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山本六三展  幻想とエロス

なんと、高貴な、みだらさ

山本忠勝(元 神戸新聞文化部)による2010年の山本六三さんの展覧会評を再掲します。


 女へささげられてきた男の愛、それはあるいはひとつの深い断念をへて、その諦めの上で推し進められてきたのではなかったか、とそう思う。
 山本六三(むつみ)が描いた妖しい女たちの前に立つと、あらためてそのように、むしろ思い知らされる。
 描かれているのは、まさしくエロスの結晶のような女である。
 内から光を放っているような純粋なエロスの雫。
 このような、ほとんど透明に近い女たちはこの地球の大地の上ではまず見つかりようがない。
 現実の女たちは生きているかぎり、多かれ少なかれみな生活という濁りをまとっているからだ。
 その濁りを受け入れて、つまり純粋さを放棄して、はじめてこの地上の愛は起動する。
 遠い昔に滅びてしまったプラトンのイデア(形相)のように、いつの時代にも断念されざるをえなかった透明な愛。
 あるいは、断念されたがゆえに、いつまでも輝かしい美の結晶…。
 異端の画家の、公立美術館での初めての展覧会が兵庫県立美術館で開かれた。
 
 9年前(2001年)に61歳で他界した画家である。
 神戸に生まれ、20代の終わりのわずかな期間を東京で過ごしたほかは、ずっと神戸で制作して、神戸で死んだ。
 しかしその神戸でも、市民に広く知られたというような画家ではない。
 開放的である反面、凡庸なものと特異なものとを嗅ぎわける嗅覚がいささか脆弱なこの都市の性向とは微妙にずれるところもあったようだ。
 だが、何をしても他者を害さなければするにまかせるこの都市の自由な空気は、悪魔の仕事のようなその芸術には好ましい環境だったはずである。
 山本が孤高を貫いたのは、というよりむしろ孤高を貫くことができたのは、おそらく彼じしんの鋭敏な感性と都市神戸の凡俗な感性の、二重の要因のゆえである。
 彼は多くの市民にとって謎の画家として静かに生き、そして謎の画家のまま静かに消えた。
 
 だから多くの市民にとってこの展覧会の第一の意義は、10代の後半に始まるこの画家の制作の遍歴をはじめて作品に沿って見渡せたことである。
 山本は遅ればせながらようやく神戸に発見された。
 
 市立神港高校の美術部時代に描かれた17歳の「自画像」(1957年)はすでに予言的である。
 早熟な青年の坊主頭が、はやくも彼を押し潰そうとする大きな力とそれに対する彼の巧みな防御姿勢とをほのめかす。
 丸刈りを一律に強制していた教育界の力への、おそろしく静かな従順、むしろ過剰に物分かりのいい従順、つまり青年の完璧な演技を示している。
 それほどにうつくしく、それほどにかなしく熟した頭のかたちなのである。
 そして、その目。
 世界を突き放し、世界を相対化し、そのように世界の根幹を絶え間なく崩しながら、すでに終末を見据えているまなざしがそこにある。
 17歳にして、この末期の目。
 鎖骨が浮き出た裸の胸は、彼が鏡の前で全裸なのを想像させるが、そこには濃厚な自己愛の匂いもある。
 孤独な青年のアニマの谷からたちのぼってくる芳醇なエロスの香。


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「眼球」(G.バタイユ『眼球譚』飾画)1973年 個人蔵


 劇的な転換が30歳(1970年)を迎えるころに訪れる。
 たぶんそのころ、彼の目が、すなわち彼の眼球が、反転した。
 絵そのものに「眼球」が登場してくるのは、象徴的というよりも、むしろ皮肉なことである。
 内部の変化をあまりにもダイレクトに示す外部の変化は、根源的な内奥の屈折を却って伝えないおそれがある。
 俊敏な精神にこそ起こる出来事なのに、その深度を浅く見積もられてしまうのだ。
 解釈の手間が省けるぶん、暗示の深さも半減する。
 
 20代の山本はあきらかに、世間から「画家」と呼ばれる、そういうものになろうとしていた。
 イーゼルの前ですこし窮屈に身構えた。
 洗濯にいそしむ女を描いた「一日が始まる」、漁船とおぼしき難破船をテーマにした「壊れた船」、そして水遊びの群像をとらえたタイトルのない浜辺の絵、それら1960年ころの油彩には、ことさらにエキセントリックなモチーフが登場する。
 洗濯桶や砂浜など、それら主要な道具立ての思いがけないところから黒い腕が空に向かって突き出される。
 まぎれもなく鬱屈した精神の表出だ。
 画家として世界(世間)へひとつの物語を差し出そうと身構えていたのである。
 むろん彼の孤独を投影して、そこに差し出されようとしていたのは、あくまでもそこには無いものの物語、解体したものの物語、不在のものの物語、陰のものの物語だが…。
 
 だがとつぜん世間へ語りかけることを断念する。
 その理由はわからない。
 しかし方法の変化がきっちりとそれに並行して進行する。
 にわかに銅版画を始めることを決心して(1965年、25歳)、この新しいメソドへ移っていくことで、彼じしんも新しい何者かに移行した。
 物語は全面的に解体され、眼球、臓器、三角錐、球体、標的、解剖された肉体、骸骨…、そういった個物がランダムに現われる。
 油彩の饒舌な線に代わって、エッチングの寡黙な線が刻まれる。
 油彩の時代とは比較にならないくらい鋭敏で繊細で、しかも堅牢な線である。
 外へ閉じることで、内側が深く覗かれる。
 
 おそらくみずから目をつぶしたオイディプスのあの未曽有の転回。
 それが、眼球の反転に共通する意味である。
 
 だから、運命的といっていいくらい劇的にやがてバタイユの「眼球譚」と出遭うことになるというのは、あまりにも出来すぎた話にみえる。
 しかし、その出来すぎた話が現実に起こるのだから、世界は時にいぜんとして怪異である。
 バタイユの訳者であるフランス文学者・生田耕作の要請で「初稿 眼球譚」に挿画を制作(1977年)することになるのである。
 眼球と眼球の遭遇。
 まるで招き合ったかのように。
 そしてこの幾何学と解剖学が結合したような精緻で官能的な一連の作品が、山本の代表的な仕事となる。
 いらい、幻想、象徴、神秘、夜…、それら特異な美空間を愛するひとびとの間で彼の名が深く知られることになる。
 
 併せてひとつの洪水がこの時期に出来(しゅったい)する。
 いっそう公然たるエロティシズムの奔流。
 いや、一作一作に精魂を注入する寡作の作家に洪水や奔流といった言いかたは却って失礼かもしれない。
 …湧出。
 美の泉の湧出。
 むろんバタイユのエロティシズムとの衝撃的な交錯が契機となったはずである。
 だが同時にそれは山本の本性の開花である。
 本性というような曖昧な言い回しが気になるなら、彼がわれわれの深層から持ち出すように宿命づけられた採鉱物といってもいい。
 もっともこのばあい宿命とは、みずからの立つ場所をまっすぐに、能動的に、苦闘を覚悟で掘り下げることである。
 生まれるときに星から授けられた受動的な道程のことではない。
 彼が彼の泉を掘り当てた。
 
 断片に解体していたものたちが集結する。
 そこに女たちの姿がくっきりと現われる。
 しかしむろん古い物語が蒸し返されるわけではない。
 以前の彼の物語では、女たちはこの世界の家の中で、この世界の波打ち際で、つまりこの世界の世俗的な空間と時間のなかで描かれたが、この新しい女たちの地平には、あるいはこの女たちの閨房にはもはやそういう意味での現実の空間と時間がない。
 一日を洗濯で始める女は追い払われ、代わって、この世界の始原から終末までただ愛にひたりつづける女たちだけがここにいる。
 だからむろん年齢も定かでない。
 少女のようい若々しいが、しかしその透明な肌に透け見える精神は、宇宙をとうに知り尽くした何億歳かの魔女のように老獪だ。
 
 しばしば放恣な姿態で戯れ合う。
 みだらさこそが生きるあかしであるかのように戯れ合う。
 美術館は、気むずかしいひとびとから苦言が出るのを気づかって、わざわざ会場の入り口に、エロティックな作品が中にある旨、おかしいくらいまじめな断り書きを掲示した(神戸の市民は芸術上のエロティシズムには寛容だが、確かに来館者は他の都市からもやってくる)。
 だが、なんと清潔な、このみだらさ…。
 
 もともと誠実な修練なしでは描き出せないエッチングの線である。
 その技法の禁欲性がエロティシズムの品位を守っていることも確かである。
 だがその品位を強固にするのは、あくまでも創造(制作)にかける作家じしんの倫理性だ。
 
 自己が立つ場所への忠誠、そして創造(制作)の倫理への忠誠。
 それら二つの忠誠が、みだらさを清潔に、そして高貴に描き切る。


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「スフィンクス」1984年 個人蔵


 40代(1980年代)に大挙して戻ってきた油彩の世界は豊麗にして豪華である。
 「無軌道な娘達?」(1982年)、「スフィンクス」(1984年)、「竪琴 オルフェウスに捧げるレクイエム」(1987年)、「イカロスの夢」(1989年)、「猫と裸婦」(1991年)、「夜の帳を持つ天使」(1993年)…。
 ひとつの決意が読み取れる。
 神話を描くこと、歴史を描くこと、それが画家の最高の仕事であったヨーロッパの古典主義の時代(より厳密にいうならばおそらく18世紀に始まる新古典主義時代)、そこを死までのすみかとすることだ。
 画家は最初たぶん20世紀の表現主義に近い圏域から出発したが、そこから19世紀の象徴主義へ遡行し、さらには18世紀の古典主義の復活期にまでさかのぼって、とうとうそこに自己の創造の部屋を見いだすことになったのだ。
 現代美術の喧騒からの完全な離脱である。
 時間も空間も超越した世界への移住である。
 むしろ再びプラトン的イデアの招来。
 そしてイデアの世界とは、永遠に不動の、完璧な、もはや進歩も退歩もない、究極の世界のことである。
 山本はもう変わらない。
 変わる必要がないのである。
 
 女たちは永遠の姿で現われた。
 いまや作家を超えてさえ生き延びることになるだろう。
 無限へ。
 
 だが山本に生み出された女たちは、彼が亡い今も作家の魂にけなげに忠実なのである。
 ここにいる娘たちは、わたしたちにはヨーロッパ出自の女に見える。
 だが、ヨーロッパのひとびとには、東洋的な匂いが濃厚に感じられるはずである。
 無国籍の娘たち…(そういう意味では、この画家が無国籍都市・神戸に生い立ったそのことに、強い蓋然性があるかもしれない)。
 そして、現代において普遍とは、結局のところ無国籍であることだ。
 
 おそらくこの地上の男たちのなにがしかは(さしあたっては独身の男たちに限られるかもしれないが) ごく近い将来に、一個のガラスの棺桶を自室に置くことになるだろう。
 白雪姫が横たわっていたあれと同じような中の透けた柩である。
 ただ、その21世紀の柩にはコンピューターが付いていて、キーとマウスの随意の操作で、ガラスの中に立体(3D)の女が浮き上がる。
 男は夜ごとそこに少しずつ電子的な修正を加えていき、その深夜の儀式に惜しみなく時間を注いで、ついに彼の理想の女をつくるのだ。
 彼はそうしてほんとうに愛せる完璧な女をひとり、この地上に降ろすのだ。
 
 山本六三の晩年(50代にしてもう晩年!)の執拗な制作には、そんな未来の錬金術を先取りした秘儀的な匂いもある。
 

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山本六三展プログラム


 さて、男の愛が女への諦念の上にあるなら、その男への女の愛はどうだろう。
 それは間違いなく対称的な構造であるはずだ。
 女もまたひとつの深い断念をへて、男を愛してきたのである。
 山本の絵はそのことも明快に告知する。
 
 山本が描く娘たちには、こんりんざい世俗的な男の愛は似合わない。
 究極の官能に浸りながらも、その戯れには男との性愛の異臭がない。
 相手はほとんどの場合、同じように透明な娘であり、合わせ鏡のようなそのカプルの姿こそ、じっさい、彼女たちにはふさわしい。
 
 しかし、ときおり男が彼女たちにふさわしい姿で登場する例外的なシーンがある。
 その男は、たしかにこの世のものならず高貴で、深く、美しい。
 死神、もしくは、死すべき宿命の男である。
 イカロス、ペレアス、オルフェウス…。
 
 これら不吉なエピソードは、このみだらな女たちの隠されたもう一つの側面を暗示する。
 しかり、この永遠の女たちは、実は、いつも死の瀬戸際にいるのである。
 はなばなしく生きるものの、深刻で、デモーニッシュなアイロニー。


 「山本六三展―幻想とエロス」は2009年12月2日から2010年3月14日まで神戸市中央区脇浜海岸通1の兵庫県立美術館で開かれた。
 1940年から2001年至る山本の61年の生涯のうち、1957年から1996年までの仕事を4期に分けて構成、そこで油彩、銅版、デッサンなど92点の作品のほか、書籍なども展示された。
 山本は濃厚なエロスの香を放つ異端の画家と目されて、公立の美術館で展覧会が実現するなど恐らく山本じしんさえ夢にも思わなかったことである。
 それだけに美術に関心を持つひとびとには大きな驚きの企画となった。
 国公立美術館における性のタブーはすでに1991年の春に京都国立博物館で開かれた「うきよ絵名品展」によって象徴的に破られているが、山本の作品には倒錯の魅惑といった不穏な要素もあるだけに、兵庫県立美術館としては大きな踏み込みであったはずだ。
 芸術への勇気に喝采をおくりたい。
 神戸に生まれ、神戸で制作を続けた画家だったにもかかわらず、神戸のギャラリーで彼の本格的な個展が開かれたことはついになかった。
 異端の芸術家の再評価へ地元の公立美術館がみずからのイニシアティブで先鞭をつけた、その意味でもエポックを画する展覧会となった。

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スパンアートギャラリー刊「山本六三展-聖なるエロス」から





三沢かずこ展

青の乱

「三沢かずこ展 ―祈りは青に―」が2021年12/11(土)~12/22(水)の会期で開催されます(神戸・ハンター坂のギャラリー島田)。
山本忠勝による2010年の三沢さんの展覧会評を再掲します。


 青。
 さまざまなイメージを喚起する色である。
 宇宙から見た地球の色。地球で見る海の色。空の色。あるいはイエスを抱いたマリアの色。東大寺二月堂に幻影となって現われた不可思議な女人の色…。
 とりわけ天体では月のシンボルになっている。
 気高さと明るさと、それから静けさ。
 なかんずく、深い静けさ。
 三沢かずこがひたすらに描く青もそのような青だった。
 …だった、八年前までは。
 だが、2010年3月。
 神戸で再会した彼女の青は、動乱のなかにあった。
 沸騰。躍動。炸裂。
 あの青がこんな動きを始めるとは。
 個展「NATURE」。


 カンヴァス全体に広がる青、どこまでも深い青、そしてそこに溶け込むように配されるいくつかの繊細で小さなモチーフ。
 それが三沢かずこのスタイルだった。
 そう、かつては。
 青も音楽なら、きわめてデリケートなそのモチーフも音楽だった。
 コンチェルト・オン・ブルー。
 大空と、そこでひらひらと閃く蝶のような。
 海洋と、そこを漂う色鮮やかなヨットのような。
 宇宙と、そこを渡るほの明るい星雲のような。


 八年前の神戸での個展のあと、むしろヨーロッパの都市での展覧会が多くなったが、そこで評価されたのもその深さと繊細さであった。
 東洋のブルー。
 東洋の神秘。
 東洋の静けさ。
 もちろん彼女にもその明快な評価は快かった。
 日本への憧憬にこたえようと努めてきた。


 だから神戸の美術ファンは、たぶん今回の展覧会(2010年3月6日~17日、ギャラリー島田)でもそのような繊細で精緻な世界に出遭えるものと思っていた。
 完璧に完成を遂げた青の世界。
 洗練がさらに進められたことだろう。
 その進化と深化に第一の関心があったのだ。
 裏を返せば、あそこまで突き詰められたあの世界にあれを根底から揺るがすほどの激動はもうないだろうと、暗にそう信じられていたということでもあるのだが。


 だが、違った。
 驚いたことに、静謐な青は消えていた。
 青がたぎっていたのである。
 ぐいっと立ち上がってくる青があった。
 たとえば作品「光」がそうだった。
 とめどなく降り注ぐ青があった。
 たとえば作品「恵み」がそうだった。
 激しく揺れ動く青があった。
 たとえば作品「響き」がそうだった。
 強く弾き合う青があった。
 たとえば作品「遊ぶ」がそうだった。
 
 青が変動を始めていた。
 青の乱…。


「ちょうどヨーロッパでの展覧会がひと区切りするのに併せて、故郷の松本市(長野県)から個展のお誘いを受けたのです。思いがけないことでした。個展は去年の春に市立の信州新町美術館で開いてくださいましたが、実はそれが転機になったのです」

 思いがけなくも扉が外からこじあけられた、といえなくもない。
 ことはむしろ物理的に始まって、それが精神を大きく動かすことになる。


 美術館の大きな壁面を作品で埋めるとなると、やはり100号クラスの大作がそこそこ必要になってくる。
 量が質に転位する微妙な臨界点が美術には必ずある。
 ヨーロッパでの展示では、搬送の制約もあって、比較的小さな作品が主体であった。
 もちろん欧州諸都市のギャラリーも流通に乗りやすい小品を喜んだ。
 制作の呼吸もいつしかそれになじんでいた。


 だが。

「物理的に大きなキャンバスに向かうということ、それは物理的に絵を拡大すればいいというようなことではないのですね。構成にしても形態にしても色彩にしても、いままでの方法では納得しきれないものが次々あらわれてくるのです。もう体全体で、心全体でぶつかっていかないと解決できない」

 端正さを貫いてきた画家が、なりふりかまっていられなくなったというべきか。
 待っていたのは青の戦場だったのだ、肉体の、そしてそれ以上に精神の。
 そうして仕上げられた100号の大作は十数点。
 展覧会場には青のエネルギーが渦巻いた。
 氾濫した。


「気がつくと、じぶんをもっと出していいのではないか、とそんな気もちに変わっている私が私の絵の前にいたのです」
 
 1950年の生まれである。
 中学校を卒業する15歳までの多感な時期を長野で過ごした。
「私の青は、信州の青なのです」
 そして再びいま、故郷が青の新しい方向を指し示したようである。
 いのち漲る青…。


 信州の青が、白の神戸でまたいちだんと映え始めた。
 
 ちなみに青は、月と同時に太陽系最大の惑星・木星を示す色でもある。
 木星は発展と豊饒と、そしてより大きな幸運のシンボルだといわれている。

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