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「Splitterecho  シュプリッターエコー
巻頭言

 過去は過ぎ去ったといわれる。過ぎ去ったといって、しかしそれは到達されたわけではない。数限りない到達されなかったもののエコーが響いている。まだ終わっていないそれは夢の歌かもしれず、苦悶の呻きかもしれず、時に断末魔の叫びかもしれない。中断された希望の傷口のあげた声。批評紙「Splitterecho」はそうしたエコーに耳を傾ける。

 エコーははじめに発せられた音声からは切断されている。発せられたのが昨夜のことであれ、幾世代の昔であれ、その点では確かに過ぎ去っており、声の全体を回復することはもう望めない。個々の作品のうちに響くエコーも断片的で、微弱で、その聴き取りは困難である。だがもっとも美しいものは死産されているのだ。批評者はその声なき産声を聴かねばならない。

 耳を傾ける者がいるならエコーは響きつづける。それが途切れぬようつとめるのが批評の使命である。決して評価を定め、ガラスケースに押し込めるのがそのつとめではない。個々の作品という具体的な場で、どんなかすかな響きも聞き漏らすまいと耳をそばだて、そうしてエコーが聴き取られるならば、過去は、過去となった作品は、アクチュアルなものに転ずる契機を失うことはない。到達されなかったものの希望を将来に託すことが可能となる。批評は希望の存続に関わっている。

 批評の言葉は、その出自からして自らの目的に到達できないことを運命づけられている。批評が語りだそうとするのは、語り得ぬものを前にしてのことである。諸芸術の固有の問題が突き詰められるなかで、演劇なら演劇、舞踊なら舞踊の真正に固有の美が現われる瞬間がある。それは言葉の本来の意味で固有なのであり、それについて語る言葉は私たちにはない。再びその経験を求めようとする試みはどれも虚しく、どんな批評の言葉もその周囲を巡るだけである。だが、そうした経験こそが批評の言葉を始動させ、言葉は可能な限りそこへ接近しようと試みる。

 「Splitterecho」は神戸から批評を論じる。神戸に独自の批評文化を形成することがその目的である。ただし、このことはローカリズムと無関係である。「から」とは送り先を約束する言葉であり、それは世界である。


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