…？ 　カグヤの血縁なんだから顔立ちもむろんオデットを踊るのに遜色はない。 　…夜の湖の白鳥たちもそれぞれが月の鏡像のように舞うのである。 　赤いスカーフで黒のワゴンを走らせていた男。 　真っ昼間に死体を運んでいた男。 　中央図書館の司書だった。 　はじめは山麓道から山へ入ろうとしたらしい。 　ちょっとした手違いが起きたのだ。 　登山道へ折れるつもりでブレーキを踏みにかかったときだった。 　後ろから来た自転車がそのまま追い越そうとしたのである。 　追い越しざまに横をこすった。 　がりっとこすってはじかれた。 　女学生が転がった。 　男は停めた。 　停めたが女学生が立ち上がるのを見て発進した。 　後ろにバンが続いていた。 　バンも停まりかけていた。 　助けに加わろうとしたのである。 　ところが前のワゴンが出ていった。 　逃げるのか。 　かっとなった。 　追いにかかった。 　追いながら警察へ電話した。 　…違反？　罰金？　いってられるか、こんなときに。 　ワゴン車もバンに気づいた。 　次の登山口ではもう曲がろうとしなかった。 　山麓道をうねうねと逃走した。 　山麓道は先で洋館の丘に出る。 　白い家や赤い家や青い家がクスノキの森に点在する。 　ひともたくさん登ってくる。 　手前で折れた。 　街へ下った。 　市電筋へいったん入ってそれから花盈つ通りにあらわれた。 　花盈つへ出てきたのはこれを海岸通りまで突っ切って湾岸高速へもぐりこもうとしたらしい。 　湾岸高速は街の地下域を抜け出るといきなり海の上に出る。 　海の上から大きなカーブをえがいて湾奥の都市群へ入っていく。 　都市群は奥ほど密度が高くなる。 　猥雑な街区もある。 　バンを撒ける。 　身を隠せる。 　だが花盈つはおもうように走れなかった。 　進むほどに混んできた。 　停止と発進を繰り返した。 　往く手を決めているのはいまや全体をゆっくりと動かしている機械であった。 　白いオートバイが見えてきた。 　盾みたいに並んでいた。 　車線が一本に狭まった。 　もうほとんど停まっていた。 　警官が覗きにきた。 　…だがこれもいまかんがえればぞっとする。 　すんでのところでまた遅れをとるところだったのだ。 　午後一時半をすでに少し回っていた。 　夕刊の締め切りはそれで越えたことになる。 　念のため三階の刑事一課と二階の生活課をみにいった。 　どちらの課長も机の上のディスプレイをゆったりと眺めていた。 　一課長は暴力組織のネットワークを出していた。 　頂上の本家から末端の一家までそれぞれの組の名がピラミッドの形に並んでいた。 　午前中もかれは同じページを開いていた。 　よそのデータを長ながとのぞいているのは差し迫った事件がないからだ。 　いちおう一階の交通課にも立ち寄った。 　課長は席にいなかった。 　次長が言った。 　いま轢き逃げを追っているところです。 　轢き逃げ？　死んでるの？ 　けがはほとんどないようです。 　どこなと行け。 　記者室に戻るとめいめいが即席のコーヒを紙コップで飲んでいた。 　同じのを淹れてひと息ついた。 　ひと息つくと大概こういうことになる、思い出したくないことが浮かんでくる。 　ここ五日ほど記事をまったく出してない。 　仕事をしていないということだ。 　きょうあたりは編集局へ上がるのに肩身がすこしせまくなる、。 　つなぎに三十行ほど書いておくか、ヒマだねを。 　昼を食べたらその足で金星の丘に登ってみよう。 　あそこの桜の蕾を見てこよう。 　催促のメールがけさも海洋博物館から入っていた。 　何度も同じお願いで恐縮ですが子供たちの努力の成果をご取材ください。 　友の会のこどもたちが丘の斜面に十本の桜の幼木を植えたのだ。 　去年の冬のことである。 　公園緑地課のおじさんたちが十個の穴をつくってくれた。 　少年少女が四人ずつの組になって土をせっせと入れたのだ。 　一本も欠けることなく根づいたらしい。 　ぜひどうかご取材ください、子らの誠意に天が答えてくれたのです、わたしの心は感動でふるえています。 　こどものこととなると友の会の事務局長は大げさになる、しつこくなる、ずぶとくもなる。 　ひとがすっかり変わるのだ。 　あの声がそのまま飛来しなかったのは救いであった。 　受話器だときんきん声が二倍になる。 　四倍だ。 　…四倍はたしかにあった。 　蕾がぴんと立ってきたのがもうはっきりとわかるんです、どの枝にもたっぷりとついてます、何百個、何千個、ぴきぴきさえずってますよ、ええ、ぴきぴき、鳥ですよ、枝という枝が、にぎやかに、爆発のように咲きますね、まだたったの一年で、こんなの奇跡じゃないですか、桜の神さまがみこころをお動かしになった、あなたもご覧になったでしょう、こどもたちが一本一本植えるのを、あんな斜面で、足踏ん張って、意気に感じたんですよ、神さまも、そう、女神さん、コノハナサクヤさん、だった？　なにしろ募金から始めたんですからね、こどもたち、通りに並んで、駅にも並んで、女神さんもさすがに、ここでひと肌脱がないと、急いでお答えをお出しになった、…はあるよ来い、ね、お誂えの記事じゃないですか、この時期に、立春をちょうど越えたところだし。 　二杯目のコーヒはもすこし濃いめに淹れたかった。 　瓶の底から固まりを掻き出した。 　角砂糖も三つにした。 　まずまずか…。 　するとそこへメールが来た。 　事務局長かと思ったがこれは違った。 　赤の星印と黒の星印が三つずつ伝言の頭に並んでいた。 　いささかこどもじみた決めごとだがこれはデスクがじきじきに発信した最高度に緊急のそして最高度に隠密の指示だという意味だ。 　殺し、男の車に若い女の死体、税関前で逮捕、取材たのむ。 　おそらくデスクの前でねずみ小僧がにわかに騒ぎ出したのだ。 　ねずみ小僧、…小さな鉄の箱である。 　ねずみ色に塗ってある。 　中は電子回路である。 　警察の無線を途中で盗む回路である。 　傍聴器。 　ふつうはとぎれとぎれのひとりごとをぶつぶつ呟いているだけでなくてもいいようなものなのだがしかしそのぶつぶつが急にひしめきはじめるとそれはしばしば街に潰瘍が生じたことのあかしになる。 　不吉なのは呟きの頻度である。 　その濃度。 　デスクはいやな予感をおぼえながら音量を上げたことだろう。 　まず聴き取らないといけないのはなかに混じってくる暗号だ。 　三桁一組の乱数が流れてくる。 　連なって流れてくる。 　花筏みたいに連なって。 　雑用紙に書き止める。 　解読表で確かめる。 　やはりそうだ。 　殺人だ。 　臓器がこぞって沸騰する。 　機動隊の隊員はたやすく死体を突き止めたがさすがに泡を喰ったようである。 　指令室へ何回も指示をあおいだ。 　その都度いちいち、まるでこどもの遣いのように。 　ねずみがそれをつかまえた。 　やったな、小僧。 　デスクはたぶんすこしふるえたことだろう。 　まず県警本部の記者室を呼び出すのがこんな場合の手順である。 　直通の線がある。 　すぐに太い声が出る。 　キャップである。 　編集局でいちばん大きな男である。 　酒樽みたいにずんどうの胴なのだ。 　大判の大学ノートがすっぽりと尻のポケットに入るのだ。 　いざとなるとこの酒樽が所轄までおりてくる。 　…つまりあそこがサツまわりの頂点というわけだ、最高額の記者手当て、くわえて警察の手厚い扱い、十五階の記者室はさながら天空の展望台、はるか海峡まで見晴らせる、執筆にもコンパートメントをくれるのだ、広報課の職員が詰めていて、世間話にも気さくに乗ってくるおばさんだが口は堅い、けさはブルーマウンテンになさいます？　それともモカ？　キリマンジャロ？　ドリップで淹れたのが金襴手のカップであらわれる、へっ、都会の空の、ぷっかり、平和な飛行船。 　酒樽は唇の端をたえずひくひくさせていて察するにこれがかれのただひとつの負い目である。 　事件が込み入ってくるとそいつがいっそうひどくなる。 　隠したいときほどきつく出る。 　こんどもそこをめいっぱいにひくつかせて指令室へすっとんでいったにちがいない。 　指令室の緊張はガラス越しにもうわかる。 　人垣ができている。 　かまわずずかずかと入っていく。 　…そこでひるむようでは記者ではない。 　なにくわぬ顔でオペレータの横に立つ。 　悠然と交信記録を覗き込む。 　悠然、と。 　それが権利だということをこういうときに示しておかないといけないのだ。 　唇の端をひくひくさせながら、悠然と。 　これか、なるほど。 　あわてるそぶりは禁物だぞ、…ここでみすかされたらこの先ずっとみくびられる。 　だから返信のメールもその場で打つ、悠然と。 　やれやれ、届いた。 　十二、三分がデスクには一時間近い長さになった。 　みろ、おもったとおりだ、文句なし、まさにトップの風格だ、安いよ、あしたの朝刊は。 　かくて赤い星と黒い星が三つずつ…。 　一匹目のねずみがちょろりと暖炉の横から出てきたとき広間をきろきろと見まわすしぐさはまだ新米の空き巣ねらいのようだった。 　…ジロキチのいとこのそのまたいとこのそのいとこのそのまたいとこの、キロキチ？ 　そのなんでもない一匹がまたたくまに群れになった。 　あとからあとからあらわれて舞台からあふれるほどになったのだ。 　ただごとではない、こうなると。 　イブの真夜中のことである。 　群れはしかしいつまでもばらばらのままだった。 　ひとつにまとまる気配などどこからも出てこなかった。 　つまりそれがかれらのやりかただった。 　もうそれでじゅうぶん戦闘態勢だったのだ。 　最後にねずみ大王があらわれた。 　べらぼうな巨体であった。 　おなかもお尻もゆっさゆっさと揺れていた。 　たえずはあはあとあえいでいた。 　…じつは大好きだったのだ、あのゆっさゆっさが、あのはあはあが、あのぶざまなよたよた歩きが、なによりあれに会いたくて母と出かけていったのだ、あれこそ魔王の体というものだ、傲然と闇の頂点に君臨する首だ、胴だ、手だ、足だ、小学校もたぶん三年生くらいになるまではあそこがまだいちばんの目当てであった。 　攻める相手は金平糖の王子である。 　お菓子の国の王子である。 　戦いの火ぶたがこの広間でもうじき切られることになる。 　黒檀の大きな時計が零時の鐘を打ち鳴らすとそれが合図になるのである。 　あそこ。 　王子の一隊もあらわれた。 　赤い軍服に金のボタンを北斗七星のようにつけている。 　そろって拍子をとっている。 　さあ、来るぞ、いよいよだ。 　戦争にまでなったのだから裏にはとうぜん込み入ったいきさつが隠れている。 　核心部分が氷山みたいにこっぽりと沈んでいるはずだ。 　そこを空想するのが好きだった。 　空想は夜の布団のなかがいちばんだ。 　夜ごとまぶたの裏に映し出す。 　映してみているだけではない。 　眼球のなかへ入っていく。 　歩きまわるのだ、そこを。 　手あたりしだいにあたりをめくっていくのである。 　どこからもねずみたちが顔を出す。 　誘われる。 　誘われるままについていく。 　ねずみの国は奧へ進むほど広いのだ。 　眠りも大概はそのほうが早く来た。 　ねずみの群れのなかで眠りに入っていくのである。 　そのほうが安心だ。 　幸福だ。 　もうそれなしでは眠れなかった。 　中学へ上がってからでさえしばらくはまだそんな夜がつづいていた。 　すでに熱中できないとわかってからでもなおすがりついていたのである。 　群れから離れるふんぎりがつけられなかった。 　幸福からも離れてしまいそうだった。 　ぬけられなかった。 　…母が話してくれる冒険を眠りの波歌のように聞いた日々、地中海の島々をめぐっていったあれらの夜々、一つ目の人食い巨人、船乗りたちを豚に変えてしまう美しい魔女、天上の歌声で海の奈落へ誘い込む四人の姉妹、六人もの水夫をたったひと口でたいらげる六つの口の大食い女、船をこなごなに砕いてしまう鋏み岩、島ごとの闘いと島ごとの知略、島ごとに来る安らかな眠り、あの幼いころの幸福にはむろん比べようがないけれど。 　ものがたりも幾つかできた。 　つじつまのあやしいのも含めると八つくらいにはなったとおもう。 　三つはとくにノートにした。 　こまかいところはネットで引いていっそう完全なものにした。 　ネットでみつからないときは図書館へ調べにいった。 　色鉛筆で絵も入れた。 　黄色くなった大学ノートがまだ実家の本箱の端っこに立っている。 　いまでもよくできているとおもうものが一つある。 　追い詰められていたのはじつはねずみ族のほうだった。 　巨体の大王にはまだ五倍も巨体の母がいた。 　偉大なねずみ太后だ。 　世界に知れわたっている美食家でほとんど一日じゅう食べていた。 　隣がお菓子の国だった。 　どうしてあっちに生んでくれなかったの。 　まだ子ねずみのころから口うるさく母ねずみを責め立てた。 　みんなキャンディの森へピクニックに行くんだから。 　ケーキの山に登ってクリームのスロープを滑るのよ。 　レモンスカッシュの滝つぼに飛び込むわ。 　毎日がお祭りなの。 　妬ましかった。 　もう恨みに近かった。 　王に嫁いでからは属国に組み入れるようことにかこつけてたびたび仕向けた。 　攻め込む理由なんかなんとでもなるでしょう。 　賢明な王は笑いながらやさしくいさめた。 　とびっきり甘いトリュフがどっさりと貢がれてくるではないか、毎年の年初めにきっちりと、あの誠意を裏切ることはできないよ。 　その王が中庭の木陰で午睡をとっているうちに急死した。 　典医は心臓の発作だと診断した。 　王の弟があとを継いでかの女の野心はいったん出口を失ったがその弟王も同じように昼寝のさなかに同じ発作で頓死した。 　王冠が息子のところへ戻ってきた。 　運はまだ逃げてはいない。 　さっそく息子に吹き込んだ。 　…わたくしの苦しみは五十年にもなるのです、五十年です、かんがえてみてください、あんな国がすぐ隣にあるのです、ものごごろがついてこのかたわたくしには安らかな日というものがまったくありませんでした、あの国のおかげでじつに暗い日々でした。 　太后は信念をもっていた。 　世界をほんとうに動かしているのは呪いである。 　呪いの歯車が世界の裏できりりきりりと回っている。 　強い歯車が弱い歯車を力ずくで巻き込んでいくのである。 　運命が突然おもいがけない方向へ動くのだ。 　太后は金平糖の王子にねらいをつけた。 　父親のチョコレート三世はいい匂いをはなつので国民みんなから好かれていたが夏にはぐにゃぐにゃに溶けてしまうし冬にはかちんかちんに固まってしまうので国務はそっくり王子に任されていたのである。 　王子を倒せば国はたちどころに混乱する。 　そこを息子に攻めさせる。 　呪いの秘法は新月の夜に塔のてっぺんでおこなわれた。 　黒い月を大釜に炊き込めばそれだけ効きめが大きくなる。 　黒の魔術なのである。 　黒森で集められ黒花の露が鉛の釜にまんまんと満たされた。 　火を入れるとまず呪いの玉を沈めていく。 　水晶の七個の玉。 　呪文が刻み込まれている。 　蛇が絡み合っているような奇怪な神聖文字である。 　ぼこぼこと湯玉に呪文が出てくると、ころやよし、そこからは生け贄を入れていく。 　まず吸血コウモリを十七匹、次いでサソリを百七匹、そしてセアカゴケグモ千七匹とムカデをこれが一万とあと七匹、それらを生きたまま順序正しく沈めていく。 　それからテングタケとツキヨタケとカエンタケをそれぞれ七百七グラム、ドクゼリとドクウツギとトリカブトを六百と七グラム、そしてヒガンバナとスズランは薬味としてこれは少々。 　ほかに火口で掬った熔岩と底なしの沼で汲んだ泥の水、さらにスズメバチの巣一個、アリ塚の土ひとつかみ、ジグモの袋、オンドリのトサカ、トカゲの尻尾にヘビの糞…。 　おしまいはネコイラズの黄燐と赤ん坊の頭蓋骨。 　…材料はほとんど裏回りの行商人から調達した、行商人は尋ねられるとつぶれた声でこう言った、若いじぶんは魔法使いに仕えてましてな、魔法は戻すときがむずかしいのでこれには時間を使いました、齢ですか、二百歳までは数えましたがもう邪魔くさくなりまして…、体ぢゅう皺だらけでいまでは虫としかみえなかったが、まだれっきとした人間だった、かれが世界一の金持ちになれたのにはわけがあった、時間の裏側へいく術をこころえていたのである、時間の裏には仕切りがないので好きなところへすぐいける、なんでも調達できたのだ。 　大釜は長い竿でぐるりぐるりと掻き混ぜる。 　竿はカッパの後ろ首から引き抜いた背骨である。 　掻き混ぜながらぶつぶつと呪いの句を唱えていく。 　七百七十七番まであるまじないを何度もはじめから繰り返す。 　いちばん鶏があけぼのに向かって怒鳴るまでそれは続けられるのだ。 　…太陽が南中を遂げるころには大の字に倒れている太后の姿が塔頂にあるだろう。 　王子は朝起きたらもう人形に変わっていた。 　鏡を覗くとそこに見知らぬものがいた。 　頭が異様に大きくて怪物のようだった。 　臼のような歯が唇からむきだしになっていた。 　とうとうだ、と王子はさとった、ねずみ太后が本気で国を盗りにくる。 　国境へ急いで援軍が送られた。 　兵士たちもみな鉛の兵隊に変わっていた。 　背中でぜんまいが回っていた。 　ぎっこぎっこと砦に向かった。 　呪いを解く鍵はこれはもう地上ではみつからないもののようにおもわれた。 　その醜怪な人形がげっと吐き出した食べものをかわいい少女がすてきといって食べてくれる、それが鍵になっていた。 　心を病んででもいなければそんな少女がいるわけない。 　お菓子の国が乗っ取られるのはだからもう時間の問題だったのだ。 　ところがクリスマスを前に急に雲ゆきが変わってきた。 　ニュルンベルクきっての白の魔術師ドロッセルマイヤが乗り出してきたのである。 　魔術師の灰色の脳が全力で働いた。 　まさかの奇策が跳び出した。 　鉄みたいなくるみの実でもひと噛みで砕いてしまう強力なナットクラッカ、そのてのひらの什器にこの人形を変えてやることにしたのである。 　細工には臼のような歯があつらえたように役立った。 　魔術師は冴えていた。 　先を見る目も確かであった。 　このたぐいまれなくるみ割りをクララへのイブの贈り物にしたのである。 　…あとは仕上げをごろうじろ。 　ねずみ太后は千里眼でいちはやくおそろしい未来をみた。 　クララは勘のいい少女である。 　そうとはっきりはわからなくても人形に閉じ込められている王子のことを空気で感じることだろう。 　そうとはっきり気づかないまま愛しはじめることになる。 　最悪なのはそのようななぜともしれない愛なのだ。 　少女は人形が砕いたくるみの実を喜んで口にほうりこむにちがいない。 　ぬかった。 　そんな抜け穴があったとは。 　黒の呪術は釜に火を入れる前に死神に誓いを立てる。 　わたくしのこの首をあなたさまに預けます、ですからどうぞお力添えを。 　助けを乞うておきながらしくじってしまっては死神へのこれは裏切りなのである。 　裏切りよりなおわるい侮辱である。 　黒い頭巾をすっぽりとかぶった骸骨が大鎌をかついですぐここへやってくる。 　うかうかしてはいられない。 　太后は大王に急遽出撃を命令した。 　あの子なら絶対にわたしを守ってくれる。 　お菓子の国のへぼ軍隊など半日で蹴散らしてしまうだろう。 　夢にまでみたゼリーの丘にわたしの離宮がもうすぐ建つ。 　乱戦だった。 　どたばたの乱戦だった。 　あのどたばたが、でも、とってもいいのである。 　どかんと一発、ひと抱えもある砲弾が舞台の上を飛んでいく、あそこなんか最高だ。 　鉛の兵隊がばんざいみたいにそろって頭の上に手をかざす。 　そうして真っ黒な大玉を順に送っていくのである。 　運動会でよくやるあれ。 　大玉送り。 　砲弾が風船みたいにゆらりゆらりと渡っていく。 　観客席は大笑い。 　そんなへなちょこ砲撃に大王の軍団がひるんだりするものか。 　あっかんべえだ。 　おととい来い。 　ねずみ王国のとびっきりかわいい貴婦人たちが戦いのまんなかへ飛び出てくる、あそこのところもたまらない。 　パフで一心不乱におめかししながら、お尻ふりふり、列になって戦場を走りぬけていくのである。 　さあ、このへんだ、出てくるぞ、あの四匹の貴婦人が。 　出てくるのはむろんはじめからわかっている。 　わかっていて、それで意表を突かれるのだ。 　わっ、出てきた。 　こんな白兵戦のまっただなかへ。 　びっくりしたふりをする、おもいっきり。 　おもいっきりするとからだがふわっと軽くなる。 　ふわっと浮く。 　飛行する。 　…びっくりごっこ、ふりごっこ。 　ふりふりごっこ、浮き遊び。 　飛び遊び。 　たちまち王子軍の形勢は悪くなる。 　陣形なんかくそくらえのねずみ軍団なのである。 　今度はあいつだと狙いをつけるとわっとたかって噛みまくる。 　隊列を整えるのに懸命な王子の兵は簡単に先を読まれて次々と餌食になる。 　やれっ、やれっ、もっとやれっ。 　そうとも、噛んで噛んで噛みまくれ、がりがりがり、がりがりがり、噛んで噛んで噛み砕け。 　ひとりのこらず噛み殺せ。 　そら、王子が先頭へ飛び出てきた、さあ、大王の見せ場だぞ、これは一騎打ちだ、みんなみろ。 　一発で叩っ斬れ。 　そうなのさ。 　ぼくはねずみだ。 　わかったか。 　ねずみだ。 　コブラだ。 　ピラニアだ。 　残酷な幼年時代。 　残酷で幸福な幼年時代。 　ねずみ小僧はしかしどの新聞社にも一匹はいるのである。 　あだ名は違うかもしれないがどこでもデスクの机か編集部長の机のあたりに、あまり目立たないように、つまりちょっときまりわるげに、置いてある。 　だから極秘メールといったってほぼ同じ文面がほとんど同時にそれぞれの記者に届くことになるのである。 　みなが顔を見合わせた。 　みなしまったという目であった。 　コーヒなんぞをのんびり飲んでいていいときか。 　事件が起きていたのである、この、ここの、この所轄で。 　しかも、殺し。 　遅れた。 　完全に。 　初動をはずした。 　もっていくところがない、これは。 　どどっと階段を駆け上がって刑事一課の大きな部屋へ押しかけた。 　課長と鑑識の係長がまぶしい日差しのまっただなかで喋っていた。 　小太りの球体と痩せぎすの三角錘が大窓の前で向かい合っていたというわけだ。 　おや、みなさん、お早いことで。 　課長はまんまるな顔をにこにこさせてそう言った。 　けど、どうも申しわけないことですが、まだ何もありません、もちろん言わずもがなのことですが、みなさんには。 　そしてめいめいが喋りだそうとするのを両手で抑えてこう続けた。 　なにしろ、いま始まったばかりです、ここでは、これ、このとおり、まだ何もご披露できるものがありません、ここでは、まだ、…といっても、まあ、いまさら現場へ走られても、向こうでもお見せするものはないでしょうが、今はもう、はは、どうも、ひと足違いで。 　それから言いたいことはわかっているという顔で二度三度と頷いてからつけ足した。 　今から半時間ばかり、半時間ばかりわたしにください、取材のちゃんとした段取りをわたしから出させてもらいます、僭越ですが、ええ、きっちりと、ええ、ええ、ご心配なく、殺しです、もうはっきりしています、隠すことなんかありゃしません、いまさら何を隠します？　…わかってます、ええ、ええ、わかってます、撮影の時間もとりますから、まずは暗箱へ下ろすことにして、道中に時間をつくります、だから、半時間、半時間ほどわたしにください。 　かれは柔和なほほえみでいつもこのように立ちはだかる。 　後ろが深いほどいっそう前に出てきて立つのである。 　達磨みたいな丸顔がいきおい魔よけのエンブレムのようになる。 　侵入者を突き戻す古代の仮面…。 　この仮面。 　にがにがしい記憶がある。 　じつに苦にがしい記憶である。 　記憶の棘、またしても。 　師走の夜にサウナビルの地下で起こったことである。 　朝になるとひとりの詩人が仮眠室から消えていた。 　ボイラーマンに雇われていたのである。 　すぐにパトロールカーがまわされた。 　ソファに血痕が見つかった。 　急いで一報が入れられた。 　酒樽が指令室でそれを拾った。 　すかさずメールを送ってきた。 　受け取ったのはまだバスの中だった。 　あわててタクシーに乗り換えて南門筋のサウナへ走った。 　課長も地下室へ入っていた。 　路地の裏口で待ち伏せた。 　なかなか上がってこなかった。 　狭い空から粉雪が落ちてきた。 　やっと出てきたのを見るといつになく青い捜査服をつけていた。 　陣頭指揮のいでたちだ。 　…まぎらわしいのはこの街の暴力組織もこれとそっくりな青服を戦闘服にしていることだ。 　記者が周りに詰め寄った。 　現場を見せるよう要求した。 　するとあのまんまるな顔に愛想のいい笑いを浮かべてこんなふうに言ったのだ。 　なに、血痕っていったって、あなた、いってみれば、まあ、鼻血みたいなもんですよ、そんな、血相を変えるようなこっちゃあ金輪際ありません、わたしも念のためこうして来てはみましたが、早いはなし空振りです、そのあたりの病院へ行ってるのかもしれんです、止血に少々手間取って、だいたい詩人さんというのはなにをなさるかちょっとわかりませんからなあ、はは、われわれ凡人ごときには、…届けがあった以上、いちおう調べさせはしますがね、あなたがたまでわざわざ見ることはないですよ、もうわたしも帰ります。 　呪わしいのは想像力だ。 　とたんに達磨の後ろの古壁がすぽっと透けてベッド兼用のありふれたソファがみえた。 　緑色のカバーまではっきりとみえたのだ。 　唐草模様を芸なく織り出したお決まりのあれ。 　その上に一滴の血。 　凡庸な血。 　みてしまったのだ、くそったれ。 　三十歳を超えてまだ一冊の詩集もない詩人であった。 　それもあった。 　名のない詩人が鼻血を一滴かそこら変哲もないソファの上に残して消えた。 　失踪なのかどうか断定もまだできない。 　デスクは、ばかか、というだろう。 　半日もつぶしたのか、そんなのに、えっ。 　そのうえ雪が本降りになってきた。 　記者室に戻って熱いコーヒをすすりたかった。 　撤退した。 　だが半月もたったころのことである。 　地階の喫茶店でやっと宿直明けのキリマンジャロに、お目覚めのおすすめはキリマンジャロ！　にありついていたときだ。 　文化部に回されている同期の男が足早に階段を降りてくるのが大ガラスの向こうに見えた。 　前に座るといきなり、あれはいまどうなってる、と訊いたのだ。 　あれ？　あれって、なんだ。 　サウナで詩人が消えたって、あれ。 　サウナで？　ああ、あれ、でもなんでいまごろ？　めぼしいものはなにひとつ出なかった、字になるようなものはなかった、うちだけじゃない、どの社も一行も書いてない。 　それが詩人たちのあいだでは大事件になっている。 　水を運んできた喫茶店の奥さんに、…ここの奥さんがきわだって映えるのは青無地の明るいきものが秋虫の澄んだ翅みたいだからである、お決まりのアッサムブレンドを注文すると、かれの巨大な鼻孔によればアッサムは野性の香りがいいのであった、早口でこう続けた。 　読者詩の選者をしている高校教師が入選原稿を入れにきた。 　帰りがけに顔をくもらせてこんなことを言ったのだ。 　同人たちの家を刑事がまた一軒一軒まわっている、訊くことはまた前の蒸し返し、あなたはあの前の晩どこにいた、どこにいてどんなことをなさっていた、かれとの仲はどうだった、かれはほかにどんな人と会っていた、その後あたらしく思い出されたことはなかったか、…おまえじゃないか、やったのは、としんねり迫るような目つきでねえ、ぼちぼち次の同人誌にかからんといかんのだが、とてもそういう気分じゃない、いつまでこんなことが続くのか、警察詰めのひとにちょっと尋ねてもらえたら。 　追っていたのか、まだ、あれを。 　くそ達磨。 　みじんもそんなそぶりをみせないで。 　やつの手だ。 　深いのだ。 　胃がねじれた。 　いやなことになってきた。 　いったんみきったものをやり直すのはとりわけつらい仕事である。 　かきたてるものがすでに失せてしまっている。 　鉛になっているのである。 　心臓にナイフを突き立てないと動かない。 　いっそ耳にしなかったことにしておくか。 　だがほうっておけばよそも数日のうちに嗅ぎつける。 　抜かれてしまうことになる。 　…あぁあ、うんざり、うんざりだ。 　しぶしぶ警備会社へガードマンを訪ねていった。 　最初の発見者であった。 　柔道五段の大男があらわれた。 　髭の口をあんぐりあけて、…前歯が一本欠けていた、それから吠えた。 　鼻血？　まさか、ソファがもう血の海だったです、床にも滴り落ちていて、引きずった跡がドアの外までありました、ふつうの遣り口じゃありません、なにかこう、とことんむごくやったような、いためつけ、いためつけ、やられていくのがわかるようにたたき起こしてはまたやって、そう、大外刈りを打って打って打ちまくって最後の仕上げは袈裟固め、あげく、どこかへ持って行って捨てたんです、あれは素人の手口じゃありません、プロですよ、吉良屋敷の討ち入りじゃないですが周到に計画を立てて寝首を襲った、わたしの考えではよっぽど顔に泥を塗られるようなことがあったんです、きっと面子が絡んでいる、でなけりゃあんな遣りかたはしませんよ。 　喰わされた。 　現場ってえのはねえ、あなた、と課長が上機嫌で言い放ったのは、忘れもしない、半年ばかりたった雨の夜更けのことだ。 　ふたりで空けた焼き締めの徳利の列をカウンタに赤い巡礼のように並べていた。 　色白の丸顔をほんのりと染めながら言ったのだ。 　現場ってえのは、あれは特別な場所でしてね、厳粛で、純粋で、深遠で、どれほど深いかといえば、ひとくちにいって、あそこはさいはてなんですなあ、この地のはて、この世のはて、果ての風光、はは、言語道断し、心行処滅するところというわけで、…いや、わたしが華厳の寺の生まれだからこんなふうにこじつけると、もしそうおもわれるんだったら、もう今夜はこれでおしまいですよ、切り上げます、もう金輪際あなたとは飲みません、わたしはねえ、こんばんは坊主以上に真面目です、部下たちにもこんなに真面目に喋ることはないですから、…ただね、現場ってえのは、いったんあんたたち記者さんに踏み込まれたらそこで空気が変わるんです、たちまち濁ってしまうんです、ここのこのね、飲み屋の空気とまったく同じものになる、やあ、わるいことを言ってしまった、カアさんには、いや失礼、言い換えます、わたしの親爺の寺の空気と同じになる、ここは神棚にまだコンコンさんがおいでだけど、親爺んとこの須弥壇に、さあねえ、毘盧遮那さんはおられるかなあ。 　まるで歌うような言いかただった。 　とてもしあわせそうだった。 　いやいや、これはわたしの血すじの問題じゃあない、ほら、この頭、よっく見てください、この頭、わたしはまったく坊主じゃない、ほとんど禿げは禿げですがね、まだ毛がある、ごらんなさい、ひと目で二十本は見えるでしょう、ひと目二十本ということは実際には五十本以上ある、あんたの十万本に比べたらそりゃぐっと坊主寄りではありますが、五十本と丸坊主とではやっぱり違う、これは違う、ぜんぜん違う、正直いうと証書を授かる前にじぶんから卒業した、ははは、落ちこぼれた、教授がたの講釈の中には住みづらくって、どうもねえ、あそこは高邁すぎて俗っぽすぎて、そのう、まあ、かりに真実というものがあるならばです、あるならば、それはあのひとたちの講釈のなかよりは、あそこ、血だらけの現場にある、とまあ、わたしにはそんなふうにみえるわけで、つまり、そうみえるたちなんですな、たち、ついそうみてしまう癖、そう、癖、悪癖、…おまえは癖が悪い、親爺も匙を投げましてね。 　言いながらこっぽりと深いぐい呑みになみなみとついでくれさえしたのである。 　餅のようにやわらかな厚い手で。 　坊主ってのはみな幻をみながら生きている、幻、影、…つまり、ほとけ、すばらしい影ですよ、けどわたしがみるのは影ではない、禿げ頭が生み出す幻影なんかじゃまったくない、笑っちゃだめですよ、こんなところで、そりゃま、坊主もわたしも、扱うのはどっちもほとけですがねえ、しかし銅のほとけと肉のほとけ、これは違う、ぜんぜん違う、銅のはこれはもうただただ美しい、超絶の結晶、反対に、肉のほとけはこれは穢い、臭いし、醜い、ところがその穢さ臭さ醜さがまっすぐにわたしの体へ入ってくる、あっちのほとけよりずっとなかまで入ってくる、これに圧倒されるんです、鳥肌が立ってくる、まあ知ってのとおり捜査というのは九分九厘が技術です、だもんで鳥肌はほんの一瞬のことですが、それでもその一瞬、わたしは直立不動なんですなあ、思わず手を合わせてしまっている、笑わんでくださいよ、そうか、これか、と思うんです、そうだ、これだ、と思うんです、あれはこれだったか、と思うんです、あれはこれだった、と思うんです。 　厄介なのはひとりの警視の強靭な行動力とひとりの破戒僧の鋭敏な感受性とが堅く結ばれていることだ。 　申し分ない刑事畑の幹部である。 　だがあまりに嵌まりすぎている。 　むしろ絶海の孤島である。 　水平線の向こうへ殺人者たちを隠すのだ。 　もちろんあとひと息だったのだ。 　ねずみ大王があのばかでかい青龍刀をあのまま振り下ろしていたら。 　王子は脳天を打ち砕かれていたはずだ。 　カボチャを割ったみたいに頭がそこらじゅうに散乱した。 　それが、どうみてもあれは卑怯だ、土壇場でクララがすっとんできたのである。 　大王の後ろ頭を一発ぱこんとやったのだ。 　ぶったたいた、スリッパで。 　ちっ、大魔王ともあろうものが小娘のスリッパ一発でひるむとは。 　王子がすかさずはね起きた。 　おかげで最後の一太刀は大王のほうがいただくはめになったのだ。 　ねずみ軍はたちまち総崩れに崩れてしまった。 　われがちに逃げ去った。 　太后は千里眼で息子の哀れな最期をみた。 　小娘め。 　あのスリッパでせっかくの歯車もいまはからからと空回り。 　すべての希望が子豚ちゃんのわら家みたいに吹き飛んだ。 　かわいい息子、待っておいで、ママもいくからね、すぐそこへ。 　太后は塔の螺旋階段をのぼっていった。 　息が切れて五段も上がるともう休まないではいられなかった。 　最後の階は這ってのぼった。 　深紅の太后服がほこりで白くけばだった。 　大釜の生け贄たちはどろどろに溶けていた。 　腐り沼のような臭いがした。 　棚から青磁の壷を取り出した。 　黄燐の結晶がまだ底に残っていた。 　青い微光をはなっていた。 　わずかに熱もおびていた。 　結晶を手に盛った。 　口へ移した。 　赤葡萄酒を瓶ごとあおった。 　ぐらりと揺れた。 　瓶がからからと転がった。 　大釜の横へずしんと倒れた。 　痙攣がしばらく続いた。 　息絶えた。 　ねずみ軍を追い払った王子とクララはシュタールバウム邸の広間から意気揚々とお菓子の国へ旅立った。 　最初は雪の国である。 　雪の女王と雪の精たちが出迎えた。 　雪の踊りで出迎えた。 　雪が門出を祝福した。 　ねずみ王国では国をあげて大王と太后のふたりの葬儀がいとなまれた。 　大騒ぎの国葬だった。 　広場の真ん中にガラス張りの高い塔が建てられた。 　中に大王と太后の二つの首が吊るされた。 　金の鎖で吊るされた。 　この国では戦争に負けると王が首をはねられる。 　それがしきたりなのである。 　戦いの前に王は全国民に向かって神からの預言を告げる。 　この戦争はぜったいに勝つ、神がわたしにそのように告げられた、進軍せよ。 　負けたのは、ほかでもない、王が神のことばを聞き違えたからなのだ。 　神の信頼を裏切って国民の負託もないがしろにしたのである。 　いつもなら断頭台が広場の真ん中へ引き出される。 　両側の支柱もまんなかの大きな刃もみんな金でつくられた贅沢なギロチンだ。 　金色の光のなかに王の血しぶきが花のように散るのである。 　このたびはしかし大王は戦場でそして太后もすでに塔で果てていた。 　せっかくの殺人機械も出る幕がないのであった。 　やむなくガラスの塔に首を吊り下げることになったのだ。 　塔の横には舞台が組まれてこれにも金色の絨毯が敷きつめられた。 　二匹の進行役がこれも金ぴかの衣装をまとって登壇した。 　一匹は王室記録官の白蛇侯爵、もう一匹は大王付き道化師の三毛猫である。 　…記録官は大王の行動をまるごと記憶していくのでむしろ記憶官といったほうがいいのだが。 　侯爵はそこで大王が裏でおこなっていた悪行をあらいざらい暴くのだ。 　勿体ぶった口調である。 　山海の珍味をふんだんに並べた料理を三食三食げっぷが出るほど食べたこと、すべて国税でまかなわれたにもかかわらず食卓では民衆を小馬鹿にして、それで側近たちを大いに笑わせ、すこぶる得意げであったこと、忠実な臣下を謀殺しては美しい妻を奪い、そんな非道をなんと六回も重ねたこと、大王ももとはといえば兄王を暗殺した簒奪者であったこと…。 　道化猫は白蛇候の横でせかせか動いた。 　大王の悪行が出てくるたびに毛を逆立てたり飛び跳ねたりでんぐりがえりをしたりして群衆を煽るのだ。 　のびのびと芸ができる晴れの舞台なのである。 　むろん公平を期してよい記憶も語られた。 　すべての子ねずみが通えるように国じゅうに保育園をつくったこと、有能な平民を官僚に上げるために全国一律の任官試験を設けたこと、最大の脅威であった蛇帝国と猫共和国に進軍してこの二国を相次いで属国に従えたこと…。 　群衆は怒号をあげ、笑いに笑い、そして最後に大泣きした。 　一課長は取材の段取りに半時間ほどくれといったがこれが二時間にもなった。 　警務課長が一課長の書面を記者室へ持ってきた。 　制服のかれは中には畏れ多くて入れないという顔で戸口に立った。 　まんまるな近眼鏡を横長の老眼鏡に掛けかえると直立不動で読み上げた。 　護送車は駐車場のできるだけ外寄りに停めてそこから通用口まで歩かせることにいたします、棒読みだった、テレビさんは駐車場を横切るあいだに収録を終えてください、そこからいったん地下の留置場へ降ろしますが、途中の廊下は新聞社さんの撮影にあてさせていただきます、ただしこれも地下階段にかかるまでに終えるようにしてください、この三点、よろしくお願いいたします、それから、っと、フリーランスさんも含めた合同の記者会見を午後六時から大会議室で開くよう、これはこのあと急いで準備にかかります。 　それだけのことだった。 　二時間もかけるようなことではない。 　なんのことはない、出鼻をくじかれてそのうえ足止めをくわされた。 　窓はさっきからもう夕暮れの色である。 　初動のツケはこんなふうにねちっこくつきまとう。 　税関前へまわった遊軍記者も空振りだったといってきた。 　ワゴンには覆いがすっぽりとかかってます、ロープも張られてしまってます、ここではもうなにも聞き出せそうにありません、やじうまが群がっていますから十行ほどの雑感はできますが。 　衆人環視の白昼でさえこんなに深く隠される。 　幻術だ。 　達磨の指示は周到でそのうえ早い。 　わかっているのに破れない。 　通用口の鉄の扉ががおんと開いた。 　フラッシュがわっと焚かれた。 　男は目をしばたかせたが顔をそむけはしなかった。 　まっすぐ前を見つめていた。 　赤いスカーフ。 　青いシャツ。 　紺のジーンズ。 　白のスニーカ。 　ダウンのジャケットも白だった。 　真っ白なヨットが入ってきた。 　晩冬の海から来たのである。 　ぴしっと音を立てたものがある。 　仮面、であった。 　仮面が割れた。 　殺人者の仮面が割れた。 　印しをぎっしりと刻んだ仮面。 　真っ赤な目？ 　大きな鼻？ 　厚い唇？ 　尖がった顎？ 　それが砕けた。 　ばらばらに砕けて消えた。 　むろんいつだって殺人者の仮面は割れる。 　むしろ割れる音でこんどもそばへ来ていたとわかるのだ。 　なんてすばらしい顔なんだ、この男。 　最初に思ったのはそのことだ。 　ふたえのまぶたがすずしかった。 　唇の輪郭がくっきりしていた。 　視線が遇うことはなかったが斜めから覗いた目はあれはじつに海だった。 　眼球がすっかり海に染まっていた。 　海をみつめていたのである。 　髪がひたいで乱れているのは沖から風が吹きつけていたからにちがいない。 　赤いスカーフはマストで翻っていた旗だ。 　取り違えてはいないだろうか、と次に思った。 　ここで起こっているこのこれがいま起きていることのすべてだろうか。 　ひょっとしたらふたつのことが並行して起こっているのではなかろうか。 　ここと向こうで…。 　殺人者はほんとうは途中で枝分かれした向こうの道をいまこのときも逃げ続けているのではなかろうか。 　さらに向こうへ遠ざかっているのではなかろうか。 　ここへは殺人者でないほうの男が来た。 　こいつがここへやってきたそのぶんほんもののほうはそれだけ遠いところへ離れていく。 　地平線へ離れていく。 　…いや、もっと別のことかもしれない、ここで起こっていることは。 　ここのこれはむしろいま向こうを走り続けている男の夢想なのではなかろうか。 　夢想の中なのではなかろうか、ここはそっくり、走る男の。 　夢想？　影？　ここは。 　廊下も壁も。 　刑事も記者もカメラマンも。 　影だからこそ男はこんなにうつくしい？ 　むろん夢想ならすぐ醒める。 　いったん醒めればその先ここに起こってくることは晴れてここで起こることなのだ。 　まあ、待て。 　感じが変わるかもしれない。 　それらしい裂け目が見えないともかぎらない。 　これからだ。 　地下への階段は下へいくほど壁が黒みをおびている。 　湿りが滲み出てくるのである。 　水の裏側へ入っていくみたいである。 　七段か八段下ったところで男の姿がよろめいた。 　腰砕けになりかけた。 　や、始まる、とそう思った。 　思ったがすぐに両脇の刑事が引き上げた。 　いまはもうしっかりとした足どりで残りの階段を降りていた。 　底まで降りた。 　もうてのひらに隠れてしまうほど遠かった。 　曲がり角にかき消えた。 　すでにあっけなくいなかった。 　けっきょく中段でよろめいたあのときだけが唯一なにかが起こりかけた一瞬だった。 　からくも一回。 　だが一回とはいえふりかえればやはりそこではすでにふつうでないことが起きていた。 　ダウンジャケットの分厚い背中がそのしゅんかん鋭く裂けていたのである。 　黒い虫が裂け目を押し分けながら這い出てきた。 　蜘蛛類のようだったが甲虫類のようでもあった。 　こぶし二つぶんはあるずいぶん大きなやつだった。 　肢が鎌のようだった。 　牙が刃のようだった。 　そいつが男の肩に這い上がってがしっと頸に抱きついた。 　そこから頭を食おうとしたのである。 　顔を後ろから食うのである。 　そうだとも、待っていたのは、このことだ。 　これこそ理にかなったことだった。 　これですべてが腑に落ちる。 　世界が隅まであかるくなる。 　そういうことがひしめき合って刹那にみんな起きたのだった。 　もちろんそういうことはなにひとつ起こらなかった。 　男はなんの傷も負わないで平和に消えた。 　が、やっぱりあんなにありありとみえたのはすべてのことがみえたとおりに起こっていたからなのである。 　黒い虫が鎌の肢をハーケンのように打ち込みながらで背中をのぼっていったのだ。 　牙が後ろ首に触れたとき牙の先ですうっとひとすじ血が流れた。 　肢の数が八本だったか六本だったか、それももうすこし丁寧にかんがえれば思い出せることである。 　蜘蛛類と甲虫類は眼球の形でもみわけがつく。 　時間さえかければ微細な点もみんなはっきりするのである。 　男があのときよろめいたのもきっとあのように背中が裂かれたからなのだ。 　たしかにあったことなのだ。 　…むろんそう思っただけのことである。 　たしかに見たのだ、まざまざと。 　…みえそうになった、それだけのことである。 　最後までありありと見届けた。 　…夢想だった、つかのまの。 　やっぱりほんとうのことだった、みえたのは一瞬のことだとしても。 　いまごろ男は頭を食われているのである。 　後頭部から食われていってそれで顔だけがぺらっと浮かんでいるはずだ。 　目と眉毛と鼻と口、それらが端正なかたちのまま留置場を漂っているはずだ。 　もちろんあるわけない、そんなこと。 　ある、そういうことは当然ある。 　カメラマンたちが脚立をたたみはじめていた。 　がしゃっがしゃっと金属音が廊下のあちこちで響いていた。 　まるで表彰台へ行くようだったな、カメラマンが喋っていた、死刑台へ行こうというのに、いつもこうだったらわれわれも助かるが。 　残酷で幸福な幼年時代は不意に終わった。 　金平糖の王子とクララがちょうど雪の国へ入ったときのことだった。 　舞台で擾乱が起きたのだ。 　雪の精たちがいきなりばたばたと転倒した。 　みながひゅっと空中へ飛んでそこまでははっきりと見たのだが次の瞬間にはもうそれぞれが墜落のさなかにあった。 　指揮者が両方の腕を鷲のように大きくひろげてまるごと世界を抑え込むように凝固した。固まった。 　楽器という楽器が、がつん、不協和音のかたまりになって停止した。 　転倒をまぬかれた雪の精たちが舞台で棒立ちになっていた。 　足もとに恐い虫でもいるかのように不安な目で床の上を見つめていた。 　みたところざっと十人が倒れていた。 　六、七人が体を起こしかけていた。 　三人がまだ突っ伏したままだった。 　チュチュがめくれてぴんとピラミッドのように立っていた。 　動かなかった、…その三人は。 　死んだみたいに指の先ひとつ動かなかった。 　客席は息の音もしなかった。 　やっと衣ずれがはじまった。 　ひそひそ声が沸き出てきた。 　大きなざわめきになってきた。 　もうおおぜいが喋っていた。 　何を喋っているのかそれが聴き取れそうで聴き取れなかった。 　ホール全体がわおんと耳鳴りのようだった。 　何を見たか、しきりにおもいだそうとした。 　雪の精たちが雁みたいに列をつくって踊っていた。 　上手の奧と下手の奧から飛び出てきては中央で交叉した。 　おたがいがおたがいを空中ですりぬけた。 　まさしく吹雪だったのだ。 　転倒が始まったのはどこだったか。 　それが、どうも、…そこの記憶がないのであった。 　切れ目がひとつも見あたらなかった。 　どこにも線を引けるところがないのであった。 　目を皿にして見ていたのに。 　…どこへいってたの？　あのとき、おまえ。 　背景もいまはもうすっかり変わってしまっていた。 　雪の林は消えていた。 　あるのは書き割りの松の木だった。 　根元のほうに塗り残したところがあった。 　刷毛のすじが残っていた。 　粗雑な絵だ。 　紙の切れ端が床じゅうに散っていた。 　雪にみえていたのだ、あんなのが。 　こんな、ただの紙屑が。 　残骸だ。 　…ここにあるのは、ことごとく残骸だ、かき消えてしまったものの。 　オーケストラピットが墓穴のようだった。 　ずんずん寒くなってきた。 　三人のダンサーがいまはもうほんとうに死んでいるもののかたちに見えた。 　腕がねじれてまるで逆についていた。 　体ぢゅうに紙屑がのっていた。 　ごみのなかに埋もれていた。 　ごみはすぐに捨てられる。 　かの女たちももう捨てられたもののようにそこにいた。 　三つの闇に伏せていた。 　いまはむしろ闇から起き上がってきはしないかと心配だった。 　半身を起こしてこちらをにらみそうだった。 　…なんでわたしがここにいるの？　おかしいじゃないの、あなたたちはそこにいるのに、ぬくぬくとそこにいるのに。 　唾を呑んだ。 　起きてきたのだ、ゆっくりと。 　目は空洞になっていた。 　見たくないので目を閉じた。 　閉じると暗い穴が鼻っつらまで飛んできた。 　黒いアゲハがはたはたと二度ほどはためいただけでもうそこへ来たのである。 　むろん三人が体を起こすようなことはない。 　にらみなどするわけない。 　ちゃんとそこに伏せていた。 　ずっと伏せたままだった。 　…むろん伏せたままでなんかいなかった。 　ほんのついさっきのことなのだ。 　むっくりと起きたのだ。 　こっちを恨めしそうに睨んだのはほんとうだ。 　…ついさっきがいつだったか、そこはどうも、すでにいくぶんかは曖昧だが。 　ここで起こる悲劇、それはただ二つだけのはずだった。 　ひとつはねずみ大王のあの討ち死に。 　スリッパ一発のあえない最期。 　もうひとつはねずみの部隊と鉛の兵隊の正面衝突、あのどたばたの殺戮劇。 　両軍がばたばた倒れた。 　舞台じゅうに死があふれた。 　…けれどあそこにはちゃんと後始末がつけられた。 　カーテンコールで平和な楽園が復活した。 　深紅の幕の隙間から金平糖の王子とねずみの大王が腕を組んであらわれた。 　抱き合ってワルツを踊った。 　鉛の兵隊とねずみの一団もそこに並んだ。 　ラインダンスが始まった。 　客席に手拍子がひろがった。 　ここで死ぬとはいつもそういうことだった。 　不吉なカードは忘れず切りなおされるのだ。 　こんな、いま目の前に見ているような、こんな死にかたはここにはまったくそぐわない。 　度が過ぎる。 　往ったら往ったきりなのだ。 　喉がかわいた。 　ひりひりした。 　吐き気がした。 　なにがなんでもふりのところで止めないといけないのだ、クリスマスのお祝いの舞台だし。 　おとぎのできごとなのである。 　…ふり遊び。 　ふりふりあそび。 　ふりあそび。 　ほんとうに死ぬか？　こんなところで。 　こんなつまらない死にかたで。 　…ほんのちょっとした、ついでの死で。 　ひとが。 　ひとなのに。 　がたん。 　底が抜けた。 　知らなかったのだ、なにも。 　知らなさすぎたのだ、さっきまで。 　まったく。 　いい気になっていまだ夢のなかで遊んでいた。 　ゆめ、ゆめ、ゆめ、ゆめ、…ゆめ遊び。 　危ない場所だったのだ、ほんとうは。 　緞帳が雪崩れるように降りてきた。 　舞台が力づくで閉ざされた。 　ずしりと分厚い緞帳には金糸銀糸を縫い込んで大きな刺繍がしてあった。 　五層の天守閣がそこでぎんぎんに光っていた。 　倒れたダンサーのことなど知るものかというけばけばしさなのである。 　この町はこんなぎんぎらを長く自慢にしてきたのだ。 　…ぼくもきのうまでそうだった。 　げんなりだ。 　やだよ、この町。 　かわいそうなダンサーたちをそのうえさらにみじめにする。 　こんな町といっしょにされるのは、やだ、わるいけど。 　体ごとみんなこの場で脱ぎ捨てたい。 　まるごと入れ替わってくれればいい。 　どうも入れ替わるようだった。 　体がかあっと中からほてってきたのである。 　臓器が熔岩みたいに溶けはじめるようだった。 　肺臓も肝臓も腎臓も心臓も、もう火だるま。 　なにもかもがどろどろに溶解してそうして生まれ変わるようだった。 　異変は、異変だが。 　こわくはなかった。 　いずれやってくるものがいま来ただけだともおもわれた。 　…すでに何回か始まりかけてはそこで止まっていたことではなかったか。 　ひょっとしたら、たぶん、脱皮。 　セミが体の外側でやることを体の内側でするのである。 　内脱皮。 　それでいまよりよくなるのだ、きっと。 　…といって真っ白になるというわけではなかったが。 　それですっかりきれいになってしまえるほどそれほどいい子ではないことにもうすうす気づいていたのである。 　ずるいことだとわかっていてもついうわべをつくろってしまうのだ。 　下のことはそのままにしてしまう。 　うしろめたいところが下に残ったままなのだ。 　そこで切り株みたいに尖がっている。 　転がったダンサーたちは目をそむけたいほど無残だったがまだずっと見つめていたいほどじつは美しかったのだ。 　いますぐ救い出してほしかったがまだねじれた姿のままほうっておいてもほしかった。 　死を見るのは怖かったが死が目の前で起こるのはこんなにもこころの躍ることだった。 　びくついていたのだが同じほどぞくぞくしてもいたのである。 　…それどころかまだ何倍もむごいことを待っていたかもしれないのだ。 　引き裂かれていたのである、じつは。 　体が熱くなったのもほんとうはそのせいだったかもしれない。 　…底が裂けて奧の火があふれてきた？ 　気がつくと体がこわばって岩みたいになっていた。 　汗が薄く全身をおおっていた。 　そのときだった。 　別の生きもが下にひそんでいたようにそこから頭をもたげてきた。 　鎌首が立ち上がってきたのである、だしぬけに。 　コブラのような尖がった頭がむしろ腸の内側へ突き上がってきたのであった。 　…その狂暴ないきものはおしっこを運び出す小さな機関車なんかではもう全然ないのであった。 　いったいこれは。 　だれに起こっていることなのか、このことは。 　…転轍機が切り替わって別の線路へ出たようだった。 　こんなことがこの体に起こるのか。 　声をあげるかもしれない。 　母に気どられるのがこわかった。 　体をもっと固くしてしんぼうした。 　血管が破れそうなほどふくれていた。 　どっと汗が溢れてきた。 　頭がすっぽりと体のなかに嵌まっていた。 　まわりは肉の壁だった。 　なにも考えられなくなっていた。 　もう叫ぶかもしれないとおもったときそこでやっと退きはじめた。 　穴があいたような疲れが残った。 　越えたのだろうか、これで。 　肉の海をけだるくただよいながらそうおもった。 　…そのようにしてあのときたぶん終わったのだ、幼年期が。 　残酷で幸福だった幼年期。 　ぼくはねずみだ、なんてあんなかいかぶりをよくもまあ。 　コブラ？　おまえが？ 　ピラニア？　おまえが？ 　おまえは、あほうだ。 　とっとと失せろ。 　卒業だ。 　女の死体は国籍がいまひとつ定かでなかった。 　黒鉛のように黒みをおびた膚だった。 　こまやかな肌理が絹みたいになめらかだった。 　手も足も小づくりでまだ少女のようだった。 　腰もしっかりくびれていた。 　機動隊の隊員が若い女だと報告したのはだからやむをえないことだった。 　一課からは風立ちぬが送られた。 　風立ちぬというのは係長の渾名である。 　風がそよと立つようにすっと現場へ出ていくのでいくらかの敬意も込めてそう呼ばれるようになったのだ。 　殺人には大概かれの班が回された。 　死体とのつきあいはもう長い。 　まぶたを見ただけでも齢の見当がつけられる。 　小皺が黒ずんでくるのである。 　むろんもっと確かなのは生殖器をみることだ。 　四十は超えていた。 　だが生まれた国まではみぬけない。 　ほとけさんがどこから来たのか、それがどうも、と課長がこぼした、身元がはっきりせんうちは、まったく、どうも、クラゲをながめているようで、決まらんのですなあ、芯が、…ぶっちゃけていえば、女がひとり殺された、そこで幕は下りてしまっているわけで、つまりもう何も戻ってこんわけで、国籍なんざいまさらどうだっていいようなもんですが、そこから蒸し返すのがわれわれの商売で、だもんでどうだっていいものがやたらひっかかるものになってくる、はあ、まことにお節介な商売で、…いやいや、あんたたちも、はは、これはこれは、ご同類、お節介なお仕事ですなあ、お互いに、まあ、おおかた南のほうの出は出だろうけど、その先を絞るのが、ねえ、南からはさかんにのぼってきますしなあ、ここんところ密入国もばかにならん数ですから、遺伝子のほうもまだずばりとはいかんようで、…それに、ここへ流れてきてどこにいままで住んでたか、なにをして食ってたか、最悪、その場しのぎの豆売りだったりした日にゃあ、もうこれは、大海のなかの石一個、いやいや、取り越し苦労なんかじゃないですよ、これは、どっちかというとそっちのほうが濃いですなあ、…いまわのきわにどこの言葉を叫んだか、舌の格好を見たら即座にそいつが割り出せる、そういう研究やってる先生いませんかなあ、どこかの大学か研究所に、…下の穴はこれはもうくどいくらい喋りますが、肝心の上の穴はただの穴、ただの空洞、はあ、もう、いまは。 　えっ、豆売…り？ 　娼婦、だった？ 　それはかんがえもしなかった、課長がそんなほのめかしかたをするまでは。 　まったくの死角であった。 　だいいち娼婦の肉はあまり上等な食材とはおもえない。 　夜ごと客をとってきた肉である。 　感染も心配だし。 　消してしまっていたのである、あぶないところははじめから。 　それにそういう女だとちょっと安易すぎるのだ。 　なんだ、金で釣ったのか。 　そう思ってしまう、どうしても。 　女神たちからぞんぶんに愛されてきた男である。 　男がうらやむほどの男である。 　その男が女を殺した。 　物語があるはずだ。 　抱いて抱いて抱きしめてまだもっとちぎれるくらいに抱きたくてそれでもう殺すしかなかった、そのようなものぐるおしい物語。 　汲んで汲んで汲み尽くして溺れるほどに汲み尽くしてあとはもう食うしかなかった、そのようなせっぱつまった物語。 　売春婦？　ただの？　とやはり横の記者が訊き返した。 　ただの？　ただの、とおっしゃる？　それはあなたらしくない、と課長がこたえた、かんがえてもみてください、六人もの女が殺されて、それがまったく表に出なかったわけですから、きのうのきのうまで、短く見積もっても四、五年は、完全な神隠し、そんな狩り場、いまどき一体どこにあります？　達磨の饒舌が始まった、今回のこれだってじぶんでへまをやらなかったらたぶん表に出なかった、そうです、なにも起こっていなかった、なにごともなくきのうがきょうにつながった、屈辱ですがね、われわれには、…まっ、それはともかく、ふつうの女だったらまずこんなふうにはいきません、そこそこ過密なこの都市です、だれかが見ているものですよ、七人もの生け贄を連れ去ってそれでも気づかれないそんな場所、これはあなた、むしろ目にみえん場所でしょう、みえん狩猟場、神隠しの辻、そうですそうです、この地上に都市という猥雑な区域が生まれたときから、女たちがこつこつと穿ってきた神隠しの辻、第二の街、…街もねえ、見えるところは時の流れでどんどん変わっていきますが、みえんところはちょっとのことでは揺るがんです、四千年を越えて今に至っているんです、…かの女たちのこの裏の歴史に比べたら、われわれ近代警察の歴史なんぞまだ幼児期にしか過ぎんでしょう、わたしはね、敬意さえ払ってますよ、あの悠久の女性史には、…ただの、とおっしゃる？　あそこにただのなんてのはありません、それはあなたのおもいこみです、いや、失礼、手ごわいんです、かの女らは、見えない城にたてこもっているんです、おそらくこの事件もそういう第二の街で起きてます、そうわたしは踏んでます、厄介です。 　しかし悪い癖ですよ、それは課長の、と記者はすこしむきになって言い返した、事件をひどく単純にみせたかとおもえば今度はむやみと複雑にみせたりする、課長はわれわれを右往左往させておいて陰でほくそ笑んでいらっしゃる、こんどのもまさにそれじゃないですか、実際はすでにおおかたの見当がついている、そうでしょう？　生活課へいけばあのあたりの女たちのデータはもうありあまるほどありますよ、見ましたよ、ぼくも、女たちがどこの一家につながってるか、そんなことまで入っている、まさに宝の山ですよ、引っ張ろうとおもえばいつだって引っ張れる、ただいまはノルマが足りているので泳がせている、そうでしょう？　隠し財源、…女たちがいくら隠れているつもりでも、ここのメモリを開いたらもうまる見え、国籍なんかすぐに出るんじゃないですか、みえているとおりにみせていただかないと、われわれには。 　みえているところがこの街のすべてなら、とこんどは課長が愉快そうに言い返した、われわれは確かにほぼ完全なデータを握ってます、しかしみえるところが街の半分でしかなかったら、残りの半分は、これはもうまったくよその街のことだってことになりますんで、はは、しかもおそらくわれわれにみえてるところは大きく見積もっても三割どまり、われわれがもっているのはつまり三割の完全データ、…街にはねえ、これはどこの街でもそうですよ、街のなかに未知の街がいくつもある。 　驚いた。 　あれにはまったく驚いた。 　驚いたのは墓の穴からとつぜん雪のワルツが立ち上がってきたからだ。 　指揮者が真ん中に、いつのまに？　戻っていた。 　指揮棒を大きく振った。 　強く振った。 　鋭く振った。 　棒の先がしゅしゅっと伸びるようだった。 　いつもの倍ほどにさえ伸びた。 　緞帳が揚がっていった。 　空まで揚がるようだった。 　熱い風が押していた。 　オーケストラで上昇気流が起きたのだ。 　雪の世界は明るかった。 　目がさめた。 　吹雪の松林だったのだ。 　公演は中止になるものと思っていた。 　すでになったものと思っていた。 　もうこれは死体じゃないかとそのようにみえるものが三つも転がったのである。 　不吉な夜になったのだ。 　鈴を鳴らしながらいま星々の下を駆け回っているトナカイたち。 　それもこの町にはもう来ない。 　かなたを遠巻きによけていく。 　行ってしまったことだろう。 　いっさいが終わってしまったと思っていた。 　…昏倒したダンサーたちはじっさい大きなけがだった、命まで落とすことはなかったが。 　ひとりは足首を捻挫してもうひとりは半月板を砕いていて最後のひとりは鎖骨と肋骨の両方を折っていた。 　雪の女王が初釜のあとでくわしく母たちに報告した。 　空中ですれ違った瞬間にほんのちょっと間がずれてそれで足が絡んだらしい。 　けれどそのときのことを正確に思い出せるものはただのひとりもいないんです。 　突っ立っていたものはどうしてそこに突っ立っているのかわからないままなおしばらく突っ立っていたのだし床に突っ伏していたものも突っ伏しているなどとはまるっきり思わないままむしろまだ踊り続けているつもりでそこに突っ伏していたのです。 　かんじんなところって却って抜けてしまうようですね、すこんとまるで穴みたいに、内出血で真っ黒になっているのに痛かったおぼえが全然ないっていうんですから。 　雪の女王は暗い穴を覗き込むような目で言った。 　もちろんてんやわんやでした、裏はもう、どうしていいかもうだれにもわからない、舞台監督なんか、わあと叫んだとおもったらいきなりスイッチに飛びついて、やみくもに降ろしてしまうんですから、緞帳を。 　ああみえて、と言ったときの母の気まじめな顔を思い出す、バレエって命がけなのねえ、どうみてもお砂糖の国のことなのに。 　ただばかげたことも起こっていた。 　どうするつもりだろう入場料はとそのことが頭に浮かんでくるのである。 　とぎれとぎれに浮かぶのだ。 　お金のこと？　こんなときに？ 　脳の反乱のようだった。 　面妖なつらがまえの深海魚が海溝からのそっと出てくるようだった。 　どうごまかしたらすりぬけられるか。 　そんな算段に団長が裏で没頭しているのようについかんがえてしまうのだ。 　だまされたりするものか、こどもだからって。 　目がずるそうに動くのがはっきりわかった。 　はらぐろいこの魚族。 　同じじゃないか、こんなことにやきもきするんじゃ、きんきんきらきらのあの緞帳と。 　来るな！ 　それ以上こっちへ来るな。 　卑しい目の深海魚。 　消えろ、消えてしまえ。 　…消えてくれ。 　手遅れだった。 　棲みついてしまっていた。 　脳神経の網にもぐりこんでいるのである。 　舞台はまだ三分の一もいってない。 　食い逃げなんかさせないぞ。 　だがあの団長がそんなことをするだろうか。 　会うたびにぶあつい手で握手をしてくれるあの団長。 　黒の三つ揃えをきちっと着けて、おなかのボタンがぴいんと飛びそうなのである、黒縁の大きな眼鏡をかけた小さなひと。 　ぎゅうっと握られるので痛いのだ。 　わたしはこのお城の町が大好きでして、とまたいつもの話を母にしていた、この町にはほんものの目をもったかたがまだおおぜいいらっしゃる、それこそ歴史の厚みというものです、わたしたちの創作の第一号もですからここで初演できないかと、そうおもっているんです、すでに演目は決めてます、源氏です、源氏をバッハでやるんです、バイオリン協奏曲にとてもいいのがあるんです、源氏の行列にも葵の車争いにも誂えたように合うんです、まだ二、三年さきになるかもしれませんが、この町でちゃんとした評価を得て、それから各地へもっていく、それがわたしの夢なんです。 　ああいうひとだからやっぱりお金は返すだろう、だがそっくりぜんぶを返すだろうか、それともいくらか差し引いて返すのだろうか。 　もうきょうの帰りに返すのだろうか、それとも日をあらためて返すのだろうか。 　脳の、ばかが。 　そんなふうにまだ輪をかけてばかになる。 　まだ卑しくなっていく。 　深海魚がぷるっと動いたようだった。 　せせら笑ったようだった。 　ぷるっと動いたおかげで、脳はここだ、卑しい脳があるのはここだ、と驚くほど場所がわかった。 　…脳のありかをそこまでありありと感じたのはそれがはじめてのことだった。 　変だったのはありかがもうひとつ上にもあったことである。 　下にあるのに上にもあった。 　頭の真上にもうひとつの脳が浮かんでいた。 　もう天井に近かった。 　客席全体がみおろせた。 　客たちは不安な目を覗きあいながら喋っていた。 　そんな高みに浮かんでいるのはもちろんこの脳ひとつきりだった。 　こぶしを握ったかたちをしてそこに寂しそうにとまっていた。 　脳があそこまで寂しいかたちになってしまうとはおもわなかった。 　寂しくてすこし泣きたいほどだった。 　もう泣きたくなってきた。 　母は？ 　母？ 　母はまるっきりぽかんとしていた。 　天守閣のあたりに目を据えてまばたきもしないでいた。 　銀灰色の訪問着がまぶしいほどに映えていて、こんなにこのきものが光ったろうか、いま初めてそれをながめたようだった。 　陽光がそこだけに当たっていた。 　…日を浴びたひと張りの帆であった。 　一隻のヨットが漂っていたのである、そのそこに。 　たぶん舵を折ったのだ。 　呑み込めないでいるのである。 　なになのかしら、これ、なにが起きているのかしら。 　息子がそばにいることもおそらく忘れてしまっていた。 　えっ、なに？　入場券？　どうしたの、えっ、払い戻し？ 　目をまるくするにちがいなかった。 　かん高い声になるかもしれない。 　周りから見つめられることになる。 　ふたりとも真っ赤になる。 　いってはいけないことだった。 　しょげかえってしまうだろう。 　深海魚がまたぴぴゅっと胴をくねらせた。 　こんどは笑いをこらえていた。 　この体が、とそう思った、この母から生まれたというのはほんとうだろうか。 　この手、この足、この頭が。 　ここにいる、このこいつが。 　異物のような。 　この、こいつ。 　このこいつが、この母から？ 　このだれか。 　だれか、この。 　だれ？ 　だれだ、これ。 　ふん。 　半券をくわえて死ね。 　目を閉じた。 　それからもういちど母を見た。 　日を浴びた帆が前よりもっとまぶしくひかっていた。 　それが向こうにうかんでいた。 　ずっと向こうにうかんでいた。 　はるか水平線上にうかんでいた。 　すぐそこにうかんでいた。 　目と鼻の先にうかんでいた。 　ほとんどこの、こちらの眼窩のなかにうかんでいた、…体のなかにうかんでいた。 　だれ？　あの、あれは。 　あの、あそこの。 　だれ？　この、これは。 　この、ここの。 　あっ、とおもわず声が出たのはちょうど緞帳が揚がりきったそのときのことだった。 　母も同じように、あっ、と小声をあげていた。 　ほとんど同時に母と子が、あっ、と洩らしたのだった。 　めざましいことが舞台の上で起きていた。 　舞台の四隅にダンサーがひとりずつ立ったのだ。 　白のチュチュを凛と着けた雪の女王。 　…六角形のペンダントが白金の反射光を放っていた。 　チョウチョみたいな銀のマントの雪の騎士。 　…銀のマントは円卓の騎士の証しである。 　サファイアのような青い乗馬服のお菓子の王子。 　…神聖な青、その色でかれはこの世界へ戻ってきた。 　そして水色のネグリジェをふわりとまとった少女クララ。 　…むしろトケイソウの薄水色、時間の裏を飛んでいく夜の飛行服である。 　やるんだわ、あのひと。 　母のまなざしはまっすぐに雪の女王に向かっていた。 　むこうでも母を見つめたようだった。 　でもたいへんよ、ほかが若いんだから、まだみんな。 　膝でこぶしを握りながらつぶやいた。 　ダンサーたちが目くばせしあったようだった。 　すぐに踊りへと踏み出した。 　そうなんですなあ、男の遣り口もこれがなかなか、と課長が言った、すっきりとはみえてこんのです、おもったほど、こういう事件は騒々しさがつきもんで、ふつうはね、食い散らかしたテーブルみたいに、騒いだあとがあちこち残っているもんで、人間のさがですな、それでまあ尻尾もつかめるわけですが、この男はそこがどうも、どうも静かなんですなあ、かれもかれの周辺も、図書館には、まあ、あたりまえのことですが、入館七年、しごく静かに勤めてきた、ひとあたりもやわらかで、内にも外にも受けがよかった、幹部候補生の最右翼だったと、これは館長本人が言ってることで、館長の推薦で都市局の諮問委員も務めてたようでして、建都祭、あの薔薇祭ですな、あそこへあっちの国のバラの女王も招こうということになったのも、もとはかれの提案だったそうですよ、家のほうへ行かせたのもずいぶん感じ入って戻ってました、部屋には塵ひとつなかったというんです、女の部屋のようだったと、はは、女ももう男に負けてなんぞいませんから、女の部屋以上にといわねばならんかもしれんですが、あつらえの本棚に形のそろった全集本がずらっとね、食器棚もなかなかの壮観だったようでして、マイセンだといいますよ、マイセンをきれいに並べて、引き出しには、なんですか、スウェーデンかどこかの銀のナイフやらフォークが、まっ、それはとにかく、あれだけのことをしておきながら、どこにも修羅場めいた喧騒のあとがない、人間ちゅうのは最後の最後は、まあ、沈黙のなかで、だんまりのなかでことを進めるもんですが、それにしても、厄介ですな、この静けさは、濠ですよ、城の濠、ゆくてを阻む城の濠、水をしんと湛えてね、…しずけさや、はは、しずけさや、いわにしみいる、ですかな、まったく。 　静かな凌辱？ 　静謐な…？ 　じっさいこのうえなく静かな死体だったのだ。 　殺したあとにまだ屍肉をいたぶるようなそのような鬼の時間が流れたとは…、そんな魔の爪跡はみじんもなかった。 　機動隊の隊員たちがそこの毀損をみのがしたのもむしろ当然だったのだ。 　全身の弛緩が進むとそのあたりはぽっかりと大きな穴になるのである。 　淫蕩な影などみじんもない空虚な穴に変わるのだ。 　それでなくてもなめらかだった傷あとはそれですっかり均された。 　すでに凪いだ海だった。 　そのうえ。 　遺体はまるごと洗ってあった。 　魚のようにつるつるに洗ってあった。 　きよめた体のようだった。 　そして、香水、たっぷりと。 　バラとジャスミンが無数の死斑を隠すように咲き乱れていたのである。 　燃え立ってきた花の香も隊員たちの目くらましになったのだ。 　寝袋までにおってたといってます、さながら香水漬けですな、あれは五番だと風立ちぬはいいますが、贅沢なのが出てきますよ、殺しにも。 　鬼の時間はゆっくりと進んでいったようである。 　あけがたになっても浴室にはあかりがあった。 　夜勤から戻ってきた階下の男が少し痩せた下弦の月と明るい小窓を見上げている。 　われわれの仕事は、と課長がつづけた、おしまいからもとへとさかのぼるわけですが、しまいがこんなに静かだということは、それだけ大きなエネルギーがこれにはそそぎこまれている、とまあそういうことでしょうな、きっと、犯罪というのは、あれですよ、おしなべて静かなほど大きなエネルギーをひそめている、そうとうな時間と労力がそのなかに畳み込まれているわけで、つまり、ああいう女は、ですな、ああいう体をもった女は、そうやたらといるもんじゃあありません、さがしまわったはずですよ、時間をかけて、辛抱づよく、齢にもだいぶん偏った趣味があるようで、若いのはどうやらお好みでないようで、どうもそんなふしがみえますな、けっこう手のこんだコレクションなわけでして、金もずいぶん使ってます、まとまった額をどさっと下ろしてますからな、まあ、あの男っぷりで、そのうえ金ばなれもよかったら、むりやり連れ込むというような、そんなむりはしなかったかもしれません、女のほうから出向いてきたかもしれんです、ひっそりと、むろん推測ですけどな、まだぜんぶ、わかってもらっているでしょうが。 　浴槽の棚には紫色のきれいな小瓶が並んでいた。 　どれにも仏塔みたいな円錐の栓がついていた。 　薬草と香草の濃縮液が入っていた。 　ラベンダにジャスミンそれからたぶんカモミールとかミントとか…。 　浴室はどうやら森の香りで満たされていたのである。 　そこへ血のにおいがひろがった。 　まるで儀式が進められていたようだ。 　死の儀式？ 　死の宴？ 　ダンサーたちの旋回がはじまった。 　大きくてゆっくりとした旋回だった。 　旋回しながら中央へ寄ってきた。 　中央に収斂するとそこからはじかれたようにまた四隅へ広がった。 　こんどの旋回は速かった。 　大きな花がぐんぐんと四方へ花弁をひろげていった。 　雪の精たちが出てくる気配はもうなかった。 　あたらしいソリストが加わる兆しもないようだった。 　これから何がおこなわれようとしているのかいまからおもうとようやくそのあたりでわかりかけたようだった。 　バレエ団は背水の賭けに出たのである。 　腹を固めた。 　身を切るような四人の即興。 　それでこの危機を乗り切ることにしたのである。 　第一幕のあと残り五分の一。 　あの小さな団長が決断した。 　母が、まあ、とまた言った。 　やるわね、ゆきちゃん。 　雪の女王にいつものようなほほえみはなかった。 　青白い顔だった。 　額がむしろ暗かった。 　暗いところに目があった。 　こんなこわい目。 　豹のような目であった。 　黒豹の目がこうだった。 　黒豹は城の動物園にいた。 　いるはずである、いまも。 　コンクリートの岩穴から夕暮れをみつめていた。 　夜の黒い目であった。 　むろん夕暮れなどみつめてはいなかった。 　夕暮れのもっと向こうをみつめていた。 　…黒い豹？　しかしそんなものがいただろうか、城のあそこに、いたのはたしかごくありふれた黄色いやつ。 　耳が見えた。 　こんなふうにまともにダンサーの耳を見たのははじめてだった。 　ぐにゅりと入り組んだ形である。 　気味のわるい形である。 　臓器がはみでているようだ。 　むしろ獣のかたちのままである。 　それがワルツをきいていた。 　ワルツなどむろんきいてはいなかった。 　きいていたのはおそらくはワルツのまだ向こう。 　ワルツが生まれてくるその向こうをきいていた。 　高く、とても高く跳躍した。 　黒豹が跳んだのだ。 　もうそこが成層圏のようだった。 　澄み切った気圏のそのまっただなかに浮いていた。 　旋回した。 　胴体が螺旋のかたちにねじられた。 　惑星が回転しているようだった。 　惑星もきっとそんなふうな荘重な自転をつづけている。 　ひと呼吸おいて、アラベスク。 　豹が変身にかかっていた。 　飛ぶかたちになるのである。 　鳥類への羽化を遂げるのだ。 　視線が閃光のように飛び交った。 　三人のダンサーたちがそのように雪の女王を見るのである。 　そのように確かめる。 　そこでまた踊りが大きくなる。 　踊りがまたいちだんと強くなる。 　もっと獰猛な豹になる。 　もっと荘重な星になる。 　もっと高く飛ぶ鳥になる。 　いうまでもなくもう雪の林の物語はつぶれていた。 　物語の檻は壊れていた。 　四頭の獣がすでに檻を脱け出ていた。 　近くをうろつくだけではない。 　かなたへ走り出すことだってできるのだ。 　地平線を超えて向こうへ飛び出すことだってできるのだ。 　向こうへ。 　向こうへ。 　もっと向こうへ。 　もう走り出しているのである。 　感動は不思議な場所からやってきた。 　もっと正確にいうと感動はどこから来たかわからなかった。 　体のなかにいきなり得体のしれない膨らみが満ちてきた。 　黒い海が月の下で燦めきながら膨らみはじめたようだった。 　いまはもう細胞という細胞がことごとく月の破片のようだった。 　涙がいまにも出そうになってけれど母に勘づかれたら恥ずかしいので我慢した。 　でもこらえられなくなったらどうしよう。 　そっと上目で母を見た。 　すると、なんとしたこと、母の頬を岩のような大きな涙が転がり落ちてきたのであった。 　宙で光った。 　膝に畳んだ羽織めがけて落下した。 　キクやコマクサやユキワリソウやロウバイやそれら小さな花々のその花づくしのまっただなかへほとんど轟音をたてて着地した。 　すばらしいわ、ゆきちゃん。 　小さなうわずった声だった。 　…なんてこった、ぼくがこんなところにいるなんて。 　運転席のずっと向こうに高架鉄道の高いガードがあらわれた。 　都心の門のようだった。 　近づいた。 　夜空に寝台特急が停まっていた。 　青い車輌をどこまでも連ねていた。 　天空の橋梁のようだった。 　窓はすっかり覆いを下ろしてだからガラスごとに夜の光が溜まっていた。 　夜の水が溜まっていた。 　ガードに入った。 　巨大な梁が頭の上を渡っていく。 　裏側から都市を見上げているようだ。 　鋼鉄の頑丈な構造だ。 　強力な街なのだ。 　ガードを抜けた。 　バスの停留所が路線別に並んでいた。 　ひとつひとつに青いバラが灯っていた。 　不安なほど長い列が待っていた。 　周りのビルはまだ明るい。 　窓が光の水槽のようである。 　光の水槽が空へ積み上げられているのである。 　多くの魚族がいぜん天空にいるのである。 　電光ニュースがテレビ局の壁面を昇っていく。 　オレンジ色の光である。 　火ののろしのようである。 　夜空へ駆け上がる至急報、遠方の都市からまた遠方の都市へつないでいく。 　…今宵歌え、わがアカイアよ、いま、ついに、イリオス陥落？ 　きょう陥落したのはむろん地中海の都市ではない。 　砂漠の町をゲリラの部隊が攻略した。 　…連続殺人、いぜん黙秘、容疑者は図書館司書、少なくとも七人の女性が犠牲。 　つまりはそういうことなのだ。 　いまはこれ以上でも以下でもない。 　まだこれだけなのである。 　テレビ局の整理部は水際立った仕事をする。 　わずかな語数でこんなに全体をいいきるのだ。 　じっさい新しいことはほとんどなにも出なかった、きょう一日は。 　さかんに喋られはしたのだが字にできたのは二つ三つにしかすぎない。 　進まないときほど課長は饒舌になるのである。 　あすの送検もこれだと殺人罪はまだむりだ。 　死体損壊と死体遺棄でひとまずつなぐことになる。 　むろん油断は禁物だが。 　ひとことぽろりと出ただけで全体ががらりと変わる。 　いつだしぬかれるか知れたものではないのである。 　…詰めの勝負に弱いなあ、おまえ。 　まただ、こいつ。 　もう、いい。 　だから今夜もこんな時間になったのだ。 　ついさっきまで一課で粘っていたのである。 　取調室を見張っていた。 　課長が先に引き揚げたのでかれの席を拝借して見張っていた。 　…いまあんな侮辱にさらされたら、これはもう、ぐさりとくる、あれから六年、場数もそれなりに踏んできた。 　取調室はみすぼらしい。 　杉材の引き戸が下のほうから朽ちてきて戸車のねじが効かなくなった。 　課長がうるさくいってようやく取り換えることになったのだが本部からおりてきたのは応急の修繕費だけだった。 　新年度に予算を組んで取調室ぜんぶを新しいのに換えるからそれまではがまんしろ。 　地下から倉庫の戸をはずしてきた。 　化粧板代わりにベニヤを張ってそれに白ペンキを吹きつけた。 　れっきとした新古典様式の建築によくもまあこんな仕打ちを。 　石の柱を四本も並べた玄関は神殿なみの構えである。 　それが三階の刑事課まで上がってくるとこのベニヤの戸。 　かたなしだ。 　ここへ連れてこられたものはこの戸口を必ずくぐる。 　もう戻れないものもいる。 　運命を分ける水門だ。 　もうちょっと飾り気があってもいい。 　岐路にふさわしい警句とか。 　…ここから入るもの、すべからく望みを捨てよ。 　警句？ 　警句はいかん、艶消しだ。 　さしあたり展望車の彫刻をいくらか分けてやったらいい。 　その無粋な引き戸に目を据えたまま、忍耐というものはけっこう出てくるものである、夕方からついさっきまで七時間。 　同じ形で並んでいる五つの小部屋の三号室。 　風立ちぬが入っていた。 　男を連れてこもっていた。 　古机を間にはさんで向き合っているはずだ。 　無口な刑事と黙秘の男。 　黙りっこか、むしろ。 　そのうち沈黙で氷が張る。 　引き戸はじっさい凍えたように動かなかった。 　氷の密室。 　一度だけ隙間があいた。 　署員食堂から出前が上がってきたのである。 　二段重ねのアルミの箱が入れられた。 　たぶん、下にかつどん、上にみそ汁。 　手をつけただろうか、あの男。 　マイセンの皿と銀のフォークで女の切り身を食う男。 　あらっぽく揚げた豚肉だ。 　プラスチックのどんぶり鉢と粗削りの割り箸だ。 　たぶん食ったはずである。 　黙秘には体力が要る。 　栄養はしっかりとっておかないと。 　肉をじゃっくじゃっくと噛む音がひとしきり凍えた部屋にひびいたはずだ。 　出汁もここの食堂のはとても濃くて粘っこい。 　しつこい咀嚼の音になる。 　黙秘？ 　黙秘の空気？ 　空気か、…凛と張った、黙秘のあの。 　神聖な。 　吹っ飛んだろう。 　喉もごくりと鳴るのである。 　食い物の塊りが喉仏をぐるっと動かして食道へ落ちていく。 　気の毒なことに風立ちぬには軟骨が動くところまでたぶんみえてしまうのだ。 　…皮下三ミリがみえるんですな、あいつには、みえてしまうんですよ、不思議にも、どうやらいつもそのあたりをみつめている、嘘を言うとそのあたりがぴりぴり波立つというんです、解剖にもまめに立ち会ってますからな、そこの地形もそれはもう頭にしっかり入ってて、まあ、いうところの天才ですな、うってつけですよ、われわれの商売には、見抜く目、見破る目、見透かす目、これですから、第一は、じゃが惜しいといえば惜しいことで、刑事で終わらせてしまうのは、はは、これがどうも悩みの種で、このまま刑事を続けさせていていいものか、もっと生かせる道がよそにあるのか、わからんですよ、わしのような凡人には、なんでもできるっていうのも困りもんで、さて、どっちへ向けてやるのがいいか、不可思議にして決定の性なし、ほとけさまですな、あの男。 　咀嚼の音がいささか行儀にもとるのでふたりは向き合ったままくくっと笑ったかもしれない、ともに皮の下三ミリで。 　目はそのまま。 　鉄仮面どうしの薄笑い。 　いひひ…。 　そしてまたまじめくさった顔に戻って。 　まただんまり。 　仕切り直し。 　永劫回帰。 　まどろっこしいことである。 　手っ取り早い方法もむろんある。 　男を部屋に残したままずっとほうっておくことだ。 　殺人をそのまま缶詰にするのである。 　そこでまるごと飼うのである。 　培養する。 　嵩張りはするけれど。 　一切合財をいっしょに閉じ込めるからである。 　こまごましたことがいっぱいある。 　中庭でひとしれず塵を拾ったこと。 　道を丁寧におしえたこと。 　電車で座席を譲ったこと。 　かたわらの赤ちゃんに笑いかけたこともある。 　むずがっていたのがにっこり笑い返してきた。 　おろおろしていた母親が救われたという顔でこれも笑いを送ってきた。 　それくらいのことはある。 　それくらいのことはだれにもある。 　えらいねえ、ずいぶん本を読むんだ、きみは。 　こどもを励ましたこともある。 　これはもう幾度もある。 　仕事といえば仕事だし。 　母と子に向けて心をわきたたせる企画も立てた。 　夜中の図書館で原始の海を泳ぐ会。 　おおぜいの親子づれがやってきた。 　…テレビ局が取材に来て一時間の特集を日曜の朝に放映した。 　みんなが片手にルーペを握って広い閲覧室を這って回った。 　ルネサンス様式の本館は床が大理石である。 　水のような石の中から不思議な形が浮かんできた。 　見つかった？　おお、なかなか立派な姿じゃないか、甲羅のぎざぎざも残っている、さあ、なんだろう、何に似てる？ 　小さな楕円形の怪物だ。 　見たことあるよ、こういう形をしたお面、…死神みたいな。 　盾にあった、アフリカの、森の精霊、そういってた。 　これが、そうなんだ、三葉虫。 　こっちのこれは巻貝だ、笛のよう、ほら貝の。 　形がすこし気味わるい、…魔笛だね。 　どろん、どろん、きっと海鳴りを吹くのよね。 　それが、そう、アンモナイト。 　おおっと、顔を曇らせてしまったこどもがいる。 　こんな憂鬱な生き物で満ちた海。 　暗い海だったにちがいない。 　どろどろだったにちがいない。 　母親たちは陽気である。 　曇る顔などひとつもない。 　みずみずしい笑顔である。 　…すてきじゃない、四億年前の海にいるんだから、わたしたち。 　時間がこんなに遠くまで見通せたのもはじめてだ。 　四億年って近いのねえ、ほんとうは。 　そこだもの。 　ここだもの。 　みんな女の子みたいに笑っていた。 　笑いでこどもたちを照らしていた。 　体をそっくり照らしていた。 　奧の骨まで照らしていた。 　それでこどもたちもあかるくなった。 　海もたちまち明るくなった。 　書いたとも。 　書いた、書いた、夏休みの絵日記にいさんで書いた。 　化石の夜会の一部始終をみながいきいきと書いたのだった。 　…そうだったのか、あの夜会もかれだったか。 　あれもかれ、これもかれ。 　殺したのもかれ。 　まだ殺さないでいるのもかれ。 　無数のかれ。 　無限のかれ。 　かれの氾濫。 　どれがかれ？ 　どれもかれ。 　…番組は日記の絵も一枚いちまい映していた。 　三葉虫が絵ごとに変態を遂げていた。 　おどすような悪魔の顔になっていた。 　ごつごつと並んだミイラの肋骨になっていた。 　八方へ光を放射する太陽になっていた。 　銀河へ飛ぶ宇宙艇になっていた。 　アンモナイトもそうだった。 　ぱっとひらいた舞い扇になっていた。 　勇猛な酋長の羽飾りになっていた。 　地底へ落ちていく螺旋階段になっていた。 　天空へのぼっていく階段にもなっていた。 　シャツを肘までたくしあげた若い男がよくとおる声で講評を加えていた。 　こどもたちは地獄と楽園をみたのです、そうです、夏の一夜に。 　たぶんあの男もかれだった。 　蔦の繁殖さながらにどこまでもはびこる。 　だがいまはもう無数無限のかれではない。 　ぎゅっと中心に縮まってそこでたったひとりである。 　そこにひとりで座っている。 　風立ちぬが前で見つめているからだ。 　だれでもない、ひとりの殺人者を見ているのだ、風立ちぬは。 　男のその目。 　殺人を犯した者の目なのである。 　男のその口。 　殺人を犯した者の口なのだ。 　男のその沈黙。 　殺人を犯した者の沈黙だ。 　ほかのだれのものでもない。 　ここにはもう殺人者しかいない。 　どこまでいってもほかのものにはもうなれない。 　すでにそれが罰なのだ。 　すでに始まっているのである。 　…もう終わることはない。 　むろん金星の丘に登っていたほうが何倍もいい日になった。 　丘には陽光がふんだんにそそぐから空へ伸びをするだけで体が奧まで明るくなる。 　蕾もみな太陽の雫みたいに燦めいているはずだ。 　海もこの季節は金属みたいによく光る。 　事務局長も最高の笑顔で迎えてくれたことだろう。 　枝々ではじける光はかれへの祝福でもあった。 　かれは手の爪をこわいほど短く刈る。 　私刑に遭ったようなその指で水割りのグラスをゆっくりと撫でながら、かれはグラスに透明に浮かぶ線刻、北斎漫画の線刻を上からなぞるのが好きである、こうあかしたことがある。 　普及課から友の会へ追い出されたときは、そりゃあ、がっかりしましたよ、友の会っていったって、わたしが移ったときには、あなた、会員はたったの四人、それもみんな中学へ上がっていて、三年たてば確実にだれもいなくなるんです、職員は定年前の腰の重いのが一人と非正規の若い女があと一人、要するに、おまえはなにもしなくていい、自然死までのあいだそこに座っていればいい、もっと率直に言うならばなにもしてくれんほうがいい、とまあそういう含みなわけでしょう、しかし思ったんですよ、どっちにしろ飼い殺しにされるんなら好き放題にやってやろうと、で、新年度向けの会員募集に真っ黒なポスターつくって、海賊団へ来い、と打った、海洋博物館友の会募集なんて、もうあるだけでいいという小さな字にして、まあ、腹いせもありましたね、やぶれかぶれ、するとどう深読みしてくれたのか、小学生がいきなり十一人も来てくれた、内心驚きましたねえ、あてずっぽうだったから、となると、さあ、なにかしないと、とね、とくに初年度はみなが唖然とするようなやつをどかんと、それで、あなたが、あなたひとりでしたねえ、取材に来てくださったのは、あれは、ほんと、ありがたかった、あの入団式をやったんです、まさか一回目であそこまでの騒ぎになるとは、朝起きたら早くも一大事件になっていた、あなたのみごとな文章で、計算できなかったなあ、ああまでは、あれは計算外だった、まったく計算外だった、ははは、新館長の野郎にもきっと計算外だった。 　意表を突いた入団式は地下にずっと隠されてきた秘密の森でおこなわれた。 　鬱蒼と茂る鋼鉄の森である。 　展示棟の下を四階分ほども掘り下げてそこにすっぽりと大型貨物船の機関室を嵌め込んでいたのである。 　図体の大きな旧型のレシプロエンジンだ。 　四本の巨木が並び立っているような鋼鉄のコンロッドが黒い地膚をむきだしにして森の天井へ向かって聳えている。 　怪物がうずくまっているような巨大なボイラー、巨人のまさしく心臓みたいに中に大きなピストンを隠しているシリンダー、壁面を蔦のように這ってく何百本というパイプ、あちらこちらに突き出たバルブ、凹凸をいたるところに彫り刻んで鋼鉄の森はどこまでも影が濃い。 　博物館はこの秘密の森の公開をながいあいだ渋ってきた。 　転落がこわかったからである。 　細くて急な階段は透け透けの危うい鉄梯子でしかなかったし機械の上を渡っていく鉄の橋もたよりない手すりが一本やっと片方にあるだけだ。 　監視員を立てるとなるとずいぶんな数になる。 　とほうもない予算が要った。 　封印しておくほかに手がなかったわけである。 　事務局長がそれをむりやりにあけさせた。 　なに、開館当時はどうぞどうぞとみんな入れたんですよ、落ちたこどもなんかいやしません、上から覗いただけでここは危ないと身ぶるいのひとつくらいはするでしょう、最初からふるえるようなところで滑ったり躓いたりはしませんよ、まあ、いまのこどもが危険に鈍いってことはあるでしょうけど、でも本能まで死に果てはしないでしょう、体が先に目を覚まします、その場に立てば。 　入団式の少年少女はコンロッドの根っこのところにまるできのこのように並んでいた。 　色とりどりの服装の上にしかしみなが青いスカーフを巻いていた。 　前に立つ事務局長はすでに金筋入りの船長服を誂えてそれでも足りずに片方の目を黒の眼帯で覆っていた。 　真っ青に塗った顔がこどもたちをひるませたはずである。 　…親たちのなかには懸命に笑いを噛みころしている顔もあったが。 　まちがいなくあのフリント船長を気取ってのことである。 　死人のような青い顔で部下を恐れさせたあの大海賊。 　そいつが金切り声で号令をかけるのだ。 　スタアーンバイ！ 　いちばん小さな少年が端っこからおずおずと進み出た。 　赤い電動ボタンの上にしゃっちょこばって手をかざす。 　ゴオオーヘイ！ 　めいっぱいひらいた手でおもいっきりたたくのだ。 　とたんにかん高い金属音が頭の上で轟いた。 　鉄の怪鳥がばりばりと翼を広げたようだった。 　空で魔物が解き放たれた。 　仰いだ目がまんまるになっている。 　うしろのこどもたちものけぞるように見上げている。 　鉄の膚をむきだしにしたコンロッドがごごんと天井から落ちてきた。 　シリンダーから抜け出てきたというよりも空の奥から突進してきたようである。 　おもわずみながあとじさる。 　皮をひきむかれそうである。 　肉をひきちぎられそうである。 　骨がけずられそうなのだ。 　下からクランクシャフトが跳ね出てきた。 　ごぼりと出た。 　真っ黒な海坊主。 　四匹の海坊主。 　があるんがあるんと跳びはねる。 　がるんがるんと踊りだす。 　…四匹の悪魔のダンス。 　普及課長をしていたころはおとなばかりですからねえ、こんなことは考えることもしませんでしたが、こうしてこどもたちの中に入ってますと、感じるんですよ、ありありと、そうなんです、こどもたちは火の雫だと、いっちゃんも、まあちゃんも、さっちゃんも、たあちゃんも、みんなみんな火の雫、まったくこどもっていうのはあれですよ、大爆発で宇宙が生まれたときの火の雫、そいつがそのまま体の中ではじけてる、いまもぱちぱちとはじけてる、掻き立てたいんですねえ、わたしはそれを、ばちばちとはじかせたい、わたしにはそれがなんともうれしくて、うれしいんですよ、たまらなく、こうなったら歓喜でも恐怖でもなんでもいい、あの子らに叩き込めるものがあったらなんでも叩き込んで掻き立てたい。 　模擬運転の電動ボタンはこどもたちひとりひとりが前に出て押すのである。 　順番が進めばさすがに最初の恐怖は薄れていく。 　そのぶん今度は底のほうから昂ぶりがのぼってくる。 　火のような昂ぶりが解き放たれてくるのである。 　脊椎が燃えている。 　燃えているのが透けみえる。 　…火となった骨格は水中花のように美しい。 　顔もまっか。 　うしろに控えていた若い女海賊がそっと船長に寄り添った。 　これも青いバンダナで髪をすっぽりと包んでいる。 　大きな盆をささげもって漆塗りの黒い盆には入団証書の白い束が載っている。 　待て、もうすこし、今はまだだ、あっちで渡す。 　船長が指さしたその先には鉄の小さなトンネルが暗い口をひらいていた。 　猛烈に回転するプロペラシャフトがその穴ぐらを奧へまっすぐに伸びている。 　スクリューを回すのだ。 　トンネルの中は異様なほど静かであった。 　こどもたちが息をころして真っ黒なシャフトに見入っている。 　まるっきり回転しているようではないのである。 　表面の光と影がそこでしんと動かない。 　不動の静水のようなのだ。 　回っているの？　ほんとうに。 　たしかめたい。 　さわってしまいそうになる。 　手をよこせ、さあ。 　水の奥から黒い腕が伸びてくる。 　ぐずぐずせずに、さあ。 　さわりたいんだろう、おまえ。 　…なにかがいる、たしかに、そこに。 　腕をわしづかみされそうだ。 　巻き込まれるにちがいない。 　骨がばきばきばきっと砕かれる。 　肉のかけらがそこらじゅうに飛び散ることになるだろう。 　脊椎がすでにそっちへ引きつけられて弓のようにしなっている。 　青い顔のフリントが記念の入団証書を授けにかかるのはこのときだ。 　証書は真ん中に髑髏と骨十字とを組み合わせた大きな透かしが入っている。 　四隅には舵輪とバラと六分儀と海球儀がこれは金色に刷られている。 　きみは誓うか、われわれとともに海の友となることを。 　ちかいます。 　こんなにまっすぐ、こんなに大きな声でこたえを返すこどもたち。 　ほかで遇ったことはない。 　よし、きみはきょうからわれわれの仲間になる。 　博物館の電話という電話が、ははは、鳴りづめでしたね、朝っぱらから、あくる日は、と水割りをひと口含んでまた見返り美人の線刻をなでながらかれが言った、そりゃああんなにうまく書いてくださったんだから、鳴りますよ、鳴りますとも、新聞に載ってた地下のエンジンルームを見せてもらうにはどうすればいいんですか、なにか手続きがいるんですか、とまあ、そういうのが大半でしたが、いまからでも友の会に入れますか、とそういうのもまだけっこう出てきました、わたしは笑いましたねえ、腹のなかで笑いましたよ、一日じゅう笑ってました、すこし泣いてもいましたか、けっきょく職員一人が十人のこどもをもつという計算で、いやこれが妥当な人数なのか、そんなことをかんがえているひまなんかありません、とにかくそれを当座の目安に三十人を受け入れることにしたんです、並んでくれたのは、そうですね、五十人は超えてました、かわいそうでしたが最後は籤で。 　教育委員会は定例市会に友の会の休止案を上程するつもりでいたがまぎわになって取り下げた。 　入団式も二年目には大学の航海科と機関科の学生たちが制服制帽で白い手袋で威儀を正して祝福にきてくれた。 　こどもたちが証書をかかえてトンネルから誇らしそうに出てくるの海員式の敬礼で迎えるのだ。 　腋をひきしめた敬礼は六分儀の指標桿のように切り立った。 　次の年には高校生のブラスバンドがやってきてファンファーレの吹奏をしてくれた。 　行進曲をやりだすとあたりの鋼鉄ががんがん鳴って機関室全体が巨大なラッパになるのであった。 　三年目になるとほとんどの新聞社が取材に来た。 　申し合わせたようにちびっこパイレーツというニックネームが見出しに並んだ、…陳腐このうえない呼びかただがそれだけに字ずらだけでもう伝わる。 　四年目になると職員が一人増員されて、それで四十人になった隊列が手に手に黒いペナントを振りながら、なんなんだあの子らは、街の行事にも出始めた。 　そろいの格好が絵になるのでどの新聞も写真を大きく扱った。 　青い袖なしのインバネスを赤いベルトで腰だけ絞ってそこに海賊刀を銀の鎖で吊り下げた。 　下は水色の長袖シャツ、そして紺の縦線を一本入れた白パンツ。 　頭の青いバンダナは忘れてならないシンボルだ。 　…フリントが島で大虐殺に出たときもこの色を巻いていた。 　五月の建都祭には赤いバラをベルトに挿してパレードの先頭を行進した。 　波止場地蔵のお盆には水色のシャツとネクタイで海賊踊りを奉納した。 　世界航路の客船が入港するとこんどは薔薇の女王のお供をして、このときのベルトは白いバラ、歓迎の花束をかかえていった。 　金星の丘もその正装で意気揚々と登ってきた。 　この都市は、とフリントの亡霊は言うのであった、歌舞伎の盆回しみたいにね、ぐるっと回転したんです、百八十度、あなたもお気づきでしょう？　ここで名建築といわれるほどのビルディングはたいがい海に向かって建ってます、百年前は港が玄関でしたから、それが街なかの商店街へ重心が移ってきて、いまはみてのとおり玄関は駅、街が閉じたんですね、内側へ、港祭りも消えてしまって、まったく寂しいことですよ、市は建都祭に統合したといってますが、かんじんの時代行列をとっぱらって、なにが統合なもんですか、なつかしいですねえ、平家一門の遷都行列、わたしは平氏のほうが好きでしてね、海洋的だし都市的でしょう、土くさい源氏と違って、遷都もね、あれはつまり海洋に目をひらいた一族が京都を離れてここに新しい日本をつくろうとしたんです、きっと、残念ながら未完のままで終わりましたが、平氏の次は室町将軍の湊詣で、金閣の北山文化も銀閣の東山文化も中国貿易の大きな儲けが後ろにあってのことでしょう？　貿易立国の雄々しい姿がすでに出てるじゃないですか、それから西国大名の盛大な参勤行列をあいだに挟んで海舟龍馬の操練所行進、まさしく海洋国家への道標ですね、若い武士たちのばんからさ、自由さがののちにこの街の気風になったと、そうわたしはみてますが、列国水兵の開国パレードも国旗をはれがましく押し立てて華やかでした、とにかくいたるところに海、海、海、海があふれてましたから、時代考証にはいささかあやしいところもありましたが、あの誇らしさといい、規模といい、あえていえばあの莫大な浪費といい、あれこそ祭りでした、この街の、あなた、おおもいになりません？　海への讃歌、海への渇望、さらにいうなれば海への信仰、それこそがこの街の核になってる精神だと、皮肉なことですがわたしは博物館の中枢からおっぽり出されてやっとそのことに気がつきました、普及課では海を眺めてるひまなんか皆目なかったものですから、みてごらんなさい、名のある建築家のビルはどれも海運会社の社屋です、居留地の整然とした街割りがその後の都市計画の原型になりました、宣教師たちがつくった美しい学校が何代にもわたって卒業生を出してきました、かれらの理想とした倫理観がいまも市民の生活のはしばしにみえますよ、海は霊感の源でした、海を忘れたらここは凡庸な街のひとつでしかないのです、ささやかなことですが丘の植樹をかんがえたのも、あそこに都心と同じくらいの桜があれば、港がもっとすてきに見えるだろうと、つまり海との対話がもっといきいきするだろうと、そうおもったからなんです、松林が枯れてからずっとそのままでしたから、こどもたちはぱっとわかってくれました、向こうをよくするにはこっちのほうもよくすること、来年はまた十本ほどふやします、ありがたいことにこんどは船主協会が全額出してくれるんです、ははは、協会の会長がちびっこパイレーツにぞっこんで。 　もちろん記事の格からいえば金星の丘の桜などは屑である。 　殺しなどとは比べるのもばかげている。 　はじめから地域版まわしに決まっている。 　だがひとつひとつの蕾にはじける日の光、枝々をぬけていく海の風、ちぎれ雲が飛んでいくこどもの目、それらを書くことができるのはここをおいてほかにない。 　晩冬のオリオンの運行さえ二行ぐらいだったら添えられる。 　こどもたちは植樹を終えると木と海を見比べた。 　まだ弱よわしい木はしかしすでに海の塔より高かった。 　海峡へ伸びていく半島よりも高かった。 　なかのひとりが小さく踊り始めたのはそのときだ。 　斜面に足を踏ん張って腕だけで海賊踊りをやりだした。 　鼻歌を小声で歌ってそれで調子をとっている。 　するとそれがすぐ隣の子にうつり周りの四人にひろがってたちまち十本の木のそれぞれで歌と踊りが始まった。 　みなの歌が空へ空へとのぼっていった。 　斜面全体がもう海賊踊りになっていた。 　…よおそろ、よお、よおそろ、よお、帆柱のてっぺんは地獄だよお、ほい。 　バスはなかなか動かなかった。 　動こうとしてけれどいっこうに動けなかった。 　あとひとりもうひとりまたひとりとあとからあとから乗り込んでくるのである。 　顔のすぐ横に顔が並んで顔と顔のあいだにまた新しい顔があらわれた。 　顔に顔に顔に顔。 　…こんな悪夢をたしかこどものころにインフルエンザの夜にみた。 　顔の壁。 　顔はいつも頑強な最前線をつくるのだ。 　ほとんどのものがたちまち後ろへ隠される。 　全世界がそっくり向こうへまわされる。 　オデットも埋没した。 　まるでいなくなったようである。 　そうまで完璧に隠されると、これはたぶん光学上の法則だ、隠されているそのあたりで姿かたちがゆらいでくる。 　水のなかの屈折みたいにゆらいでくる。 　ゆらいですこしずれてくる。 　ゆらいでだんだんずれてくる。 　ずいぶん揺らいでついにはもとのかたちがなくなるほどにずれてくる。 　…偏移する、…赤方偏移。 　輝きをなくした顔はだからともするともうほとんど老婆の顔になったりする、…老いたカグヤがふいに振り向いてにたりと笑う。 　月の足は反対にもっと明るくなったりする、…地中海でいちばんきれいなくるぶしをした女神イノ、そのくるぶしが白じろと浮かびでる。 　長い髪はだからもう床に届いていたりする、…宮殿の廻廊をさらさらと流れていった小町の髪、その髪がそこで海蛇みたいにうねるのだ。 　…しかしじっさいのところ髪をあんなに長くしているバレリーナがいたろうか。 　あれではシニヨンにおさまらない。 　きれいな団子をつくれない。 　…おやあぶないぞ、これではオデットからもずれていく。 　なんでもない女をダンサーとおもいこんだだけだったか。 　そのようにみたかったのでそうみえただけなのか。 　深夜のバスの蜃気楼？ 　それにしても、だがどうも。 　思い込みだとしてもやっぱり捨てきれないところがある。 　ろくろ女のような長い頸。 　傘お化けみたいな長い脚。 　遠目には水仙のようにすらりと痩せてみえるのだがそばでみると強靭な筋肉のついた四肢と胴。 　どうもなつかしいのである、そのかたちが。 　思い浮かべるだけで潮騒が波打ち際へ寄せてくる。 　すばらしい肩甲骨が背中にあんなに透けていた。 　双曲線をたしかにみた、…アトラスもそのように美しい海峡の双曲線を足もとにみたのである。 　紺碧のジブラルタル。 　まさしく抱きつきそうになったのだった、その地中海の海峡に、危うくも、…夏休みのはじめての日曜日。 　雪の女王の。 　白い背中の。 　双曲線。 　に。 　ささやかな策略を立てたのだった。 　格子戸の鍵をわざとかけておいたのだ。 　インタホンが鳴るのを待った。 　聞こえた、いま。 　急いで立った。 　母に先を越されてはだいなしだ。 　まあ、あなたがあけてくださるの、勉強じゃなかったの？　わるいわねえ、ありがとう。 　雪の女王が七月の光のなかで笑っていた。 　白いワンピースごと笑っていた。 　先に廊下へ通すと背中が汗でびっしょりと濡れていた。 　…渾身の即興で団の苦境を切り開いたこれがその体にほかならない。 　濡れて三角の翼が浮き出ていた。 　エイが左右のひれを大きくひろげて泳いでいる。 　肌のにおいが海の香のようにのぼってくる。 　肉のにおいも骨のにおいもこのなかにあるはずだ。 　これを嗅ぎたかったのだ。 　これを見つめたかったのだ。 　…これに比べたらねずみ大王の魔の体もいまはだぶだぶのぬいぐるみでしかないのであった、もうどんなに寂しくても。 　隆起した肩甲骨が切り立った海嶺のようだった。 　尾根ぞいに割れ目ができて雲のように白い羽が立ち上がってきそうであった。 　天使のような一対の羽。 　飛ぶ、か？ 　飛ぶのならいっしょに飛ぶ。 　抱きついていっしょに飛ぶ。 　もう鼻がくっつきそうなほどこんなに近くにいるのである。 　抱きつかないでいるほうがむしろおかしいほどである。 　骨をつかんでいっしょに飛ぶ。 　飛んでやる。 　そして、…飛んだ。 　飛んだ、とおもう、ほんとうに、一瞬だが。 　すっと重なったのだった、肩甲骨が肩甲骨に。 　脊椎が脊椎に。 　骨盤が骨盤に。 　ふたりがひとりに。 　羽がはたはたと背中で鳴った。 　いっしょに羽化を遂げたのだ。 　が、すこし飛んでひるんでしまった。 　廊下の向こうに母があらわれたからである。 　恥ずかしかったのだ、そんなふうに飛んだことが、…飛ぼうとおもわず身構えていたことが。 　母はこういうことをたぶんあまりよろこばない。 　どちらかというとあってほしくないとおもうだろう。 　見ればまだわずかな隙があいだにあってあと一歩のところで抱きつかずにいたことにほっとした。 　もうちょっとでとりかえしのつかないことになっていた。 　いまさらながらかたまった。 　船が沖へ出ていくように雪の女王が離れていった。 　向こうで言った。 　かれにあけてもらったの、鍵を。 　あら、鍵が？　はずしたつもりでいたんだけど、わたしうっかりしてたのね、ごめんなさい。 　背中の羽のあたりに母がそっと腕をまわしてそのままふたりして消えた。 　はるか向こうで挨拶を交わす声がした。 　庭に蝉しぐれが戻ってきた。 　聞こえていなかったことに気がついた。 　もういつもの日曜の昼だった。 　ただ残ったものがあったのだ、あのとき、たぶん。 　更新されたものがあったのだ、たぶん、あそこで。 　この胸のこの骨もこの背仲のこの骨もあれ以前にはまだこの体になかったものだ。 　いっしょに飛んだその一瞬にするりとここに入ってきた。 　いつでも飛べる脊椎といつでも飛べる肩甲骨そしていつでも飛べる骨盤といつでも飛べる四肢の骨。 　あのときからそれがこの体の新しい骨組みになったのだ。 　体が飛ぶかたちになったのだ。 　つまりどうも、カシミヤのあのオデットも飛ぶかたちなのである。 　飛ぶ骨組みなのである、どうも。 　…こんなふうにふつうの女たちとは歴然と違うのだ、ダンサーは、骨格が別なのだ、女と男のひらきよりこの差はまだ大きいほどなのだ。 　ダンサーたちはみなひとつの極限値をめざしている。 　あの骨格にならないと白鳥をエレガントには踊れない。 　オデットは重力を超えて飛ぶのである。 　…飛んでいるかたちのアラベスク、あれこそ力学の最高の華なのだ。 　みなが飛ぶ骨になるのである。 　その骨が呼びかけあう。 　なつかしく呼びかけあう。 　髪の形など所詮たいしたことではない。 　なみはずれたダンサーも盛りを過ぎれば舞台を退くことになる。 　スタッフのほうへ下がったらもうシニヨンにこだわることもないのである。 　それぞれがそれぞれへ戻っていく。 　シャネルのオデットもいまは衣装方にまわっているのかもしれないのだ、…だからこそあの着こなし？ 　ただ骨だけはまだそれでも呼びかけあう。 　ベニヤの引き戸はそれにしても一向にあく気配がないのであった。 　白のペンキがそこだけ変にぎらついている。 　目に疲れが来たらしい。 　まるでもう一週間も待ちつづけてきたようだ。 　…待つこと、待つこと、とにかく待つこと、この仕事はいつだってそうなのだが。 　ところで、おい、念のためだが、…ちゃんと中にいるだろうな、あのふたり、入っていったそのままに。 　いつのまにかもぬけのから、なんてそんなこと、まさかないよな、冗談にも。 　密室だとおもいこんでいたけれどじつは向こう側へひろびろと、やだよ、あけはなたれていたりして。 　地平線まですとんと遮るものもなくみえたりして。 　満天の星がすぐ上でかがやいていたりして。 　冷たい風が、おおさむっ、かなたからびゅうびゅう吹きつけていたりして。 　…あるいはベニヤの戸をひきあけたらそこはもういきなり宇宙？ 　すでに向こうへ消えてしまった？　ふたりとも。 　やだよ。 　同じことか、だがむしろ、いたとしても。 　いたとしてもふたりを地平線からみわけるのはじっさいのところむずかしいにちがいない。 　星々からみわけるのも夜風からみわけるのもすでにむずかしいことだろう。 　おそらく影があるだけなのだ、そこではもう。 　みんな同じ影になってしまっているのである、いまはもう。 　わずかなふるえがそのあたりに漂うのでそれでさとれるだけなのだ。 　無音のひびきがやっとそのあたりからきこえてくる。 　…それはいつもそうなのだ、あっちでは。 　社会面のデスクに原稿を出すときにはまだどうしても緊張する。 　かれらはほとんど無言だしたまに喋ればたいがい記事への不満である。 　地域版のデスクだとそこのところがぜんぜん違う。 　ありがとうとそのつど言ってくれるのだ。 　色黒の小さな顔にくしゃっとした笑みを浮かべて欠かさず言ってくれるのだ。 　金星の丘のスケッチでもそれはそうだったはずである。 　あるかないかの細い目が笑いの皺に埋もれてしまったはずである。 　かれだけが編集局で農家の出だ。 　地域版のデスクに上がってくるまでは県北の支局で穀物と野菜の記事を書いていた。 　山あいの村々をバイクで回って稲の生育を観察した。 　梅雨になるといまでも実家に帰って田植えを手伝う。 　一週間の休暇をとって帰るのだがいなくなったことにすぐ気づくものはそんなにない。 　コカコーラの特大瓶が机の上から消えるのでそれでようやく気づかれる。 　煤の濃いランプのようにそいつを横にでんと置いて原稿をのぞいている、それがかれのお決まりのかたちである。 　一・五リットルを一日できれいに空ける。 　いらっとするたびにひと口ぐっと胸に流し込むのである、おそらくは。 　流し落としてしまうのだ、いっきに底へ。 　蕾の記事は、この時機のことである、大きく扱ってくれたにちがいない。 　けさの地域版だとたぶんヘソに使われた。 　写真は奮発して五段である。 　字のほうも花壇みたいに飾り罫で囲われた。 　こどもたちも何人かはみつけてくれたはずである。 　きっと親がおしえてくれた。 　ごらん、あなたたちの桜のことが出てるわよ。 　切り取って宝物の箱にしまってくれたかもしれない。 　少年時代のかけがえのないおもいでが今朝ひとつこの街にできたのだ。 　指揮者が棒の動きをやわらげてワルツがおだやかな流れになった。 　雪雲がにわかに切れてきたのである。 　満月があらわれた。 　澄んだ光がおりてきた。 　いまや地底まであかるくなった。 　少年たちの合唱が聴こえてくる。 　澄んだ声が地上のいっさいを浄めながら空へのぼっていくようだ。 　夜空が晴れれば雪の場も終わりである。 　もうすこしで踊り切る。 　あとちょっと。 　四つの顔に黎明がのぼってきた。 　やったわね、ゆきちゃん。 　母が小さな声をまた洩らした。 　最高よ。 　涙声になっていた。 　ここまでくればもう声を出して泣いてもいい。 　割れんばかりの拍手がもうじき津波のように起こるのだ。 　すべてを肯う喝采が沸き起こてくるのである。 　…そう、これでいい、このままでいい、すべてこれで完全だ、いまはもうなにをしてもゆるされる。 　ただひとつ惜しまれるのはそれがこの街ではなくあの町で起こったことだ。 　いなか町のホールで起こってそこで消えたことである。 　この街だったらおおぜいの批評家たちがずらりと並んでいたはずだ。 　記者たちもそろっていた。 　突然の出来事がすかさず言葉に置き換えられた。 　一夜のうちに起こった破局と再生の物語。 　湧き立つように言葉になった。 　飛び立つように言葉になった。 　咲き乱れるように言葉になった。 　七分か八分、時間にすれば。 　突発事が歴史になった。 　なかでも絶壁のような即興の先頭で大胆にかなめの踊りを切り開き続けた雪の女王。 　終始ゆらぐことのなかった、むしろ不動のあのダンス。 　黒豹となって宇宙を渡ったあのダンス。 　まちがいなく伝説になっていた。 　そうら来た、この強い響き、あのときの、この拍手。 　指揮者が観客の気配を機敏に読んですかさず演奏を止めたので喝采がいっきに解き放たれたのだった。 　たちまち全席にひろがった。 　…あっ。 　ブラボーの声があちらこちらで巻き起こる。 　…ああ、そうだったかもしれない、あらしのようなあの舞台のまっただなかですでにそうだったのかもしれない。 　ダンサーたちは怒涛のような喝采にいっしゅんたじろぎ、すこしはにかみ、するとそのほてった顔にみるみる曙光がのぼってきた。 　…見ていたかもしれないのだ、あの破局と再生のまっただなかで、すでにあの髪の長いオデットを。 　観客はもう総立ちになっていて、…まだ足りない、まだもどかしい、もっともっと、もっとこの心のたぎりをあの四人に届けたい、みながてのひらを赤く腫らして拍手を送っていたのであった。 　…いま顔顔顔のこの悪夢の壁に隠されているあのオデット、あのときあそこですでにかの女を見ていたかもしれないのだ。 　ダンサーたちは手をつなぎあって舞台の端まで出てくると丁寧にお辞儀をした、…女たちは片膝を深く折り、男たちはすらりと端正に立ったまま。 　…あそこで雪の女王と手をとりあっていた蚊みたいな細いダンサー、あのクララがまさしくこのバスのあのシャネルだったかもしれないのだ。 　拍手はそれでなおのこと沸騰していまや客席に巻き起こる熱い風で周りの扉がばたんばたんとみな吹きあけられていくようにおもわれた。 　…だとすればこれはもうあの夜のクララだけのことではない、プリンシパルはどの舞台でも中心に登場する、ずいぶん見ていたはずなのだ、まずむろん、白鳥湖のまさしくオデット、そして眠りの森のオーロラ姫、幽冥の白い幻影ジゼル、バルセロナきってのお転婆キトリ、それならそれらもみなシャネルだったはずである、まだとても若くて、とても細くて、とてもきれいなお団子を頭に載せて。 　二十年前？ 　二十年などまだひとまたぎにしかすぎない。 　ひとつの世代のうちなのだ。 　シャネルがそれらヒロインの運命を逐一たどっていたあいだ、雪の女王もまたヒロインたちの波乱の運命を飾るためにチャルダッシュを、リラの精を、ミルタを、ジプシー女をそれぞれの舞台で並行して踊り続けていたのである。 　ふたりは重なりあっていたのである。 　ダイヤグラムのように交差しあっていたのである。 　まだおそらくあのころの面影をみつけることができるだろう、正面に回ってシャネルを覗けば、…たぶん、まちがいなく、もういまは。 　刻こくとずれていきながらそれでいていまこのときを親しく分かちあう幾多のものたち。 　あなた、もうバレエにいくことなどないの、母が正月の料理を居間の座卓に並べながら尋ねたことだ、ことしは券をたのんどいてあげようか、舞台はここにきてすこし寂しくなったけど、なじみのひとたちがばたばたっとひいてしまって、プリマまで替わったの、去年の春に、二十年以上もやってきて、でもまだゆきちゃんは現役よ、そうなの、シュタールバウムさんとこの、ふふ、奧方に出世して、風格も増してもう堂々たるものなんだから、むしろ前より引っ張りだこ、ジークフリートの母君でしょ、ロレンツォ亭の女将でしょ、眠りの城の女官の長、見にいってあげなさいよ、たまには、ね、あなたのところが本拠地なんだし、公演もここの何倍もあるんだから、ついでに楽屋も訪ねてあげたら？　喜ぶわ、あらまあ、ねずみ党の坊やがこんな立派になっちゃって、そうそう、かの女、五冊目の句集を出すの、この夏に。 　バスがようやく動きだしてまもなく銀行の並びになった。 　花崗岩の白い壁と窓々の黒いガラスをバスの明かりが移っていく。 　ビルとビルのあいだの路地に女たちが樹木のように立っていた。 　どの路地も奧へいくほど明るくなる。 　赤い光や青い光や紫の光が詰まっている。 　飲み屋街が裏に隠れているのである。 　細いビルがどれも空に突き立つようにぎっしりと並んでいる。 　階ごとに小さな店が数珠玉さながらに入っている。 　どの店も厚い扉の中にあってむしろ地下の密室のようである。 　建て替えられるたびにぐんぐん空へ伸びてきた。 　竜の小さな象嵌がある真っ黒な扉、あれもいまは十一階のエレベータの前なのだ。 　三階にあったときには象嵌は戦艦の影絵であった。 　艦影が落日のなかの天守閣のように翳っていた。 　砲の先だけに微細な金粉が撒かれていた。 　カウンタの向こうに浮かぶほほ笑みはいつも、そう、すこしばかりよそよそしい。 　決めたわけではないけれどそれがならわしになっている。 　ちょっと殻をつくりあう。 　…酒場の遊戯？ 　そうして仲を隠している。 　隠しているつもりである。 　耳の飾りが黒真珠に替わってからもうぼちぼち半年になる。 　透けるような白い肌と黒曜石みたいに黒く輝く目なのである。 　黒蝶貝の濃い黒でいっそう引き立つだろうとかんがえた。 　誕生日にそっと贈ることにした。 　岬のホテルのディナショーにこのときばかりはちょっといい席を奮発して手渡した。 　…サンフランシスコから来たというずいぶん恰幅のいい歌手がすぐ横でドック・オブ・ザ・ベイを歌っていた。 　改装した店の名もふたりで決めたものである。 　以前の武蔵はかの女の祖父が焼け跡で立ち飲み屋を始めたときからの屋号であった。 　砲手として艦に乗っていたのである。 　父はきまじめにその古い屋号を引き継いだが末の娘が財団の秘書から店のママに鞍替えするのも案外おもしろいかもしれないとようやく折れてくれたとき意を決してこう言った。 　艦友会のつわものたちもみんなもう海ゆかばののかなたへ旅立ってしまったから店の名も変えたければ変えてもいい、おまえの好きにするがいい。 　新しい名は、ど流す、にした。 　ひびきがとくべつね、とかの女が云った、わたしの気もちにぴったりよ、壁の絵もこれだと接吻より水蛇ね、流れの感じはあれがいちばんだから、クリムトでは、どるすと迷わず読んでくれるひとはちょっといないかもしれないけど、でもかえってバロメータになるわね、店の、きっとそのうち。 　グラスに北斎漫画を刻もうとおもいついたのもそのときのことだった。 　流れ流れるひとの世の一瞬の写しだものね、北斎は。 　開店に着て出るきものもいっしょに柄をかんがえた。 　いっそ染めから頼むことにしておおまかな下絵の線をふたりでひいた。 　肩から裾へまっすぐに滝を落として裾の流水紋に黒い大きな車輪を浮かべた。 　わたし、まるごと流れになる？ 　流れるような体だといえばそうだった。 　緋の襦袢がはらりと割れて中から白い体があらわれる。 　紅葉と夕陽の山から渓流が流れ出てくるようである。 　肌は冷たい。 　夏も冬も冷えて冴え冴えとあらわれる。 　ひきしまって弾力に満ちている。 　そこの深い裂け目、…切れ込んでいるそこのしるしもひとすじきりっとあるだけだ。 　ぴったりと閉じている。 　いためないように指をそっと差し入れる。 　いつもすでに濡れている。 　においはない。 　胸と乳房のあたりに血の色がひろがりだす。 　肌の下で花がひらいていくようだ。 　客の顔ぶれは二年ばかりですっかり変わった。 　財団の勤めで交わった教授や作家や編集者それに美術家や音楽家や批評家たちがやってきた。 　それぞれがまたおのおのその分野の知り合いを誘ってきた。 　静かな男たちである、…幾人かの例外はあるにせよ。 　いつも武満徹かシェーンベルクかそれでなければマーラーをかけている。 　ごく低くかけている。 　かの女は波の盆と浄められた夜それから夜の歌のとりわけ第五楽章が好きなのでそこへくるとふたりだけだったら高くする。 　第五楽章ではたいがい一回か二回いっしょに笑う。 　新年にはあいだに宮城道雄をはさむのだ。 　水の変態はまさに流転の調べである。 　男たちのあいだではひとつの計画が進んでいた。 　資金を出し合ってまとまった基金を設けようというのである。 　若い芸術家たちにその金で新作をつくらせる。 　条件はただひとつ。 　目をむくような作品に仕立てること。 　お祭り騒ぎの展覧会にするのである。 　画廊の社長がいいだした。 　ねばあらんど基金というのはどうでしょう、わたしの気もちからいえばこんなふうにひらかなにするのがまさにぴったりなんですが。 　すっかり酒でできあがっているときにその話を出したのだ。 　おそらくだれもがすでにこわいものなしの気分になっていた。 　上げ潮にまかせて、よし、やろう、ということになったのだ。 　かの女もそれによく似た仕事をちょうど財団で、船主協会がつくったその文化財団でしてきていた。 　財団は市の都市局と組んで一年おきに景観の設計競技をやっている。 　建築家や都市計画家それに美術家らから新しい都市装置を募るのだ。 　一等賞の賞金を財団が出す。 　都市局がそれを景観審議会にかけ新年度の都市計画に組み入れる。 　第八突堤の送迎デッキを壁画で飾ることになったのもこれだった。 　七十五メートルもあるなんとも細長い壁画である。 　小舟に立てた真紅の扇を那須与一がきれいに射切ったあの伝説の瞬間が絵になった。 　源平の両軍が陸と海とで向かい合うその壮麗な陣形が両方の端に綿密に描かれた。 　鏑矢が扇をばさっと空へ飛ばしたまさにその一瞬のことである。 　春風にもまれる扇が空と海に美しい裂け目をつくった。 　沖の兵船はみな船べりをたたいてこれをたたえた。 　浜の騎馬武者はみな箙を打ってこれを誇った。 　幸福な裂け目であった。 　敵も味方もこぞって裂け目に呑み込まれた。 　…流血の戦場に差し入った一瞬の、幸福な、遠方への裂け目。 　知恵を貸してほしいといわれるままにかの女も男たちに加わった。 　男たちはこれはもうみさかいもなく夢を並べていくのであった。 　…かれらとちょうど同じ数のピータ・パン、饒舌な青いインコがかの女の前にずらっと並んだわけである。 　インコたちの頭骨はいまや縫合部の隙間がすっかり弛んでいくらでも風が往き来するのであった。 　地についた見通しを立てられたのはかの女ひとりきりだった。 　八年の実務が堅牢な整流器を体のなかにつくっていた。 　県庁の手続きがこれが案外めんどうなのよと予期せぬ覚悟を男たちに促してしばしかれらをたじろがせた。 　せめて公益信託の資格をとっておかないと、でないと税金にそっくりもっていかれちゃう、あっちにはなさけというものがないんだから、産声をあげる前にさらいにくる、胎児誘拐…、プロだし、虎視眈々なんだから。 　公益信託の資格があれば胸を張って市民の寄付も募れるし、ちょっと努力してネットワークを広げていけば、さきざき大きくもしていける。 　だんだん大きくなっていくって希望でしょ。 　希望はいのち、そうじゃない、おんぎゃあ、みんな希望のおたけびをあげて生まれてくる、むこうから元気いっぱいにぬけてくる、ひょっとするとむこうでは断末魔かもしれないけど、こっちではまちがいなく希望の叫び。 　準備を進めるあいだの仮りの事務局が店に置かれた。 　…ピータ・パンたちの止まり木の夢想、それがそのとおりに日の目をみればこれはそこそこの特ダネになる。 　男たちをさしおいてかの女に話しかけることは控えている。 　風立ちぬや幽霊船の船長や若い記者たちがいっしょでなければたいがいロック一杯で店を出る。 　二軒目は少々にぎやかな店にいく。 　いつもだれかが歌っている。 　やかましいくらいである。 　歌のほかにはまずなにも起こらない。 　まったく構えなくていい。 　ただ一度だけ目を疑ったことがある。 　柔道五段のガードマンがいちばん奧で歌っていた。 　髭面のまぶたをとじたまま仙人みたいに満ち足りた顔になっていた。 　なかなか聴かせるバリトンで柔と王将とそれから真夏の果実を続けて歌った。 　こちらに気づくとわざわざマイクを持ってきた。 　しつこく押しつけるものだからならばとタイガースの応援歌をがなってやった。 　うれしいなあ、おれも虎党なんですよ、とそれでかれはなおのこと巨体をこちらへ寄せてきた、ものごころついたころからもうずっと、赤ん坊のうちからライトスタンドへ連れてかれてましたから、あのわれがちの合唱を子守り歌にしてました。 　それから歯の欠けた口を耳もとへ近づけて詩人さんの失踪はあのあとどんなふうになりましたと小声で訊いた。 　迷宮入りかもしれないね。 　シンジケートはあたりましたか。 　暴対のほうでもしばらく動いていたけれどなにしろ相手が詩人でしょう、やっぱり接点がなかったようで。 　いえ、そうじゃなくて、あの詩人さんじしんが裏の一員じゃなかったかと。 　それはまた…。 　手口がね、まさにみせしめのような、組織を裏切ったやつへのね、おれにはそんな気がしてならんので。 　まさか。 　かんがえればあれはあそこでまさかといったきりである。 　まさかとあのとき口をあけたままである。 　ぽかんと口を空洞にしてそのままきょうになっている。 　いやな隙間がすべりこんでくるのはいまのところこれはどうも仕方がない。 　花となった体からせっかくだが少し離れないといけなくなる。 　かの女に背を向けてそうしてごむをつけるのだ。 　無粋だが。 　…これっぽっちの薄い膜でとにかくもう悪魔にも神にも出番がなくなるわけだから。 　滑稽だが。 　それからあらためて体を重ねる。 　いっそうきつく押しつける。 　そのぶん隔ても強くなる。 　ほとんど同時にうめき声をもらすのだがその声もいまはむこうとこちらで起きるのだ。 　…むこうの宇宙とこちらの宇宙。 　前よりすこし孤独である。 　底へいっしょにおりきれない。 　愛しあったというよりはむしろ運動しあったようである。 　どうやらカウンタでながめているときのほうがかの女はずっと近いのだ。 　男たちのなかでのほうがずっと深くあらわれる。 　ずっと美しくあらわれる。 　ずっとこまやかにあらわれる。 　…体もそのほうがありありと甦ってくるのである。 　それにそこにはまだもうひとつあらわれるものがある。 　まだあった。 　頭脳。 　ミネルヴァのように男たちの上に君臨するその頭脳。 　誇らしい。 　店ではそれらがいっきにみえるのだ。 　それだけみえればさしあたってはもうそれでじゅうぶんだ。 　じゅうぶんなのである、さしあたって、地上では。 　こんな事件にぶちあたってはしばらくいけそうにないけれど。 　白ペンキの引き戸がごとっと動いてすこし引っかかってからがらりとあいた。 　最初に出てきたのは若い小柄な警部補だった。 　中は三人だったのだ。 　警部補はいつも眠っていたような厚ぼったいまぶたである。 　細い目の奧で眼球が光るのだ。 　トカゲのような目なのである。 　こちらを睨め上げて、あいつあんなところにまだいやがる、という顔をした。 　課長の机に足を載せていたものだからなおさらむかっときたのである。 　たかがブンヤが、あんなにふんぞりかえりやがって、ちっ。 　ちっ、しんまいデカほどぶりやがる、この爬虫類。 　…あの切れ味はいずれ腕利きになるのだろうが。 　トカゲの後ろが青いシャツの、…海だった。 　シャツは胸のあたりに皺を浮かべてもうしょたっとしていたが海はすらりと立っていた。 　留置場にほうりこまれてそのうえまる一日の取り調べだ。 　大概は疲れはてた顔になる。 　皮膚がくすむ。 　目もくぼんでうつろになる。 　とりわけ肩が落ちてうちひしがれた姿になる。 　かれにはだがそのての翳りがまったくなかった。 　いぜん明るい海だった。 　すがすがしい目でこちらの頭の上を見た。 　たぶん窓ごしに空を見た。 　月をさがしたようだった。 　まだそこに月はない。 　そのあたりへ昇ってくるのは夜半を過ぎてからである。 　新月へあと数日のはずなのだ。 　髭が口のまわりで翳っていた。 　青かった。 　おびただしい芽を出していた。 　なまなましく芽吹いていた。 　ぞくっとした。 　ざらっとさわったようだった。 　さわってしまったようだった。 　男は向こうの端にいる。 　こちらはこちらの端である。 　ずいぶん離れているのである。 　それなのにすぐそこでさわってしまったようだった。 　むしろここでさわったようだった。 　ここのこの、むしろこの顎の上でさわってしまったようだった。 　むしろここの、この、この顔の上で起きた出来事のようだった。 　ここにあるこの顔がいまやあのあそこの顔だった。 　あの顔だった、この顔が、…いま。 　かなわない。 　こういう間違いはいやだった。 　困るのだ。 　目が遇った。 　どきっとした。 　正面から見つめあったのはこれがはじめてのことだった。 　おもっていた顔とは少しだが違っていた。 　目も鼻も口もごくわずかだがずれていた。 　鑑識が配った写真とはこれはずいぶん違っていた。 　こういう顔だったのか、ほんとうは。 　目を凝らした。 　このとおりにしっかり憶えておかないと。 　むずかしかった。 　切り立っていたところが見つめるほどにそうではなくなってしまうのだった。 　角がみんなまるくなった。 　等高線が衰えた。 　もうつかみどころがないのであった。 　目と鼻と口とそれから耳と、つまり合わせて六つの穴。 　骨の凹凸とそれに沿ったなだらかな皮膚の起伏。 　ありふれた黒い髪とありふれた青い髭。 　それだけだ。 　…なんだ、これは。 　もう海ではないのであった。 　船でもなかった。 　風でもなかった。 　すると目に険しさがあらわれた。 　怒りをはらんだ目であった。 　なんだ、あいつ、じろじろと。 　…刑事か？　刑事じゃないな？　引っこんでろ。 　さっきとはもうまったく違う目であった。 　あらぬかたからそこへ浮かび出てきた目であった。 　ぷいっと横を向いてしまった。 　たすかった。 　鼻がみおぼえのある形になった。 　すきっと立った峰に戻った。 　全部がそのまわりでまとまった。 　ふたたびかれがそこにいた。 　手錠が見えた。 　夜の奧できらりと光った。 　歩きだした。 　…絞首台へ。 　　長い道だ。 　最後に痩身の風立ちぬがあらわれた。 　鴨居に頭がつきそうだった。 　ひたいに髪が落ちている。 　猫背になってそこをくぐった。 　顎をゆっくりと撫でている。 　うまくいっていないときの癖である。 　こちらを見た。 　おやっ、という顔をした。 　まだいたの、こんな時間に、とそのような顔をした。 　わかっていながらそのような顔をしたのである。 　それから首を左右に振った。 　まわりに気づかれないように小さく振った。 　なにも、ない、今夜は…。 　かれの最大限の好意であった。 　紐を輪に結んで男の腰にかけていた。 　ゆるくてでだらりと垂れていた。 　かたちばかりの紐だった。 　廊下はすでに明かりを半分に落としていた。 　三人いっしょにそこで翳った。 　翳って消えた。 　たぶんこれがみおさめだった。 　男の目がしばらく残った。 　眼球が中空に浮かんでいた。 　怒りで煮えたぎった目であった。 　底から昇ってきた目であった。 　真っ暗な海淵からそこへ浮かんできたのである。 　寂しくなった。 　…非難するつもりはないのだとせめてそう伝えられたらよかったが。 　銀行の通りを過ぎると十五階建ての電子技術の専門学校そしてこれまた十五階建ての学習塾および大学予備校それからこれはもう夜空へ届いているような超高層のホテルが三棟。 　車道と歩道の境い目を細い花壇が帯のように伸びていく。 　花盈つ通りは冬のあいだも花の切れることがない。 　パンジーの群れがいく。 　スイセンの群れがいく。 　プリムラの群れがいく。 　そしてたぶんこの白い花々はノースポール、それからサザンカの小さな植え込み、そしてまたパンジーの群れスイセンの群れプリムラの群れ…。 　花壇の向こうは街路樹が同じ間隔で移っていく。 　このあたりは桜である。 　何億の蕾があるだろう。 　満開のころは壮観だ。 　そのころにはバレエ団が白鳥の湖をこの大通りのホールにかける。 　そこから二週間のツアーに出る。 　もちろん城の町にもやってきた。 　…城の桜もちょうど盛りの時期である。 　めあての雪の女王は白鳥湖では第二幕に登場した。 　王子の婚約のお祝いにチャルダッシュを踊るのだ。 　胴で絞った赤紫色の優雅なドレスが炎のようにゆらめいた。 　背仲で臙脂のケープが翻る。 　清らかな泉に脚を差し入れていくように膝をゆっくりと伸ばしながら腰を沈めていくのである。 　水面に透明な波紋がひろがる。 　なんと水に似合う脚。 　翌日にはかならず母を訪ねてきた。 　城の桜をぬけてきた。 　いつも白のパンプスだ。 　花びらが乗っていた。 　一度そういうことがあったのだ。 　天空から舞い降りたもののようだった。 　靴の奧から滲み出たもののようだった。 　玄関には水の音が響いている。 　前を深い水路が走っている。 　町はずれの取水口でとった流れが町なかを突っ切って城の濠までいくのである。 　勢いのある流れである。 　高い音の流れである。 　花びらを乗せたパンプスがそこにボートのように舫っていた。 　薄桃色の切片はいまや皮膚のようだった。 　雪の女王の体のかけら。 　そのかけらを少年はさきまでとっておこうとしたのである。 　流れから白い舟を取り上げた。 　おもったより重いのに驚いた。 　むしろたっぷりと重かった。 　ひとかたまりの肉だった。 　まぎれもなく体重の一部であった。 　縮緬のような襞があった。 　やわらかな襞だった。 　やわらかな皮膚のような襞だった。 　やわらかな皮膚だった。 　すでにおさえるのはむずかしかった。 　それでもすこしとどまってそれから嗅いだ。 　むれたにおいが奧からした。 　においのなかでうごめいたものがある。 　肉の色をした、なにものか…。 　腕？ 　脚？ 　胴？ 　たぶんもっとほかの部位。 　それがひとしきり蛇みたいにのたうった。 　たまらなかった。 　ほおに強く押しつけた。 　舗道の熱が残っていた。 　春の熱。 　すぐそこに花弁があった。 　三角形の切れ込みがきれいであった。 　舌の先をそこへ伸ばした。 　舌にぴたっとはりついてきた。 　ぺろっと掬った。 　掬って食べた。 　食べたあとが花のかたちに湿って残った。 　唇を押しあてた。 　押しあてるとかえってもの足りなさがあらわれた。 　もっと強く押しあてた。 　さらに強く押しあてた。 　さらに…。 　かぶりつきたいほどだった。 　するとそこで恐怖が出た。 　なんという卑しい姿。 　そうおもった。 　目の赤く濁った少年がすぐそばに立っていた。 　鏡がそこにあるようにありありと立っていた。 　おまえだな、…やっぱり。 　力がぬけた。 　指がゆるんだ。 　舟が落ちた。 　ことりと落ちた。 　遠くへ落ちた。 　底まで落ちた。 　舌の先にしこりがあって、小さな潰瘍のようだった。 　火傷のあとだった、まちがいなく。 　火のかたまりがそこにはりついたのだった。 　それはいまも押し花のようにそこにある。 　熾きとなってそこにある。 　オデットのほうもよくみておくべきだったのだ、…こういう夜がくるのなら。 　湖のほとりで絶望へと落ちていった最後の姿。 　きれいだとおもわなかったわけではない。 　おそらく嫉妬が射し込んでいたのである。 　雪の女王よりたしかにずっと美しかった。 　羽飾りをつけた頭部が高貴な塔のようだった。 　塔が傾くとそれはそのまま世界の終わりのようだった。 　最期の日の落日みたいに翼のなかへ塔は落ちていったのだ、翼のかたちに鋭く折られた腕のなかへ。 　あんな苛烈な美しさ。 　…そうなのだ、オデットにしろクララにしろ雪の女王を超えるものはみんなすこし敵だった。 　バスは桜の大通りと別れるとそこから川に沿って山へ向かう。 　山麓にとりついて滝谷の口で高い橋を渡るのだ。 　橋を渡ればあとは段丘から段丘へ辿りたどり登っていく。 　終点のケーブル駅まで長い坂はもうずっと上りだけである。 　下りはただのいちどもない。 　坂の両側に高層住宅があらわれた。 　夜空を渡る客船のように光を満載してあらわれた。 　夜ごと星座へ乗り出す航海だ。 　停留所が来るとこんどはそのつど客がごそっと降りていく。 　いくつもの顔が夜のなかへ消えていく。 　オデットがあらわれた。 　さっきとまったく変わらない後ろ姿であらわれた。 　水蛇のような長い髪。 　ほとんど体の半分が隠れている。 　夜に抱きかかえられている。 　斜めに突き出たくるぶしはあらためて見つめてもやはりイノの光である。 　地中海の深くて黒い水底からそこへのぼってきたのである。 　なつかしい出来事だ。 　カモメみたいにひょいと筏に乗ってきたのよ、イノさんは、とそこへくると母はすこし笑いを浮かべて語るのだった。 　白い歯でとても歯切れよく語るのだった。 　母もそこが好きなのだ。 　その母が血の池へ、黒い大きな血の池へ顔を差し入れているのをみたときは驚愕した。 　池のふちに這いつくばって口のまわりを赤黒く濡らしながらごくごくと飲んでいた。 　母のほかにもおおぜいの女たちが同じように這いつくばって飲んでいた。 　みんなしあわせそうな顔だったが母だけが飲みながらうめいていた。 　わたしをたすけにきて、だれか。 　飲みながらそのようにうめいていた。 　たすけにきて、はやく。 　だれか。 　どうか。 　月が真上に昇っていたがとても小さな月だった。 　いつもの十分の一もないようなのはたぶんそれだけ高いところにあるからだった。 　それだけ遠い距離にあるからだった。 　母が体を起こしてひと息つくとその小さな月が弱い光で顔を照らした。 　血の模様が入れ墨のように顔ぢゅうに伸びていた。 　ぞっとした。 　体がそっくり冷たくなった。 　石みたいに固くなった。 　うずたかいものに強く抑えつけられた。 　苦しくなった。 　夢だった。 　月の場所に小さな電球があらわれた。 　電球が天井いっぱいの魑魅魍魎をゆっくり照らし出したのだ。 　それで夢だと徐々にわかってきたのである。 　夢だといまはもうはっきりとわかっていた。 　はっきりとわかっていたのにまだうめき声はつづいていた。 　魔物が飛来するように魑魅魍魎の天井を次つぎとわたっていた。 　体に鳥膚がひろがった。 　すべての毛が起き上がって一本一本がススキみたいにさわさわゆれた。 　けもののような太くて低い声だった。 　獣なら獣であってくれるほうがいいのだがやっぱり母の声だった。 　体の中心からふるえが出てきてもう止めようにも止まらなかった。 　歯をがちがちと鳴らしながら布団を出た。 　水の底を歩くように寒かった。 　手もぶるぶるとふるえていた。 　ふるえを懸命に抑えおさえ襖をあけた、隙間をほんの少しだけ。 　真っ暗だった。 　うめきはその闇へのぼってきた。 　血のにおいものぼってきた。 　父のけはいはしなかった。 　下の書斎でまだ仕事のようだった。 　定例市会が近づくと議会事務局はよほど忙しくなるようで父はしばしばメモリを持ち帰っては徹夜でキーをうっていた。 　はやくたすけにきて、だれか。 　声は闇のその底からのぼってきた。 　底よりもっと深いところからのぼってきた。 　母が闇の底にいるとしてもその母のもっと下、いまやもっと深いところからのぼってくるように聴きとれた。 　むしろもう母ではないようだった、そこでうめいているそのものは。 　あんなになにもできなかった夜はない。 　あんなに置き去りにされた夜はない。 　泣くことがなんの役にもたたないことをあんなにはっきりと知った夜はない。 　叫ぶことがなんの役にもたたないことをあんなにはっきりと知った夜はない。 　あしたの朝は早めに警察に出なければ。 　まず課長のところで予定どおり送検がおこなわれるかをたしかめる。 　そのさい顔の変化を見逃さないこと。 　とくに目と唇の微妙な動きを。 　新しい報告が上がっていればきっとそこにゆらぎが出る。 　絶海の孤島だって気圧の変動は受けるのだ。 　おはようの声も比重が変わる。 　ぬかるなよ。 　課長席の隣は次長の机。 　次長はいい。 　あの小心警部はどっちみち値打ちのあることは話さない。 　爬虫類の警部補にはさわり程度の冷やかしを言ってやる。 　夢のなかでもずっと黙秘してたろう、おれもそうだ、へとへとになるよなあ。 　風立ちぬには近づかない。 　距離をとって迂回する。 　せいぜい目くばせだけである。 　かれはだいじなのである。 　なにもつかめないままこのさき何日もたつようなら家を訪ねることになる。 　…夜討ち、あまり気は進まないけれど。 　高層住宅の四十階。 　最上階まであと五階もなかったろう。 　きわだっているのはベランダからタイガースの球場がすっかり見下ろせることである。 　これが狙いでこの部屋を買ったんです、二度目に訪ねたときにそうかれがうちあけた。 　白い電光が圧倒的な郊外の夜景のなかに球場だけ緑のエメラルドのように浮かび出る。 　強い照明で芝生が真昼よりまだ映える。 　選手たちはほとんど蟻のようである。 　ベランダの鉢植えの木にラジオをかけてのぞきみる。 　遠い浜から間断なく風が来る。 　実況はさらに遠くから来るようだ。 　そうら、これですよ、これ。 　あんなに大きな声をかれが出すとはおもわなかった。 　白いユニホームのランナーが、これは音もなく、じっさい何の音もなく、身を屈めて走っていた。 　すでに一塁と二塁の中間は越えていた。 　ダイヤモンドの最深部でキャッチャーが右腕をくの字に立てるのが見えた。 　盗塁です、と風のなかでようやくアナウンサーが叫んでいた。 　遊撃手がベースをまたぐ格好で頭の上へまっすぐにグラブを伸ばした。 　さっとベースへ振りおろす。 　審判が蟹みたいに体を沈めて腕を水平に広げていた。 　盗塁というのは、これは悪魔の、と風立ちぬが甲高い声でもうほとんど叫んでいた、悪魔の一族がかんがえだしたルールだと、そうわたしはおもうんです、叫びが強い風でガラス片みたいに夜空に散った、次の塁をことわりもなく掠めとってしまうんです、こういうこすいやりかたは神には、神さんには絶対かんがえつけません、ここからこんなふうに見てますと、上で神さんが目をまるくしてるのがわかりません？　わかるでしょう、すぐ上で、なんだ、あいつ、血迷ったのか、いきなり走って、あんなのはわしのルールにはないぞ、悪魔のなかでもきっと才気あふれた小悪魔でしょう、こんなスリルをかんがえるのは。 　ふたつの目がムササビみたいに光っていた。 　ふたつの眼球が曲面まできれいにみえた。 　天球と瓜ふたつの半球がそこにうつくしく浮かんでいた。 　じつはわたしもこれにはやられちまうんです、あれえ、急にあいつ、なにやってんだ、って、やっぱりそうおもってしまうんです、突然わきへはみ出していったようで、どきっとしてしまうんです、いつも、盗塁なのはむろん先刻承知のことで、ただ最初のコンマ何秒か、そこで掻き乱されてしまうんです、混乱させられてしまうんです、あたりのなにもかもが壊れるような、じつに気もちのいい混乱ですが。 　ふいに口をつぐんだのはたぶん喋りすぎたとおもったからだ。 　悔いるような弱い笑いが唇の端に薄く浮かんだ。 　吹き上げてきた風がひたいの髪をふわりとはらった。 　顔が月のように明るくなった。 　わかった、という気が急にした。 　頭蓋骨が奧までみえたようだった。 　はじめてのことだった。 　高層住宅が途切れると途切れているあいだひろびろと光の街が見下ろせる。 　街にも大きな銀河が流れている。 　星祭りが地上でもくりひろげられているのである。 　夜を徹しての祭りである。 　これこそ祭りだと、そうおもうんですな、わたしはいつも、あのさいはての現場では、あのさいはての現場に立つと、一課長は胴のずんどうなぐい呑みにまたたっぷりとついでくれながらそう言った、祭りというのは、なんでしょう、もともと人身御供を真ん中に据えていた、そうでしょう？　いや、そうおもえてならんのですな、わたしには、人類学者さんなんかにはあぶなくって喋れませんがね、さいわいあなたは人類学者なんかじゃなくて記者さんだ、体験からね、いやむしろ体感からだな、そうに違いないと、そのはずだと、祭りはすべからく供犠だったと、供犠だったに違いないと、これはもう定言命法ですな、わたしには、殺しの現場ってえのはじつに怖いところです、じつに厳かなところです、じつに昂ぶるところです、おそらくあらいざらいの感情が、感情という感情が、そいつが濃厚に出現する、あそこでは、もつれたままたぎりたって噴出する、神と向きあったときのわれわれももとはそうだったんじゃないですか、そうでしょう、まちがいなく、神の前では人間は濃くなった、重くなった、厚くなった、まったく同じなんですな、あのさいはての現場とね、神がくだってくるんです、あそこには、いえいえ、神は死んでなんかいませんよ、いるもんですか、死んだだなんて、ありゃあ景気のいい嘘ですよ、仮りに死んだとしてもです、死んだとしてもまだ死体になって生きてます、生きていたときよりももっと強力に生きてます、ひとがひとり殺されるたびにきっちりとそこへ現われてくるんです、いそいそと、いきいきと、たちまち祭りが立ち上がるんですな、そこに、原始の祭りが立ち上がってくるんです。 　オデットはこころもち頭をかしげてどうやら絵の右下のほうをみつめていた。 　この座席からはみえないが素足の少女がそこにたたずんでいるのである。 　透けるようなワンピースを流れる水のように着てそこにほっそりと立っている。 　どうしてそんなふうにそこにいるのか。 　むしろまちがいのようにそこにいる。 　まちがった裂け目のようにそこにいる。 　オデットには何かつかめるものがあったのだろうか。 　そうだろう、いい殺しだろう、そうかそうか、裏も深いか、これでトップは決まりだな、第一報を入れたときのあのデスクのはしゃぎよう、すでにじゅうぶんに祭りの気分になっていた、ありがたいねえ、もう四日もトップを出せずにいたんだから、寂しかったなあ、整理部はこれみよがしに通信社の原稿を使うしな、なに、黙秘？　いいじゃないか、いくらでも好きに書けるということだ、はやしたててやるがいい、鼻っつらにたたきつけてやろうじゃないか、整理部のあんちくしょうの、もちろんだ、おもいっきり書いてくれ、きょうはおまえに好きなだけの紙面をやるよ、本部にはりついて、蛭みたいにはりついて、吸って、吸って、吸いまくれ、現場のほうはいい、若いやつを回すから、今週いっぱいはいけるな、これで、電話の向こうに高笑いの顔がみえていた。 　一課長も会見に区切りをつけるとにわかに顔をほころばせてこう言った。 　交通機動隊の諸君の機転、なんといってもこれが第一の手柄です、とにかく対応が早かった、おかげでわれわれも機敏に動けた、身柄の確保にも証拠品の押収にもなにひとつロスがなかった、…わたしはこのたびの機動隊諸君の働きにかんがみて、とくに功績の大きなふたりを是非われわれのところへ上げてほしいと、そう上申するつもりです、さっそく私服になってもらいましょう、みなさんもじゅうぶんご留意くださって、かれらの働きを世間に伝えてくださるよう、これはせつにお願いする次第です。 　起こったことは凶事なんかではまったくなかった。 　それどころかじつに悦ばしいことだった。 　若い巡査の抜擢という慶事まで添えられた。 　祭りである。 　あとすこし登ったらもう星の交差点になる。 　五つの坂道が集まって小さな広場ができるので星のかたちになるのである。 　ケーブル駅までそこでほぼ三分の一の高度になる。 　小さなケーキ屋が角にある。 　ガラスを張った明るい店だ。 　いつも最終バスまであけている。 　老いた姉妹でやっている。 　ちっちゃなふたごの姉妹である。 　ケースの向こうにいつもちょこんと座っている。 　二個の魔女のようである。 　あれは助かる。 　バスが行ってしまってもまだひとりではない気がする。 　さてっと、冷蔵庫に何か残っていたろうか。 　きのうの巻きずしが半分ある。 　米がぱらぱらになっているかもしれないが。 　即席の蕎麦とあれで今晩は、まあいいか。 　ビールは二百五十ミリをひと缶だけ。 　こよい、血まみれのメアリで。 　…あの残虐の酒が胃にやさしいとビヤ樽のキャップがいうのである、信じはしないがそういう気がまったくしないわけでもない。 　高架駅に停まっていた青い列車はたぶんもう都市域をぬけて水田地帯を驀進していることだろう。 　前照灯だけを煌煌と光らせて黒く長く走っている。 　オリオンと冬の大三角のその下を低く低く走っている。 　湯船に浸かりながらひさびさにブルー・トレインでも聴くか。 　擦り切れそうになっているあのコルトレーンを。 　ためらいなく夜へと走りだすサックスを。 　ぴかぴかに研磨された金属の汽笛、…金属の息。 　夜のまんなかをどこまでもひた走る。 　湯に顎まで浸かってそれを聴く。 　繰り返しにセットして眠りがひたひたと寄せてくるまでそれを聞く。 　ブルースを聴きながら猫なでる春 　ふいに雪の女王の句が浮かんできた。 　くるっと回って裏から出てきたようだった。 　それほどの作でもないがこんなにありありと憶えていた。 　たぶん二冊目くらいの句集だったはずである。 　一列に並んだ十五の文字のひとつひとつの字形までそこにあるように甦る。 　春のその猫になりたいと少年がそんなに願ったからである。 　その幸福な猫になりたいと、まあ、そんなにも熱望しつづけたからである。 　星の交差点に着く前に早めに立った。 　絵を覗き込むそぶりでかの女を見た。 　見返そうとする顔が下からゆっくりとのぼってきた。 　目が合った。 　すると、驚くほど知らない女がそこにいた。

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繭と星座　�A

あっ。 　これは、あの目、だ。 　あの夜と、同じ目、…だった。 　あの夜もこんなふうに男はそのそこで腰を折ってこんなふうにぬっと頭の上へかぶさってきたのである。 　こんなふうに前のポスターを覗くそぶりで屈んできた。 　そしてこのようにすばやくこちらを見たのであった。 　眼球をきろっと動かして盗み見た。 　おもいだした。 　あのときの、あれ、だった。 　…そういえば、あのときも。 　そういえばあのときもこの男とそれからいままた料金箱と取っ組み合いをやっているインド人の若い男が、また小銭がないのね、のっぽさん、この停留所でこのバスを降りたのだ。 　星の交差点である。 　五つの道がひとつに出合ってすぐまた夜のなかへ分かれていく。 　舗面が光るほどに黒いのは夕方の通り雨でまだたっぷり濡れているからだ。 　五つの赤信号を鏡面みたいに反射してこれはもう赤黒く燃えあがった火災である。 　道なりにこのままバス道路を登っていけば北斗七星から倒れてくる黒い山。 　左へ入って厳しい坂道にとりつけば崖の上でポプラ林に囲まれた黒い墓地。 　右へ折れてまた街へ下りるならこちらはほぼ一直線に埠頭へ抜けて黒い海。 　前へ水平に進むならこれは飛び出すように高台へ出てまさに新月の黒い空。 　黒にぐるっととりまかれた交差点。 　黒の中心。 　ただ角の小さなケーキ屋だけはまだ電気をめいっぱいともしていてここだけは黒をおしのける水晶宮のようである。 　ふたごのちっちゃな老姉妹が、どっちがどっち？　ガラスケースの向こう側に今夜も行儀よく座っている。 　イチゴやサクランボやマスカットそれにメロンやマロンやオレンジがクリームの上できらめいてそれで星を売る店のようなのだ。 　そうだ。 　あのときもあの二個の魔女ちゃんたちが同じ黒のストールでこっちをあんなふうに見つめていた。 　もうまちがいない。 　あの夜の、この目、であった。 　この男だ。 　この眼球。 　この、きろっと。 　夜の奥からまた出てきた。 　三週間くらいはたつのかな。 　もうすこし？ 　ポスターもあのときはまだ前の図柄だったはずである。 　夕暮れの森を出ていく長い汽車。 　ツタに埋もれた展望車。 　汽車の絵のシリーズはほんものをようやくこの回顧展で見たのであった。 　あれは父のコレクションにもはいってない。 　若いころにはこういうのも描いてましたといちど古い図録でおしえられたことがあったけどもうひどくこすれていて細かいところまではわからなかった。 　精密な描写はあれだと二十代ですでに出来上がっていたのである。 　あのツタ、…むしろ狂暴な。 　山嶺のように切り立つ葉脈。 　剣みたいな葉の切っ先。 　もう最初からああだった。 　立派に狂気だったのだ、はじめから。 　偏執、…狂？ 　汽車から女の群像に変わってからもツタはそのままずっとあのツタなのだから。 　…群像というよりあれは群れか、…女の、群れ。 　眠る女たちの群れ。 　魚網のような蔓にかかって魚のように光りながら眠っている何人もの女たち。 　その魚群の時代が三十年。 　つまりは還暦のあとだったというわけだ、いまのかたちになったのは。 　いまはこれ。 　まさにこれ。 　どっしりと女の肖像、まんなかに。 　まっすぐにこちらを向いてずっと遠方をみつめている。 　そしてむろんツタはツタ。 　枯れてかさかさになった葉のなかに女が溺れるように埋もれている。 　何万という葉のなかに生け贄のように埋もれている。 　火のように赤い葉のなかに。 　…むしろブリュンヒルデか、炎のなかで眠りにおちる。 　モデルをたのまれたときにはむろんもうこのかたちに変わっていた。 　父を通していわれては断れるわけがない。 　舞台にさわるような無理はいわない、絶対に、とご老体そうのたもうているんだから、なっ。 　かくして四人、モデルはいま。 　テキスタイルのデザイナーと喫茶店のママさんと不動産会社の事務員と、それからここにいる、これ、…ダンサー。 　律儀にも順番を崩すことなく順繰りに描くのだ。 　ここのこのポスターは、あの、いちばんの古株、テキスタイルのお姐さん、…ほんとうはもうこんなに若くはない、じゅうぶんお婆さんなんだけど。 　…みんなおんなじ顔にしちゃうんだよなあ、あの先生、と父がそのときばかりはすこし唇をゆがめて笑う、わしにはどうも、どれがどのひとにあたるのか、これはおまえかな、とまあ、ひとまず見当はつけるけど、正直いってまださっぱり、あんなんならモデルはひとりでよかろうに、とおもうがな、ご老体の体のほうは三十年も診てきてるからまあ診断はつくけれど、脳の回路は、これはいまだにわからんなあ、想像を絶するよ、芸術家の頭というのは、精神科はわしの専門ではないし。 　汽車もまだいることはいるのである。 　ブリュンヒルデのずっと向こう。 　ツタの葉の隙間に、もう小さく。 　モミの森も、あることは、ある。 　汽車のさらに先に、遠巻きに。 　外への裂け目も、あるかないかのごく薄いひとすじだが。 　また出てきた、この目んたま。 　ロットバルトみたいな目。 　悪魔の、あの。 　あの、フクロウの化け物の。 　ねっとりからみついてくる。 　逃がしはしないよ。 　おまえをはなしたりするものか。 　王子なんぞに渡しはしない。 　ひとつ運命なんだから、おまえとわたしは、…なあ、オデット、もうわきまえてくれなければ。 　むろん見つめられることにはもうじゅうぶんになれてきた。 　うんざりするくらい馴れてきた。 　なんといってもダンサーはまなざしで育つのだ。 　まなざしでみがかれる。 　まなざしで完成する。 　母なるまなざし。 　父なる、…か。 　だがこの男の目。 　どうも勝手が違うのだ。 　こんなふうにはどうも見られたくないのである。 　まだ、どうも、このようには。 　せめてもうすこし控えめに。 　遠まわしに、もうすこし。 　できればやさしく、やわらかに。 　皮膚に穴を穿ってくるのである、この目んたまは。 　穴を穿ってくる、この肉に。 　この骨に。 　いちばんいやなのは関節に喰いつかれることである。 　痛い！ 　蛇！ 　もちろんだ。 　いずれみながこういう目になるのはわかっている。 　ゆくゆくはこういうまなざしでながめられることになる。 　すばらしいプリマだが、やっぱりなあ、もうずいぶん踊ってきたからなあ。 　こういうまなざしに追い立てられることになる。 　あれは、うん、すばらしいプリマだった。 　…だった。 　葬るまなざし。 　別れの眼球。 　だが、まだ早い。 　まだ、いやだ。 　いやなのだ、まだ。 　戻れ。 　往け。 　…往け！　この男。 　往きかけた。 　インド人が降りるのに続いて往きかけた。 　往きかけて、するとそこで、おやっ、とおもった。 　おやっとおもったのである、そこで。 　ジャケットのポケットから新聞がのぞいていた。 　四角く畳んで捻じ込むように入れていた。 　大きな見出しのすぐ横に小さな写真が載っていた。 　ちょっと、それ。 　この顔、また。 　あの男の顔だった。 　またあの司書の顔。 　ここのところほとんど二日に一回はこの手の写真に遇うのである。 　テレビ、新聞、ウエブサイト、週刊誌、それに週刊誌の吊り広告。 　どれもほんものとはだいぶん違うとおもうけど。 　こうまで頬が骨ばってはいなかったはずである、ほんものは。 　いくらなんでもあの目がこうまで暗くなることは、ぜったい、ない。 　こんな顔で載せられては、まるでもう、ドラキュラそのもの。 　…ベラ・ルゴンの、ハリウッドの、トーキーのはじめのころの、あの最初の、古典的な、歴然たる吸血鬼。 　血濡れた眼球。 　それともわざと吸血鬼ふうにするのかな、こういうときは、…まあ、マウスひとつでどうにもなることだから、たぶん。 　残忍な顔になると、それはそうだ、厚みが出る。 　深みが出る。 　勿体がつく。 　むしろきれいな一輪挿しにみえたのだ、あそこでは、閲覧室のカウンタでは。 　百合みたい、と思ったほどだ。 　…ユリ、むろん、そのような、そこまでの意味ではなく。 　まっすぐにこちらを見つめていたのである。 　目の奧に海がひろがっていたのである。 　海を風が渡っていた。 　あなたのオデットをぼくは欠かさず見てきました、最後のオデットはとくに三回、初日と中日と千秋楽に、しっかりと焼きつけました、目の奧に。 　コウモリやフクロウの目なんかではないのである。 　三人目で追送検へ、と見出しにあった。 　ＤＮＡが一致。 　なお黙秘。 　そりゃあ、黙秘は黙秘でしょうよ、この先も、かれこれ一か月、それで通してきたんだから。 　 　 　 　 　 　　　　　　　　　　　　　　（この章　建設中）

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繭と星座　�B

おそろしく高い吹き抜けなのである。 　大量の風が雪崩れるように吹き降りてくるのである。 　だから大きな建物がひとしきりうなるのだ。 　構造からいえば超高層建築のちょうど心棒にあたるところに夜空から縦笛が挿し入れられている形である。 　だが笛の音というよりは巨大なコントラバスの響きである。 　太い弦がごうんと鳴る。 　不穏な波がエレベータにも寄せてくる。 　天空へ塔のように伸びていく昇降路ごと宙吊りのゴンドラをずしんと揺するこのだしぬけの衝撃にはまだ慣れない。 　ぎょっとする、またしても。 　逃げ出しようのない密閉された箱なのだ。 　地の中で揺すられている怖さである、むしろ。 　立坑がうめいている。 　だが金色の櫛を月にかざす魔女ローレライがそこに立ち上がってきたようにそのように長くなめらかな黒髪が流水さながら背中を流れ落ちているこの細く引き締まった体にはもちろん後ろ姿を見ているかぎりでのことではあるがはっと驚いたようなそんなそぶりは微塵もない。 　どの肉も動かない。 　どの骨も動かない。 　九階、十階、十一階、十二階…。 　小さな灯りが表示盤の樹脂のボタンを上へ上へと移っていくその規則的な上昇を変わらない静けさでながめている。 　谷の奥のこの異様に巨大な建物にもそして乱流を起こしながら急降下してくる山風にも体がもうじゅうぶんに馴染んでいてそれで魔のような不意のうめきもすっと透けぬけていくようだ。 　むしろこの細い体そのものがこの瞬間ごうと落下していく風なのだ。 　肉体そのものがこの瞬間すでに響きなのである。 　彼女は落下しながら昇っていく。 　ここに住むようになってまだやっと一か月そこそこという新参とはどうやらもう体の構成からして違うらしい。 　重力との噛み合い方が違うのだ。 　むろん今夜くらいの風だったら島の暮らしでも決して特別なことだったわけではない。 　浦から浦をつないでいく巡航フェリーもまだこのくらいの風だったら平気で出る。 　だが局所だけに憎悪のような強度がかかるこんな不意打ちの吹き方は島ではなかったことである。 　むこうでは自然はしっかりと順序を踏んで変化した。 　午後から時化になる日には朝のうちから海の色が変わるのだ。 　おもむろにうねりが出てやがて三角の波が立ち始める。 　ゆっくりと水平線が消えていく。 　ところがここではこの調子だ。 　都心の大通りあたりではまだ微風がゆるゆると渡っていて満開の桜にもなんの危険もなかったがケーブル下までのぼってくるとたちどころに花をかっさらうほどの強い風が立ってきた。 　バス停の明かりの上にぱあっと花の傘がひらくのだ。 　谷に入ったらだからもう空いっぱいに花びらの河だった。 　塔を昇ればこの呻きなのである。 　屹立…。 　いきなりの屹立。 　この街では風も花も建物もこんなふうに屹立する。 　この断絶だけは島に渡っていたあいだにもうすっかり忘れていた。 　小学校を卒業してさあこれからは身を入れて勉強するぞとそこそこ本気で身構えたその矢先のことだった。 　またしても母が家を移ると言い出した。 　それも今度は島に行くというのである。 　うんざりだった。 　父の船が定期的に島のドックに入るからと親戚へはそう言ってつくろったがおそらく真に受けるものはいなかった。 　母がひとところにじっとしておれないたちなのはもうみんなが知っている。 　小学校だけで五回も転校したのである。 　どこでも流刑者のようだった。 　さすがに島の教師はここにいては伸びるものも伸びないから大学までいくつもりだったら街へ帰ったほうがいいとそれももう最初の懇談会で勧めてくれたようなのだが、しかしよくもまああのひとにそんな注文をしたものだ、もとより母には聞く耳のないことで先生がこんなふうに話してたよとそう言ってふふんと笑っただけだった。 　孟母の三遷？　 　なんなの、それ、えっ、ああそういうこと、けどそういうのってあれでしょう？　みんな作り話なんでしょう、あとからの、…どうみても出来過ぎじゃない、その話。 　ただ島ですでに六年を超えたというのは彼女にすればとほうもない長居である。 　高校に上がってからは思いのほか転校の手続きがめんどうでそれで仕方なく辛抱することになったのだ。 　しかも息子が終わればすぐ続いて娘である。 　漂泊者はいつしか虜囚になっていた。 　幽閉の憂鬱をもう気ままには抜けられない。 　だからそんなあんばいに母を島に置き去りにしてこんなふうにひとりでこの街へ帰ってきたのはちょっとした裏切りではあったのだ。 　大学のためとはいえはじめて母をだしぬいた。 　試験には失敗した。 　できなかったという手ごたえすらなかったからよっぽどだめだったということだ。 　さて島で勉強をやりなおさないといけなくなってしかしひとりでどこまで点数を伸ばせるか全くおぼつかなかったが伯父がおそらくは見るに見かねてのことだったろう助けてくれた。 　この街にこのまま残って予備校に通ったほうがいいと傍らで聞いているのがせつなくなるくらい気遣いのこもった電話で渋る母を説得して部屋まで空けてくれたのだ。 　伯父の喫茶店で働かせてもらえれば学費も出る。 　多少は小遣いにも向けられる。 　けっこう女たちも来るのである。 　母からも逃げられる。 　それにしても六年間の空隙は考えていた以上に深かった。 　屹立するのは風や建物だけではない。 　そこに立っているただそれだけでもう溢れるばかりにそこにいるこの長い髪のローレライ。 　ひともここではこんなにきわだって立つのである。 　噴水のように立つ。 　不意の裂け目のように立つ。 　忘れていた。 　むこうではドックに通う工員はおおむねみな工員のなかに溶けていた。 　思い思いによそから集まってくるのだがやがて歩き方も屈み方も喋り方もよく似たものになるのである。 　とりわけ灰色の作業服の大きな群れが夕暮れの門に堰き止められながら退社のサイレンを待つときなどその等質な一団からだれかひとりを見つけ出すのはもうむずかしいことだった。 　路地のバーへ押しかけていくときですら大抵がその暗いユニホームのままだから酒さえもおたがいがおたがいの影に籠もって飲むのである。 　工員たちだけのことではない。 　棚田を耕しながら小さな舟で漁に出る昔からの島びともそのように昔からの島びとのなかに溶けていた。 　島の生まれは大体がずんぐりと小柄な体でもうその印しだけでおおよそそこの出だとわかるのだがそのうえ沖の太陽にさらされて赤黒い膚にみな判で押したように小皺が出た。 　よく浜でひとかたまりになって喋ったがするといちだんと濃厚な島の言葉が戻ってきて、島の外から来たものにはこれはもう呪文のように遠かった、どの舌の奥にも同じ穴が開くのだ。 　同じ洞窟が現われる。 　祖霊の暗い喉である。 　そして、におい。 　そう、においのこともある。 　工員たちは錆と油のにおいがした。 　船底のにおいがした。 　島びとたちは魚網と肥料のにおいがした。 　太陽のにおいがした。 　それぞれがそれぞれのにおいのなかで翳っていた。 　なんてきれいな人差し指。 　ルビーくらいの強い赤がぴったりだがもちろん黄色だってきっといい、きゅっ、と素敵なリボンを結びたいような人差し指とそしてこれもぴかぴかのプラチナを嵌めたいような中指が白いセータの肩のところにちょっとのぞいて青いスカーフを整えた。 　天上の生き物のようである。 　水晶で出来たこういう指もついぞ島では見なかった。 　あっちでは妻も大概がドックに出る。 　錆と油に染まるのだ。 　それじたいが発光体になったみたいなマニキュアの爪。 　きらっと光ったその爪がすると目の前ではらりと剥がれてスカーフの上を銀箔のように漂ったがしかし銀箔と見えたのは花の小さなかけらであった。 　ふいに花びらが滑り出た。 　髪に隠れていたらしい。 　翻りながら落下した。 　さらに一枚…。 　今度のは魔女のその青いスカーフからこぼれ出た。 　またごおんとふるえる風の塔。 　そしてまた翻る一片の花。 　花…。 　ごおうっと滝のように散り落ちてくる桜の下をここまで抜けて来たからだ。 　風が吹きおりてくるたびに谷の道はじっさい花の洪水なのである。 　豪雨さながらのこんな落花も島にはなかったものである。 　桜はかろうじて小学校の運動場に三本あったきりだった。 　やたらと松が多かった。 　冗長な植生だ。 　島の奥で、だから、そう、はじめて野生のクチナシに遇ったときなど今から思うとずいぶん滑稽なことなのだがそれだけでもう秘密の木に出くわしたような稀有な幸福感に満たされた。 　ウバメガシやコナラやトベラやそれらありふれた雑木が貧相に伸びているそんな藪でのことだからそこだけが鬱蒼と茂っている濃緑の葉を押し分けて真っ白に開いた花は大きさといい香りといい確かに場違いに光っていた。 　突然変異の新種かもしれないとそんなことまで考えた。 　むしろ比類なくやわらかな女がそこにいた。 　そうだった、そう、あれは。 　島を裏側へ越えていく石の多い急な小道を半分ほど登ったときのことだった。 　梅雨の晴れ間の湿っぽい微風に乗ってまさしく脂粉のにおいが漂ってきたのである。 　松ばかりの冗長な坂道にときならぬ裂け目が開いたというわけだ。 　それで蜘蛛の巣を破り破り窪地の薮へ入ったら思いがけなくもというよりむしろそうあってほしいと望んだとおりに、やっぱり突然変異の新種であった、そこにその女がいたのである。 　贅沢な化粧で体じゅうを白く塗った肉体がしかも裸でたたずんでいるようなそんな妖しさだったのだ。 　たっぷりと厚い花弁はこれはもうまぎれもなく生身の女の肉だった。 　鼻を押しつけると淫蕩のにおいがした。 　がまんできなくなってきた。 　根もとにしゃがんで自慰をした。 　海ぎわの岩場に咲く椿の花。 　確かにあれも格別なものだった。 　底まで見えるきれいな水に完全な形のまますとんと落ちて炎のように揺れるのだ。 　岩陰を漂ってそれから引き潮ですうっと沖へ消えていく。 　春の海をみごとに切開してみせるあんな裂け目もあの島のあの鼻でしか見られない。 　しかしどんなに目を見張る花ばなでも島ではひっきょう稀れにしか遭遇できないそこだけのわずかな点景だったのだ。 　この街のこの谷みたいに斜面という斜面から花びらがそれも間断なく湧き出てくるこんな過剰な景観には及ぶべくもないのであった。 　ケーブル下のバス停から谷の奥のこの狭隘な開発地まで渓流の崖に沿ってここではそんな道が続くのだ。 　これでもかこれでもかとまだ続く。 　今夜はそのうえこの物狂おしい風である。 　何千何万おそらくは何百万という花びらが前からも後ろからも天空へ舞い立って舞い降りる。 　むしろ空全体がぐわっと裂けて花がどどっと溢れてくる。 　わあと叫びそうになる。 　他界の光景だ、これは、もう。 　花地獄の空である。 　桜地獄の道なのだ。 　こういう道だから、だからあのように死体も出る。 　流れをもうすこし先へ登った岩盤の上で見つかった。 　ごつごつした岩盤の黒い割れ目を小さな滝が落ちていて滝の上に砂地がある。 　風化花崗岩の礫層だ。 　 　　　　　　　　　　　　　　　（この章建設中）

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